4.決別の日
「……なんて、理不尽な」
苦々しく、思ったことを正直に口にすれば男は楽しそうに笑った。
《そうだなぁ、理不尽だ。だけど、それがこの世界の在り方だぜ? “勇者”と“魔王”を組み込んで成り立つ世界が、勝手にお前らの『運命』を決めた。…ただなぁ、たとえお前らじゃなくても、この世界のどこかで必ず敷かれたレールの上を歩かなきゃならねぇ奴が定められる。そういう世界に生まれたんだ、諦めろって》
それこそ、残酷だ。この世界に生まれたというだけで、決められた運命を歩まなければならない人がいるなんて。何百万、何千万という人間がいる中で、理不尽を背負わされる二人。選ばれる確率が低すぎるそれに、何故私たちが当て嵌まってしまったのか。長い年月の中で、たくさんの人の中で、今日この時に、この場所で、運命を受け入れて選べと。あまりにも酷過ぎて、嘆くことすらできない。
《さぁ、どうする?》
男が問う。その表情はお気に入りの玩具で遊ぶ幼子のように無邪気で、それでいて楽しくて仕方がないと言いながら人形の腕を千切って遊ぶ愉快犯のように残忍な性質を含んだ、歪んだ笑みが浮かんでいた。
「っそんなの、選べる訳ないだろ!? フィノと戦わなくちゃならない運命なんて、受け入れられる訳ない…!」
レオルが男に食って掛かる。普段温和な彼が珍しく感情を露にしている。
《じゃあ、ここで死ぬか?》
だけど相手は表情を変えないまま、無慈悲にそう言い切った。
───…ああ、世界は残酷だ。この男の表情のように、世界はとても、残酷だ。
「……私は、」
体の横にダラリと下げていた手を、グッと握り込む。二人のやり取りに割り込むように声を発した私に「フィノ?」と怪訝な顔で呼び掛けるレオルの横に並び出て、真っ直ぐ男を見つめる。炎を閉じ込めたような綺麗な赤い瞳の奥に、何かが掠め通るのを見た気がした。それが、私には自分の決意を後押ししてくれるように感じた。──だから。
「私は、運命を受け入れる」
その瞬間、どこかでパチリとパズルのピースが嵌まった音を聞いた気がした。
気がつくと、男はどこにもいなかった。隣でレオルが目を見開いてこちらを凝視していた。信じられないといった表情をして、震える唇で、どうして、と声を出さずに聞いてくる。私は無表情を張り付けて彼を一瞥すると、剣の前に立つ。ここに来た時から変わらず地面に突き刺してある二振りの剣。光を集めたような真っ白な“聖剣”と、全ての闇を凝縮したような真っ黒な“魔剣”を見比べる。そして、片方の剣に手を伸ばしてその柄を握る。レオルが制止の声を掛けてくる。だけどそれに構うことなく、私は一気に抜き去った。
暫しの沈黙の後、振り返ってレオルの方へ向き直る。彼は困惑と絶望を混ぜた表情をしていた。視線が交差する。何故、と青い瞳が問い掛けていた。何故理不尽な運命を受け入れたのか、と。眉を寄せてくしゃりと泣き出しそうに歪ませたその表情を見ながら、私は確信した。──私の選択は、間違っていなかったのだと。
レオルの問い掛けには答えずに、一歩、彼から距離を取る。手を伸ばし開いた距離を埋めようと足を踏み出し掛ける彼よりも早く、私は手にした剣の先をその端整な顔に差し向け、次いで洞窟の出入り口へと向ける。剣の示す方向へ視線を移したレオルに、私は告げる。
「魔物が村を襲ってるよ」
「え…」
「たくさんの魔物が村を襲ってる。早く行かないと、みんな死んじゃうよ」
ピシリと固まり、何を馬鹿なといった顔をしていたレオルだったが、私の表情と声色があまりにも真剣だったためか、サッと顔色を青褪めさせると“聖剣”を抜いて一目散に駆け出した。……私にここで待っているよう、言いつけて。疾走していく彼の背中を見つめながら、私は一つ息を吐いた。運命を選択してからずっと緊張していた体を解すように、軽く腕を擦る。
「……これで、いいんだよね」
《ああ》
拾われるとは思っていなかった独り言に返事が来て驚いたが、返された声に聞き覚えがあって辺りを見回す。するとやはりつい先ほどまで誰もいなかった場所に、あの男がいた。神出鬼没な男だ、と思いながら近づく。
「私はこれから、どうすればいいの」
《村へ行け。そして村人を殺せ》
「………」
なんでもない風に淡々と言われた言葉が信じられなくて絶句する私に、男は続ける。現実を、突き付けてくる。
《どうした、何を驚いている? その剣を抜いて解っただろう? “魔王”とは人々の恐怖の対象だと言っただろう。殺戮を繰り返し、世界を混沌に陥れる存在だ。躊躇う必要はねぇ…寧ろ躊躇うな。その心を捨てろ。お前は運命を受け入れた。選んだんだ、自分の意思で。魔王として生きることを。魔王として世界に在ることを。……そうだろう?》
男の言う通り、私は村へ行った。そして、そこに広がった凄惨な光景に吐き気を覚えた。
ほんの少し前まで穏やかな時間が流れていた村が血の海と化し、人間と魔物の死骸が散らばっていた。胸の奥から気持ち悪いものが込み上がってきて、思わず口を押さえる。嘔吐きそうになりながらもなんとかそれを押し込め、これが私の選んだ道なのだと強く自分に言い聞かせる。ギュッと目を瞑り、呼吸を整える。ツンと鼻をつく鉄錆びの臭いには気づかないフリをした。
目を逸らしたくなる光景を脳裏に焼き付けながら、悲鳴のする方へと足を進める。ゆっくりと歩を進めながら被害の状況を目に入れていく。壊された家屋、踏み荒らされた畑。歩き慣れた道は人間の血と魔物の血が染み込んでいる。見慣れた村の景色は、どこにもなかった。
きっと誰もこんなことになるなんて、思いもしなかっただろう。訳も分からないまま襲われて、訳も分からないまま殺されて。私だってそうだ。いつもの日常が送れると思っていた。いつもの私たちでいられると思っていた。だけど、普遍は永遠ではないのだと気づかされた。私は知っていたはずなのに。幼い頃に、この身で体験していたはずなのに。忘れていた。忘れてはならなかったのに。
そんな私の様子が可笑しいのか、傍を歩く男はずっと笑っている。“魔王”らしくない、と笑う。それもそうかと思い、惨劇の結果を意識の外に追い出す。男の言葉に従っても、やはり笑われた。男のことも意識の外に追い出した。
そうこうしているうちに戦闘の場面に出会した。醜い姿をした魔物に相対しているのは、やはりレオルだった。聖剣を振り回し、生き残った村人を庇いながら戦っている。村人の中には、彼の両親もいた。必死に守ろうとするその姿に心が騒めいた。体中に傷を作り血を流していても、それでも諦めずに敵に向かう姿に形がはっきりしない感情が溢れ出そうとする。
私も一緒に戦いたい。貴方の隣で、貴方と共に。貴方の力になりたい───。
だけどそれは許されないことだから。零れる前に胸の奥深くに仕舞い込み、蓋をする。二度と出て来られないように、鎖で雁字搦めにして、鍵を掛けて。
ぎゅっと両の拳を握り締め、レオルを見る。すると、彼と視線が合った。瞬間、彼の顔に焦燥の表情が浮かび、なんで来たんだと叫ばれる。そして今までよりも攻撃の速さが一段と速くなった。その動きの中に焦りが滲んでいることに気づき、ああ私を守ろうとしてくれているんだ、と理解した。理解すると同時に、途轍もなく大きな罪悪感が押し寄せた。私は今から、彼の働きを無駄にしようとしているのに。寧ろ、もっと酷いことをしようとしているのに。
一度目を伏せて気持ちを落ち着ける。深く息を吸って吐いてから瞼を上げると、ちょうど魔物が倒れたところだった。肩で息をしながらも剣を構えて立つ姿に、彼の強さと勇者としての素質を垣間見た気がした。これが“勇者”。私が、戦うべき相手。今この段階でそれを知っているのは私と彼と男だけ。そして私の正体を知っているのもこの三人だけ。だから、伝えなければならない──世界に。
声を出せばいい。声を出し、宣言する。ただそれだけのこと。だけど、まだ躊躇する心がある。捨てなければならない心が。
迷ってはいけない。躊躇ってはいけない。あの瞬間、覚悟を決めて選択したじゃない。この道を、運命を受け入れると、自分で自分に誓ったじゃない。……大丈夫。
こちらへ駆けて来るレオルに魔剣を突き付ける。驚愕の表情でピタリと止まる彼と、彼の後ろにいる生き残りに向かって、声を張り上げて告げる。
「私は“魔王”」
驚愕に悲哀の色を滲ませた瞳のレオル。視界の端に、座り込んでこちらの様子を窺う村人たちの姿。彼らに向かって宣言する。
「世界を混沌に沈める者」
手に握った魔剣を振り翳す。それを見てレオルは身構え、村人たちは小さく悲鳴を上げる。誰かが口を開こうとするよりも早く、続きを述べる。私がこれから行うことを。
「お前たちを、殺す」
言い切った瞬間、レオルの背後で悲鳴が上がる。慌てて振り向く彼の目に飛び込んできたのは、必死に守った村人たちが新たな魔物に襲われ殺されるところ。助けに走ることすらできないまま、あっという間に一人、二人と村人が腹を裂かれて地に伏していく。「やめろ!」と悲痛な声で叫んで、レオルが再び魔物に向かっていく。
その姿を見て、私もまた、その場所へと歩いていく。そして立ち止まり、目の前の人物たちを見る。状況を飲み込めていないといった顔をする彼らは、レオルの両親。私の育ての親。私を助けてくれた恩人であり、私を受け入れてくれた優しい人たちであり、私をレオルに会わせてくれた人たち。感謝してもしきれない。だけど、それでも。
「フィノ…」
名前を呼ばれて、いつの間にか俯いていた顔をハッと上げる。そこには、困ったように眉尻を下げながらも穏やかな表情をした彼らがいた。困惑する私に言う。
「フィノ、大丈夫だ。俺たちは大丈夫」
語り掛けるように。落ち着かせるように。──背中を押すように。
……なんで。どうして、そんなことを言うの。これから殺されるっていうのに。大丈夫、なんて、どうして言えるの。恩を仇で返すような行為をしようとしているのに。どうして、そんな優しい感情を向けてくれるの。
「フィノ。私たちの大事な娘。私たちの命は背負わなくていいのよ。だから、───」
構えた剣を横一文字に薙ぎる。刃が通り過ぎたところから血がパッと散った。ゆっくりと倒れ込む二つの体。じわじわと地面に広がる赤い液体。今、二つの尊い命が失われた。私が、奪ったのだ。
「父さん…? 母さん…?」
声のした方に視線を向けると、レオルがいた。彼は瞳を見開いたまま動けずにいた。目の前で起きたことに対して頭で理解することが追い付いていないのだろう。理解したその時が、フィノとして彼に別れを告げる時。私がそう覚悟したのと、彼の理解が追い付いたのはほぼ同時だった。ゆっくりと振り仰いだレオルの顔には、驚愕と悲哀と、そして少しばかりの憤怒。震える唇から、なんで、と一語が落とされた。血の気をなくした顔の彼に、私は努めて無感情の声で話す。
「言ったでしょう、私は“魔王”だと。“勇者”が守るものを消すの」
目を零さんばかりに見開き、小さく横に首を振る。嘘だ、と唇が動く。フィノはそんなことしない、優しい君は人を傷つけるなんてことしない、と。
目の前で魔王になることを選び、魔物に村人を襲わせたところを見ても尚、私を信じてくれる言葉に胸が熱くなる。だけどこれは現実、逃れられない運命。変えようもない、変えることはできない、世界に決められた私たち二人の道。私はそれを受け入れた。だから、貴方も受け入れて。
「私は貴方を殺す。“勇者”を排除し、混沌を招く」
絶望の色を滲ませた、青い瞳と目を合わせる。そこに映る私は、あの時の男のように、とても歪な笑みを浮かべていた。
「──世界は“魔王”である私のものよ」
これが、レオルとの決別。“勇者”と“魔王”の運命の始まり。普通の人間であったフィノの終わり。
──…一人の優しい少年に恋をした、一人の少女の死。
ここから、全てが始まった。二人は運命を受け入れた。レオルが“勇者”として歩み出した。私が“魔王”として進み出した。いつか必ず、戦うことを知って。いつか必ず、終わることを知って。
かつて共に過ごした日々を置いて、定められた道を進み、それが再び交わったその時。
殺し合うことを、知って。
それぞれが歩き出した。変えられない運命を背負って、思いを閉じ込め、示された答えを選ぶために。
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