精霊様ダイナマイト〜精霊様は華奢な美形?いいえ、マッチョです〜
前に思いついたけど規約を確認して「実在人物をネタにするのはダメか…」となって没ったネタから規約違反部分を取り除いてヤーーーーー!した話です。
作中に登場する儀式の描写やアイテムについてAIに例やアイデアを出してもらっています。
お好みで筋肉を連想する何かしらの曲をかけてお読みください。
ラティが初めて「それ」を見たのは、五歳の誕生日を迎えた数日後のことだった。朝目を覚ましたラティは、まだ薄暗い部屋の中に誰かがいるのを目撃した。窓辺で珍妙なポーズを取って佇むそいつは、木窓から差し込む朝日につるんとした頭と見事に鍛え上げられた筋肉を煌めかせていた。
「お父ちゃーーーん! お母ちゃーーーん! 助けてぇ! 変なのがいるぅ!」
ラティの涙交じりの悲鳴にすでに寝床を出ていた両親は慌てて娘の下へ駆けつけたが、娘ががたがたと震えながら指差す窓辺に何者の姿も認めることはできなかった。初めは悪夢でも見て寝ぼけているのか、それとも冗談を言ってからかっているのかと思ったが、時折虚空を見ては尋常でない怯え方をする様子からこれは只事ではない、と判断して。ラティの両親はすぐさま村の教会に娘を担ぎ込み、初老の司祭に娘を引き合わせた。
「朝から娘の様子がおかしいんです。悪魔にでも取り憑かれてないでしょうか」
老司祭は夫婦の訴えを聞いてふうむと唸り、未だ泣きじゃくる幼いラティに優しい声で語りかけた。
「君には何が見えるのだね?」
「筋肉モリモリのハゲ男が見えるの。ずっと変なポーズをしてこっちを見てて、時々ニヤって笑うの」
老司祭はラティの訴えを聞いてふうむううと大きく唸り、「それは怖かったね」とラティを慰めた。そして余計なものを見ないようなるべく手元や足元だけを見て過ごすように、とラティに助言をした後、神妙な顔でラティの両親に向き合ってこう告げた。
「娘さんは妖精の悪戯を受けているようですな。これだけ強く干渉を受けるということは精霊の巫子の適性があるのやもしれません。一度巫子の方に見ていただいた方がよろしいでしょう」
ラティはすぐさま小さな馬車に乗せられ、そばかす顔の助祭と一緒に遠くの街の大きな教会へ向かうことになった。
道中の教会で寝床を借りるのを数日繰り返し、ようやくたどり着いた街の教会はラティが見たこともないほど立派で大きな造りをしており、相応に中も広かった。視界の端に映り込む筋肉男からの逃避も兼ねて見上げるだけで眩暈がしそうなくらい高い天井を眺めるラティの手を引きながら、そばかすの助祭は小綺麗な身なりの司祭にあらかたの事情を説明した。
「では、数日前からずっと奇妙な人物が見えるのですね」
白髪交じりの髪を綺麗に整えた司祭に問われて、ラティはこくこくと頷く。司祭とその隣にいるおそらくは助祭らしき青年から少しでも気が逸れればその斜め後ろで片腕を上げて二の腕の力こぶを見せつける屈強なハゲ男に目がいってしまうので、彼女は鬼気迫る表情でまっすぐに司祭の顔を見つめていた。
「なるほど。では、あなたに見えるその人物は今どのような体勢を取っていますか?」
白髪の司祭に言われて、ラティは嫌々、本当に嫌々ながら司祭達から目線を外した。こんがり日に焼けた肌を艶々と光らせた筋肉男は、教会の白い壁をバックに上半身を屈めてぐっと胸下辺りで握り拳を作るようなポーズをしている。
「こんな感じ」
見よう見まねでラティが筋肉男と同じポーズをすると、白髪の司祭と傍らの青年はちらりと脇に視線をやる。司祭達の視線の先にいる筋肉男が白い歯を剥き出して笑いながらむんっと仁王立ちの姿勢を取れば、司祭達は何事もなかったようにラティに向き直った。
「今はどのような体勢をしているかわかりますか?」
ラティがまた嫌々ながら筋肉男を見て、仁王立ちで両の脇腹に握り拳を添えるポーズを真似れば、司祭と青年は揃って顔を見合わせた。
「あなたに見ていただきたいものがあります。少し奥で話しましょう」
白髪の司祭はラティに微笑みかけると、奥の壁にある扉を手で指し示した。そばかすの司祭がラティの手を引いてそちらへ向かおうとすると、青年がそばかすの司祭を呼び止める。どうやら奥の部屋にはラティだけが通されるらしい。
そばかすの司祭と青年を置き去りにして、ラティは白髪の司祭の背中を注視しながら歩き続ける。そうして通された奥の小部屋の中に黒光りする肢体を認めた時、ラティは小さく悲鳴を上げた。
「怯えることはありませんよ。さ、おかけなさい」
白髪の司祭は扉の脇でバキバキに割れた背中を見せつける筋肉男の前を素通りして、古びた木の机を囲む椅子のひとつを引く。ラティがおっかなびっくり椅子に腰掛けると、白髪の司祭は一枚の巻物を机の上に広げた。
「あなたに今見えている人は、このような姿をしていますか?」
白髪の司祭が指で示したのは、薄い布を纏った筋肉質な青年の絵だった。おそらくは宗教画なのか、光輪を背負って中央に座する白髪の立派な老人の周りには十人の男女が集っている。髪型や服装などは全員それぞれ微妙に異なっているが、皆一様に薄く艶のある布を体に巻き付けて衣服にしているようだった。
ラティは一通り絵を眺めた後、ちらりと部屋の隅に視線をやる。そこには体にフィットする奇妙な腰巻きを身につけた筋肉男が二人いて、互いの肉体を誇示するように向かい合ったポーズを取りぴくぴくと筋肉を震わせていた。どうやらラティに最近付き纏っていた筋肉男が先回りしていたのではなく、別個体の筋肉男が室内でスタンバイしていただけらしい。
「違うよ。こんなにきれいじゃないもん」
ラティの言葉に、白髪の司祭は小さく頷いた。くるくると古びた絵巻物を丸めて壁際の戸棚に収めると、司祭はラティの対面に腰を下ろして話し始める。
「今までよくわからないものが見えて混乱したでしょう。ですが、恐れることはありません。今あなたに見えているのは精霊です。あなたには精霊の巫子の素質があるのですよ」
「精霊?」
おうむ返しにそう答えてから、ラティは部屋の隅を見た。微妙に肌の黒さの度合いが異なる筋肉男が二人、仲良く上体を捻ってこちらを向いている。
「あんな、あんなはだかんぼのハゲが精霊様? 妖精と全然違うじゃんかっ。気持ち悪い」
「禿げているのではありませんよ。多くの精霊は力を使うために己の髪を切るのです」
筋肉ツインズを指差して声を荒げるラティを、白髪の司祭が穏やかに諭す。その言葉に同意するように、色黒屈強筋肉ツインズは己の頭を撫でさすったり小気味よくぺちんと叩いたりしてみせた。
精霊とは、この世界を創りたもうた創造神が地上の管理を任せるために遣わした神の子にして使徒である。まず全ての精霊を束ねる精霊王がいて、その下に戦いや豊穣などを司る十の大精霊がいる。さらにその下に名もなき小精霊達がいて、小精霊の幼体を妖精と呼ぶのだ。
まだ幼く無邪気な妖精は好奇心旺盛な上悪戯好きで、度々人間の前に姿を現しては騒ぎを起こす。一方成熟した精霊は必要以上に人間と関わろうとせず、心身共に清らかな一部の人間のみがその姿と声を知覚できる。ゆえに絵や物語の精霊は、小さな子供の姿をした妖精が成長したらこんな感じかな……という想像で描かれている。
ラティもその精霊のイメージ図に親しんで育ってきたから、ここ数日視界の端を侵食していた筋肉男が精霊様ですよと言われて少なからずショックを受けていた。だって、母親や教会の司祭が語り聞かせてくれるおとぎ話に出てくる精霊は決まって美しい姿だと言われていたのだ。きっとこんな感じかなぁ、とイメージを膨らませ夢を詰め込んだ頭の中の想像図を筋肉男のドロップキックでぶち壊された気がして、ラティはひどく腹立たしいような物悲しいような気持ちになった。
「やだ! こんなのが精霊様なんて、絶対やだっ! 妖精の悪戯なんでしょ? 早く治してよ!」
「混乱する気持ちはわかりますが、妖精の悪戯ではなく精霊に認められた証なのです。あなたが心身の健やかさを損なえば自然と精霊は見えなくなり、精霊の御業によってお姿を見た記憶も薄れます。ただ精霊が見え続けている以上は、あなたに精霊の巫子となるべく修行を受けていただきたいのです」
髪を振り乱してギャン泣きするラティを言葉やお菓子で優しくなだめすかして、白髪の司祭は精霊の巫子とはどういうものなのかを滔々とラティに語る。
精霊の巫子は自然の中に満ちる小精霊と意思を通わせる特別な人間であり、小精霊の声を聞いて自然災害の予兆を察知したり、自然環境の変化などを把握したりする役目を担っている。精霊の巫子はその力を維持し善き方向に使うために、創造主たる神とその御子の精霊王を祀る精霊教会に属して日々の修行と奉仕で健全な心身を保つのだという。
「じゃあ、お父ちゃんやお母ちゃんとは離れて暮らさなきゃいけないの?」
「いずれはそうなります。ただ、今すぐではありません。あなたがもう少し大きくなるまでは故郷の教会で毎日の修行を行って、親元を離れてもよい歳になったらこちらで修行をする形になるでしょう。その後は十三まで巫子たる素質を失わないままでいれば、精霊の巫子として正式に認められ働くことになります」
ライ麦のクッキーをかじり粗茶を飲みながら尋ねるラティに、白髪の司祭は穏やかな声でそう答えた。おかわりは、と素朴なティーポットに手を伸ばす白髪の司祭にラティがコップを差し出せば、温かく湯気を立てる薬草茶がこぽこぽと注がれる。
「もちろん、年月と共に心身の健やかさを失い、精霊の巫子たる素質を失う者もいます。そうなれば巫子の任は解かれますし、十三になる前なら巫子にならず市井へ戻ることもできます。精霊を拒んだ子供が次第に精霊のことを忘れ、巫子となる資格を失った例はいくつかあります。あなたがどうしても巫子になりたくないのであればきっとそうなるのでしょうが、日々の修行と奉仕で得た経験と知識は失われずあなたの将来の糧になるでしょう。あなたにとっても悪いことばかりではありませんよ」
柔和に微笑む白髪の司祭に、ラティはさくりと音を立てて噛み締めたクッキーを咀嚼しながら視線を滑らせる。部屋の隅っこでは相変わらず二人の筋肉男が色んなポージングを取って戯れている。
「わかった。そういうことなら、やる」
決して筋肉男を精霊様と認めたわけではない。けれど絶対に教会に入る必要がなく、そのうちこの悪夢の筋肉男を忘れられるかもしれないのであれば別にラティに断る理由はなかった。実際のところは、断ったとしてもなんやかんやでなだめすかされて巫子の修行を受けさせられるのだと知ったのはだいぶ後だったのだけれど。
村に戻ったラティは、街の教会から派遣された青年助祭の下で修行をすることになった。
朝起きたらまず神と精霊王に祈りを捧げて、朝食を食べたら午前いっぱいは教会で読み書きや計算、精霊教の教義や精霊の伝承などの授業を受ける。午後は家に戻って昼食を食べ、家の手伝いをしたり友達と遊んだりして過ごす。夜は早めに床につくようにして、神と精霊王に祈りを捧げてから寝る。毎日それの繰り返しである。
「修行って、こんなんでいいんですか」
「いいのですよ。幼い頃から厳しい修行をしていては、かえって不健康になります。健やかな心と身体でいるために、今は目一杯友達と遊んで家族と過ごしなさい」
街から来た青年助祭ペクトラは精霊の巫子の先輩であるらしく、時に厳しく時に優しくラティを指導した。具体的には厳しさ四割優しさ六割といった具合で、ラティが度を超えたやんちゃをしたり授業を真面目に受けていなかったり精霊を「筋肉ハゲ」などと呼んだりした時は毅然と叱るか短くお説教をするが、基本的には穏やかな人だった。
「ペクトラ様も子供の頃からあれが見えてたんですか」
「そうですね。私も初めは驚きました。白い翼の生えた優美な姿を想像していたらああだったわけですから」
午前の授業も一段落し、粗末な木机を挟んで談笑するラティとペクトラのすぐ脇には四人の筋肉男がずらりと並んで四人四色のポージングを披露している。色味が微妙に異なる筋肉男がグラデーション状に並んで狭い室内にみちっと整列した姿は、さながらマッチョの虹のようだった。
「やっぱり、あたしみたいに教会に担ぎ込まれたんですか?」
「ええ。私はあの街で育ったので、連れて行かれたその日に素質を試されて……という流れでした。その後は教会で修行を受けて巫子になりました」
むんっ、むんっと次々にポージングをして汗を迸らせる筋肉の群れを意にも介さず、涼しい顔でペクトラが答える。精霊の巫子は貴重であるため、国内全ての教会にいるわけではない。ラティの村に元々いた司祭も助祭も精霊の巫子ではないから、巫子の指導ができるように街の教会からペクトラが派遣されたのだ。
「みんな幻滅するでしょうね、あんなのが見えたら」
「あんなの、はよしなさい。精霊の姿は自然の象徴であり、生命の力そのものです。自然が傷付き精霊が弱れば姿も痩せ衰えてしまいますから、健やかでたくましい姿をしているのは喜ばしいことなのですよ」
「健やか……」
ペクトラの言葉に、ラティの視線が壁際の筋肉グラデーション帯へ向く。ラティの修行は今のところペクトラの授業だけだが、もう少し大きくなったら肉体の鍛錬も兼ねた修行をすると聞かされていた。曰く、適度な運動によって培われた筋肉と体力は巫子の資質たる健やかな身体を保つのに大切なのだと。複雑な眼差しで筋肉展示会を見るラティの心情を察したのか、ペクトラはこほんと咳払いをして言った。
「心配しなくとも、あのような恵まれた身体つきになれる人間はほんの一握りですよ。生まれつきの体質に加え、厳しい節制と努力をして初めてあれだけの域に至れるのです。毎日課される修行だけでああはなりませんから安心して臨みなさい」
それから時が流れて、ラティは十一で街の教会に住まいを移した。初めての都会デビューに浮かれる気持ちもないではなかったが、巫子の修行を続けるうちにそんな浮ついた心も次第にしぼんでいった。
街の教会で課せられる修行は主に三つ。昔より難しい内容になった授業と、教会の雑務と、毎日の運動。屋内で座って頭を動かすだけの授業と掃除炊事に井戸からの水汲み、薪割りくらいの雑務はともかく、残りの運動はなかなか骨が折れた。
朝起きて祈りと朝食を済ませたら、身支度をして街外れの小高い丘にある小さな祭祀場までランニング。祭祀場に着いたら清掃の後に聖句を唱えながら瞑想をして、また街までランニング。これをよほどの悪天候や何らかの式典などがある日以外は毎日欠かさず行う。
教会まで戻ってきたら当然へとへとになっているので、初めは水は飲めても食事は喉を通らなかった。けれども慣れてくると運動した分お腹が減るので、自然ともりもり食べるようになる。ただ、教会の節制の教えは育ち盛りの食欲には少々厳しかった。
「出せる食事はこれっきりです。適度な食事は健やかな身体を作りますが、暴食は身体を蝕みますから。どうしても空腹が抑えられないのなら豆汁を飲みなさい」
腹ぺこなのでもっと食べたいと訴えるラティに、ペクトラは決まってそう言った。豆汁とは豆を挽いた粉を水か薄い麦汁に溶かした飲み物である。ざらついた喉越しで正直いまいちな味だが、腹にはよく溜まるし丈夫な身体の素になると評判の代物だ。
もっと肉が食いてえ、できれば焼いた肉が食いてえ、という欲求を仕方なく豆汁でごまかすラティだったが、実際のところそこまで巫子見習いの生活に不満があるわけでもなかった。教会での食事は健康のためにと肉も果物も出る。大抵は鹿や猪の肉、キイチゴなどを干したものだけれど、時々は串焼きや新鮮な果物も食べさせてもらえる。ただの村娘ではなかなかありつけないメニューだ。
お腹が空く、というのも毎日それなりの量の運動をこなしているからであり、決して食事の量が少ないわけではない。昔ラティとその家族が食べていた献立よりもボリュームはある。仮に突然ラティが精霊の巫子の資格を失って親元へ返されたら、きっと慎ましい食事に満足できなくてしょっちゅう空きっ腹を抱えることになるだろう。それを思えば、毎日の修行も視界の端にチラつく筋肉坊主もまあ許容はできた。
そうしてなあなあで過ごすうちに二年の時が流れ、ラティはとうとう十三になった。十三を迎えてもやっぱりご立派な筋肉共が見えていたラティは精霊の巫子に任命されることが決まり、近々叙階式があるから支度をなさいとペクトラに伝えられた。
叙階式は毎日ランニングで赴いていたあの小さな祭祀場で行われた。まずは地面に跪き、司教や助祭達と共に聖句を唱える。次に司教がラティの頭に手を添えて祈り、ラティの手に聖なる香油を塗る。そうしたら精霊の巫子の正装である白い法衣と金のストラに着替えて、心の中で精霊を讃える言葉を唱える。ラティは胸の前で手を組み、司教の後ろで肉体美を見せつける精霊に向けてしずしずと頭を垂れた。
——いいツヤ、いいキレ、いい笑顔。よっ、筋肉の大地主!
ラティの無言の賛辞を受け取ったのか、若干色白の短髪マッチョが白い歯を見せてポージングをする。飛び散る汗が光輪とならんばかりの、見事な捻り立ちだった。
精霊のリアクションにペクトラが頷き、それを見た司教が葡萄酒で満たした銀の杯をラティに差し出す。ラティは粛々とそれを受け取り、一気に飲み干したい気持ちを抑えてお上品に口をつけた。
こうして、ラティは新たな精霊の巫子となった。
正式に精霊の巫子と認められはしたが、生活に劇的な変化が訪れたわけではない。授業がなくなった代わりに雑務の時間が増えて、時々ペクトラの口頭抜き打ちテストと精霊の様子をお告げとして人に伝える機会があるくらいだ。
「ラティ、精霊は今どうしていますか?」
ペクトラの言葉に、ラティはちらと脇に視線を向ける。広い礼拝堂の隅では精霊が数人連れ立って、スクワットやら腕立て伏せやらでまばゆい汗を流している。それもただのスクワットや腕立て伏せではなく、足を大きく広げたスクワットと片手の親指を軸にして身体を支える腕立て伏せだ。負荷が違う。
「数人連れ立って、力比べなどをして戯れています」
「よろしい」
ラティの回答に、ペクトラが満足そうに頷く。
精霊の姿や行動をありのまま伝えてはいけない、というのが精霊の巫子に課せられた大原則だ。昔々に精霊を捕まえ意のままに操ろうとした悪人がいたから精霊はその姿を隠し、精霊の巫子を騙って人々を欺き世を乱した悪人がいたから精霊の真実の姿は伏せられることになったと授業で聞いた説話にはあったが、偽巫子というものは懲りずに度々歴史上に姿を現しているらしい。
「巫子だからって精霊を好き勝手できるわけでもないんですけどねえ」
「そこはそれ、よく知らないからこそ誇大妄想を抱くのでしょう。都合の良い話は熟れた果実と同じですぐさま食いつきたくなるものです」
「なるほど?」
ペクトラの例えにつられて、ラティは脳裏に新鮮な葡萄を思い浮かべる。偽巫子の気持ちはよくわからないが、なんとなく偽巫子に騙される人の気持ちは理解できる……ような気がした。
巫子さえ手中に収めれば何だってやり放題、周りも巫子の力を恐れて平伏するばかり、といううまい話はそれこそ食べ頃の葡萄と同じくらい魅力的だろう。ラティなら「食べていいよ」と葡萄を鼻先にぶら下げられたらノータイムで食いつく自信しかない。
自分がそうした利権だの権謀術数だのと無縁の世界の人間でよかったと内心安堵しながら、ラティは祈った。どうか抗いがたい誘惑を人の鼻先にぶら下げて回る悪人が現れませんように、と。
けれどもその祈りは、残念ながら神や精霊王には届かなかったようである。
ある時期から、「ハンドラー家のご令嬢が精霊の巫子であるらしい」という噂が流れ始めた。
曰く、何人もの精霊と心を通わせる大変に優秀な巫子で。精霊はご令嬢を想うあまり禁を破って大衆の前に姿を現し、恋人として彼女の側に侍っていて。歴史上類を見ないその才能によって精霊達の力を引き出し、如何なる奇跡も起こしてみせる、とか。日を追うごとに噂の中の巫子像はどんどん盛られ、誰かが針でつつかなくてもぱちんと割れてしまいそうなくらいに虚飾で膨れ上がっていた。
「盛られすぎじゃないですかね」
「嘘を指摘できる人間がいませんからね。あれよあれよと好き勝手に膨らんで、噂の当人も都合が良いから強くは否定しないのでしょう」
又聞きのハンドラー令嬢伝説を吟遊詩人の如く語る青年を冷めた目で一瞥して、ラティはペクトラと二人緩やかな足取りで街の大通りを歩く。日課のランニングの後の、クールダウンのひと時であった。
「教会は止めないんですか? ああいうの」
「止めますよ。ただ精霊との契りによって精霊の実情は伏せなければなりませんし、相手は高貴な方ですから頭ごなしに否定すれば角が立ちます。世が乱れる前に、スマートに穏便に手を引いていただこうとしているのでしょう」
「スマートに、ねえ」
そんなんできるのか? という生意気な疑問は飲み込んで、ラティは額を伝う汗を手の甲で拭った。一人芝居も交えながらハンドラー令嬢伝説を熱演する青年の周りには、暇を持て余しているらしい町民がわんさかと群がっている。時々ピイピイヒュウヒュウと指笛や拍手が飛ぶところからして、噂の真偽より見世物としての面白さに惹かれて集まっているのかもしれない。
精霊に関する多くの伝承は教会内でも厳重に秘匿されているため、世間に出回る精霊の話は「自然の力を司る」「精霊の巫子以外には姿は見えないし声も聞こえない」「基本的に精霊王と自然の摂理に従うだけで人間には従わない」くらいだ。しかし歴史上の偽巫子達はそれを逆手に取り、口先手先で巧みに民衆を騙して回ったのだという。
例えば「普通の巫子と違ってこの巫子は特別だから精霊にお願いを聞いてもらえるんだ!」などと言って手品や魔術で奇跡らしいものを起こしてみせれば、民衆はそんなもんかと信じてしまう。十分な否定材料がないから、じゃあ本当なのかもと思ってしまうのだ。
「精霊の詐称なんかしたら精霊王様がかんかんに怒ると思うんですけど、怖いものなしなんでしょうか」
「そこはそれ、説話にもあったでしょう。銅貨一枚をくすねて誰にも見咎められなかったら、このくらいなら大丈夫と何度も銅貨をくすねる。そのうち気が大きくなって、もっと大きい額を懐に入れる。そして帳簿に開いた大きな穴に誰かが気付いて、今まで盗んだ分の罰を受けるのですよ」
「あー、つまり感覚が麻痺してやらかすと」
「そういうことです。きっとこれまでも何かしら成功体験を積み重ねてきたのでしょうね」
ペクトラが例に出した説話は、ラティにとってある意味思い出深い代物だった。説話集に銅貨のピンハネ以外にも小さな見栄からどんどん虚飾が膨らんで最終的に痛い目を見るパターンの話があったから、「これ内容被ってません?」とペクトラに聞いてみたら「実質人間のやらかし大辞典だから類似例も記録されるんだよ、人間って何度も同じドジするアホだもん(意訳)」と言われたのはいい思い出だ。そんな歳を重ねるにつれて面白味と噛み応えが増していくキレキレの回答を出したペクトラを「おもしれーからこの人に一生ついていこうかな」とラティは密かに慕っているのだが、それはさておくとして。
はたしてペクトラの言葉通り、ハンドラー嬢が痛い目を見る機会はきっちり訪れた。ハンドラー家のお膝元であるハンドラー領マフィントップにて日照りが続き、水不足が懸念される状況に陥ったのである。
ハンドラー家はこの事態に対し「娘に懸想した小精霊達が娘の守護精霊と不和を起こしただけで、娘が鎮めるから問題ない」と喧伝したが、それに待ったをかけたのが王家だ。
「娘が元凶なら娘が仲裁したところで余計こじれかねない、領民のためにも速やかな解決をすべきである」と王命を下し、教会に認められた正式な精霊の巫子をハンドラー領へ派遣して大々的に秘蹟を行うことを確約させた。
ハンドラー領の比較的近所にいるから、という理由でペクトラもラティもハンドラー領に派遣され、噂のハンドラー伯爵令嬢ラヴィニアを直接拝む機会に恵まれた。
痴話喧嘩の仲裁、もとい小精霊の声を聞いて干ばつの原因を探るという名目の秘蹟の中心に据えられたラヴィニアは美しい純白のドレスに身を包み、四人の美青年を侍らせた姿で儀礼の場に現れた。
なんでも四人の美青年はそれぞれ火、水、風、土の精霊らしく、ラヴィニアの求めに応じて各属性の奇跡を起こすのだとか。赤髪の青年は火担当として、残る黒髪と銀髪と金髪の青年はどの属性担当なのか、黒土があるから黒髪が土担当なのかな、とラティが勝手に想像していたら彼らの名乗りにて黒髪が水、銀髪が風、金髪が土担当だと判明した。解せぬ。
「土といえば普通茶色じゃ……」
「そこはそれ、麦穂の色で豊穣の証だとかそういう理屈なのでしょう。見栄えがいい方が求心力が高まりますからね」
領民から喝采を受けるラヴィニアと四人の美青年を眺めながら、ラティとペクトラはひそひそと言葉を交わす。ラティの髪は焦茶色で、ペクトラは日陰だと茶髪にしか見えないダークブロンドだ。土属性に最も相応しいはずなのに見栄え重視で弾かれた髪色師弟として、二人は強い連帯感で結ばれていた。
「長く雨が降らず、皆不安に思っていることでしょう。ですが憂う必要はありません。わたくしが精霊達の怒りを鎮め、必ずやこの土地に雨を降らせてみせましょう」
ラヴィニアの演説に、領民が諸手を上げて歓声を送る。どうもこの土地ではラヴィニアは真なる精霊の巫子、稀代の聖女などと呼ばれているらしい。
幾重にも重なる「聖女様万歳」という声に、司教がえへんえへんと聞こえよがしに咳払いをした。真なる精霊の巫子という呼び名はそれ以外の巫子にパチモンのレッテルを貼るに等しく、聖女という称号も教会の認定なしに大っぴらに掲げるのは詐称だ。しかしそれをわかっているのかいないのか、ラヴィニアもハンドラー伯爵も騒ぐ観衆達をたしなめる気配は一向にない。
「このままでは儀式が始められません。静かにさせなさい」
えへんおほんと何度も咳をする司教を見かねて、王都より派遣された立会人がラヴィニアを注意することでようやく会場は静寂を取り戻した。司教の進行の下で儀式が始まり、会場に集った巫子と助祭達が聖句を唱える。巫子は助祭と列を組んで並び聖句の合唱をしていたが、ラヴィニアは美青年同伴の下その最前列に陣取って顔を伏せているようで。ラティの立ち位置からは後ろ姿しか見えないが、もしかすると祈るパフォーマンスをしているだけで聖句を唱えていないのでは……と勘繰るほどの堂々たる立ちっぷりだった。
聖句の詠唱が終わると、お次は精霊への祈りだ。ラヴィニアと四人の美男は変わらず観衆に近い最前列を独占していたが、司教の指示でそこへ並ぶ者が現れた。精霊教会が誇る正真正銘の当代最高の巫子、デルトイ司祭である。
「握手をいたしましょ、ハンドラー嬢」
デルトイの口調に、ラヴィニアがわずかに引いたような反応を見せる。具体的には、デルトイを避けるかの如くちょっと上半身を引いた。
デルトイはたくましい男性の身体にやわらかな乙女の魂を持つ御仁だ。しかもけっこうな筋肉フェチである。ラティ達も儀礼前に少しだけ言葉を交わす機会に恵まれたが、挨拶の直後に「あなたはどこの筋肉が好き? 私はねえ、前鋸筋よ」と質問された。働きの重要さに反し、バキバキに身体を仕上げて初めて目立つ奥ゆかしさがたまらないのだとか。ラティにはまだわからない領域だ。
ラヴィニアはデルトイの顔と差し出された手を交互に見やった後、端っこに控えるハンドラー伯爵に視線を向ける。娘の救難信号を受け取ったハンドラー伯爵が「何分嫁入り前の娘ですからみだりに男に触れさせるわけには」とやんわり断りを入れるが、司教は平坦な口調で答えた。
「デルトイは優れた巫子です。ハンドラー嬢も優れた巫子であるならば、互いに力を合わせることでより多くの精霊と心を通わせられるでしょう。あくまで儀礼上の接触ですので、乙女の貞節を汚すことにはならないかと」
これにはハンドラー伯爵もラヴィニア嬢もごねにごねたが、司教も「儀礼に必要なことです」と頑として譲らない。そこへ立会人も「必要なのだから早くするように」と司教に助太刀をし、儀礼の進行を妨げるのは王命に反するも同然ですよと脅し文句を告げたのでさしものハンドラー伯爵も折れざるを得なかった。
嫌々といった様子でデルトイと向かい合い、その手に指先をちょんと乗せたラヴィニアに、デルトイはいい笑顔でラヴィニアの指先を握り締める。逃さねえぞ、と言わんばかりのホールドにラヴィニアの表情が一瞬歪むが、すぐさますました乙女の顔に変わった。あらかじめ疑念を抱いていなければ、瞬きの間に見た錯覚と勘違いしてしまいそうなほど見事な変わり身だ。
「精霊よ、どうかわたくしの声を聞いて怒りを鎮めてくださいませ」
芝居がかった台詞を口にして天を仰ぐラヴィニアに対し、デルトイはただ静かに前を向いていた。民衆に向けたパフォーマンスが終わり、いつまでもデルトイが手を離さないことに苛立ったのかラヴィニアはついとデルトイに顔を向け、そこで絹を裂くような悲鳴を上げた。
ラヴィニアの悲鳴につられてラティも彼女の視線の先を見やり、「あー」と納得した。いつの間に現れたのか、無数の筋肉の群れがラティ達を取り巻いていたからである。
儀礼の場にひしめく筋肉達は坊主も短髪も男も女も勢揃いで、やや肌艶は悪く痩せているが皆一様にバキバキに仕上がったボディーを維持している。ラティが普段目にしている精霊よりいくらか控えめなボリュームの肉体でも、ラヴィニアが侍らせた華奢な美形と比べると十二分にご立派だ。
痩せているということは何か環境が悪化するようなことがあったのかな、とラティが内心首を傾げていると、すぐさま精霊がその疑問に答えた。カリカリに体脂肪を絞った肉体から発せられるお告げによると、ラヴィニアが侍らせた自称精霊イケメン軍団が奇跡と称して付け焼き刃の魔術を使いまくり、その度にばかすか魔力を吸い上げるのでこの地の魔力が薄くなってしまったのだという。
魔術とは、大気や物質に含まれる魔力、他者の体内魔力に自身の体内魔力で干渉し何らかの作用を起こす技能である。魔力操作の上手さ——俗に言う「魔術の才能」に恵まれた者はわずかな体内魔力の消費で大魔術を行使してみせるが、逆に才能に乏しい者はかなり体内魔力を使うはめになる。
しかし魔力に乏しい、あるいは魔力操作がヘタクソな人間にも光明はあって、鉱石や魔物の核に溜まった魔力で体内魔力を補いながら使う、ということができるらしい。
この応用として、自然に満ちる魔力を吸い上げて干渉用の魔力にする手法もあるが、使いすぎると土地の魔力が枯渇し痩せてしまうので推奨はされないと昔ペクトラの授業で聞いた。おそらくラヴィニアのなんちゃって精霊隊はこちらの方法で魔術を使ったのだろう。
どれだけ奇跡の大盤振る舞いをしたか知らないが、たった四人で領地の魔力を食い尽くすとはよっぽど魔術がヘタクソだったに違いない。ヘタクソ共のせいで迷惑を被ってかわいそうに、とラティが精霊に同情を寄せると、精霊は「まだ涸れるまでは行っていないし、彼らが魔術を使わなければおのずとこの地の魔力は回復するから大丈夫」と見事に割れた広背筋をラティに見せつけた。
「いや……なに、なんなの、これは」
明らかに様子がおかしいラヴィニアに、四人の精霊詐称イケメンブラザーズがどうした大丈夫かと詰め寄る。輝くばかりの美貌に囲まれたラヴィニアが口を開こうとすると、デルトイが笑顔で言葉を被せた。
「あら、ハンドラー嬢はそちらの方々以外の精霊にはあまり慣れていらっしゃらないのですね。ふふ、他の精霊の目にも入れたくないほど愛されていらっしゃるのでしょうか。素敵なことですわ」
デルトイの発言に、ラヴィニアの表情が恐怖から驚愕へ、そして嫌悪へと目まぐるしく変化する。ラヴィニアの指はとうにデルトイの手から離れていたが、それでもなお会場の四方に目を向けては怯える様子からして彼女の眼にはきっちりと精霊が映っているらしい。
デルトイが当代最高の巫子とされる理由は、卓越した魔術の才と潤沢な魔力、そして精霊王の恩寵にある。精霊王が特に心清らかなる者として認めた巫子には、精霊の姿を他人にも見せる奇跡の力が授けられる。この奇跡を行使すれば巫子でない人間もほんの少しの間だけ精霊を見ることができるが、その姿を公言することは精霊の力で封じられ、奇跡の効果が消えるにつれて具体的な記憶も薄れていく。最終的には「よく覚えてないけど精霊を見た」という認識だけが残るのだ。
これは古代に偽巫子を擁する暴君によって地上に惨禍がもたらされたことを嘆いた精霊王が二度と同じ悲劇が繰り返されぬよう与えた恩寵であり、偽巫子への強力なカウンターとなる。
「ちがう、違う、違うわ。わたくしの精霊は、こんな、こんな……」
「驚くのも仕方のないことですわ。ハンドラー嬢の守護精霊方はハンドラー嬢のために特別に人の身を得ていらっしゃるのでしょう? ですが、ありのままの精霊はああなのです」
パチモン精霊男の腕の中でくらりとよろめくラヴィニアに、デルトイがすかさずとどめの一言を見舞う。今にも口から泡を噴いて失神しそうなラヴィニアと何が起きたのか理解できずただ顔を青白くするハンドラー伯爵を交互に見やって、司教は静かに告げた。
「伯爵閣下とハンドラー嬢はどうも体調がすぐれない様子でいらっしゃる。しばし休まれたほうがよいでしょう」
司教がさっと手を挙げると会場の警備のために控えていた騎士の一人がハンドラー伯爵に歩み寄り、速やかにハンドラー伯爵を会場からはけさせる。その後を追うようにラヴィニアもばったもん精霊ズに抱えられて退場し、後には微妙な空気だけが残された。
「ハンドラー嬢は突然の体調不良でお休みされることとなりました。ハンドラー嬢に代わり、僭越ながら私が精霊の声を皆様にお伝えいたします」
ぱん、と戸惑う群衆に向けて手を打ち鳴らし、よく通る声でデルトイが宣言する。それでもざわめきはおさまらなかったが、デルトイは構わずたおやかな微笑みを浮かべて両手を掲げた。
すると天を向いたデルトイの掌から光の粒が立ち上り、雲ひとつなく晴れた空へ吸い込まれていく。群衆の困惑の声は次第に感嘆の声に変わり、誰もが息を呑んでその御業を見守った。
「奇跡だ」
儀礼の場に集った幾人もの民衆のうち、誰か一人がそう呟いた。ラヴィニアのように火種もなしに火を起こしたり、虚空から水を出したりしたわけではない。ただデルトイの膨大な体内魔力の一部を放出し、魔術で出した小さな光を纏わせながら大気に溶け込ませただけ。たったそれだけの簡素なパフォーマンスが、厳かに整えられた儀礼の場とデルトイの気品ある振る舞いによって神聖で麗しい奇跡に変わっていく。
「精霊の声を聞き取りました。決して怒っているわけではなく、ハンドラー嬢のお供の方々が力の源をいたずらに使ってしまったから雨を降らせる力がなかったと。数日もすれば精霊達も力を取り戻し、この地にも雨が降るでしょう」
デルトイの声に、わっと周囲から歓声が上がる。儀礼の場を覆い尽くす大歓声に、デルトイは静かに頭を下げて巫子達の列へ戻っていった。
少し前まではラヴィニアを呼んで讃えていた声は、今やデルトイへの賛辞と熱狂に塗り替えられていた。その熱は秘蹟の幕が閉じた後も引くことはなく、三日後にデルトイの言葉通り雨が降ったことでより強くなった。
それから数ヶ月後。ラヴィニアの周りにいた四人の守護精霊が詐欺師として捕らえられ、その口からハンドラー伯爵の関与が語られたことでハンドラー伯爵家が取り潰されてようやく、ラヴィニアの名はたちの悪いばったもんとして世間の口の端に上るようになったのである。
「あのお嬢様、今頃どうしてるんでしょうね」
「修道院で怯えて暮らしているそうですよ。おそらくまだ精霊が見えているのでしょう。デルトイ殿の奇跡の力には舌を巻くばかりです」
ずぞぞと豆汁を啜るラティに、ペクトラが豆の粉を木のスプーンで掬いながら答える。日課のランニングを終えて教会に戻り、昼食を食べた後の食休みのひと時であった。
風の噂によると、ラヴィニアはハンドラー伯爵家と伯爵家が属する派閥の主であるビアベリー侯爵家の企てについては全く知らず、父が雇った役者崩れの男達の小芝居に乗せられて自分は精霊の巫子だと思い込んでいたらしい。
イケメン精霊(偽)に囲まれて真の巫子だの聖女だのとちやほやされていた彼女にとって、自分がパチモンの巫子でしかも本物の精霊は汗臭そうなムキムキマッチョだという真実を突きつけられるのは何より辛い罰だったに違いない。精霊の巫子を騙るという重大な罪を犯したのは確かだが、何にも知らずに甘い夢だけ見せられてどん底に落とされるのはなんだかかわいそうだなあ、とラティはラヴィニアにちょっぴり同情していた。
「そういえば、デルトイ様へのお返事書きました? あんまり悩んでると次のお手紙来ちゃいますよ」
「もう少しで書き上がります。デルトイ殿もお忙しい方ですから筆まめとはいえそう頻繁に文はいただけませんよ」
そう答えながら豆汁用のコップに水を注ごうとして、水差しの軽さに気付いたらしいペクトラがむっと眉根を寄せる。ちょっとくらい水が足りなくてもいいや、というラティとは違いきっちり分量を決めて作る派のペクトラはやむなしという顔で水差し片手に部屋を出て行った。
偽巫子の騒動はハンドラー伯爵家とビアベリー侯爵家に破滅をもたらしたが、ラティとペクトラには小さな幸運をもたらした。デルトイとの親交である。
好きな筋肉の問いに「腹斜筋」と適当に答えたラティと「僧帽筋」と答えたペクトラをデルトイはいたく気に入ってくれたらしく、度々二人に手紙を送ってくれるようになった。流麗な文章を綴った便箋に季節の押し花を添えたデルトイの手紙は見ても読んでも楽しめる代物で、彼女と文を交わすのはラティにとって何よりの楽しみだった。
今度巡礼と観光も兼ねてうちの教会にいらっしゃい、というお誘いがあった時はラティは飛び上がらんばかりに喜んだが、ペクトラはいつになく皺の寄った顔で悩んでいた。ペクトラは馬車に慣れておらず、大変に車酔いを起こしやすいのだ。せっかくお招きにあずかったので行かねば失礼だが、馬車に揺られては戻し、宿で体調が良くなってはまた馬車に揺られて戻し、という苦難をどう乗り越えるか……と今も懊悩しているようなので、教会から出るわずかな給金で車酔いに効く薬でも買い込んであげようかなとラティは密かに考えていた。
ずぞ、と残り少なくなった豆汁をラティが飲み干した少し後で、ようやくペクトラは部屋に戻ってきた。水汲み場が少し混んでいたのかもしれない。ペクトラが使った後の水差しにしれっと手を伸ばすラティに、ペクトラは静かな声で告げた。
「水が少ないと気付いたら率先して注ぎに行きなさい。他者への思いやりも大切なことですよ」
どうやら、足りるか足りないかの分量を残して人に水汲みをしてもらうというラティの小技は師匠にはすっかりお見通しだったらしい。やっぱり師匠はすげーよなー、などと思いながら、ラティは「はーい」と気の抜けた返事を返した。
「わかればよろしい」
蓋をしたコップを振り始めるペクトラに少し遅れて、二杯目の粉と水を注いだラティもまた勢いよくコップを振る。ペクトラは手首のスナップを効かせた小洒落た振り方をするが、ラティは腕ごと上下に振る派だ。
じゃぽじゃぽと水音だけが響く室内で、壁際に立つ精霊達が次々にポージングを決める。豆汁はしっかり混ぜて作るとざらつきが抑えられて飲みやすくなるが、手を抜くと喉に引っかかって飲めたものではない。精霊の筋肉パフォーマンスは豆汁作り中の退屈しのぎにちょうどよかった。
十分に振り終えたかな、と思ってラティが蓋を開けると、だまになった粉がひとつふたつ水面に浮いていた。少し遅れて振る手を止めたペクトラのコップを覗いてみると、こちらは綺麗な水面をしていた。
「どうです師匠、たまには互いの作ったものを交換して飲んでみるというのは」
「飲みたければ自分で作りなさい。コツなら教えますよ」
下心丸出しの提案をすかさず一蹴されたラティを、室内に集った精霊達が笑う。喉の代わりにぴくぴくと胸筋を震わせる、たいへんにぎやかな笑い方だった。
元は不思議な言葉を話す妖精が見える女の子の話というネタでした。伝わる人には伝わる。たぶん。
なお作中の人名と地名は筋肉、贅肉が由来です。
・ラティ、ペクトラ、デルトイ→広背筋、胸筋、三角筋
・ラヴィニア・ハンドラー、マフィントップ、ビアベリー→お腹周りの贅肉、ビール腹
おかげでラティとラヴィニアという名前がなんか似てる人が並んでしまいました。ゆるして。
◆ラティ
村出身の巫子。食い意地が張っていて図太い、いい性格をした小娘。
少々よこしまな部分もなくはないが悪人ではなく人並みの域の人間なので精霊的にはセーフ判定。人並みに欲があるって人として健全じゃん(by精霊)
ペクトラのことをお師匠様と慕っているものの、恋愛感情はない。誠実でいい人だとは思うが夫にするならもうちょっとおおらかで細かいことを気にしない人がいいため。デルトイも女友達感覚でそっちの対象ではない。
容姿は中の中くらいでやや筋肉質。作者的には三白眼か四白眼のふてぶてしそうな顔のイメージ。
◆ペクトラ
街出身の巫子。ちょっと口うるさくて生真面目で、内心ではかなり毒を吐く人。口が悪い自覚があるので普段は意図して丁寧な口調でいるよう努めている。
豆汁はきっちり分量を決めてやや薄めに作る派で、振る時はバーテンダースタイル。ムラなくよく混ざりそうな方法を試行錯誤してこの流派に行き着いた。
ラティのことは手のかかる妹分という認識で、恋愛感情はない。生涯を神に捧げるつもりなので結婚する予定はないし、仮に伴侶を作るにしてももっと几帳面な人がいいため。
容姿はけっこう良い。が、ラヴィニアの愉快なお供達ほどではない。作者イメージは醤油顔的なあっさりした顔立ちの美形の細マッチョ。
◆デルトイ
山奥出身の巫子。鋼の肉体に花の乙女の魂を宿した人。博愛主義で精霊と人間はみんな大好き。恋愛的にも男も女もみんな好き。
趣味は園芸とお散歩。野に咲く季節の花を見るついでに山籠りしたりもする。博愛主義なので熊に出会っても威圧して逃がす。動物も大好きなのだ。
筋肉フェチでもあり、好きな筋肉を聞けばその人の人となりがだいたいわかるというのが持論。筋肉の好みより、答えた時の態度が重要らしい。適当とはいえ自分の知ってる中で印象に残ってるものを答えたラティと素直に好きなものをチョイスしたペクトラはめっちゃ気に入られた。
顔は濃ゆいがかなりの美形。昔は妖艶なくらい麗しい美少年として有名だったそう。現在はかなりの巨漢でゴリッとしたマッチョ。
◆ラヴィニア
ハンドラー伯爵令嬢。精霊の巫子を擁することでより権勢を強めようとしたビアベリー侯爵の企みに利用され、まんまと偽巫子に担ぎ上げられた。
ある日現れた精霊を名乗るイケメン軍団に囲まれ、さながら物語のヒロイン気分で我が世の春を謳歌したが、デルトイに精霊の真実を見せられショックで寝込む。おまけにビアベリー侯爵の奸計が明るみに出たことで実家は取り潰しになり、今は僻地の修道院に預けられてひっそり暮らしている。
巫子の詐称は重罪なので初めは両親ともども処刑される予定だったが、本人は何も知らなかったのだから…とデルトイが口添えしたことで表向きは死罪にした上で処刑を免れ、ただの平民の「ニア」として毎日の祈りと奉仕活動によって罪を償うよう命じられた。
そのうち奇跡が薄れればマッチョも見えなくなり、あの頃のわたくしって痛い子だったかも…と黒歴史に胃をキリキリさせながらも慎ましく平穏な生活を送ることだろう。
ちなみに、彼女を囲んでいたグッドルッキングうそんこ精霊ガイズは素行不良で劇団をクビになった役者の寄せ集め。奇跡のパフォーマンスのために魔術を仕込まれていたが、要領のいい火担当と小器用な水担当に対し風担当は魔力干渉がヘタクソを超えたゴミカスで、土担当は「土属性ぽくて簡単にできて見栄えいい派手なパフォーマンスてなんやねん」と悩んでしまったため火と水だけが奇跡芸をやり、風と土はなんか適当なことをぬかしてごまかしていた。
◆精霊教
創造神とその第一の御子の精霊王を信仰する宗教。
世間には美化した姿で広められているが、精霊王も大精霊も小精霊も皆マッチョ。
戒律はまあまあゆるい方で、肉食も飲酒も妻帯も許されている。やたらと健康に関する教えが多いのは、マッチョの精霊を見て「巫子としてこの体型に近付かねば!」と無茶な減量をした巫子やそれにならった敬虔な信徒達が体調を崩して亡くなる事例が多発し、このままではいかんと精霊王がお告げを出したためである。
精霊の巫子の資格は健康な心身と善性と精霊との魔力的な相性の総合点で決まり、俗っぽいラティが精霊の巫子でいるのは一応は真面目に日々のお勤めをしているのと精霊と相性がいいからである。
ちなみに、人間が使う魔法は精霊が引き起こす自然現象とほぼ同じメカニズムで、精霊が自らの髪の毛を媒介に天候を操る様を見て人間も同じ真似ができないかと試してみたのが魔法の起源と言われている。




