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『見えない檻』

『見えない檻』


 雨が降っていた。


 十月の冷たい雨が、オフィスの窓を細い指で叩いている。


「だから、無理だって言ってるでしょう!」


 会議室に響いた声は、思った以上に鋭かった。


 発言したのは、入社八年目の営業企画主任、佐伯美咲だった。


 向かいに座る新人の高瀬悠斗が、びくりと肩を震わせた。


「でも、佐伯さん。まだ試してもいないじゃないですか」


「試さなくてもわかるの!」


「どうしてですか?」


「どうしてって……」


 美咲は言葉に詰まった。


 目の前の企画書には、赤い文字で大きく「新規顧客獲得プロジェクト」と書かれている。


 悠斗の提案は単純だった。


 長年続けてきた電話営業を縮小し、顧客同士の紹介を中心とした仕組みに変える。


 だが、美咲には無謀にしか見えなかった。


「営業っていうのはね、足で稼ぐものなの。電話して、断られて、それでも頭を下げる。そうやって信頼を作るのよ」


「でも、それは昔の成功体験ですよね?」


「昔?」


 美咲の胸に、熱いものが込み上げた。


「あなた、私の八年間を否定するつもり?」


「違います。僕はただ——」


「もういい!」


 美咲は企画書を閉じた。


 乾いた音が会議室に響く。


「この話は終わり。従来の方法で進めます」


 悠斗は唇を噛んだ。


「……わかりました」


 その声に含まれた失望を、美咲は聞かなかったことにした。


 いや、聞きたくなかった。


     *


「美咲、あなた最近、怖い顔してるわよ」


 その夜、駅前の小さな喫茶店で、大学時代の友人、理沙が言った。


 店内には深煎り珈琲の香りが漂い、古いスピーカーから静かなジャズが流れていた。


「怖い顔?」


「うん。誰かと戦ってるみたい」


「戦ってるわよ。毎日」


「誰と?」


「新人。上司。数字。時代の変化。全部」


 美咲はカップを持ち上げた。


 珈琲はもう冷めていた。


「最近の若い子って、何でも効率、効率でしょう? 努力する前から楽をしようとするの」


「その新人、本当に楽をしようとしてたの?」


「そうよ」


「何をしたの?」


「新しい営業方法を提案してきた」


「それって、楽をすることなの?」


「……え?」


 理沙は静かに首を傾げた。


「新しい方法を考えるのって、むしろ大変じゃない?」


 美咲は眉をひそめた。


「理沙まで、あの子の味方?」


「味方とか敵とか、そういう話じゃないでしょう」


「じゃあ何よ」


「美咲は、自分と違う意見を聞くと、すぐ攻撃されたと思うんだね」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


「そんなことない」


「本当に?」


「ないってば!」


 理沙は何も言わなかった。


 その沈黙が、美咲にはひどく腹立たしかった。


「……もう帰る」


「美咲」


「何?」


「あなたが守っているのは、会社のやり方? それとも、自分が間違っていなかったっていう証拠?」


 美咲の手が止まった。


 窓の向こうで、信号が赤に変わる。


「……意味わかんない」


 そう吐き捨てて、店を出た。


 けれど理沙の言葉は、雨粒のように何度も胸を叩いた。


     *


 三日後。


 営業部の月次報告会で、部長が険しい顔をしていた。


「佐伯君。今月も目標未達だ」


「申し訳ありません」


「電話件数は増えている。それなのに契約率は下がっている。どういうことだ?」


「市場環境が悪化しています」


「それだけか?」


「競合も増えていますし、顧客の購買意欲も——」


「佐伯君」


 部長が遮った。


「君はいつも、うまくいかない理由を外に探すね」


 美咲は顔を上げた。


「そんなつもりはありません」


「なら、なぜ方法を変えない?」


「今まで、この方法で成果を出してきました」


「今まで、だろう?」


 会議室が静まり返った。


 美咲は机の下で拳を握った。


 悔しかった。


 八年間、誰よりも早く出社した。


 誰よりも多く電話した。


 泣きながら帰った夜もあった。


 それでも続けてきた。


 その努力が、全部間違いだったと言われた気がした。


「……私のやってきたことは、無駄だったんですか」


 声が震えた。


 部長は少し驚いた顔をした。


「誰もそんなことは言っていない」


「でも、変えろって……」


「過去に正しかったことが、未来も正しいとは限らない。それだけだよ」


 美咲は俯いた。


 どうして誰も、わかってくれないのだろう。


     *


 その夜、会社に残っていたのは美咲と悠斗だけだった。


 時計は午後十時を回っていた。


 蛍光灯の白い光が、無人のデスクを照らしている。


「佐伯さん」


 悠斗が声をかけた。


「何?」


「これ、見てもらえませんか」


 差し出されたのは、営業データだった。


「また新しい企画?」


「いえ。過去五年間の実績です」


「……何が言いたいの?」


「電話営業の成約率、三年前からずっと下がっています」


「知ってるわ」


「でも、紹介経由の成約率は上がっているんです」


「偶然でしょう」


「三年間、毎四半期ですよ?」


「たまたま条件がよかったのよ」


 悠斗は黙った。


 そして、小さく息を吐いた。


「佐伯さん」


「何よ」


「僕がどんなデータを持ってきても、結論は変わらないんですか?」


 美咲は答えなかった。


「僕、佐伯さんに勝ちたいわけじゃないんです」


「……」


「一緒に成果を出したいだけなんです」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


 悠斗は続けた。


「僕が間違ってたら、ちゃんと認めます。でも、佐伯さんも、間違ってる可能性を少しだけ考えてくれませんか?」


「私が……間違ってる?」


「はい」


「簡単に言わないでよ」


 美咲の声が掠れた。


「あなたにはわからないわよ。八年間、信じてきたものを疑うのが、どれだけ怖いか」


 悠斗の表情が変わった。


「……怖いんですか?」


 美咲は息を呑んだ。


 言ってしまった。


 ずっと隠していた言葉だった。


「怖いわよ!」


 声が震えた。


「新しいやり方で成功したら、私が八年間やってきたことは何だったの? 苦労して、失敗して、それでも頑張って……それが全部、遠回りだったってことになるじゃない!」


 涙が頬を伝った。


「そんなの、認めたくない……!」


 悠斗はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「でも、佐伯さん」


「……何?」


「遠回りしたからこそ、見える景色もあるんじゃないですか」


 美咲は顔を上げた。


「僕には八年分の経験がありません。だから、佐伯さんが必要なんです」


「……私が?」


「はい。僕のアイデアだけじゃ、現場では失敗するかもしれません。でも佐伯さんなら、どこに問題があるか、わかるでしょう?」


 窓の外で、雨がやんでいた。


 濡れた道路に街灯が映り、金色の光が揺れている。


 美咲は長い間、その光を見つめていた。


     *


 翌週、美咲は理沙に電話をかけた。


「ねえ、理沙」


『どうしたの?』


「認知バイアスって、知ってる?」


『急に何?』


「自分に都合のいい情報ばかり集めたり、今までのやり方に固執したりすること」


『うん。確証バイアスとか、現状維持バイアスね』


「……私、それだったみたい」


 電話の向こうで、理沙が黙った。


「失敗したくなかったの。間違ってたって認めるのも嫌だった。だから、変わらない理由ばっかり探してた」


『そうだったんだ』


「でもね、もっと怖いことに気づいた」


『何?』


「自分が何を怖がっているのかさえ、わかってなかった」


 理沙が優しく笑った。


『心的制約っていうのかもしれないね』


「心的制約?」


『自分の中で勝手に作った、見えないルール。「こうしなきゃいけない」「これ以外は駄目」っていう思い込み』


「……見えないルール」


『そう。しかも、自分で作ったから、檻の中にいることにも気づかない』


 美咲は目を閉じた。


 思い当たることが、いくつもあった。


 努力は苦しくなければ価値がない。


 先輩は後輩より正しくなければならない。


 一度選んだ道を変えてはいけない。


 失敗したら、今までの自分まで否定される。


 誰に命令されたわけでもない。


 全部、自分で決めたことだった。


「ねえ、理沙」


『うん?』


「檻の扉って、どうやったら開くんだろう」


『まず、扉があるって気づくことじゃない?』


 美咲は小さく笑った。


「……そっか」


     *


 月曜日の朝。


 会議室に入った美咲は、悠斗の隣に座った。


「高瀬君」


「はい」


「先週の企画、もう一度説明してくれる?」


 悠斗が目を丸くした。


「えっ?」


「紹介営業の仕組み。私、ちゃんと聞いてなかったから」


「……いいんですか?」


「いいの」


 美咲は深く息を吸った。


「ただし、私も意見を言うわよ。現場の顧客心理については、あなたより詳しいつもりだから」


 悠斗の顔が明るくなった。


「もちろんです!」


「それと……」


「はい?」


「前に怒鳴って、ごめんなさい」


 悠斗は驚いたように瞬きをした。


 そして、照れくさそうに笑った。


「正直、めちゃくちゃ怖かったです」


「でしょうね」


「もう辞めようかと思いました」


「……そこまで?」


「はい」


 二人は顔を見合わせた。


 先に笑ったのは美咲だった。


 窓から朝日が差し込んでいた。


 昨夜の雨に洗われた街は、いつもより少し鮮やかに見えた。


「じゃあ、始めましょうか」


「はい!」


 悠斗がパソコンを開く。


 美咲も資料を広げた。


 もちろん、すべてがうまくいくとは限らない。


 新しい方法が失敗する可能性だってある。


 それでも、以前とは違う。


 失敗を恐れて、最初から可能性を閉ざすことは、もうしたくなかった。


「佐伯さん、一つ質問してもいいですか?」


「何?」


「どうして、考えを変えようと思ったんですか?」


 美咲は少し考えた。


 そして、微笑んだ。


「変えたんじゃないわ」


「え?」


「変わってもいいって、自分に許したの」


 悠斗は不思議そうな顔をした。


 美咲は窓の向こうを見た。


 空は高く、青かった。


 昨日まで世界を囲っていた壁は、まだどこかに残っているのかもしれない。


 人は簡単には変われない。


 一つの思い込みを手放しても、また別の思い込みを抱える。


 きっと、これからも間違える。


 怖くなって、古い考えにしがみつく日もあるだろう。


 けれど、そのときは自分に問いかけよう。


 ——それは事実?


 ——それとも、私が信じたいだけ?


 ——本当に、ほかの道はない?


「佐伯さん?」


「ん?」


「何か、楽しそうですね」


「そう?」


「はい」


 美咲は笑った。


「だって、八年も働いてきたのに、まだ知らないことがあるんだもの」


 そして、真っ白なノートの最初のページを開いた。


 そこには、まだ何も書かれていなかった。


 美咲はペンを握り、一行目にこう記した。


 『私の考えが、正しいとは限らない。』


 少し眺めてから、その下にもう一行、書き足した。


 『だからこそ、明日は今日と違う自分になれる。』


 窓の外で、風が吹いた。


 見えない檻の扉が、音もなく開いた気がした。


 美咲はもう、その中へ戻ろうとは思わなかった。


 ただ、開いた扉の向こうに何があるのかを、確かめてみたかった。


 その気持ちを、人は希望と呼ぶのかもしれない。


     ——終——



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