8.さいご
おめでとう、と。優しく響いた音に、私の中で何かがプツンと切れた。目頭が熱くなり、ツゥ…と感情が溢れ出す。後から後から零れ落ちるこれが涙であると気づくのに、少し時間が必要だった。
ああ、嬉しい。こんなに嬉しいことはない。やっと、私の目的が達成された。私の願いが叶えられた。ここまで長い道のりだった。決意したあの時から、あの日から、ずっとずっとこの時を待っていた。敷かれたレールの上を歩きながら、手探りで求め続けた結果。世界に示された答えの、その先を。
今日やっと、手に入れたのだ。
声を殺し、静かな嗚咽が空気を震わせる中、赤い瞳を持つ彼は床に落ちたそれを拾い上げる。手の中に収まるのは、柄と数センチしか残されていない刀身のみとなった、魔剣と呼ばれていたもの。黒く鈍い光を放っていたかつての姿は、そこにはない。許容量を越えた魔力は、その器を破壊した。もう魔力を貯めることも集めることもできない。ただのガラクタと化したそれを、愛おしそうに指でなぞる。
そして、もう一つのガラクタもそっと拾い上げた。
《フィノ》
呼び掛ける声音は優しいまま。名を呼ばれた少女は、零れる雫で目元を赤く染めながら顔を上げる。
《礼を言おう》
「……………何?」
《お前は世界の理を変えた……変えてくれた。これまでの歴史を引っくり返してくれた》
もう魔剣は存在しない。聖剣も存在しない。聖女の浄化の力で“魔王”の力も失われつつある。この世界から、必須の存在として在り続けたものが、少しずつ消えてゆく。はらり、はらり、と。まるで満開に咲いた花が自らの終わりを悟り、一枚一枚その花弁を落としていくように。
私の目的は、この世界から「勇者」と「魔王」の存在を消すこと。これは大きな賭けだった。二者が消滅すると同時に世界も崩壊するか、それとも世界は存在し続けるか。後者は可能性としてはとても低いものだった。だけど、私はその可能性に縋ったのだ。
己の行く道を勝手に決められて、縛られながら生きなければならないことほど辛いことはない。誰しも、自分で選んで生きていきたいはずだ。その権利を奪われたくないはずだ。──あの日、私が感じた絶望を味わいたくはないだろう。
限りなくゼロに近い可能性──当初からの私の目的が達成された今、私の胸は安堵の気持ちでいっぱいだった。思わず笑みを零してしまうくらいには。
「ふ、ふふふ…」
「フィノ?」
不審と心配を混ぜ合わせた色を浮かべる青い瞳と、視線を合わせる。この優しい瞳を、また真正面から見られるなんて思いもしなかった。戦っている時とは全く違った、私の大好きな青。
力の入らない手を、そっと彼の頬に添える。私の中の彼は、分かたれたあの日のままで止まっている。これまでの戦いを映像から見ていたけれど、目の前にいる彼は記憶の中の幼い面影は一つも感じられなくて。触れた指先から成長した証を、温かさを伴って伝わってくる。本当に、長い時間が経っていたんだと実感させられる。
大きくなったね。もともと精巧だった顔立ちに磨きが掛かって、男らしさが加わった。身体つきも逞しくなった。……ああ、もう、本当に。
「…レオル」
久しぶりに口にした彼の名前。“終わり”の時まで決して呼ばないと、あの日にけじめをつけていた。だけど、ねぇ、もういいでしょう…?
「……ありがとう」
「え…?」
「ありがとう。貴方が“勇者”で良かった」
驚きと戸惑いの表情を浮かべる彼に、私は微笑んだ。
本当に、ありがとう。貴方が“魔王”と対を成す“勇者”で良かった。貴方でなければ私はここまで来れなかった。“魔王”として在り続けられなかった。世界の運命を覆そうだなんて、考えもしなかった。貴方だからこそ、私は頑張れたの。
「…………ねぇアルゼロ、あとどのくらい、かしら」
《そうだな……月が上り切るまで、だろうな》
「そう…充分よ」
そうは言ったものの、正直言って正確な時間は分からなかった。月なんて、この場所からでは見えないから。だけど恐らくそう長くはないのだろう。だから時間は無駄にはできない。私は両手の中に魔力を集めるよう意識を集中した。ほんの僅かだけど、残りの魔力が徐々に手の中に渦巻いてくるのが解る。聖女たちがハッとして態勢を整えようとしたけれど、アルゼロが止めてくれた。最後の最後に気が利く真似をするなんて……今までもそうしてほしかったわ。
集めた魔力を薄く伸ばして、私とレオルがすっぽり収まるくらいのドーム状の膜を張る。完全に外と内を分ける魔力障壁とまではいかないけれど、これならある程度外部との接触を控えられる。
「フィノ…? 何をしたんだ?」
「ちょっとね、二人きりになりたかったの」
傍から聞けばなんて大胆な言葉なのだろう。それすらも今の私には可笑しく思えるのだから不思議だ。でも本当に、少しの間だけレオルと二人で話がしたかったのだ。だから他の人たちには申し訳ないけれど、外野に回っていてもらう。
「…随分と大人びたね、レオル。子どもの頃より断然カッコよくなったよ」
「なんだよ、急に…」
「あの頃は本当に楽しかったね。いろんなところに行って、いろんなことをして、いろんなものを知って。レオルに出会ってから毎日がキラキラしていたわ。いつも面白いこと探しに連れて行ってもらえて、私嬉しかったの」
目を閉じれば今でも鮮明に思い返せる輝かしい日々。私が生きてきた時間の中で、あれほど楽しかった思い出はない。わくわくしたこともない。レオルがくれたものは、私の人生全てを懸けても返し切れないくらい尊いものだった。「ありがとう」の言葉だけでは伝え切れないくらいの感謝がある。人の温かさも、優しさも、教えてくれたのは貴方だった。
「私にはもったいないくらい、眩しい記憶。私に掛け替えのない思い出をくれて、ありがとう」
「…どうした? なんか変だぞ」
「生きることがこんなにも楽しいものだなんて、思いもしなかった。私に生きる意味を教えてくれたレオルに、どれだけ感謝しても足りないくらい。本当に、本当にありがとう」
実の両親にも見捨てられた私を、生きることの意味を見出せずにいた私を、貴方は救ってくれたの。
ずっとずっと前から、私は貴方に救われていたの。
「……私を救ってくれてありがとう」
「フィノ…」
私の肩を抱く手に力が込められる。ふわりと花が綻ぶような笑みを見せてくれた。私も自分の頬がだらしなく崩れるのを感じた。そして同時に、私たちを覆っていた魔力の膜が解かれた。これで本当に魔力切れ。もう何一つとして魔法を発動させることはできなくなった。
そして、私の身体にも変調が起きる。私を支えているレオルが驚きの声を上げるが、それに気を取られることはない。いや、正確に言えばそれどころではないのだ。身体の芯が抜かれたかのように力が入らなくなる。腕がだらりと地に落ちて、指先すらピクリとも動かなくなる。頭の奥から靄のようなものが滲み出てくるのを感じながら、それでもなんとか思考を動かす。霞む視界に、黒い男の姿を映す。
「…………アル、ゼロ」
《……ああ》
「…ありがとう、私を……ここまで、導いて、くれて……」
《……ああ》
「……貴方の、憂いは……晴れた、かしら…?」
縺れそうになる舌をなんとか動かしてそう言うとアルゼロは、一瞬虚を突かれたかのような表情をした後、くしゃりと苦笑した。
《…なんだ、バレていたのかい?》
「……魔剣に、触ったのだから、解るわよ」
貴方が、先代の「魔王」であったことくらい。
そして、恋人であった「勇者」と共に命を落としたことくらい。
互いに愛し合っていたからこそ、世界に強制された運命に嘆き悲しんだ。それはもう、一緒に生きることができないのならば、隣で笑い合っていられないのならば、共に死のうと思ってしまうくらいに。
命が尽きるその瞬間まで、『運命』を呪い、そして相手を『愛した』。
《…俺たちも、お前のように強ければ良かったのにな》
「……」
ポツリと呟かれたそれに、なんて応えればいいのか解らなくて無言で見つめる。私の視線に気づくと、バツが悪そうな顔をしてくしゃくしゃと黒髪を搔き混ぜる。その人間らしい一面に、フッと笑いが漏れる。
「…今まで、ありがとう、……アルゼロ」
《こちらこそ……最後の“魔王様”》
そのひと言と恭しい一礼を残して、男の姿は淡い光の粒を煌めかせながら、世界に溶けていった。その両腕の中に、役目を果たした二つの剣を抱いて。
誰もがその幻想的な現象に目を奪われている中で、私はそろそろ時間が迫っていることを感じ取っていた。だから静寂を破るようで申し訳ないのだけど、言葉を発することにした。
「貴方たちの、勝ちね。……さあ、止めを、刺しなさい」
「フィノ!?」
「……私は、自分の目的のためとはいえ、多くの命を…奪ってきた。それ相応の、罰を受けなければ」
私一人の命で償えるとは思っていないけれど、でも何もせずにこのまま終わりにはできないだろう。私は命を奪い過ぎた。人々に恐怖を与えてきた“魔王”として、相応しい最期を迎えるべきだ。
覚悟は疾うにできている。初めから、終わり方は決めていた。己の目的が果たされようとも果たされなくとも、この命を以て償うと心に決めていたのだ。
「だけど…」
「“勇者”よ、その責務を、果たしなさい」
それが貴方に課せられた最後の役目。「魔王」を倒し、世界に平和を齎すことが望まれている。だから敢えて貴方の名前を呼ばない。
「…大丈夫、貴方の力を私に注げば、全て終わるわ。貴方の、『勇者』としての役割が、ここで、終われるの」
誘うように、導くように、終わらせ方を示してあげる。どうすれば忌まわしい『運命』から解放されるのか、教えてあげる。それでもまだ迷っている。恐れている。だから、最後の力を振り絞って腕を動かし、その綺麗な顔を引き寄せる。状況を把握できずに見開かれた瞳が近づいてくる。ぼやける視界の中の、空色の宝石に己の姿が映っているのを目に入れて、自分でも驚くほど穏やかな顔をしていることに気づく。
──レオル
──レオル
そっと、柔らかい羽根が触れるように、その頬に唇を寄せて。
──大好きよ
軽く撫でるような口づけを残して、私の身体は全ての力をなくした。だんだんと薄れていく意識の中、レオルが必死に私の名前を呼んでいるのに気がついた。だけど、もう、私の身体は言うことを聞いてくれないの。
貴方に安心させるような声を掛けることも。貴方に抱きつくことも。もう全てが叶わない。
いくら覚悟を決めていても、やっぱり、ちょっとだけ悔いが残る。
でも、やり遂げた。やり遂げられたよ。
──フィノ、大丈夫だ。俺たちは大丈夫。
お義父さん。
──フィノ。私たちの大事な娘。私たちの命は背負わなくていいのよ。だから、
お義母さん。
──…生きて。
私は、もう充分生きたよ。たとえ世界に決められた運命に縛られた人生だったとしても、私なりに生きたんだよ。決して人に誇れる生き方じゃなかったけれど、お日様に顔向けできるような人生じゃなかったけれど、それでも必死に生きたよ。
頑張って、生きたんだよ。
***
暗闇の中にあった私の意識に、フッと一筋の光が差し込んだ。
私はその光に向かって、手を伸ばし、一歩踏み出した。
……誰かが、私の名前を呼んだ気がした。
***
その世界には、「勇者」と「魔王」が存在した。耳を疑うような話だが、事実それは子どもに聞かせる寝物語には言わずもがな、しかし歴史書にその名が残されていることから実在するものとされた。
だが、それも既に過去のものとなった。
最後の「勇者」は誰よりも優しかった。仲間を救い、人間を救い、世界を救うことを望んだ。人間の敵である「魔王」でさえも、救いたがった。たった一人の大切な人の救いを、何よりも願った。
最後の「魔王」は誰よりも強かった。人間を殺し、国を脅かし、世界を壊すことを望んだ。魔物も、人々の希望である「勇者」でさえも利用した。たった一人の大切な人を、『運命』から解き放つために。
大好きな人を酷く険しい運命に囚われないように、そしてもう二度と、世界に定められた運命を辿らなければならない者を生み出さないために奔走した「魔王」は、きっと誰よりも強くて、孤独で、優しい一人の少女だったのだろう。