プロローグ
正直、こんな未来は予想していなかった。だって考えてもみて欲しい。三年間、高校生活の楽しい部分を削ってまでがんばってきたのに、突然そこであるべきはずの未来がぷつりと切れていたら、誰だってこう思うはず。
――音楽の神様の意地悪!!
わたしは少しふらつきながら、なんとかその掲示板の前から離れた。歓喜に沸いている人々の中を、まるで処刑が決まった罪人みたいな顔で通り過ぎて行く。
空は無残にも晴れ渡り、陽射しはこれからの明るい未来へ旅立つ合格者たちへ注がれている。肩にかけていたトートバッグの中で携帯電話がぶるぶる鳴っているのに、わたしは人混みを抜けてようやく気づいた。だけど、取り出すこともなく溜め息をつく。
今日は某有名私立音楽大学の合格者発表の日。受験生たちが不安顔で掲示板の前に集まっている中、わたしは自信に満ちた笑みを浮かべて発表を待っていた。もちろん、受かっていることは当然のことで、わたしが知りたかったのは順位だ。倍率が十二倍だろうと、そんなことは気にもしていなかった。だって、わたしは去年の全日本学生音楽コンクールの高校の部の入賞者だから。
それに、受験の時の課題曲だって誰が聴いても文句なしの出来だったはずだ。正直、わたしを落とすなんてあり得ない。なのに・・・。
大学の正門まで来ると、わたしは重い足を止めて振り返った。掲示板の前に五十人ほどが集まっている。お母さんと来ている子、友達と来ている子、ほとんどの子が顔を綻ばせている。
――こんなところまで見に来るんだもん、当然だよね。
合格者の発表は、大学のホームページにもアップされる。わざわざここまで来て見るのは、自信があった子たちに決まっている。わたしみたいな、ね。
皮肉笑いを洩らし、肩に掛けているトートバッグを担ぎ直す。重いのは楽譜の本が五冊も入っているからだ。この後、本当ならママに報告のために電話して、それからピアノの貴子先生にも、高校の担任の先生にも連絡することになっていた。
門の前で立ち止まったまま、わたしはうな垂れた。こんな惨めな思いで誰にも電話したくない。また、トートバッグの中で携帯電話がぶるぶる鳴り始める。きっとママだ。
ママにどうやって伝えたらいいのかわからない。今日、玄関で見送ってくれたとき不安そうだったのはママの方だった。わたしは確認しに行くだけだからと笑顔で、しかもお祝いのためにわたしの好きなポテトサラダを作っておいてとまで言ってしまった。
わたしのママは、別に教育ママというわけではない。むしろ勉強に関しては放置。完全なる放置プレイで子供二人を育ててきた人。それでも、自分が小学校の音楽の先生だったりするもんだから、子供にも何か楽器を習わせたくて、四才のわたしをピアノ教室に連れて行ったというわけ。
母親が教えればよかったんじゃないの、という人もいるけど、親子で先生と生徒をするっていうのは普通は不可能だと思う。ママはわたしがピアノを弾いているとできるだけ口を挟まないようにしていた。まぁ、時々は我慢できずに、ケンカになったりしたけど。
つまり、親が子に真剣に何かを教えるのは難しい。甘やかすか厳しくすぎて、結局子供のやる気を削いでしまうことになる。
ママができるだけ離れていてくれたおかげで、わたしはこれまで特に問題もなくピアノを楽しんで続けてこられた。そして、ついに高校生になったとき、進学希望にわたしはピアニストを選んだ。もちろん、それがどんなに大変なことかはわかっているつもり。
それからの今までの三年間、わたしは必死にピアノと向き合ってきた。一日四時間の練習。学校の吹奏楽部の練習と合わせると、楽譜とにらめっこしている時間はかなり長くて、疲労から音符が読み取れなくなることだってあった。
練習しても思うように弾けないときは、家族に当たり散らしたり、周りの人にも迷惑をかけた。
わたしにとって、すべて今日この日のために三年間があったといってもいい。
なのに今日、わたしはそのピアノで価値がないと示されてしまった。もうどうしたらいいのかわからない。
わたしは校門の前で止めていた足をまた動かし始めた。門を通り抜け、坂道を近くの駅まで下りて行く。
――もう一回戻って、本当に名前がなかったかどうか見た方がいいかも。
緩やかな坂の途中で、またわたしは立ち止まった。ピアノ科の合格者は二十名ほどで、その中にわたしの受験番号はなかったけど、もしかしたら見間違いってこともありえる。
――ううん、やっぱりもう無理。
あの嬉しそうな合格した人たちの中に戻って確認するのはつらすぎる。そんなことをするぐらいなら、ここで大学のホームページを見た方がいい。
わたしは携帯電話をトートバッグから取り出した。見ると、ママからの着信が二件あった。メールは三件。掛け直すことができず、大学のホームページを開く。ピアノ科と書かれた合格者の一覧表を開こうとしたけど指が震えた。
――落ちてたら、どうしよう。
――浪人? お金もかかるし、そんなのイヤだ。
――じゃあ、別の音大の二次を受ける?
――それもイヤだ。
わたしには師事したいピアノ科の先生がいた。この大学でなければその先生から教えを乞うことはできない。
ピアノの発表会でも震えたことのない指で、わたしは一覧表を開いた。受験番号がずらっと並んでいる。それを見た瞬間、わたしの目にぶわっと涙が浮かんできた。
――・・・・・・ない。
わたしの番号はなかった。端から端まで見たけど、わたしと前後する番号の間にあるはずの、315番はなかった。
「いやだ、こんなの嘘だよっ」
思わず声を上げ、その場にしゃがみ込む。
そのときだった。
「危ないッ!!」
と誰かが叫んだ気がした。
片側一車線の道路の舗道にいたわたしは、涙で濡れた顔を上げることができなかった。けど、背後から甲高いブレーキ音が聞こえて、さすがに振り返ったその目に映ったのは、銀光りするトラックのバンパーだった。