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『正しいはずの、間違い』 ――認知バイアスと常識推論が生んだ、小さな冤罪

『正しいはずの、間違い』

――認知バイアスと常識推論が生んだ、小さな冤罪


 雨の降る月曜日だった。


 駅前の商店街には、濡れたアスファルトの匂いが漂っていた。古びた喫茶店「木漏れ日」の窓を、細い雨粒が幾筋も伝っている。


「絶対に、あの人が犯人よ」


 店主の佐伯美智子は、カウンターに両手をついた。


 六十二歳。三十年間、この商店街で喫茶店を営んできた女性である。


 その向かいには、大学で心理学を教える息子の悠真が座っていた。


「母さん、どうしてそう思うの?」


「決まってるじゃない。昨日、店のお金がなくなったの。レジから三万円よ」


「それで?」


「昨日、閉店前に来たお客さんは三人。常連の田中さん、郵便局の山本さん、それから……」


 美智子は声を落とした。


「あの若い男」


「若い男?」


「黒いパーカーを着て、帽子を深くかぶっていたの。目も合わせないし、ずっとスマートフォンをいじっていたわ」


「それが?」


「怪しいじゃない!」


 悠真はコーヒーカップを置いた。


「母さん。黒い服を着て、目を合わせなかったら泥棒なの?」


「そういう意味じゃないわよ。でも、普通は挨拶くらいするでしょう?」


「普通って、誰の普通?」


「また始まった。大学の先生は、何でも難しく考えるんだから」


 美智子は不機嫌そうに布巾を絞った。


 窓の外では、傘を差した高校生たちが笑いながら走っていた。


 悠真は静かに尋ねた。


「母さん、その男の人がレジを触ったところを見た?」


「見てないわ」


「お金を持っていくところは?」


「それも見てない」


「じゃあ、どうして犯人だと?」


「だって、ほかの二人は昔から知っている人なのよ!」


 悠真は小さく息を吐いた。


「それが、認知バイアスなんだ」


「何よ、それ」


「自分が信じたいことに合う情報ばかり集めて、合わない情報を無視してしまう心の癖だよ」


「私は事実を見ているわ」


「本当に?」


 美智子は答えなかった。


 壁時計の秒針だけが、雨音の中で規則正しく響いていた。


     *


 午後三時。


 店の扉についた鈴が、からん、と鳴った。


「……あの」


 入ってきたのは、昨日の黒いパーカーの青年だった。


 美智子の表情が硬くなる。


「あら。何かご用?」


「昨日、ここに忘れ物をしたかもしれなくて」


「忘れ物?」


「青い手帳です」


 青年は帽子を取った。


 二十歳くらいだろうか。頬はこけ、目の下には濃い隈があった。


「名前は?」


「小野寺、蓮です」


「あなた、昨日は何をしていたの?」


「え?」


「ずっとスマートフォンを見ていたでしょう」


「……はい」


「何を見ていたの?」


 青年は困惑したように視線を落とした。


「それは……」


「答えられないの?」


「母さん」


 悠真が間に入った。


「ちょっと待って」


「だって、この人……」


「何かあったんですか?」


 蓮の声が震えた。


 美智子は腕を組んだ。


「昨日、店のお金がなくなったのよ」


 青年の顔から血の気が引いた。


「……僕を疑っているんですか?」


「疑っているというか、確認しているの」


「僕、何もしていません」


「でも、昨日あなた、レジの近くにいたでしょう」


「お会計をしたからです」


「それはそうだけど……」


 蓮は唇を噛んだ。


「もう、いいです」


 そう言って背を向けた。


 その瞬間、悠真が声をかけた。


「小野寺さん。手帳、探しましょう」


 蓮の足が止まった。


「……いいんですか?」


「もちろん。忘れ物を探すのは普通のことですから」


 悠真は少し笑った。


「僕の普通では、ね」


     *


 三人で店内を探した。


 椅子の下。窓際の棚。新聞ラックの裏。


 やがて悠真が、観葉植物の鉢の陰から青い手帳を見つけた。


「あった」


「あ……ありがとうございます」


 蓮は両手で受け取った。


 表紙には、小さな猫のシールが貼られていた。


「かわいい手帳ね」


 美智子が思わず口にすると、青年は少しだけ笑った。


「母のものなんです」


「お母さんの?」


「はい。先月、亡くなりました」


 店内が静まり返った。


 雨が窓を叩く音だけが聞こえる。


「母は、この店が好きだったんです」


 蓮は手帳を胸に抱いた。


「僕が小さいころ、よく連れてきてくれました。クリームソーダを頼むと、母はいつも『さくらんぼは最後に食べなさい』って」


 美智子の目が大きく開いた。


「……もしかして、あなた」


「覚えていないと思います。十五年くらい前ですから」


 蓮は寂しそうに笑った。


「昨日は母の誕生日だったんです。それで、久しぶりに来ました」


「スマートフォンを見ていたのは……?」


「母とのメッセージです」


 青年は画面を見せた。


 そこには、何年も前から続く短い会話が並んでいた。


『今日はちゃんと食べた?』


『野菜も食べなさいよ』


『寒いから風邪ひかないでね』


 最後のメッセージは、三か月前だった。


『蓮、生まれてきてくれてありがとう』


 美智子の喉が詰まった。


「……ごめんなさい」


 蓮は首を振った。


「いいんです。僕、昔から目つきが悪いって言われるので」


「そんなこと……」


「慣れています」


 その言葉が、美智子の胸に深く刺さった。


 慣れている。


 何度、同じような目で見られてきたのだろう。


 何度、何もしていないのに疑われてきたのだろう。


 美智子は、何も言えなかった。


     *


 その夜。


 閉店後の店内で、美智子はレジの帳簿を調べ直していた。


「……あれ?」


 昨日の日付の横に、赤い文字があった。


『仕入れ代 三万円。現金払い』


 美智子は固まった。


「あ……」


 昨日の朝、急に故障した冷蔵庫の修理代を、レジの現金から支払っていた。


 忙しさのあまり、そのことを忘れていたのだ。


 お金は盗まれていなかった。


 そもそも、事件など起きていなかった。


「私……何をしていたの」


 美智子は椅子に崩れ落ちた。


 悠真が帳簿をのぞき込む。


「見つかった?」


「……うん」


「よかったね」


「よくないわよ!」


 突然、美智子の声が響いた。


「全然、よくない!」


 目から涙がこぼれた。


「私は、あの子を泥棒扱いしたのよ!」


 悠真は黙っていた。


「黒い服を着ていたから。目を合わせなかったから。知らない人だったから。それだけで……」


 美智子は顔を覆った。


「私は自分が正しいと思っていたの」


 悠真は隣に座った。


「母さん。人間は、見たものをそのまま理解しているわけじゃないんだ」


「……どういうこと?」


「脳は、足りない情報を過去の経験や常識で補っている。これを常識推論と呼ぶことがある」


「常識……」


「例えば、雨の日に傘を持っている人を見れば、雨を避けるためだと思うよね。でも、傘を誰かに届ける途中かもしれない」


「……うん」


「黒い服を着て、目を合わせない人を見たとき、母さんは『怪しい人だ』と推論した。でも本当は、悲しくて誰とも目を合わせられなかった」


 美智子は唇を震わせた。


「じゃあ、常識って間違っているの?」


「常識そのものが悪いわけじゃない。限られた情報から素早く判断するためには必要なんだ」


「それなら……」


「ただ、推論は事実じゃない。そこを忘れると、人を傷つける」


 悠真は窓の外を見た。


「そして一度『あの人は怪しい』と思うと、その人の行動が全部怪しく見えてしまう。これが確証バイアスだよ」


「……怖いわね」


「うん。僕だって、きっと何度も間違えている」


 悠真は母の肩に手を置いた。


「だから、間違えない人間になるより、間違いに気づいたら認められる人間でいたいんだ」


     *


 翌日の夕方。


 美智子は店の前で蓮を待っていた。


 何度も時計を見た。


 何度も、謝罪の言葉を練習した。


 午後五時を過ぎたころ、通りの向こうに黒いパーカーが見えた。


「小野寺さん!」


 青年が振り返る。


「……あ、昨日の」


 美智子は駆け寄った。


 そして、深く頭を下げた。


「ごめんなさい!」


「え?」


「お金は盗まれていなかったの。私が使ったことを忘れていたのよ」


 蓮は目を見開いた。


「……そうだったんですか」


「あなたを疑った理由なんて、何ひとつなかった」


 美智子の声が震えた。


「本当に、ごめんなさい」


 しばらく沈黙が続いた。


 通りを自転車が走り抜け、夕暮れの風が二人の間を吹いた。


 やがて蓮が口を開いた。


「……正直、悲しかったです」


「ええ」


「母と来た思い出の店だったから」


「……ええ」


「でも、謝ってくれて、少しうれしいです」


 美智子は顔を上げた。


 蓮はぎこちなく微笑んでいた。


「また、来てもいいですか?」


 美智子の目から、涙があふれた。


「もちろんよ!」


 彼女は涙を拭いながら笑った。


「クリームソーダ、作らせてちょうだい」


「……ありがとうございます」


「さくらんぼは、最後に食べるんでしょう?」


 蓮は驚いた顔をした。


 そして、今度は声を出して笑った。


「はい。母との約束なので」


     *


 一週間後。


 喫茶店「木漏れ日」のカウンターには、小さな紙が貼られていた。


『あなたが見たものは、事実ですか。それとも、あなたが考えた物語ですか。』


 常連の田中が、それを読んで首をかしげた。


「美智子さん、これ、どういう意味?」


 美智子はコーヒーを注ぎながら笑った。


「人間ってね、知らないことまで知っているつもりになるのよ」


「ほう?」


「例えば田中さん、私が今日、機嫌がいい理由、わかる?」


「そりゃ、売上がよかったんだろう?」


「残念!」


「じゃあ、息子さんにいいことがあった?」


「それも違うわ」


「なんだい。教えてくれよ」


 美智子は窓際の席を見た。


 そこには、黒いパーカーの青年が座っていた。


 青い手帳を開き、クリームソーダを飲みながら、静かに笑っている。


「大切なお客さんが、また来てくれたからよ」


 田中は振り返った。


「ああ、あの若い子か。ちょっと怖そうだな」


 美智子は微笑んだ。


「田中さん」


「なんだい?」


「それ、事実?」


「……え?」


「それとも、あなたが勝手に考えた物語?」


 田中はしばらく黙り、それから照れくさそうに笑った。


「一本取られたな」


 窓の外では、秋の陽光が濡れた街路樹を照らしていた。


 葉の一枚一枚が、金色に輝いている。


 美智子は思った。


 人間は、世界をありのままに見ているつもりでいる。


 けれど実際には、自分の経験という色眼鏡を通して眺めているのかもしれない。


 常識は、暗い道を歩くための灯りになる。


 しかし、その灯りが照らしていない場所に、何もないとは限らない。


 そして、自分の正しさを疑うことは、決して弱さではない。


 誰かを理解しようとする、最初の勇気なのだ。


「おかわり、いかがですか?」


 美智子が尋ねると、蓮は顔を上げた。


「じゃあ、もう一杯お願いします」


「クリームソーダ?」


「いえ、今日はコーヒーで」


「あら、大人になったのね」


 蓮は少し考えてから言った。


「でも、さくらんぼは欲しいです」


 二人は笑った。


 喫茶店の窓から差し込む夕陽が、二つの笑顔をやさしく包んだ。


 人は誰でも、間違える。


 見た目で決めつける。


 経験から勝手に結論を出す。


 自分に都合のよい証拠ばかりを集める。


 それでも、人は変われる。


 たった一つの問いを、自分に向けることができれば。


 ――私は、本当にこの人を知っているのだろうか。


 秋風が扉の鈴を揺らした。


 からん、と澄んだ音が響く。


 美智子は、今度こそ先入観のない笑顔で、新しい客を迎えた。


「いらっしゃいませ」


 その声は、昨日までより少しだけ、温かかった。


――完――



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