2.魔王の過去
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私が生まれたところは、国の北端に位置する貧しい村だった。数年前から不作に悩まされ、村人全員が、その日食べる物を確保するのがやっとの暮らしをしていた。暴動が起こらない代わりに、口減らしはあった。前の日にはいた子どもが次の日には姿を消していた、なんて話は、そこかしこに転がっていた。そして誰もそのことについて触れず、口にしない。騒ぐこともない。大人たちは、ああまたか、と呟く。子どもたちは、自分でなくて良かった、と息を吐くと同時に、いつ自分の番になるのだろう、と不安に胸を焦がす。毎日がその繰り返し。そんなところに、私は生まれたのだ。
物心がついた時には、私は要らない子だと解った。私の黒い髪と赤い目は、どちらも両親の色ではなかったから。それを理由に両親の口喧嘩は絶えなかった。そして私は家の中では居ないものとして扱われたし、家の外では石を投げられて悪魔の子だと罵られた。人様の目を気にして、両親は私に外に出るなと言って家に閉じ込めた。仲良くしている人もいないし、痛い思いもしなくていいから、別にいいやと素直に従った。
食事は一週間に数回、残飯のようなものを与えられた。家の中に隠すくらいなら、いっそのこと食べ物なんてくれずに放置しておけばいいのにと思いながらも、生存本能に負けて空腹感を満たすために少な過ぎる食事を食べた。そしてあてがわれた部屋で何をするでもなく、ただ時間だけが過ぎていく毎日を送った。唯一時間の変化を知らせてくれる空の色を、子どもにとって高過ぎる位置に嵌っている窓から眺めながら。
何事もなく過ぎていく日々が唐突に終わったのは、五歳の時だった。人買いに売られたのだ。とうとう自分の番か…と無感情に思っている私とは裏腹に、私を手放せるのが余程嬉しかったのだろう、その時の両親の顔が清々しかったのを憶えている。買人から手渡された金に目を輝かせ、私の方には一切目もくれず。それが私が見た、両親の最後だった。
首に鎖を繋がれ、古びた幌馬車に乗せられた。ゴトゴトと揺れる馬車の中、遠いどこかへ売られるのだろうな、と無感情にそんなことを思っていた。どこの誰に買われても、どうせ扱いは変わらないだろうという諦念のようなものも感じていた気がする。
荷台には荷物箱と共に、私の他にも何人か同じように売られた子どもがいたけれど、みんな私と違って泣いていた。家族が恋しく寂しさから泣く子もいれば、何故売ったのかと怒りや遣る瀬無さから涙を流す子もいた。どちらにも当てはまらない私は、流れる風景をぼんやりと眺めていた。
それは森に入って少しした時だった。
あっという間の出来事で、悲鳴と怒声が飛び交い、幌馬車がバランスを崩して横倒しになった。その拍子に身体のあちこちを打ち付けて痛みを感じたけど、幸いにしてどこも骨は折れていないようだった。頭を軽く振って起き上がり、状況を把握しようと視線を巡らす。私と同じように転がされて痛みに呻く子どももいれば、外に投げ出された子どももいるようだ。
突然、帳の向こうから子ども特有の甲高い悲鳴が聞こえた。……そしてそれが不自然に途切れた。次いで耳に入る獣の唸り声と、ブチブチと肉を引き裂く嫌な音。それだけで、外がどんな惨状なのか嫌でも想像できた。他の子どもたちも同様なのだろう、喉を引き攣らせる音やカチカチと歯を鳴らす音がする。私も思わず息を飲んだ。無意識に身体に力が入る。
やがて、外から聞こえていた、人間が出す音が全て止んだ。悲鳴も、怒声も、何もかも。代わりに響くのは、勝者の息遣いと死に迫る者たちの恐怖に支配された不規則な呼吸音。見つかれば、殺される。ドクドクと張り裂けそうなくらい心臓が脈打っている。瞬きを忘れて、散乱した荷物箱の陰から僅かにできた帳の隙間をじっと見つめる。布一枚を隔てたすぐそこに、この命を刈り取らんとする獣がいる。いつ襲ってきてもおかしくない。キン、と耳鳴りを伴うほど空気が張り詰める中、誰かが身じろいだのだろう、カタリと小さな音がした。
──次の瞬間。
ビリリッ!と音を立てて薄汚れた白い布が引き裂かれた。無惨な姿になったそれを、黒い塊が飛び越えた。入口から一番近い場所に身を縮こまらせていた子どもが、声を上げることもできずにブツリと首を喰われた。血飛沫が舞う。一拍の沈黙の後、恐怖に引き攣った悲鳴の嵐が空間を支配した。狭い荷台の中には逃げ場などないのに、それでも侵入者から少しでも距離を取ろうと藻掻く子どもたち。しかし、どんなに足掻こうとも所詮は非力な小さな人間。黒い侵入者の牙に掛かり、一人、また一人と鮮血を散らせて倒れ伏していく。
ゴトリ、と私の足下に、瞳孔が開ききった子どもの頭が落ちてきた。私は瞬きを、息をすることすら忘れてそれを凝視した。その虚から視線を外すことができない。心臓が痛いくらいバクンバクンと波打っている。私もきっともうすぐああなるのだ。肉を食い破られ、この命を刈り取られるに違いない。
逃げなければ。今ここから、一刻も早くどこか遠くへ逃げなければ。奴に殺される前に、捕まる前に、……見つかる前に。
この世に生を受けてから五年という年月しか生きてはいないけれど、今まで“死”というものを漠然としか感じていなかったのだと、この瞬間まで気づいていなかった。たった今、命の危機に瀕してやっと、“死”の恐怖に気づかされた。体が硬直して動けない。体が「逃げろ」という意思に反して言うことを聞かない。なんで。自分の体なのに。どうして。逃げたいのに、逃げられない。
その時、ヒタリと冷たい気配がすぐ側まで近づいて来たのを感じた。思わず息を詰める。荒い息遣い、板張りの床を引っ掻く爪音、獣の匂い、獣の声音。他に何も聞こえない。捕食者以外の物音が何一つしなくなった空間に気づき、自分しか生き残っていないのだと、他の子どもたちは皆死んでしまったのだと解った。その瞬間、咄嗟に胸の辺りをギュウッと掴んだ。心臓の音が奴に聞こえてしまうかもしれない。隠れているのがバレてしまうかもしれない。気づかれてしまう。やめて、止まって。静まって。――死にたくない。
けれど、私の願いも空しく、荷物箱の向こうから赤い光がゆっくりと覗き込んできた。ひ、と呼吸の成り損ないが喉を吐く。頭が真っ白になった。ここで死ぬのだと悟った。次の刹那には、この首に噛みつかれるのだと、そう思った。
視線が絡む。瞬きを忘れ、肌を突き刺すような緊張感に、耳が痛くなる。息が苦しい。視界が明滅する。……それは、とても長く感じた。
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。数秒だったかもしれないし、何分もの間のことだったかもしれない。ふと、赤い光の奥がユラリと揺れた。そして驚くことに、のそり、と前足を僅かに引いたのだ。そのまま、ふい、と顔を背け、振り返ることなく走り去ってしまった。途端に、どっと空気が気道を通る。体に入っていた力が抜ける。冷や汗が頬を伝い、はっはっ…と荒い息を吐きながら、つい先ほどのことが頭から離れない。
何故、私は襲われなかった?
そのことばかりがぐるぐると思考を埋め尽くし、周りのことなんて意識から飛んでいた。血溜まりの中で、血の匂いが充満した狭い空間の中で、たくさんの命が失われた場所で。自分一人が命を奪われなかったことに戸惑いを覚えていた。だから、いつの間にか私たちを襲った獣たちが一匹残らず姿を消していたことに気づくことなく、呆然と座り込んでいて。新たに近づいて来る気配に、気づかなかったのだ。
「大丈夫か?」
「…っ!?」
突然話し掛けられた。驚いて声のする方へと顔を向ければ、そこには狩人らしき格好をした男の人がいた。厳つい顔立ちに似合わず心配の色を浮かべた表情で、私を見ていた。意識を周りに向ければ、外にも人の気配がする。いつの間に来たのだろうか。
「どこか怪我してないか?」
その言葉に頷きで答える。すると、ほっとしたように男の人の表情が和らいだ。そして、私が怖がらないようにするためか、しゃがみ込んでゆっくりと近づき、そっと手を差し伸べてきた。節くれ立った、固いマメを幾つも作った、私の貧相な手に比べて遥かに大きな手だった。
「生きているのは君だけか? 馬車の中も外も酷い惨状だったが……一体何が起きたんだ?」
「……黒い、獣に、」
「黒い獣? 襲われたのか?」
再びコクリと頷いて返す。そうか…、という呟きの後に、ポンと頭に軽い衝撃を受ける。それが頭を撫でられているのだと気づくのに、少しだけ時間が掛かった。安心させるような手つきに、無意識に強張っていた体の力がふっと抜けたのを感じた。
「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」
それはとても優しい顔だった。産みの親にでさえ、そんな顔を向けられたことはなく。今まで生きてきた中で初めて向けられた表情だった。初めて、無性に泣きたくなるという感覚を知った。初めて、固くなっていた心が解れるのが分かった。
初めて、“生きている”と実感した。
それから私は、その大人に連れられて彼の家に居座らせてもらうことになった。村へ帰る道中、私のことを気遣ってか、彼はいろいろなことを話してくれた。その中の一つで、私と同じくらいの子どもがいるのだという話は、とても印象に残った。好奇心旺盛の、やんちゃで仕方のない息子だと溜め息混じりに話してくれたけれど、その中に私の両親には感じられなかった温かみが存在していた。親が子に対して本来持ち得るであろう、私には向けられたことのない感情。実の親からこんな反応をしてもらえる子どもに、他人に無関心な私としては珍しく興味を持ったのだ。快活な子どもとは一体どんな子なのか、と。会ってみたいと、そう思った。
淡い期待に胸を踊らせながら、第二の故郷となり得るであろう村へと一歩一歩足を進めた。私の色を受け入れてくれるか少しの不安も持ちながら、それでも期待せずにはいられない。生まれた場所では誰にも受け入れてもらえなかったこの髪と瞳。だけど、助けてくれたこの人のいる場所でなら、もしかしたら。軽蔑しなかったこの人の子どもなら、もしかしたら。そう考えてしまうのも仕方ないだろう。
それが、運命の出会いになるのだとは知らずに。