2話 『砂漠の憩い亭 〜喧騒と歓声〜』
降り続く雨の被害は、この地方こそ甚大だ。
地下水脈と言っても、潤沢な水が地表に湧き出ることはなく、主要な土地に井戸が設けてある程度だ。
干乾びた土地は、水を蓄えることなく、土砂となって家々に押し寄せ、次々に集落は流された。
家を失い在るべき住処を失った人々は、難民となり、『公都・ソナイ』へと集まってきている。
しかし、ここ、ソナイの街も被害は大きい。
建物という建物全てが例外なく一度は水に浸かり、土砂の侵入を余儀なくされている。未だ使い物にならない建物も少なくはなかった。
部族の長たちによる公国協議会の決定により、復旧作業は始まっているものの、原因となっている雨が降り止まない。所以、復旧も進まず、難民の受け入れもままならない。
各地の集落の被害状況の把握と住民たちの避難、それに伴う護衛などが男達の今の稼ぎ口だ。
とは言え、基本的には追い剥ぎなどほぼ皆無に等しい。土砂に流され奪う物すらないような有様だ。
生きることにすら事欠く絶望的な状況下にあっても、歌い踊り、酒を酌み交わすのだから、この地方の民族はいや逞しい。
(感心している場合ではないか……)
今、自身がこの地に遣わされている事が、事態の深刻さを表している。
窓越しの靄の向こうでは、今後、この地に訪れる、更なる試練を暗示するかのように、遠くの空が明滅しながら不気味に低く轟いていた。
突如、大きな歓声が店内を包む。そちらを見やると、クリスティオが鎮座する飾り棚の下に設けられた円形の小さな舞台の上に、晴れ晴れとした笑顔の、唄い手と楽団が控えていた。
窓から差し込んでいた薄明かりは、この世のすべてを飲み込んでしまいそうな程の深い色に変わっている。
唄い手の女が観客たちに手を振り応え、静かに瞳を閉じると、場内は期待と興奮が入り交じる静寂に包まれる。
余程人気と実力を兼ね備えているらしい。荒くれ者の男達がじっと息を潜め、身じろぎ一つせず、『その時』を待っている。
祈るような深く豊かな音色で始まった舞台は緩やかに拍子を早めていく。高らかに鮮烈に響く太鼓、瓢箪型の胴体の板を貼り合わせた弦楽器から溢れる光の粒のような音色、透明感と力強さを併せ持つ歌声が一つになり、彼らの見てきた記憶の匂いを聴く者の脳裏にはっきりと想起させる。
高まる音色と共に、観客の興奮が最高潮に達した瞬間は、その場のすべてが光輝くようですらあった。
酒場の店主にとって一番愉しみな時間の一つであった。
楽団が演奏の余韻を僅かに残したまま、徐々に酒場はまた、客たちの喧騒に満たされていく。
ぽつりぽつりと、舞台にあがり、楽器を奏で、歌声を披露する者もいる。
マスター、と突然呼ばれ、ハッとして呼ばれた方を見やる。
「私も一曲いいかね?」
声の主は、窓辺に陣取っていた黒ずくめの外套の客だ。意外な申し出に少し驚きながらあぁ、次にどうぞ。と手短に応える。
では、と言うと、前の奏者の終わりを待って、客は、静かに立ち上がり、舞台上に置かれた小さな丸椅子に腰掛けた。
瞬間、喧騒に包まれた酒場の空気ががらりと変わったように感じられた。
腰掛けた黒ずくめの手にはいつの間にか、小振りで質素だが、どこか品のある竪琴が握られている。
その姿を見たものは、
「その客の、周りの空気が密度を増し、輝いているようだった」
と、彼の客が酒場を去ってからも暫くの間、噂が途絶えることはなかった。
しかし、これは後の話。
舞台上の不思議な客は、悠然と竪琴を構え、静かに謡い始めた。
世界の始めに六つの眩き光あり。
元つ光は一つなれど
更なる輝き求め分かち給う。
元つ光、自ら省み、
白、黄、緑、赤、青、紫
六つの光へ分かち給う。
白き光、その名をアウイン。
零神と呼ばれしいと高き光なり。
黄なる光、その名をオリエン。
雷神と呼ばれし貫く光なり。
緑の光、その名をアリガー。
大地母神と呼ばれし癒やしの光なり。
赤き光、その名をスペサル。
火神と呼ばれし燃え立つ光なり。
青き光、その名をトルクオ。
水神と呼ばれし聡き光なり
紫なる光、その名をサーペン。
風神と呼ばれし清き光なり。
……。
客達は、その不思議な客の一時に魅せられた。
不思議な客が吟じたのは、この大陸の生まれならば、一度ならず聴いて育った世界創造の神話。
だが、舞台上でこの神話が演じられることは割合稀なことだった。理由は至極明快である。
一つ、この神話が長すぎること。無論、謡、芝居、朗読など様々なバリエーションがあり、長短もバリエーション毎に違いがある。その中で最も長いのがこの『謡』なのだ。
そしてもう一つ。それは技術的な難易度が高すぎるということ。また、どれだけ技術があろうとも、それだけでは決して足りないのだ。聴く者たちもそれを知り、専門的知識やどれだけ無知であろうとも、この演目の良し悪しだけはハッキリと感じてしまうのだ。
それ故、演者がいくら人前で披露したいと望んだとしても、その後の演者の命運をも左右しかねない、なんとも、扱いずらい演目なのだ。
耳に心地良い男性的でいて、どこか女性的な声色とふくよかな音色は、聴く者の魂を癒やし清められるような感覚を深く味わっていた。
「……、かくして世界は光を纏わん」
世界が、その男の唄に聴き惚れているかのようだった。誰しもが知る一節が神話の終わりを告げる。
突如、店内が騒然とした。
この世のものとは思えぬ程の美しい音色を紡いだ人が消えていたのだ。