3話
いつから感情を吐く事を止めていたのだろうか。止めた呼吸を、堪えていた生を、溢れ出す涙を、人を失った悲しみからの逃亡を……塞いでいた全ての感情が止めどなく噴出してしまった。
「ごめんなさい」
笑顔でオウムの様に同じ言葉を繰り返す少女が、初めて表情を変えて寂しそうに俺の頬に手を当てだ。流れ落ちていた涙を拭う為に。
「何がごめんなさいだ! もう良い、勝手にしろ! 其処に居たければ居れば良い!」
――感情を露出させた事に疲れたのか、寂しさからなのか……何者か分からぬ少女が確かに其処に存在する事を俺は実感した。
その日から仕事を終えて帰宅しても飯を食べている時でも眠っている時でも、少女は常に笑顔で其処に立っていた。
「102号室へようこそ」
「貴方に会いたかったよ」
「ごめんなさい」
話し掛けると其れしか答えず、飯も食べなければ眠りもしない。……そう【話し掛ける】と。いつからか、俺は彼女に語りかける様になっていた。
異常な状況なのか、お触り自由な霊なのか、気でも狂った変人なのか。何が普通で何が変なのか今の俺には分からなかったが、正直どうでも良かった。其処に少女が……誰かが居る安堵感。
――仕事が終わると、急ぎ足に帰宅する様になっていた。少女に会いたくて。
家路に着き白い廊下の先にある扉を開け、ソファーの前に笑顔で佇む少女……それが消えてしまわないか不安なんだ。不可思議と云うよりは不気味なのだろうか。笑顔と桜の香りを纏う少女。常の如く俺は少女に語り掛ける。相変わらず笑顔で同じ事ばかり答えるが、構わなかった。
――仕事への不満
――今日の天気
――料理が苦手な事
――好きな作家の新刊が出た事
――好きな映画の話
――今日は料理が上手く作れた事
―…
…
少女は、いつも笑顔で俺の話を聞いていた。否、聞いているのだろうか?それすらも、どうでも良かった。どうでも良い会話。
……ただ一つ、失った彼女の話だけはしなかった。出来なかった。彼女の話をする事への抵抗……少女へ話す事で【実感】してしまう事を恐れているのか。それとも少女を特別視しているのか。彼女の事が、過去の事になってしまうからなのか。
返答は分かっている。
「102号室へようこそ」
「貴方に会いたかったよ」
「ごめんなさい」
成立しない会話だからこそ、恐れているのかもしれない。あれから何度話し掛けても、この言葉以外に喋る様子が無い。妙な安堵感と、他の言葉が出てくるかもしれない不安感が入り混じる。そんな生活が、たとえ偽りでも、いつも其処に桜の香りと笑顔の少女に居て欲しくて。