0話 序章
降りだした雨は、あたかも、それが本来の姿かのように、幾日も、幾日も降り続けていた。
川は溢れ、田畑は沈み、山々は至るところで土砂崩れを起こし、道となく、家となく、お構いなしに容赦なく襲った。
家と交通を奪われた人々は、為す術なく、不安と混乱の中で雨が去るのをただ、祈るばかりだった。
大陸全土を海に還そうとでもいうような水害は、ここ、グロッシュ地方でもまた深刻だった。いや、この土地こそ。
大陸の最南端に位置し、大陸上で最も火の精霊力が強く、その影響で大部分の土地が砂漠化した『灼熱の古都』。
雨は雨季の間、一年に数えるほどしか降らないのだから、始めは皆、喜んだ。しかし、降りやまぬだけでなく、一向に涼しくならない。
元々、雨季と言ってもそれほど涼しくはならないが、それでも乾季と比べれば言うべくもない。
陽気で、楽天的な気質の住民たちのなかにも、徐々に怪しむものたちが現れ始めた。遂には、世界の破滅だとさえ真しやかに囁かれていた……。
カラン。と、扉に備え付けた鐘が小粋な音を奏でる。喧騒のなかにも穏やかによく響くその音に誘われ入り口に目を向けると、大柄な客が一人立っていた。
「へい、いらっしゃっい!こんな時分だから皆することもなくて、ちょいと騒がしいかもしれないが、まぁ、気兼ねなくやすんでいってくれよ。」
決まり文句を早口に捲し立てながら、それとなく今、入ってきたばかりの客の様子を素早く観察する。
地面まで届きそうな丈の長い、頭巾付きの外套にすっぽりと覆われているから、人相まではわからない。外套の仕立ては良さそうだ。金の心配は要らないだろう。(もっとも、無銭飲食など日常茶飯事。その対処もしかりなのだが……。)
雨の中を移動してきたにしては、やけに濡れていない。まぁ、こんな蒸し風呂みたいな土地で、外套を来ているような客だ、魔法の品か何かでも使っているんだろう。
さしずめ、国を追われたお尋ね者か、一攫千金狙いの遺跡荒しか、どちらにせよ、世捨て人の類いってとこか。
この、大人しそうな雰囲気なら面倒事も起こさなそうだ。などと考えながら、無論、おくびにも出さずに入り口正面のコの字型になったカウンターの、自分から向かって左側の席へと誘う。
この席なら、客の相手をしながら、その奥のホールも見渡せる。
「あそこの席でも?」
カウンターの手前まで来て、着席するかと言うとき、高低のよくわからない、不思議な懐かしさを感じさせる、耳に心地好い声が頭の中に響いた。
一拍遅れて、そのように感じただけで、実際は目の前の客から発された声だと気付く。
「あぁ、か、構わないよ」
長い間、酒場を切り盛りし、数々の吟遊詩人や謡い手達を始め、数多の声を聴いてきたが、こんなことははじめてだった。
動揺を隠せず、声が上ずるのだけは辛うじて堪えた。
いかん、いかん。と思いながら、あることに気付く。
外套の客が選んだ窓際の席は、少し前に常連達を通したはずだ。だが、当の常連達は別の席で楽しそうに騒いでいる。
確か料理も運んだはずだが……、まぁ、いいか。席が空いているなら気にする程でもないか……。
『砂漠の憩い亭』は、止まない雨の話題で持ちきりだった。