ガラスの中の丸い海
日用品を買うついでに、山から降りた先で近江が気に入りそうなものをいくつか購入した。いつもとは違うものを買う藤嶺に、店の人は驚いてそれから手に取った品を見ると納得したように頷くとにまにまとした笑みを浮かべられた。これも持っていきな、と色々なものをおまけされ、いつの間にか藤嶺の両手いっぱいに品を持たされていた。
「あの親父……絶対なんか勘違いしてやがる」
それはもう口角がこれでもかと上がり、やたらと女ウケしそうなものばかり勧めてくるものだから、藤嶺も店主が何を考えているのか分かってしまった。
「俺と近江はそんなんじゃ……、……俺と近江は」
――……一体、何なのだろう。
自らが購入した山に突然現れた人魚。ただの人間のおじさんと、どこかの人魚。友達、仲間、好敵手、師弟、恋人、夫婦、親子、兄妹……探せど2人を表す言葉など、どこにも存在しない。
けれども、藤嶺にとって近江の側は心地よく息がしやすいのだ。
「――……さ……!――……藤嶺さん!」
その声にハッとして後ろを振り向く。
「大橋くん……」
「さっきから呼んでるのに返事もしないから心配しましたよー!」
そこにいたのは藤嶺と親交のある三十代半ばの男だった。
「はい。いつもの薬と、あとこれ新刊です!そうそう、伊澄先生が今回受賞されましたよ!藤嶺さんのお弟子さんの」
「そう、か……伊澄は続けてるのか」
「はい!藤嶺さんに恥じないようにと殊更気合いが入ってます」
大橋から手渡されたのは藤嶺が内服している薬ともう一つ、書道の雑誌だった。パラパラとめくると先程名前の出た伊澄の名前と伊澄の書いた字が掲載されていた。
かつては藤嶺もここに名前が載っていた。
「あれから、調子はどうですか……?」
「ここに来てからは、なんとなく良い気がするよ」
「そうですか!いきなり山を買ってそこに住む。なんて言い出した時は驚きましたけど、良かったです!」
「大橋くんには色々迷惑をかけたね」
「いえ、藤嶺さんにはお世話になりましたから!」
それから少しだけ雑談をし、ふと時計を確認するとあれから30分ほどが経っていた。大橋はまだ手に持っていた鞄を藤嶺に渡し、慌てて帰っていった。
購入したものと大橋から受け取ったものを持って家へと向かう。背負うタイプの鞄を持ってきていなかったら辛かっただろうと思うほどには荷物は多かった。
「おかえりみどり」
「……ただいま」
近江に話しかけられ、持っていた荷物を降ろして近江が寄ってきた近くへ座る。
「食料でも買ってきたの?」
「いや、これは……」
長持ちする食材はまだあるし、この間買ったばかりだ。痛みやすい肉は元々普段から食べることは無い。最近は育てやすい野菜は自分で育て出した。タンパク質は湖の魚で補える。そのためあまり頻繁に食料を買いに行くことはない。
カタリと鞄の中から包装された何かがこぼれ落ちた。
「何か落ちたわ」
「あー……これを買いに行ってたんだよ」
そう言って新聞紙で包まれたそれを開ける。
「綺麗!可愛いわ!」
「ガラス細工だ」
出てきたのはガラスで出来た丸い文鎮。中は海をモチーフに作られており、躍動感のある青い波が閉じ込められている。
「みどりってセンス良いのね!」
「近江が好きそうだと思ったんだ」
「……私?」
「どうせ部屋に置くなら近江が好きなものが良いだろう?」
「私のために買ってきてくれたの?」
近江は藤嶺からその丸い海を受け取って光に翳す。キラキラと光を反射して波が揺れているようで近江は見惚れていた。
「きれい……」
「気に入ったなら持っててもいいぜ」
「ううん。みどりの部屋に飾って。時々見に行くわ」
「わかった」
夕暮れが近づくと藤嶺は湖を後に家へ戻る。
適当に買ってきたものを並べた。色々近江に見せたがやはり1番反応が良かったのはガラス細工の文鎮だった。
それを藤嶺は自分の机の上に飾った。
大橋から最後に受け取った鞄を開けると、そこには藤嶺が使っていた硯と筆、半紙など書道の道具が揃えられていた。メモ書きが一緒に入っており「気が向いたらまたお使いください」と書き添えてあった。
昔は墨の匂いが着くほどに触っていたのに、今では一切使うことのなくなったそれを藤嶺はそっと机の引き出しの中へとしまった。
「藤嶺さんの流れるような字、俺見てて気持ちよくて好きですよ」大きな賞を取った時、そう大橋は言っていた。今の藤嶺ではあんな字は二度と書けない。その事実を認めてしまうのが嫌で、どうしても筆を持つことは出来なかった。
日常生活に支障をきたすことはない。それでも微かに震える手は、藤嶺から書道を遠ざけるには十分だった。薬を飲んでも変わらずに震える手、痛みだけしか取り除けない薬など何の意味があるのだろうか。