00.全ての始まり
――――時は数千年前。
各地で暴れ回り、悪逆の限りを尽くした男がいた。燃え盛るような焔の髪と鋭い銀色の瞳を持ったその男は、大地や命といったもの全てを破壊し、その力はよもや天までをも貪りつくすのではと危惧されたほどの力を有していた。
抉られた大地、枯れ果てた食物、泣き叫ぶ人々。
そんな地獄絵図とも例えられるような地上の様子を見て、傍らに金髪の少女を控えさせた焔の男は口角を上げて嗤った。
「――見えるか」
男が傍らの少女へ問いかける。夜空に瞬く星々など、最早一縷の希望にさえなりはしない。人間が愚かにも信仰し続け、今まさに助けを乞い祈りを捧げているであろう神など存在さえ無いというのに。正確に言えば、神は確かにいた。数え切れないほどの大昔、神は人間を産み落とし、そして信仰を利用した人間達によって消滅したのだ。
神殺しの人間を助けるほど、天使たちも寛容では無かった。故に人間達の味方は人間以外におらず、世界は無慈悲にも崩壊へと足を向け始めている。
「はい、ギル様」
金髪の少女は微笑んで問いかけに答えた。くるくると毛先が巻かれた金髪は夜空の中でひときわ美しく輝き、主たる男の髪と同じ赤色の瞳で世界を見渡す。楽しげに身体を動かせば肩より少し上で整えられた髪の毛がふわりと揺れるのを、ギルと呼ばれた男は愛おしげに見つめた。
「ギル様が造り替えた世界はこんなにも素晴らしいのです。
これなら、今まで散々見下してきた他の方々もギル様を尊敬されますね! このポラリス、不束ながらこの先もギル様の配下として――……」
「……いや。俺はこれからしばらくの眠りに入る」
勇んだ様子で言葉を並びたてていた少女――ポラリスをやんわりと手で制しながら、男は笑みの種類を苦いものに変えてそう告げる。それを聞いたポラリスはきょとんと瞳を大きく見開き、次いで慌てたような表情を浮かべ「何故ですか」と震える声で問うた。
眠りに入る。普通の人間であれば一晩もあれば目覚める、人間の本能的な行為だ。
しかし自分達は違う。一度眠りに落ちた者は、持つ力が強いほど眠る時間が長くなる。世界滅亡とまでは行かずとも大幅に人間の数を減らし大地を変えるほどの彼なら、一体どれほど眠ることになるのか。
ポラリスには想像もつかなかったし、想像などしたくもなかった。
「少し力を使いすぎたようだ。……なに、心配するな。
これからこの世界を治める為に必要な力を補充するだけだ。そんなに長くは眠らない」
「で、ですが、ギル様がいなくなったら……」
「…ポラリス。これはお前の修行のひとつだと思えば良い。これから大魔王となるであろう俺の配下として、必要な力を身につける為のな」
既に瞳を潤ませてしまっているポラリスの頭を白頭巾越しに優しく撫でれば、渋々といった様子で小さな頭が頷く仕草を見せる。
物分かりがよく自分の言うことにはすぐさま従っていたため、ここまで言い募られたのも初めてだ。
それほど慕ってくれているのだろう。嬉しさと申し訳なさを抱きながら、ギルは再び口を開いた。
「俺がいない間、お前は他の者と協力してこの地を治めるんだ。……出来るか?」
ギルがいう他の者というのが誰なのか、ポラリスには見当がついていた。
あんな人たちの中で、彼が造り替えた世界を治める役割をしろと? 全く冗談ではないと思ってみれども、それ以上に彼の役に立てるという喜びが何物にも勝る。
故に今度は確りと頷いてみせた。
「……分かりました。このポラリス、お役目をしっかり果たし、ギル様の御帰還を心よりお待ちしております」
頭を垂れて跪く。それは主へ対して最も礼儀を払っているとされる体勢だった。
両手を胸元で組み、上から降ってくるであろう主たるギルの言葉を待つ。
「…………よく言ってくれた。任せたぞ、ポラリス。
――俺が目覚めるその時まで、元気でな」
「……ギル様の方こそ、どうかお元気で」
二人の瞳が交わり、やがてギルの姿が光に包まれ宵闇に融けて行く。
それが全ての始まりであった。
――後にポラリスは、他の魔王たちと手を組みながら世界に名を馳せる魔王の一角となる。
世界各地を治める五人の魔王により構成された魔王連盟。その魔王たちを、人々は"五将魔天"と呼んだ。
人間が消え失せてしまえばバランスが崩れると指摘され、国一つ分程度の人間が生きることを許容した。
食物が無ければ生きられないというから、森までもを分け与えてやった。文明が進むのだって行き過ぎなければ咎めなかった。
その全ては主との約束の為に。"互いには決して手を出さない"という人魔和親条約により、世界は均衡を保ってきた。
――――しかし、いつまでも事態が動かないはずもない。
世界均衡が保たれ始めて数千年後。ある日突然、世界から五将魔天の一角であった"忌まれた星"ポラリスが消滅したのである。
他でもない、人間達の手によって。
共存を選択してきた人間と魔族は、再び剣を交えることとなる。
人間の国オルテンシア。今まで魔族に、そして魔王という存在に怯えていた国とは思えぬほどの力を蓄えたかの国は、悪しき魔王達へ反旗を翻したのだ。
時に恐ろしいほど対魔に優れた人間離れした人間を送り込み、少しずつではあるが領土を広げていった。
勿論それを見過ごさない魔王達では無い。
一つ空いてしまった椅子を埋めるため、そして愚かな人間達を粛清するために、彼らは魔族にとっての救世主となる存在を呼び寄せることとなった―――――。
***
――青年、上村幸人は悩んでいた。
目の前にあるのは、とてもではないが見れたものではない点数。それがでかでかと大きく書かれたテストの答案。
「……あー、やっぱ落ちこぼれなんだよなぁ……」
生まれてから今まで、ただの一度たりとも高得点を取ったことが無い自分である。40点代で喜ぶような落ちこぼれ、それが教師という大人から貼られたレッテルだった。
趣味といえばアニメにゲーム。クラスではオタクと煙たがられ友達もいないような自分に、一体何が誇れるというのか。将来さえも満足に夢見れない現実に、いい加減嫌気がさしていた。
――このまま生きていたって、良いことなどきっとないだろう。
就職氷河期、ゆとり世代とさとり世代の出現。就職できてもそこがブラック企業だったらお終い。
おまけにこんな底辺、好待遇などどれほど頑張っても期待できないに違いなかった。
「……もういいか」
生きていても希望が無いような中で、苦しい思いをしながら息をし続ける意味なんてきっと無い。座っていた椅子から立ち上がって部屋のベランダの扉を開き、柵をひょいっと乗り越えた。
少し体重を前にかけて手を放せばそれで済む。そうすれば、マンションの8階にある部屋からの飛び降りだ。絶命する以外の道は存在しないだろう。
だから、青年はゆっくりと指の力を抜いた。心残りは何もありはしない、両親は働きづめでろくに顔さえ覚えていないような有様だったから。
「――せめて来世は、もうちょっとマシな人生でありますように」
尤も、自殺した人間に来世があるのかは怪しいが。
それが彼の、この世界で最後となる言葉だった――――。