3.運命
彼との出会いは、私に衝撃を齎した。
「俺はレオル。よろしくな!」
軽快な言葉と共に差し出された手を握ることはできなかった。何故なら、彼の顔立ちが途轍もなく整っていて、キラキラと輝いて見えたから。私を助けてくれた人の村に着いて会わせてくれた子どもは、とても眩しかった。何がって、彼の存在そのものが。
太陽の光を受けているかのように黄金に光る髪に、晴れた空を閉じ込めたかのような綺麗な青い瞳、正しく配置されたパーツたち。外に出れば誰もが必ず目を向けてしまうであろう超越された美に、簡単に言えば圧倒されたのだ。不躾にもまじまじと見つめてしまった。
自分と同じ人間とは思えない……悪魔と言われた私を、普通の人間とみていいのかは分からないけれど。
「君の名前は?」
手を取らなかった上に何の反応もしなかったことに対して怪訝な顔をすることなく、気にすることもなく問い掛けてきた。圧倒されたままの私は、「フィノ…」とかろうじて小さく返す。すると、キラキラした顔がパッと更に輝きを増し、私の手を素早く取ってギュウと握り締めた。
「フィノか! 可愛い名前だね、君にぴったりだ!」
もう一度「よろしく!」と言って笑う顔は、やはり眩しかった。キラキラと輝くエフェクトが見えた、気がした。
「可愛い」と、私に「ぴったりだ」と宣うその言葉には、嘘も何も含まれていないのだと、心の底から発せられた純粋な言葉なのだと解った。ブンブンと上下に激しく振られる腕の痛みも吹き飛ぶくらい、自分の心が温かくなる。
久しぶりに呼ばれた己の名。名付けた両親ですら私をそう呼ぶことは殆どなかったから、とても新鮮に耳に入ってきた。
碌な手入れもしていないボサボサの黒い髪を忌避することもなく、長い前髪から覗く赤い瞳を不気味がることもなく。私を“私”として見てくれた。それが嬉しかったのだと、心が温かくなったのは嬉しさからなのだと、その時の私は気づかなかった。
レオルは、彼の父親が言っていた通り活発な男の子だった。いつも楽しいことを探していて、何か面白いことを考えては思い付いたらすぐに行動に移し、興味を持ったものにはすぐに飛びついて試し、それで失敗して怒られても折れずに次を見つける。どんな時でも、笑顔を絶やさない子どもだった。だから、自然と彼の周りには人が集まる。人が集まる中心には、いつも彼がいる。容姿だけでなく、人柄や行動にも人を惹き付ける何かがあるのだと、近くで過ごしていくうちに理解した。だって、私もその内の一人だから。
彼は私をいろんなところへ連れ出してくれた。知らなかったことを教えてくれた。見たことがなかったものを見せてくれた。何をするにも、いつも隣に置いてくれた。
そして、彼も私に“初めて”をたくさんくれた。生まれて初めて野菜を収穫した。生まれて初めて木登りした。生まれて初めて川で釣りをした。生まれて初めて山へ遊びに行った。幾つもの“初めて”の中で、私に向けられる温かみのある“それ”に、いつしか擽ったさを感じるようになった。胸の中心に小さな灯が灯ったような、そんな温かさ。
無条件に与えられる“それ”の正体が“親愛”と言われるものだと気づくのに、少し時間が掛かった。
ただ、私がレオルに対して抱く思いとはちょっと違うな、ということにはすぐに気がついた。私が胸に秘めたそれが、“恋”と呼ばれるものであることに気づくのは、もう少し先のこと。
レオルの家に来てから、八年が経った頃。私は時々変な夢を見た。初めはぼんやりとして、目が覚めると覚えていないことも多かったけれど、日を重ねるごとに徐々にはっきりと記憶できるほどまでになった。
──真っ白な空間。右も左も、前も後ろも。上も下も、怖いくらい白しかない世界。
──向かい合わせに立つ男女。その手には、二振りの剣。突き出すように構える刃の先は、ブレることなく相手に向けられている。
──金と黒の髪。青と赤の瞳。対照的とも言えるその色は、馴染み深いもの。絡められた視線は、決して外れることはない。
──一度隠された瞳が再び開く。ゆっくりと開かれる唇。そこから紡がれる言葉は……言葉だけは、いつも憶えられない。
意味の分からない不可解な夢。夜になり眠る度に、何度も何度も連れて行かれる白い場所。何度も何度も顔を合わせる二人。彼らのことは知らないはずなのに、懐かしさを覚えた。分からないけれど、お互いを見つめるその表情がそう感じさせたのかもしれない。
レオルに話したら、彼も同じような夢を繰り返し見ると言う。不思議だね、と彼はそう言ってカラリと笑っていた。そうだね、と返す私は反対に胸騒ぎを覚えていた。何かの予兆ではないかと感じたのだ。だけど、気のせいだと思うことにした。ただ偶然が重なっただけ。特に意味はないし、少しすれば終わるただの夢だと。
この時感じた胸騒ぎが現実となるのは、それから数日後のことだとは知る由もなかった。
その日は、朝から曇天の空だった。目が覚めた時から、小さな違和感を覚えていた。言葉に表せないくらいの違和感。だけど、あまりに小さすぎて気のせいだと思えてしまえて、そのままベッドを下りて着替えてから階下へと向かう。そこからはいつも通りの流れ。挨拶をして顔を洗い、寝癖を直して朝食の席に着く。朝が弱いレオルは、父親に首根っこを掴まれて連れて来られる。くわぁ、と大きな欠伸をして目を擦りながら席に座り、半分寝たまま朝食に齧りつく。
いつもと変わらない光景。いつもの日常。
今朝感じた違和感は、どこかへ消えてしまっていた。
その後は、やっぱりいつも通りレオルが遊びに誘ってくれた。今日は裏山に行くらしい。何度も足を運んでいるところだけど、冒険しに行くのだと張り切っていた。特に行きたいところもやりたい遊びもなかったから、私は二つ返事で了承した。レオルとなら、どこでも良かった。何をしても楽しませてくれるから、今日はどんなことが起こるのだろうとわくわくしていた。
裏山に着いて最初は山道に沿って歩いていた。道端に生えている草花を採ったり木の実を拾ったりしながら、棒切れを振り回して見えない敵と戦うレオルを観察する。えいっ!やあっ!と声を上げて想像上の敵を倒す姿を見ると、やっぱり男の子だなと思った。十四の、もうすぐ成人になるとは思えないほど少年っぽさが抜けていないのだけど、レオルだから許されると自分を納得させた。
山には危険な動物もいるけど、山道近くには人間を警戒して近づいて来ないから、こちらから踏み入らなければ遭遇する確率は低い。だから子どもだけで遊べるのだけど。危ないことをしなければ、余程のことがない限り大人は自由にさせてくれる。
いつもなら他にもレオルの友人が数人一緒に遊ぶのだけど、誘ってはみたものの皆タイミング悪く都合がつかず、久しぶりに二人だけだった。そのことに、独りドキドキしていた。この時すでに彼へ抱く気持ちがなんなのか知っていた私は、大好きな彼を一日独り占めできると、少しだけ気分が高揚していたのを憶えている。嬉しくて、浮かれていたのだ。
後に振り返ってみれば、どうしてこの時二人だけで遊んでいたのだろう、と。どうして他に大人や友人がいなかったのだろう、と。そう思わずにはいられない。
もし二人だけではなかったならば。
もし他に一人でも誰かがいたならば。
未来は、変わっていたのではないだろうか。
「なぁ、ちょっとだけ中に入ってみないか?」
ひと通り敵を倒し終わったのだろう、ふぅ!と満足そうなひと息を吐いて後ろを振り返り、レオルは言った。その瞳は好奇心に輝いていた。中、というのは恐らく、山道を外れて林の中に行くということだろう。それは禁止されていることだった。山道を逸れることは、危険生物に出会す可能性が高くなるということ。安全が全く保障されず、命の危険を伴うということだ。レオルがそのことを知らないはずはない。彼の両親が口を酸っぱくして、耳にタコができそうなくらい何度も言い聞かされていたから。
「…危ないよ?」
「大丈夫、ちょっとだけだからさ!」
顔の前で両手を合わせ、「お願い!」と頭を下げられる。向けられた旋毛を見ながら考える。一応声は掛けた。今までの経験から、こういう時のレオルに私が勝てたことはない。何が大丈夫なのか、その自信はどこから来るのか、疑問に思うことはあったけれど、今度も押し切られるのだろうな、と内心で諦めの嘆息を吐く。それに、何故か私自身も心の片隅に引かれるものがあった。まるで何かに呼ばれているような、そんな感覚。だから私は頷いた。後で一緒に怒られようと覚悟して。
私の答えに案の定とても喜んだレオルは、颯爽と木々の間へ滑り込んで行った。私も置いて行かれないよう後をついて行く。初めて入るはずなのに、迷いなく進む彼を不思議に思わなかった。……思わなければ、ならなかったのに。
茂みを掻き分け真っ直ぐ突き進んだその先に、ぽっかりと開いた黒い穴が崖に作られていた。なんてことはない、普通の洞窟。だけど私たちは、導かれるようにその暗闇の中に足を踏み入れた。
そこには、二振りの剣が地面に突き立てられていた。どこからか光が差し込んでいるのか、ぼんやりとした明るさのあるその場所に、寄り添うように、支え合うように並ぶそれらは、片方は柄も刀身も真っ白で、もう片方は正反対の真っ黒な剣だった。私もレオルも無言で二剣の前に立つ。何故こんなところにこんなものがあるのかという疑問を抱くことなく、どちらからともなく手を伸ばし。指先がほんの少し触れたその時。
《よぉ、世界に選ばれた哀れな者ども》
岩に囲まれた空間に声が響き渡った。驚愕に肩を跳ねさせた私たちは、咄嗟にその場から数歩下がった。いつの間にか剣の傍らに、全身真っ黒な男が立っていた。不気味な笑みを浮かべたその顔に、私は見覚えがあった。
レオルが一歩前に出て、私を背中に庇うようにして立つ。警戒した顔付きで、その男に恐る恐る尋ねる。
「お前は…」
《ヒヒヒ、そうだなぁ……導く者、とでも言おうか》
にんまりと目を細めて笑うその男は、夢に出てきた片方にそっくりだった。黒い髪、赤い目、白い肌。同一人物と言っても過言ではない。その姿を視界に入れた瞬間、胸に広がる嫌な予感。反射的に「やめて」と叫ぶ私が心の中にいた。今朝感じた違和感が再び脳裏に浮かび上がる。さっと血の気が引いた。くっと喉に力が入り、息を詰める。
《ようこそ、運命の子どもらよ。ここがお前らのこれからを決める、選択の場だぜ》
それは、私を絶望の底へと堕とす言葉だった。