私は制服を脱ぐのが下手だ、
ああ、また夢だ。
「ムーくんや、この先には何があると思う?」
「ハァハァ……いや、知らないけど……」
二年前。高校入学直前の、私の悪夢だ。
コンクリートで補強された崖の上で、アタシは偉ぶるように手を腰に当てた。
「その程度で息切れとは情け無いのう、ムーくん」
「……みっちゃん、その口調何?」
「気分」
「えぇ……」
15歳の時の進が呆れたように目を細める。私の名前は佐々木 未来だ。未来だから、みっちゃんと進は呼んでいる。あの頃は私も、進のことをムーくんと呼んでいた。
「大体、僕は病弱なんだ。みっちゃんみたいに、崖の上を登ったり降りたりなんて出来ないよ」
「自分で病弱とか言ってるうちは大丈夫よ。あたしが保証するわ」
「冗談とかじゃないんだけど」
「とにかく、見せたいものがあるって言ったでしょ! 見たらもう寝ていいから」
確か、綺麗な桜を見つけて、自慢したかったのだ。
桜はすぐに花を落としてしまうから、今すぐにでも彼に見せたかったのだ。
「ねぇ、きっともっと楽な道あるって」
「それじゃ意味ないの! ほら行くよ」
アタシは進の腕を掴み、強引に引っ張る。
ここから先は思い出したくない。
「あっ」
「え……」
間抜けな声を出した進が、足を滑らせて落ちていった。
真っ逆さまに落ちていった。
頭から落ちていった。
アスファルトに落ちていった。
音。血液。滲む。
「あっ……」
間抜けな声が出て、頭が真っ白になった。
ピーポーピーポー、というサイレンの音。
ジリリリ、という目覚ましの音。
「…………はぁっ」
ベッドから飛び起きる。ようやく悪夢から醒めたみたいだ。
「はぁ……はぁ……」
震える手で布団を掴みながら、17歳の私は息を整える。
「はぁ……」
ふと、横の机を見た。写真立てだ。進と私の、中学卒業のときのツーショットが飾られている。本当ならそこには今、高校入学の写真が飾ってあるはずだった。
吐き出したい感情が喉に詰まる。何て言葉にすればいいのか分からなくて、吐き出せない。
私は焼けるように酸っぱい生唾を呑み込んで、進の笑顔が見えなくなるように、写真立てを倒した。
──これは、私の贖罪だ。
◆
「ねえ正人。いつから?」
誰もいない教室。私は正人の目を見る。彼は私の目を見ない。
長谷川正人。私の彼氏である……いや今は、元彼氏、と形容したほうがいいか。
「…………七月。夏祭りから。それからちょくちょく」
「そんな前から真希と? ずいぶんと長い間隠してたのね。大体七月って、私があなたに告白してから三ヶ月じゃない」
私は大きくため息を吐いた。
ああ、でも呆れるばかりで、ショックは小さい。少し前から薄く気づいていたから。
「お前が悪いんだろ」
「……は?」
別に責めてもいないのに、正人は勝手に声を荒げて、弁明を始めた。というか私への責任の押し付けか。
「お前が佐藤佐藤と口にするからだろ。その言い訳で、何回デートを断られたか」
「いや……進はお見舞いで……」
「それなら真希から聞いた。ずっと3日おきとかに見舞いに行ってるんだってな。そんなに気になるなら、佐藤と付き合えば良いだろってんだ」
殴りたくなった。拳が震える。爪が手の平に食い込んで痛い。
「大体、お前本当に俺が好きで告白したんじゃないだろ?」
「っ!」
何か言おうと口を開いた。でも、何も言葉は出てこなくて、変な呼吸をしただけだった。
何も言わず唇を噛み、正人の頬を叩いた。
あまりいい音はしなかった。
「っつ! てめぇ!」
文句を言いたげな正人に、踵を返し、無言で扉を閉めた。
◆
私は早足で、病院の廊下を歩く。携帯で母さんにメールを送った。
確かに正人に本気で恋していた訳じゃない。でも、ああ。やはり言葉は出て来ない。
携帯をポケットにしまって、歩き続ける。通りすがりの看護師が、私に声をかけてきた。
「あら佐々木さん。今日も面会?」
「ええ」
「仲がいいのね」
「……はい」
看護師と別れ、更に足を早めた。
「佐藤 進」と書いてある名札が、横にかかっている扉。少し荒れた息を整えて、私は病室に入った。
二人分の果物を剥いていた進が、パッと顔を上げて私を見る。
進はいつもどおり、頭に帽子を被っていた。髪は見えない。病室の隅に、去年の汚れた千羽鶴が置いてある。いつまで置いておくつもりだろうか。
「いらっしゃい。果物剥いといたよ」
「ん」
進は私が見舞いに来ると、いつも笑顔を見せる。
剥いていた果物を切り分け、進は皿に飾った。その間に私は荷物を下ろす。
「嬉しいけどさ、こんなに面会してくれなくても良いんだよ? みっちゃんには学校に友達も居るだろうし、彼氏だっているんでしょ?」
その言葉が、どれだけ私の神経を逆撫でているか、進はわかっていないのだろう。
「大丈夫だって。暇じゃなきゃここに来てない。大体、私が来なかったらお母さん以外誰も面会に来ないでしょ?」
「別に僕は大丈夫だけどなぁ」
私は手提げ袋の中から百合の花を取り出し、花瓶に差した。
「……みっちゃんが迷信とか縁起とか信じないのは知ってるけど、百合の花ってのはどうなのかな。首が落ちるって言って、縁起が悪いんだけど」
私は目を細めて百合を見る。そうだ。だから早く死んじまえ。きっと清々するだろう。
私は進の方へ振り返る。
「私は百合が好きなの。文句ある?」
「はいはい。でも後で看護師さんが回収しちゃっても、文句言わないでね」
私は椅子に腰掛ける。進は果物の載った皿を私に差し出した。リンゴとオレンジだ。その皿を私は受け取った。
「あ、看護師といえばさ、昨日の人ね。朝食……いや、昼食だったかな。プレートに乗っけて持ってきてくれたんだけど、そのおかゆにさぁ……」
進は喋るのが好きだ。その癖、私に高校のことを聞こうとはしない。ただ一方的に、自分の話を続けるだけだ。私は赤べこの様に相槌を打っていればいい。この鬱陶しい時間もすぐに終わる。
進の話の合間、私は皮付きのオレンジに齧り付く。上手く実と皮が剥がれず、皮に身が残ってしまう。進は雑談を止め、私を笑った。
「みっちゃんはオレンジを食べるのが下手だなぁ。相変わらず」
私は何も答えず、皮に残った実にもう一度齧り付く。
窓の外で、烏が泣いた。
◆
一年後、進は死んだ。
私が卒業する前に、突然ポックリと死んだ。小さな葬式が行われたが、私は涙を流さなかった。笑い飛ばそうとしたが、上手く笑えなかった。
私は普通に受験をして、普通に大学に合格した。掲示板を見て胴上げされている人達を、冷めた目で見ていたことは覚えている。
今、進の骨が眠る墓地に、私はいた。
進の一回忌だ。私は喪服代わりの制服を着て、墓石の正面に立っている。墓石には、佐藤家の墓と彫られていた。
私は手提げ袋から百合の花を取り出し、供える。墓前にしゃがみ、目を瞑って手を合わせた。
私は大学生になった。
風が吹き、桜の花びらが舞う。私は目を開けた。
笑顔みたいな満開の桜が、今は嫌に鬱陶しい。