近江の人魚
滋賀のとある山。その奥に1軒の小さな小屋に住む男がいた。男の名前は藤嶺。齢は50を過ぎていただろうか。街の喧騒に嫌気がさしたとつい先日山を買い取り小屋を建てたのだ。
縁側に座りぷかぷかとタバコをふかす男の目には覇気がなく、まるで死んだ魚のような目をしていた。
――ぱしゃんっ
小屋の近くにある小さな湖から水の跳ねる音がした。魚だろうか。今日の夕飯にでもしてやろうかと、男は腰を上げた。
「あら、ごきげんよう」
「……どちらさんで?」
釣具を持ち湖へと向かうとそこに居たのは魚ではなく、魚の特徴を持った女であった。
人魚とでも言うのだろうか。白い長い髪に立派な青い尾びれ、輝く鱗。指の間には透き通った水かき、人間の耳にあたる部分には胸びれのような形のものがついていた。
「ここの海ってとっても狭いのね」
「池だからな……」
どこかズレた女だった。いや、人間ではないのだからズレているのは当たり前なのだろう。
この出会いを期に、藤嶺の求めた静かでつまらない日常は遠のいたのだ。
あれから何故か藤嶺は人魚の世話を焼いていた。
人魚はやはり世間知らずで、海の中のこと以外を知らなかった。だから藤嶺はまず本を与えた。しかし人魚は字が読めなかった。
「うーん。これが【あ】なのよね?で、この次が【い】……なんだか複雑ねぇ」
ぶつぶつと呟きながら人魚は幼稚園児がつかうような五十音表を声を出して読んでいる。この後に待ち受けるカタカナの存在と漢字の存在を知ったら人魚はどういう顔をするのだろうか。
「なぁ、人魚の嬢ちゃん。あんたなんでこんな山奥にいるんだ?」
「ちょっと待って!なんかコツが掴めそうなの……!」
藤嶺の疑問は最もであった。人魚といえば普通、海にいるのではないのだろうか。いや、普通だったらまず存在しないのだが。それにしてもこんな山奥の小さな湖になど、いるはずがない。この湖は川にもまして海にも繋がっていないのだから。
「で、なに?なんで私がここにいるのか?知らないわ」
「……じゃあどうやって来たんだよ」
「さぁね。それも知らないわ。気づいたらここにいたんだもの。世の中って不思議なことが起こるのね?陸ではこんなこと当たり前?」
「んなわけないだろ……」
「そ、良かった。そこは海と変わらないのね」
結局、何故人魚がここにいるのかは分からなかった。人魚すらその理由を知らないのならば、きっと調べようもないのだろう。
「海に還りたくないのか?」
「どっちでも良いわ。ここの海だってどうせ私の海じゃないもの。なら湖でも海でも変わらないわ」
「淡水だぞ」
「あのね、私人魚であって魚じゃないの」
海の魚は淡水では生きられないというが、どうやら人魚はそれに当てはまらないらしい。
確かに人魚が苦しそうにしている姿は見たことがない。
「神隠しにあってのかもな」
「神隠し?」
「神様が気に入った人間を攫っちまうんだよ」
「あら、人魚もお気に召したのかしら」
「さあな」
「場所も時空さえも歪ませてここにポイッだなんて好かれてるのか嫌われてるのかどうなのよそこ」
「嫌われてるんじゃないか?」
「失礼な人間ね!!」
ぷんぷんという表現が似合うような怒り方をする人魚に藤嶺は声を上げて笑った。
誰とも会いたくなくてここへ来たのに、人魚との生活が始まって理想とは違う生活になったというのに、藤嶺は心が穏やかになっていくのを感じていた。人間ではないからなのか、この人魚だからなのか。それを明らかにする気は今のところ藤嶺にはなかった。
「人間さんは……」
「藤嶺だ」
藤嶺のことを人間と呼ぶ人魚になんとも言えない居心地の悪い気持ちになりそう訂正を入れる。
犬を犬と呼んだり猫を猫と呼んだりすることはあっても、自分が人間と呼ばれる日がくるとは想像もしていなかった。
「ふじ……?」
呼びづらそうにされ、この人魚に下の名前を教えようかという思いと出来れば言いたくない思いがぶつかる。
藤嶺はあまり自分の名前が好きではなかった。幼少期はよくそのせいでからかわれたりしたことがあったからだ。
それでも、なんども練習する人魚に藤嶺は葛藤の末自身の名前を呼ばせることにした。
「みどり……藤嶺碧だ」
「みどり、素敵な名前だわ」
そこら辺に落ちていた手頃な枝でみどり、とひらがなで書いて見せると、それを人魚は指でなぞった。
「嬢ちゃんの名前は?」
「人魚を人魚というように人間を人間というように名前という概念はあるけれど、個人に呼び名を付ける文化は人魚にはないの」
「へぇ」
「……そうだわ!みどり、貴方が私に付けてちょうだい」
「は……!?」
人魚は名案だとばかりに笑顔で藤嶺を見る。そのキラキラとした笑顔に有無を言わさぬ圧を感じた藤嶺は人魚に名前をつけることを了承した。
「じゃあ白玉」
「可愛い響きね。意味は?」
「あー……そういう食べ物だよ」
そう言って携帯で白玉の画像を見せる。
「あら、見た目も可愛い。良いじゃない」
白い髪から連想されたのが白玉だった。当然却下されると思っていた藤嶺はぽかんと少し間抜けな顔を晒してしまった。そう、相手は人魚。普通の人間の感性とは違うのだ。
「冗談だよ」
「別に私、しらたまで良いわよ。可愛いし」
「近江」
近江。滋賀はかつて近江国と呼ばれ、古事記では近江は淡海と記されていた。海からこの滋賀の山奥の池へと来た人魚にぴったりの名前だと、藤嶺は思ったのだ。
「おうみ」
「昔のここら辺の地名だよ」
「なんだか不思議で綺麗な響きね。海ってつくし。おうみ……うん、気に入ったわ」
「そりゃ良かった」
「しらたまでも私は構わなかったけどね!」
「勘弁してくれ」
何度も自分に与えられた近江という名前を口ずさみ嬉しそうに尾びれをぱしゃぱしゃと動かす。
「ま、改めてよろしくな近江」
「ええ!よろしくねみどり」