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猫と豆

作者: ネコノトリ
掲載日:2019/05/01

我輩は猫である。名前はあずき豆。

昔、薄暗いじめじめしたところでくるまって寝ているところがあずき豆のようだと自ら悟り命名した。

今日はどこで何をしようか。そんなことを考えながら毎朝目が覚める。今日は曇りだ。


「渋谷なんて行くの久しぶりだね。」道歩く少女がそう行ったので私の目的地はそちらに決まった。

とはいえ、猫の歩みで渋谷に行くのは一苦労だ。見たこともない街並みを眺めながら、聞いたこともない街の音を聴きながらゆっくり前足後ろ足を進めた。

何度も太陽が登ってしまったが、急ぐ理由などあるわけもないので別にいい。


渋谷の街についたのは太陽が落ちようとしている時だった。暫く振りに来た渋谷の街は来るたびに煩さが増していて賑やかになっている気がする。日が落ちていく様といつまでたっても静かにならないアンバランスな街並みを傍に座りながら見ていると自分が主人公でなくなったかのような物寂しい気持ちになってくる。

「あら、見かけない顔ですね。」

耳元からした声に思わず身を反らしてそちらを見た。驚くべきほどに近い距離にいたのは真っ白い野良にしては品のある猫だった。

「ここは貴方の縄張りですか?それであれば立ち去るとします。荒らすつもりはなかった。」

「いえ、こんな雑踏に飲まれた街に縄張りなどありはしないと思います。何の気なしにあなたがいたから声を掛けたまでです。」彼女は私の方をじっと見ながら一点も目をそらさず言ったので、私はたじろいでしまった。

「こんな近い距離で話しかけられるのは初めてです。しかも初対面の方に。」私は少しの緊張を覚えた。きっと彼女の品のある容姿と言葉遣いのせいだ。

「不愉快だったらごめんなさい。目が悪くこの距離でないと見えないのです。」

そう言われて彼女の目をじっと見ると薄く濁っているような気がする。

「病ですか?」

「わかりません。ただ、この距離であれば他の猫と変わらないぐらいには見えるのですよ。」彼女は笑っていた。私の心配など結構ということなのだろうか。

「そうですか。この街であれば食べ物に困ることもなさそうですし、不自由はしなさそうですね。」

近い距離に緊張することに違いなかったが私は悟られないように素知らぬ様子で話を続けた。


暫くたわいもない話をした後、私は彼女に訪ねた。

「そういえば、あなたのお名前は。」

彼女は少し考えるように間を置いてゆっくりと答えた。

「私は見た通り野良で、ましてや仲間や恋人と呼ぶものもいないので名前はおろか呼ばれたことすらありません。」

彼女のその答えに私はすぐさま疑問を持たずにはいられなかった。嫌でも多数の猫が通りかかるこの地で、ましてや積極的に私に話しかけてきてくれた。この品のある容姿と言葉遣いの猫に恋人はおろか仲間がいない訳があるまい。私のそんな疑念を察知したかのように彼女は微笑みながら話を進めた。

「そんなあなたには名前はあるのですか。」

私はわざとらしく彼女と同じように少し考えるように間を置いてゆっくり答えた。

「私は見た通り野良で、ましてや仲間や恋人と呼ぶものもいないので名前はあずき豆と自ら命名しました。」

私の真剣に瞳から発せられる言葉に彼女はキョトンとしてしまったので私は少し恥ずかしくなり、「以後お見知り置きを。」と言葉を付け加えると彼女はこの上ない笑顔で笑い転げてくれた。何故か少しだけ高揚感に満ちた。


彼女は私の目的のない渋谷の歩みに同行してくれた。彼女は暫く渋谷にいるらしく渋谷のことについての案内を時折挟んでくれたので実の深い歩みになった。というか、品のある彼女と共に歩むこと自体が実の深いものであった。


艶やかなパチンコの看板やいい匂いのする定食屋のそばを歩いた後、公衆電話に並ぶ人々を見ながら私は彼女になんとなく話しかけた。

「この機械を使っている人を初めて見たとき不思議でしょうがなかったのです。人々はまるで会話をするかのように一人で話し始めたのだから気味が悪かった。よくよく観察していると本当に誰かと会話をしていることがわかったのですが、そうと分かったときより一層不思議で気味が悪くなった。」

「これはそのための行列なの?誰かと会話するために並んでいるのですか?」彼女は驚いているようだ。彼女の瞳でもおぼろげに人の姿ぐらいは見えているようだ。


「いつから目が見えないんですか?」私は彼女にゆっくりと歩いたまま問いかけた。彼女の身体の不自由について気にしていると思われて疎まれるのが嫌だったからである。

しかし、彼女はそんな私の思惑を気にも留めないように純粋な笑顔で答えた。

「秘密です。」

秘密。そんなに隠したい暗い過去があるのだろうか。しかし、そんな過去があるような表情に見えない。私を気遣うようなそんな表情でもない。私が咄嗟に言葉が出ずに詰まってしまっている様子を見越したかのように彼女は続けてくれた。

「そうだ、私にも名前をつけてください。あなたの素晴らしい名前のように私にもぜひ。」先ほどと変わらない彼女の純粋な笑顔が私を悩ました。

「私なんかがあなたに名前をつけていいのですか。私はあずき豆ですよ。」

彼女は再び笑いながら勿論ですと続けた。

自分以外の誰かの名前をつけるなんて思ってもみなかった。ましてや今日知り合った猫に。

私は少しの間考え、この品のある真っ白な猫に白豆と名前を授けた。この名前は彼女のお気に召したようで、「白豆...。白豆...。」と何度か呟いた後、深く頷いて受け入れてくれた。

いい名前かどうか分からないが、彼女は白豆になったのだ。

最も最初に提案した「白桃おろしサワー」は長いという理由で真顔で却下されたのだが。


人が次第に少なくなってから私たちは少し高いところに登り、少し欠けた月を望みながら並んだ。

相変わらず彼女の容姿は私とは対照的に品に満ちていて、瞳は濁っている。

「あなたは本当に渋谷にいたのですか。」

「秘密です。」

二匹の猫は寄り添うように眠ってしまった。

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