人魚たちの祠
目が覚めるとそこは草木が生い茂る山の中だった。
俺は確かにあのボロボロの小屋に入ったはずだ。そこで女性の声を聞いて……、それから、それから……。
「小屋がない……」
周りを見渡してみても小屋らしきものはなかった。草をかき分けて進むと、湖の跡地に出た。
やはりさっきのところは小屋があった場所だったのは間違いない。けれど小屋はない。
「あれは……祠?」
目を凝らして見ると、湖の跡地の枯れた木のそばに小さな祠があった。苔が生えて緑色をしたそれは少しだけ扉が開いていた。
罰当たりかもしれないが、俺はおそるおそるその扉を開けた。
2つの骨壷が寄り添うように置いてあった。ひとつは小屋の中で見たもののように俺には見えた。もう片方は少し小さい。その2つの骨壷は離れないように青い組紐で結ばれていた。
「近江と、藤嶺碧……」
この骨壷は気絶している時に見たあの2人だと俺は直感で感じた。そしてこれを用意した人もきっとあの人だ。そう確信した。
俺は祠の扉をしっかりと閉めて手を合わせた。
――ありがとう
そんな男女の声が聞こえたと思って顔を上げると、そこはあの山道に入る前の場所に俺はいた。
まるで最初から全て俺の夢だったかのように、目の前から全て消えた。
俺は帰ってすぐに今日のことを書き記した。夢なんかではなかったのだと、忘れないように。
『藤嶺碧の過去展』そう題された書道展覧会には書道好きたちが大勢集まって藤嶺碧の書いた書を見ては談笑していた。
俺もそこへ入り、目当ての人物を見つけて歩み寄る。
「曾祖父さん」
「……おお、久しぶりだね」
「今日は随分お元気そうですね」
「この日を待ちに待っていたからね」
祖父の父、曾祖父は車椅子に乗り沢山管の着いた体でこの展覧会に参加していた。隣には付き添いのボランティアの女性。その女性も俺が来たことで気を利かせて離れてくれた。
どうしてもこの展覧会に行くのだと言うので病院から1日だけ外出許可をもらってこうやって来ているのだ。
だけど、入院していた時よりなんだか調子が良さそうでこの外出はして良かったみたいだ。
「藤嶺碧、曾祖父さんはずっとこの人のファンだったもんね」
「ああ……」
曾祖父が見ていたのはなんだか他のものと比べて下手な気がしたが、曾祖父はにこにことそれを見ているので俺には分からないがとてもいい書なのだろう。
説明書きには藤嶺碧最期の作品と書かれている。俺には全く読めないけど。
どうやらこれは柿本人麻呂が詠んだ歌らしい。柿本人麻呂の名前は俺でも聞いたことがある。
よくよく見ていると最初の文字だけは読めそうだ。
「近江……?」
なんとも最近聞いたような言葉だ。
「滋賀の近江?」
――それとも、
「人魚の方の近江?」
ガタリと曾祖父が車椅子を揺らした。落ちたら危ないと慌てて支える俺の腕を、骨と皮の手で強く掴まれた。
「いま、なんて……」
「人魚の、近江……」
「行けたのか、あの場所に」
曾祖父の目は俺を見ているようで、どこか遠くを見ているようだった。
もしかして、曽祖父は……。
「夢に出てきた大橋って、曾祖父さんのこと……?」
「ああ……っ、そうか、全部知っているのか」
「うん」
大粒の涙を流す曾祖父の背中をさする。
きっと、あの時見た夢は夢なんかではなかった。そう確信した。




