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スリップ効果

スリップ効果


 六月の雨が、古いアパートの窓を細かく叩いていた。


 午後三時。


 部屋の中にはインスタントコーヒーの香りが漂っている。


 真由美は湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら、パソコンの画面を見つめていた。


 画面には小説投稿サイトの管理ページ。


 最新話の閲覧数は、思ったほど伸びていなかった。


「また駄目か……」


 小さくつぶやく。


 白いTシャツに薄いグレーのカーディガン。部屋着のスウェット姿のまま、朝から机に向かっていた。


 窓の外では紫陽花が雨に濡れている。


 去年植えた青い花だった。


 その色だけが妙に鮮やかだった。


 通知音が鳴る。


 SNSだった。


 同じ投稿サイトで活動する知人のアカウント。


 新作がランキング入りしたという報告だった。


「おめでとうございます!」


「すごい!」


「書籍化確実ですね!」


 祝福の言葉が並んでいる。


 真由美は思わず画面を閉じた。


 胸が少し苦しくなる。


「いいなあ……」


 嫉妬だった。


 認めたくない感情だった。


 だが確かに存在していた。


 その夜。


 夕食はスーパーで買った半額の唐揚げ弁当だった。


 レンジで温めると醤油と生姜の香りが広がる。


 テレビではバラエティ番組が流れていたが内容は頭に入らない。


 真由美はスマホの代わりに使っている古いタブレットを見つめていた。


 ランキング上位作品。


 その作者。


 その感想欄。


 その評価。


 その数字。


 気になって仕方がない。


「見なきゃいいのに」


 そう思う。


 それでも見てしまう。


 そして落ち込む。


 さらに見る。


 また落ち込む。


 気がつけば深夜一時を過ぎていた。


 翌朝。


 寝不足のまま目を覚ます。


 頭が重い。


 目の奥が痛い。


「今日は書こう」


 そう決めてパソコンを開く。


 だが気づけばまたランキングを見ている。


 数字。


 順位。


 お気に入り数。


 感想数。


 比較。


 比較。


 比較。


 まるで底なし沼だった。


 夕方。


 ラジオ体操で知り合った七十代の女性、清水和子が訪ねてきた。


 家庭菜園で採れたきゅうりを持ってきてくれたのだ。


「真由美さん、いる?」


「はーい」


 ドアを開ける。


 和子は黄色いレインコートを脱ぎながら笑った。


「ほら、きゅうり。採れすぎちゃって」


「ありがとうございます」


「顔色悪いわね」


「そうですか?」


「悪い」


 即答だった。


 真由美は苦笑する。


 和子は勝手知ったる様子で部屋に入り込む。


「ちゃんと寝てる?」


「まあ……」


「寝てない顔」


 テーブルにきゅうりを置く。


 雨粒がぽたりと落ちた。


 和子は部屋を見回した。


 そしてパソコン画面を見て言った。


「また数字?」


 真由美は黙る。


「最近ずっと見てるでしょう」


「ちょっとだけです」


「その“ちょっとだけ”が曲者なのよ」


 和子は椅子に腰を下ろした。


「お酒やめた人の話聞いたことある?」


「あります」


「一杯だけ飲もうと思うんだって」


 和子は笑う。


「一杯だけなら平気って」


「はい」


「でもね。一杯で終わる人は最初から困ってないのよ」


 真由美は思わず吹き出した。


「確かに」


「人間ね。一回許すと二回目が楽になるの」


 和子は続けた。


「今日だけ。今回だけ。一回だけ。」


 窓の外で雨音が強くなる。


「そのうちそれが普通になる」


 真由美は黙った。


 心当たりがあった。


 最初は五分だけだった。


 ランキング確認。


 今は一日何時間も見ている。


「それをね」


 和子が言う。


「スリップ効果って呼ぶ人もいるらしいわよ」


 真由美は初めて聞く言葉だった。


「小さく滑ると、大きく転ぶ」


 和子はきゅうりを一本手に取った。


「でも逆もあるの」


「逆?」


「小さく立て直せば、大きく崩れない」


 その言葉が妙に胸に残った。


 翌朝。


 真由美は起きると最初にパソコンを開かなかった。


 代わりに窓を開けた。


 雨上がりだった。


 紫陽花が朝日に濡れて輝いている。


 鳥の声が聞こえた。


 湿った土の匂いがした。


 久しぶりに深呼吸する。


 朝食はトーストと目玉焼き。


 きゅうりのサラダ。


 シャキシャキという音が心地いい。


「今日は一時間だけ書こう」


 そう決めた。


 ランキングは見ない。


 感想も見ない。


 まず一時間。


 ただ書く。


 キーボードを叩く。


 主人公が歩く。


 泣く。


 笑う。


 恋をする。


 物語が動き始める。


 気づけば二時間経っていた。


「え?」


 時計を見る。


 久しぶりだった。


 時間を忘れて書いたのは。


 夕方。


 和子がまたやって来た。


「どう?」


「書けました」


「何時間?」


「二時間です」


 和子は満面の笑みを浮かべた。


「ほらね」


「何がです?」


「人間ってね」


 和子は言った。


「悪い癖も積み重なるけど、良い癖も積み重なるの」


 窓の外では雲の切れ間から夕日が差していた。


 紫陽花が金色に染まる。


 真由美はその光景を眺めた。


 順位は変わらないかもしれない。


 数字も増えないかもしれない。


 それでも。


 今日、自分は書いた。


 昨日より少しだけ前へ進んだ。


 それで十分な気がした。


「明日も書きます」


 真由美が言う。


 和子はうなずいた。


「うん。その一歩よ」


 夕焼けの光が部屋いっぱいに広がる。


 コーヒーの香り。


 雨上がりの風。


 机の上の原稿。


 そして小さな達成感。


 人生は案外、大きな決意ではなく、小さな積み重ねで変わるのかもしれない。


 真由美は新しい原稿ファイルを開いた。


 カーソルが静かに点滅している。


 まるで未来が、


「さあ、続きを書こう」


 そう語りかけているようだった。



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