昭和という狂った時代の落としもの
昭和の末期から平成の最初は、今からは想像もつかないほどめちゃくちゃな時代であった。
テレビのCMでは子供の裸が平然と流れ、本屋の棚には「13歳」と年齢を大書きした少女の全裸写真集が恥ずかしげもなく並んでいた。
町内の薬局では、風邪薬や湿布の隣に、ショーケースに入ってディルドやバイブレーターが当たり前の顔をして陳列されており、町はずれの怪しげな店では半ば公然とモザイクのない裏ビデオが売られていた。
今ならSNSで即座に炎上し、翌日には閉店まったなしであろう。
しかし当時は、それらが「日常の風景」として、誰に咎められることもなく、町のそこかしこに堂々と存在していたのである。
そういうカオスの時代の空気の中で、自分たちは育った。
自分たちが子供の頃、小学校のグランドの隅にある「体育倉庫の中」という場所は、陽の当たらない、湿った静寂が支配する特別な場所であった。
そこには、使い古された石灰の袋や、首の折れたハードル、そして誰がいつ捨てたのかもわからないガラクタが山積みにされていた。
子供の自分たちにとって、そこは格好の冒険の舞台であったが、ある日自分たちが目撃したものは、冒険の戦利品と呼ぶにはあまりに不吉で、あまりに場違いな「落とし物」であった。
ガラクタの山に混じってそれは転がっていた。子供用のショーツと、ブラジャーである。
今、大人になって冷静に思い返せば、それは背筋が凍るような光景であった。
ショーツは赤黒い血と黄色いシミがついており、ブラジャーもちぎれ一枚の布と化し留め金は猛烈な力で引きちぎられたように伸びきっていた。
周囲には、血のついたティッシュが汚らしく散乱していた。
しかし、当時の自分たちの反応といえば、呆れるほどにのんきなものであった。
「あらら、誰かひどい鼻血でも出したのかねぇ」
「転んでココで大怪我でもしたのかな。派手にやったねぇ」
自分たちは、その生々しい残骸を前にして、その程度の認識しか持っていなかった。
破れた下着も、引きちぎられた留め金も、子供の無垢なフィルターを通せば「ちょっと激しい怪我の跡」くらいにしか映らなかった。
その奥に潜む大人のドロリとした悪意や、誰かの悲鳴など、一ミリも想像しなかったのである。
思えば、あの頃の朝礼でも、校長先生が神妙な顔つきで壇上に立ち、
「先日、本校の女子児童が乱暴される事件がありました」
と、全校生徒に向けて注意を促したことがあった。
しかし、自分にはその言葉の意味が、半分も届いていなかった。
「乱暴される」とは、すなわち通りがかりに誰かに殴られたり、突き飛ばされたりすることだろう——その程度の理解で、自分はただぼんやりと校長先生の顔を眺めていたのである。
教室に戻ってからも、その話題はしばらくクラスの中でくすぶっていた。
しかし、「乱暴された」という言葉の正確な意味を把握している子は、ほとんどいなかった。
男子の反応は特にのんきなものであった。「ぜってー不良だろ、そいつ」「カツアゲじゃね?」「俺だったら逃げ切れるけどな」などと、まるで冒険活劇の話でもするような調子で盛り上がっていた。
乱暴された、という言葉を、彼らは完全に「喧嘩で袋叩きにされた」と解釈していたのである。
中には「女子なのに生意気なことしたんじゃないの、それで集団でタコにされたんじゃね?」などと言い出す子まで現れ、その場はなんとなくそういう話として着地していった。
被害者への想像力など、欠片もなかった。いや、正確には、想像すべき「何か」がそこにあるとすら、男子は誰も思っていなかったのだ。
女子の反応はといえば、男子ほど賑やかではなかったが、「怖いね」「気をつけなきゃ」と、どこか言葉を選ぶような、少し歯切れの悪い反応をする子が多かった。
もしかすると、女子の中には言葉の意味をぼんやりと感じ取っていた子もいたのかもしれない。
しかし、それを正確に言語化できるほどの知識も、口にする勇気も、当時の小学生には持ちようがなかった。
そして、その数日前から突然静かに学校へ来なくなった娘が一人いた。
でも、誰もそのことを、朝礼の話と結びつけなかった。「風邪かな」「どこか悪いのかな」と、それだけのことであった。
ただ、クラスに一人か二人、ませた子というのはどこにでもいるもので、そういう子だけが、その言葉の持つ本当の意味を正確に飲み込んでいたようだ。
彼女たちは男子の盛り上がりにも加わらず、女子の曖昧な相槌にも乗らず、ただひっそりと顔を曇らせて黙っていた。
そしてその子が来なくなったことにも、ませた子だけが、何も言わずに気づいていたのかもしれない。 その沈黙の重さに、当時の自分は気づくことすらなかった。
知識がなければ、言葉はいくら正確でも、子供の耳をするりと素通りしていく。
今にして思えば、あの朝礼の言葉と、倉庫裏の残骸は、同じ一つの出来事を指し示していたのかもしれない。
その夜、夕食の席で、自分はなんの気なしにその話を持ち出した。
「今日ね、校長先生が朝礼で、女子児童が乱暴されたって言ってたよ」と、おかずをつつきながら、学校での出来事を報告するような気軽さで口にしたのである。
その瞬間、茶の間の空気が、音もなく凍りついた。父も母も、箸を持ったまま一瞬動きを止め、互いに表情を固めた。
何かを言いかけて言葉を飲み込む気まずい沈黙が卓袱台の上にじんわりと広がった。
そして、地獄のようにその重苦しい空気を破ったのは、テレビから流れてきたドリフターズのコントであった。
どっと笑い声が響いた瞬間、親たちはその波に乗るようにして話題を変え、夕食はなんとなくいつもの賑やかさを取り戻した。
しかし自分は、あの一瞬の凍りつきをしっかりと覚えていた。
子供ながらに、はっきりと悟ったのである。——これは、口にしてはいけない話だ、と。理由はわからない。ただ、大人の顔が曇るこの話題には、自分の知らない何かが深く潜んでいる。その輪郭だけを、肌で感じ取ったのである。
そして、女子児童が乱暴されたという話は二度と話題に上る事はなかった。
そのような事件、今の時代なら、即座に現場一帯が封鎖され、鑑識が走り回り、ワイドショーで連日特番が組まれるような大事件の証拠品である。
だが、驚くべきことに、そんな惨劇の残骸すらも、当時は「空き地のゴミ」と同じくらいの軽さで放置されていた。
事実、町内会の掃除の集まりなどでは、おばさんたちが軍手をはめた手で、「あそこの家のお嬢さんがねぇ……」などと、まるで明日の天気予報でも話すような軽さでひそひそと言葉を交わしていた。
当時の情報の管理というものは、驚くほど「ザル」であった。
町内に一軒しかない産婦人科は、医療機関というよりは「町内放送の局」のような役割を果たしていた。誰かがそこへ入っていくのを見た瞬間に情報が漏れ出し、夕飯のおかずが並ぶ頃には「あそこの娘さんが、どうやら……」という話が、尾ひれをつけて町中を一周しているのだ。
月に幾度も繰り返されるかと思わせるほどの頻度で起きる忌まわしい事件も、誰かが泣き寝入りし、大人がそれを無神経な噂話として消費する。
そんな闇が、小学校の倉庫という、自分たちのすぐそばに露出していたのである。
自分たちは、「鼻血なら保健室に行けばよかったのにね」などと言い合いながら、そのまま校庭へと走っていった。深淵を覗き込むには、自分たちはあまりに無知であり、そして当時の社会は、そんな闇を「日常」として平然と飲み込んでしまうほどに、残酷なまでに図太かった。
今の整然とした小学校を見つめるたびに、自分の脳裏には、あの倉庫に落ちていた「血と黄色い何かがついたショーツ」が、鈍い光を放ちながら蘇る。
それは、誰も助けてくれなかった誰かの悲鳴が、昭和という時代のザルな情報網と、自分たちの無邪気な勘違いの中に吸い込まれて消えていった——あの時代の、乾いた記憶そのものなのである。
そして今、もう一つのことに気づく。
自分がここでこうして筆を執っていられるのは、自分が賢かったからでも、用心深かったからでもない。ただ、運が良かっただけだ。
あの倉庫の裏に残されたのが、他の誰かであったというだけのことである。たまたま別の道を歩いていた、たまたま少し早く帰っていた、たまたま一人でいる時間が短かった——そのわずかな偶然の積み重ねが、自分をこちら側に置いたにすぎない。
もしかしたら、あそこにいたのは自分だったかもしれない。
今なら、現場は即座に封鎖され、警察と児相が動き、鑑識が走り、支援の手が差し伸べられる。だが、 子供の口には蓋ができず、善意の注意喚起はたちまち噂となり、近所の目が一斉に集まる。
知られる恐怖は、時代が変わっても消えない。支援の仕組みが進んだ分、家族は「動かすか、隠すか」という新たな選択を強いられるようになった。
その事実を、大人になった今、自分は静かに、しかし確かに受け止めている




