聖女は召喚されませんでした
「公爵令嬢は森に死す」と同じ世界です。
なろうラジオ大賞応募のため、超短編です。
───ごめん、好きな人ができた。
目の前で俯く彼は、それだけ呟いて黙りこんだ。
卓上のコーヒーは既に冷えきっている。
長い沈黙の後、婚約指輪を薬指から抜き取ると彼の前に置く。
もともと招く親族も居ない私たちは、結納はもとより結婚式の予定も無かった。
婚約破棄で清算しなくてはいけないものはこの指輪だけだ。
テーブルに指輪を置く音に、弾かれるように顔を上げた彼は、小さな声で告げた。
「それは君が処分してくれ。その、慰謝料代わりに…。」
今までありがとう、と告げて席を立つ。
───やっぱり私に家族なんて無理なんだ。
幼い頃に両親を亡くし兄弟も親戚すらいない。
俺が家族になる、とプロポーズしてくれた彼も結局は離れていった。
ずっと1人。これからもずっと──
これを絶望と呼ぶんだろうか。
この世に生きる価値があると思えない。
もう消えて無くなりたい───
そう呟いた刹那、足元が光る。
「え。」
考える間もなく、私の体は光の渦に飲み込まれていった。
───眩しい。
気がつくと大きな湖の側の叢に私は居た。
雲一つない青空と、水面の眩しさに私は目を細めた。
ここはどこだろう。
今は夜だったはずなのに、ここは考えても真昼だ。
しかも大きな湖といい、周りの様子といい日本には見えない。
あの世界から消えたい、と思ったけれど。
ここは一体どこだろう。
「異世界、召喚…?」
唐突に、頭に情報が流れ込む。
魔獣の棲むこの世界で、近年活発になってきたそれらを抑え込む聖なる力を宿した聖女が必要になった事。
そのために私が召喚されたという事。
現実離れした情報の数々に混乱していると、数人の足音、話し声が聞こえてきて、私は反射的に叢に身を伏せた。
段々と兵士たちが近づいて来る気配がする。
「しっかし本当に聖女なんているのかね?」
「結界が弱まっちまって慌てて召喚したらしい。何なら王太子妃として迎えてもいいとか。」
「王太子は恋人にべったりじゃん。」
「まぁなんとかするんだろ。とりあえずこの辺らしいから探すぞ。」
───ふざけるな。
怒りで視界が赤く染まる。
例え一人ぼっちだとしても、何でよく分からない世界で良いようにされなきゃいけないんだ。
結婚まで勝手に決められるなんて冗談じゃない。
──聖女なんてごめんよ。
兵士たちの気配が遠ざかるのを確認した私は、そっと叢から身を起こす。
そして兵士たちとは逆方向へと急いだ。
この先に街がある筈だ。
聖女は召喚されなかったのだ。
ただ、それだけだ。