君の声が聞こえた夜
仙台市内から北へ電車で十五分。泉台ヶ丘駅に降り立つと、冬はいつも和泉山おろしが吹きつける。頬を刺すような冷たい風に肩をすくめながら、徳井佑二郎はコートの襟を立てた。五年前に仙台市と合併して以来、かつて「カエルの鳴く街」と呼ばれたこの町は、モダンな住宅地へと姿を変えた。茅葺き屋根の家々は消え、かわりに灰色のマンションが並んでいる。
駅のエスカレーターに乗ると、今日も人々はばらばらに立っていた。東京のように右を空ける秩序はない。前の人に倣って立つ――それが仙台流だ。東北から集まった人々がつくり上げた「のんびりとした風景」の中に身を置きながら、佑二郎は心の中でつぶやく。
――のんびり行こうぜ、人生は。
定年を過ぎてもなお、嘱託として会社に通う毎日。かつては部下だった青年が、いまは上司になっている。最初の数日は「徳井さん」と呼んでいたが、すぐに「徳井君」に戻った。周囲の目を気にする小心な男なのだろう。そんなことは百も承知だが、佑二郎にとって会社はまだ「生きている証」だった。
家の玄関のドアを開ければ、そこは別世界になる。節子の声が洪水のように押し寄せてくるのだ。
「だってしょうがないでしょ。一日中、誰とも話さないんだから」
時に耳を塞ぎたくなる夜もあるが、その賑やかさが家の匂いでもあった。
いまの節子の趣味はクーポン集めである。台所の引き出しには、色とりどりの割引券がきちんと仕分けられて並んでいた。
「この店は肉が安いけど魚は高いの。あっちのスーパーは大根は安いけど、ネギと白菜は高いのよ」
目を輝かせる妻を眺めながら、佑二郎は心の奥で小さく笑った。
雪国の寒風が吹き荒れても、この家の中は不思議と温かい。平凡で、退屈で、ありふれた夫婦。けれどもその日常のひとつひとつが、二人のささやかな物語を紡いでいた。
徳井佑二郎の出身は仙台、節子は宮城郡。どちらも宮城の生まれである。大きな病気もなく、大きな争いもなく、ただ穏やかに暮らしてきた。見ようによっては、何の変哲もない仲良し夫婦だった。
節子はよく言う。
「貯金がなくても、私たち大金持ちよね」
子宝には恵まれなかったが、お互い健康体で病院にお金を収めなくていい。それだけで十分だと彼女は言う。楽天的な妻に比べ、佑二郎は石橋を叩いて渡る性格だった。
結婚当初、財布の紐は節子が握っていた。しかし無計画な買い物や突発的な旅行で貯金が尽き、佑二郎が激怒したことがある。
「貯金がなかったら、もし何かあったらどうするんだ」
「もしものために保険に入ってるんだから大丈夫よ。それに、もしものために今を我慢するなんておかしいわ」
笑いながらそう言われ、言葉を失ったのを覚えている。それ以来、財布の管理は彼に移り、どれほど貯金があるのか節子には知らせていない。
たまに節子は尋ねる。
「ねぇ、今どれくらい貯金あるの」
佑二郎は苦笑して答えるのが常だった。
「それを聞いてどうするんだ」
毎夕六時、佑二郎は泉台ヶ丘駅前の赤い公衆電話から自宅へ電話を入れる。家の古時計が時折止まってしまうからだ。五回だけ鳴らして切る――それが合図だった。受話器を取らない節子も心得ている。十円が落ちるのはもったいないからだ。
合図を受け取った節子は駅に向かい、二人は途中の西宮公園を三周する。色あせた木のベンチに並んで座れば、節子の口は自然と動き出す。
「だから、どう思う?」
問いかけに、佑二郎はうなずきながら言葉を濁す。まともに受け止めていたら頭がおかしくなる――そう思うからこそ聞き流す。それが二人の夫婦生活の知恵だった。
やがて、祐二郎が話題を切り替える。
「ところで、晩飯は? 肉か、魚か、鍋か」
むっとしながらも節子は口元を緩めた。夕暮れの公園に、二人の声がいつまでも響いていた。
そして、ある冬の朝。台所から節子の慌ただしい声が飛んできた。
「大変、大変!」
居間から顔をのぞかせると、鍋がぐらぐらと沸き立つ中、節子は立ち尽くしていた。
「味噌が切れてたの」
短い言葉に、佑二郎はため息をつく。
たかが味噌、されど味噌。節子にとって味噌汁は一日の始まりを告げる合図だった。なくてはならない習慣である。彼女はコートも着ず、エプロン姿のまま外へ飛び出していった。
数分後、赤い頬で戻ってきた手には、近所から借りてきた味噌のパック。声はどこか誇らしげだった。
「ほら、これで大丈夫」
やがて台所に立ちのぼる香りは、すぐに家全体を包み込んだ。湯気の向こうで嬉しそうに微笑む節子を眺めながら、佑二郎は胸の奥で小さくつぶやいた。
――こういう些細な事件があるから、退屈な日々も愛おしいんだ。
節子は出不精だった。できれば歩きたくない。うどの大木のようにごろごろするのが好きなのだ。それを佑二郎は見抜いていた。だからこそ、毎夕の電話の合図は半ば強制でもあり、二人を外へ連れ出す習慣でもあった。季節を感じながら、時に手をつなぎ、歩く。要は散歩に過ぎないが、それが二人の日々を繋ぐ糸だった。
天気の悪い日は合図はない。それでも節子は、五時半になると傘を手に家を出て、泉台ヶ丘駅で祐二郎を待つ。そのまま一緒に帰るだけ。西宮公園を回ることはない。傘越しに見る祐二郎の背中を追いながら、家へ戻るのだ。
家に着くと、いつものやり取りが始まる。
「先にお風呂入ってきて」
そう言う節子に背を押され、佑二郎は素直に浴室へ。
風呂は昨日の湯を温め直したものだった。だが湯気は立ちのぼり、温泉の素の香りが漂う。
「一番風呂は気持ちいいな」
湯船につかりながら声をあげる夫に、節子は台所から笑い混じりの声を返す。
「昨日の湯なのにね」
しばらくして佑二郎が浴室から出てきた。
「いい湯だった。……ところで着替えはどこだ?なんで出してくれてないんだ」
「何度言ったらわかるのかしら。右のボックスに入っているわよ」
引き出しを開けた佑二郎は、顔をしかめた。
「なんだ、このでかいパンツは。はけないぞ」
「それ、わたしのパンツでしょ。どこ見てるのよ」
笑い声が家の中に響く。
ふいに、佑二郎の顔が青ざめた。
「節子、大変だ。五万円もする腕時計を落とした。確かにあったはずなのに、ない」
必死に周囲を見回す夫に、節子は静かに言った。
「その右手首についているのは、何かしら」
佑二郎はぽかんと手元を見下ろした。いつも左腕にしている時計が、なぜか右手に巻かれていた。
「……どうして右にしてたんだろうな」
気まずそうにつぶやく夫を見て、節子は肩を揺らして笑った。
近頃、佑二郎からはすっかり「亭主の威厳」というものが抜け落ちている。だがそれもまた、長年連れ添った証なのだろう。
結婚したばかりの頃は、若さに任せて互いを強く求め合った。十年も過ぎればその熱は穏やかになり、それでもなお形を変えて続いていった。そして古希を過ぎ、体力が衰え始めたいま、愛し方にもまた変化が生まれている。
節子は、妻であり、友であり、そして人生の同志でもあった。ときに母のように、また恋人のように、彼を包んだ。佑二郎にとって、彼女は生きる証そのものだった。いて当たり前の存在――だが、その当たり前の温もりこそが、老いゆく二人に残された最も確かな愛だった。
その日の夕暮れ、西宮公園の遊歩道は薄い氷に覆われていた。前夜に降った雪がうっすらと解け、再び凍ったのだ。裸の木々の枝に冷たい風が音を絡ませ、あたりは静まりかえっていた。
佑二郎と節子は、いつものように並んで歩いていた。
「滑るから、ゆっくりな」
そう言った矢先、節子の足元がふっと浮いた。身体が前へ傾く。
咄嗟に佑二郎が手を伸ばした。
「危ない!」
ぎゅっと握ったその手は、思ったよりも細く、冷たかった。だが確かに自分の中で、まだ守るべきものがあると感じさせる重みがあった。
二人は顔を見合わせ、息を吐いた。
「……助かったわ」
「まったく、出不精のくせに、こういう時ばかり危なっかしい」
佑二郎の苦笑に、節子も小さく笑った。
公園を抜けると、道の端で一匹の猫が待ち構えていた。白と黒のまだら模様。人懐っこいのか、二人の前に立ちふさがるように座り込み、尾を左右に揺らしている。
節子がしゃがみ込むと、猫はすぐに近づいてきた。
「まあ、かわいい子ね」
声を弾ませる妻の横顔に、佑二郎は小さく肩をすくめた。
「そんなにかまうと、あとをついてくるぞ」
案の定、猫は二人の後ろを小走りに追ってきた。
住宅街の角を曲がる頃、ようやく猫は立ち止まり、名残惜しそうに鳴いた。その声は、冬空にひとすじ溶けていった。
家に戻ると、節子は湯飲みを手にぽつりとつぶやいた。
「転びそうになったとき、あなたが支えてくれたでしょ。あれで、なんだか若い頃の気持ちを思い出したの」
佑二郎は湯気の向こうで、わずかに笑みを浮かべる。
「俺だって、まだ役に立つんだな」
その一言に、二人のあいだの空気がふっと温かくなる。外は凍てつく風が吹いていたが、家の中には確かに春の兆しが灯っていた。
散歩から戻ると、留守番電話が点滅していた。折り返しを望む早口の声。番号を言っているようだが、佑二郎にも節子にも聞き取れない。
二人は並んで座り、耳を澄ませる。
「私は最初の六桁を覚えるから、あとは頼む」
節子はメモ帳を握りしめ、構えた。
「よし、二人でやれば何とかなる」
佑二郎もペンを構え、真剣な顔つきになる。
だが記憶力は年々怪しくなる。特に数字は頭からこぼれ落ちやすい。何度も繰り返し聞き、五度目にしてようやく番号を写し取ることができた。
恐る恐る電話をかけ直す。
「もしもし、徳井佑二郎と申します。お電話をいただいたようですが」
受話器の向こうの声は、意外なものを告げた。
「ご応募ありがとうございました。しゃぶしゃぶレストランの“一名様ドリンク付き招待券”に当選されました」
いつ申し込んだのか、二人ともすっかり忘れている。ただ、一名分というのが問題だった。
結局、もう一人前を注文し、鍋に火を入れる。肉は紙のように薄く、透けて見えるほどだ。追加を頼む羽目になり、ビールも一本では足りず、次々と注文を重ねる。気づけば「無料招待」どころか、むしろ割高の晩餐になっていた。
箸を止めながら佑二郎は、隣の妻を見て微笑む。
「節子、美味いか? 値段はともかく、こうして元気に食えることに感謝だな」
しかし返事はない。節子は夢中で鍋をのぞき込み、肉を泳がせていた。普段はおしゃべりな妻も、この時ばかりは無口になる。しゃぶしゃぶの湯気が、夫婦の笑い声の代わりに静かに立ちのぼっていた。
満腹というより、むしろ食べ過ぎで胃のあたりが重たい。二人はほろ酔い気分で夜道を歩いていた。冷たい風が頬に心地よく、しゃぶしゃぶの湯気をまだまとっているようだった。
駅へ向かう途中、節子がふいに立ち止まった。
「傘がない……」
レストランの椅子に立てかけていたはずの傘が、手元になかった。
戻るかどうか迷ったが、外は幸い晴れていた。佑二郎は肩をすくめ、歩き出した。
「仕方ないな。安物のビニール傘だろう。忘れ物は授業料だ」
そう言いながらも、節子の顔に小さな影がさしたのを見て、彼はそっと歩調を合わせた。
改札を抜け、電車に乗り込む。二人で腰を下ろしたとき、車内アナウンスが流れた。
「次は南行き、終点の長町――」
聞き慣れない駅名に、佑二郎は眉をひそめた。
どうやら反対方向の電車に乗ってしまったらしい。
「節子、やっちまったな」
「あなたについてきただけよ」
互いに顔を見合わせ、思わず笑い声がもれる。
引き返す道すがら、二人はどこか楽しげだった。忘れた傘も、乗り間違えた電車も、大したことではない。むしろ、こんな小さな事件があるからこそ、日常は退屈にならずにすむ。
窓の外を流れる街の灯りを見ながら、佑二郎は心の奥で思った。
――今日もまた一つ、笑い話が増えたな。
定例の電話が鳴った。時計を見ると、ぴたりと六時。節子はいつものように家を出る。学童保育からは子どもたちの声が響き、踏切のカンカンという音に混じって、公園の向こうに佑二郎の姿が見えた。弁当箱を片手に、こちらに気づいて手を振っている。
「今日は散歩はやめて、そのまま寿司屋に行こう」
駅前で合流すると、佑二郎はそう言った。
「おまえの好きな赤身マグロをたくさん食べろ」
節子は少し驚いた。外食はめったにないことだ。それも回転寿司ではなく「寿司屋」と聞いて、どんな風の吹き回しかと心の中でつぶやく。昔のテレビコマーシャルの一節まで思い出しながら、少しだけ胸の奥に期待を忍ばせた。
暖簾をくぐると、板前の威勢のいい声が迎えてくれた。二人はカウンターではなく奥の座敷に腰を下ろす。若い見習いらしい店員がお茶を置き、控えめに下がっていく。
「とりあえず赤身を四貫」
佑二郎が落ち着いた声で告げた。
六月十八日。結婚記念日。四十年――ルビー婚式である。豪華で盛大でもない。ただ二人で、ささやかに静かに迎える夜だった。赤いものを贈るのがならわしというこの日を、二人は赤身のマグロで祝うことにした。
「節子、四十年間ありがとう」
祐二郎が言葉を口にした。
節子は思わず目を丸くする。
「わたし、結婚記念日を……忘れていたわ。でも、毎日が結婚記念日みたいなものだから」
日本酒と赤ワインで乾杯する。二人の杯が小さな音を立てて触れ合い、しばし沈黙が続いた。板前がにこやかに言う。
「おめでとうございます。ルビー婚式ですか。いいですね」
佑二郎はしみじみと呟いた。
「早いものだ……もう四十年か」
節子は返事をしようとしたが、口いっぱいにマグロを頬張っていた。無言のまま味わい尽くし、飲み込んでから照れくさそうに言った。
「長い間ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
そう言って、彼の手をそっと握る。
佑二郎は一瞬黙し、やがてその手を握り返した。四十年間の重みと、これから先の時間への願いとを、言葉ではなく手の温もりに込めながら。
翌朝、台所に立つ節子は、いつもと同じように味噌汁を温めていた。昨夜の寿司屋の賑わいが嘘のように、窓の外には柔らかな朝の光が差し込んでいる。
湯気の立つ椀を卓に並べながら、節子はふと笑みを浮かべた。
「昨日のマグロ……まだ口の中に残ってる気がするわ」
新聞を広げていた佑二郎は、視線を外に向け、ぽつりと応えた。
「贅沢したな。けど、たまにはいい」
味噌汁をすすりながら、節子は少し真顔になった。
「四十年も続けられたのは、やっぱりあなたが我慢強いからよ」
佑二郎は新聞をたたみ、椀を持ち上げた。
「お互い様だろう」
短いやりとりの間に、二人の間を通り抜けていくのは、穏やかで静かな時間だった。昨日の祝宴はすでに思い出になり、今日からまたいつもの日常が続いていく。
食後の茶碗を流しに重ねながら、節子は心の奥でそっと思った。
――記念日も、何でもない朝も、きっと同じくらい大事なのだろう。
秋が過ぎ、季節は冬となった。外は銀世界。近くの小学校から、子どもたちの元気な声が響いてくる。節子はふと耳を澄ましながら思う。――子どもがいないからこそ、こうした声が余計に心地よいのかもしれない、と。
冬の朝の出勤は、七十歳の身には堪える。稼げるうちは稼がなければ、と佑二郎は思っていた。貯金などあっという間に消えてしまうのだから。けれど、体の奥にけだるさが残る日が増えたのも確かだった。
六時の電話は、冬には鳴らない。外は真っ暗、凍った道で転んでは元も子もないからだ。それでも天気のいい日は、合図がなくても節子は駅へ向かった。
ホームに降り立つと、弁当を下げた佑二郎の姿が見えた。
「来たのか。寒いんだから無理するな」
彼は少し恥ずかしそうに呟いた。
「家を暖かくしておきましたよ。お風呂も沸いてます」
「そうか。帰ったら風呂に入って、それから一杯だな」
夜。風呂上がりの佑二郎は、頭のてっぺんから湯気を立て、ちゃぶ台の前でちびちびと日本酒を飲んでいる。
「節子、疲れないか」
「そんなに変わらないわ。洗濯も掃除も今までどおり。あなたこそ?」
「……けだるいな。年にはかなわない」
節子は少し真顔になり、静かに言った。
「もう仕事をやめてもいいんじゃない? 子どもがいない分、二人でゆっくり楽しみましょう。クルーズとか温泉巡りとか」
佑二郎は盃を見つめたまま、うなずいた。
「いいなぁ、それも。……もし私に何かあったらどうする」
「その時はその時よ」
「そうだな」
彼は笑い、酒を飲み干した。
翌朝。台所では節子が米を研いでいる。冷たい水に手を入れながら、もう十五年も使っている電気釜のスイッチを押した。雪の朝は音が消え、しんしんと降る白だけが世界を覆う。
朝食は、わかめの味噌汁に豆腐と納豆、それに塩鮭。百円の一切れをこんがりと焼いた。魚焼き器のおかげで煙も出ず、ふっくらと仕上がった。佑二郎の大好物である。
茶の間はすでに温まり、食卓の上には湯気が立ちのぼっている。時計の針は七時を指そうとしていた。ニュースの時間だ。
「佑二郎君、もう起きてください。朝のニュースが始まりますよ」
声をかけながら、節子は心の奥で願った。――今日も無事に過ごせますように、と。
春の雪解けを待つように、佑二郎は会社に辞表を出した。長年通った駅への道のりは、もう歩くことはない。肩の荷が下りたような解放感と、少しの寂しさ。その両方を抱えながら、新しい朝を迎えた。
隠居といっても、時間を持て余すことはなかった。二人の暮らしに、新しい日課が自然と生まれたからだ。
朝は近所の散歩から始まる。
花壇にパンジーが咲き、畑の畦道には小さな草花が芽吹いている。節子は歩くのがあまり好きではなかったが、今では杖代わりに祐二郎の腕をつかみながら、ゆっくりと歩調を合わせていた。
「ほら、あそこにふきのとうが出てる」
佑二郎が指差すと、節子は目を細めてうなずいた。
「春の匂いがするわね」
昼前には図書館へ足を運ぶ。新聞や雑誌を読むだけの日もあれば、節子が料理本を抱えて帰ることもある。佑二郎は古い地図帳をめくるのが好きで、ページを開くたびに「いつか行こう」と夢を口にした。
午後は小さな畑で土に触れる。トマトの苗を植え、ねぎを並べ、季節ごとに少しずつ彩りが増していく。手に土がつくたび、夫婦の頬には自然と笑みが浮かんだ。
翌冬。
雪は静かに降り続き、町全体を白で包み込んでいた。音という音が消え、世界が息をひそめているようだった。
台所では、節子が味噌汁を作っていた。鍋の中で出汁が小さく踊り、立ちのぼる湯気が朝の光をやわらかく反射している。その湯気の向こうで、節子はいつものように微笑んでいた。頬はうっすらと紅をさし、湯気に包まれて、まるで雪の中の灯のようだった。
茶の間では佑二郎が新聞を広げ、老眼鏡の奥で行間を追っている。ときおりページをめくる音だけが、静かな家に小さく響いた。
――いつもと変わらぬ朝。そう思った矢先だった。
ふいに、金属の音がした。お玉が床に落ち、転がりながら止まる。節子の手からすべり落ちたのだ。
「節子?」
新聞を置き、立ち上がる。
節子は振り向かない。
背中がわずかに揺れ、そして、すっと崩れ落ちた。
床に倒れた節子を抱き上げる。
頬はまだ温かく、唇にはわずかに笑みが残っている。
「節子、聞こえるか……? おい、節子!」
肩を揺らしても、返事はなかった。
外の雪が強くなった。
その白の中を、遠くのサイレンがゆっくりと近づいてくる。
やがて赤い光が窓辺を染め、カーテンに波のような影を作った。
救急隊員たちが駆け込み、短い言葉を交わす。
酸素マスク、心臓マッサージ、ストレッチャー。
そのすべてが、遠い世界の出来事のようだった。
数分後、医師が来た。
冷たい聴診器の音。
短い沈黙。
そして、静かな声が落ちた。
――心停止です。
その瞬間、外のサイレンが止み、雪の音が戻ってきた。
白い世界が、再び静けさを取り戻していた。
台所には、まだ味噌汁の香りが残っていた。
鍋の中で湯気がゆらゆらと揺れ、ひとつ、ふたつと薄れていく。
節子の右手には、菜箸が握られたままだった。
指先はまだ、ぬくもりを残していた。
そのぬくもりが、ゆっくりと失われていく。
まるで、長い年月をともに過ごした夫婦の時間が、静かに解けていくように。
佑二郎は、動けなかった。
声も出せず、ただその顔を見つめていた。
穏やかな笑みを浮かべたまま、節子は、眠るように――いなくなっていた。
季節は巡り、冬桜が散り、暖かな春が訪れた。
台所には、節子が集めたクーポンがきれいに仕分けされたまま残っている。冷蔵庫の扉には、買い物メモがそのまま貼られていた。
「節子……おまえの声が、まだここにあるようだ」
佑二郎はつぶやき、椅子に腰を下ろした。湯飲みの湯気が、静かに揺れていた。
八月。蝉の声が重たく響き、陽射しは容赦なく照りつける。町内の家々からは盆提灯の灯りがこぼれ、夕暮れの風にほのかな線香の匂いが漂っていた。
佑二郎は仏壇の前に座り、両手を合わせた。
目を閉じると、節子の声が聞こえてくる。
――佑二郎君、今日はお刺身買ってきたわよ。
胸の奥が熱くなり、涙が滲む。
ふと玄関を開けると、風鈴が揺れた。涼しい夜風が頬を撫でる。
暗がりの向こうに、確かに節子の姿が見えた気がした。いつものように、駅の方から歩いてくる。
「……節子」
声に出してみる。けれど振り返ることはなく、影はやがて夏の闇に溶けていった。
秋風が吹き始めた。窓辺のカーテンがゆるやかに揺れる。
佑二郎は机に向かい、便箋を広げた。
「――節子へ」
文字を書き出した瞬間、胸の奥にあたたかなものが広がった。
「おまえがいなくなってから、もういくつ季節が過ぎただろうな。
おしゃべりな声が恋しい。静かな家は広すぎる。
でもな、不思議と寂しくはない。
毎朝、台所から『おはよう』と聞こえる気がするんだ」
ペンを止め、窓の外を見た。庭の柿の木が赤く色づき、鳥が枝に止まって実をついばんでいる。
「今も、公園のベンチに座っておまえが好きだった桜を見ているよ。
いつかまたそこで会おう。
その時は、ゆっくりでいいから――また話を聞かせてくれ」
手紙を書き終えると、佑二郎は便箋を仏壇にそっと置いた。
静かな部屋に、夕暮れのチャイムが鳴り響く。
佑二郎は目を閉じ、深く息を吸った。
――節子、また春に会おう。
そして、冬が来た。
雪が降りはじめると、人はふっと北に惹かれる。終わらせるためでも、始めるためでもない。ただ、心の静けさに、そっと耳を澄ましたくなる。
仙台駅を十一時五十分に発った「特急はつかり一号」は、雪をはらいながら北へ向かっていた。幕の内弁当とビール二缶、そして週刊誌を買い込み、車窓の景色を眺めながら食べる――それが祐二郎の、旅のささやかな楽しみだった。二缶のビールを飲み干し、週刊誌を読み終えるころには、車窓の外はすっかり白い世界に変わっていた。
夕方四時二十二分。雪をまとった「特急はつかり一号」は、海に突き出た終点・青森駅に滑り込んだ。遠くに霞んで見えるのは、連絡船の桟橋――過去と現在が交わるような風景だった。
「青森、青森、終点、青森」
アナウンスが、どこか悲しげに響いた。
祐二郎は、どこにでもいる七十過ぎの男である。節子を失い、心がどこにも居場所を見つけられずにいた。だからこそ、この旅は必要だったのかもしれない。
駅構内の立ち食いそば屋から、白い湯気が立ちのぼる。その温もりを横目に、外へ出た。吐く息は白く、街灯に溶けて消えていく。
駅前の広場には人影もまばらで、タクシーの運転手が煙草をくゆらせながらエンジン音を聞いていた。海の方から潮の匂い。遠くで汽笛が鳴る。もう連絡船はないはずなのに――あの音は、過去の呼び声のようだった。
古びた旅館「青森屋」の木戸を開けると、灯油ストーブの匂いが懐かしく胸に沁みた。畳の部屋に通され、荷を下ろす。窓の外では、街灯の光の中を雪が音もなく降り続いている。
ビールの缶を一本だけ開け、冷たい泡を口に含んだ。雪の音を聞きながら、ただ静かに時間が過ぎていく。――このまま眠ってしまえば、夜はただ過ぎていくだけ。だが今夜は、それが惜しい気がした。
立ち上がり、マフラーを巻く。宿の戸を開けると、吹きすさぶ雪が頬を打った。
足跡を確かめながら歩き出す。
この旅のどこかに、まだ〈何か〉が待っている気がした。
雪に半ば埋もれた小料理屋「小雪日和」の看板が目に入る。
旅の匂いを誘うその佇まいに、吸い寄せられるように引き戸を開けた。
黒のタートルに黒いエプロン姿の女が、カウンターの中から静かにこちらを見た。
五人も座ればいっぱいになる小さな店。裸電球がやわらかな光を落としていた。
流れているのは『津軽海峡・冬景色』。湯気とともに、懐かしい歌声が店の奥へと消えていく。
祐二郎はカウンターの真ん中に腰を下ろし、壁のメニューに目をやる。
女将の小雪が、温かいおしぼりを無言で差し出した。
「とりあえず、ビールをください。さっき青森駅に着いたばかりで……」
「そうですか、それは、それは……」
小雪は小さく微笑み、ビール瓶とグラスを置いた。
祐二郎はグラスを満たし、静かに口をつける。冷たい泡が喉を通り、旅の疲れがわずかにほどけた。
黒板には〈本日のおすすめ 魚介のうまみ鍋〉とある。
丸みのある、やわらかな字だった。
「魚介のうまみ鍋って、何が入ってるんです?」
「エビとイカ、ホタテに、長芋とごぼうです。魚介の出汁に少し辛みを利かせてます。寒い日にぴったり。ビールにも合いますが……やっぱり日本酒ですね」
――その瞬間、胸の奥が静かに震えた。
それは、節子しか知らない祐二郎の好物だった。
だが、祐二郎の心を揺らしたのは料理だけではなかった。
何気ない仕草の中にあった、やわらかな気遣い。
言葉少なに注がれる湯気の向こうに、かつての節子の面影があった。
節子もまた、よくこうして彼の前に小鉢をそっと置き、
「熱いから、ゆっくりね」と笑っていた。
そのときの声の調子まで、今の女将に重なって聞こえる。
祐二郎は箸を握る手を止めた。
あの冬の朝、節子が倒れたときのことが、ふいに胸をよぎる。
もう戻らない時間。
けれど今、目の前の湯気の中に、確かに彼女がいるような気がした。
――節子、おまえはこうして、俺の旅路を見ていてくれるのか。
そう思った途端、熱いものがこみ上げた。
箸の先がわずかに震え、視界がにじむ。
料理の味も、酒の香りも、ただ胸に沁みていった。
料理のうまさではなく、その奥にある「誰かを想う心」が、祐二郎の凍った心を溶かしていった。
涙が頬を伝い落ちる。
それを見た小雪は、何も聞かず、静かに盃を満たした。
何気ない口調のやわらかさ、器を置くときの慎ましさ、そして、相手の目を見てそっと言葉を添える――そんな渋さの中にある、やさしさだった。
そのやさしさが、節子の面影のように胸の奥に染みわたっていく。長い年月を越えて、誰かが自分を包んでくれるような、あの懐かしい感覚。
気づけば、視界が滲んでいた。湯気の向こうで、小雪の姿がぼやけて見える。祐二郎は箸を置き、ただ黙って目頭を押さえた。
――ありがとう。声にならないその言葉が、胸の奥で何度も響いた。雪の夜に灯るロウソクのように、消えかけた心の奥に、小さな温もりがともった。
そのとき、電球がふっと消えた。停電だった。
「動かないでくださいね。ロウソクを出します」
小雪は暗闇の中を歩き、やがて小さな炎を灯した。
ロウソクの光が、ふたりの間をゆらゆらと照らす。影が壁に溶け、店は幻想のような光景に変わった。
小雪はカウンターを回り、祐二郎の隣に腰を下ろした。
「寒いでしょう。少しだけお酒をどうぞ」
徳利を傾け、盃を差し出す。指先が触れ、わずかな熱が伝わった。
外では雪が強まり、風が窓を叩いている。
ロウソクの灯がかすかに揺れ、彼女の瞳の中で光った。
祐二郎は思った。
――この人に、旅愁を感じる。
それは、終わりを知りながらも歩き続ける人の、静かな背中のようだった。
「雪、ひどいですね」
「ええ。でも……悪くないです」
「悪くない?」
「ええ。こうして、誰かといる夜なら」
ロウソクの炎が小雪の頬をやわらかく照らす。
外の吹雪が、少しずつ遠のいていった。
小雪がそっと言った。
「……あなたの奥さん、優しい人だったんですね」
祐二郎は驚いて彼女を見る。
小雪は微笑んだ。
「今のあなたの顔を見れば、わかります」
その言葉に、祐二郎の胸が熱くなった。
涙がこぼれ、頬を伝う。
彼は小さく首を振りながら言った。
「……不思議だな。あなたの声を聞いていると、節子が隣にいるような気がして」
小雪は微笑みを浮かべたまま、ふと目を閉じた。
その唇が、ゆっくりと動いた。
「祐二郎……」
――その声は、確かに節子のものだった。
「いつまでも、そんな顔をしてちゃダメよ。
私が先に行ったことは、悲しいことばかりじゃないの。
生きていたことも、大事。
そして、あなたと過ごした時間が、私の宝物だったのよ」
祐二郎は息をのんだ。
目の前の小雪が、次第に節子の面影と重なっていく。
ロウソクの灯が彼女の頬を照らし、その光が、やわらかく揺れた。
「ご飯は、ちゃんと食べてる?
洗濯は? 掃除は?
埃まみれは体に悪いんだからね。
まだまだ、そちらで楽しんでね。
私はこっちで元気にしてるから……」
声が少しずつ遠ざかっていく。
雪の音が、静かに店を包む。
「それじゃあね、祐二郎。もう行くわね」
祐二郎は、思わず手を伸ばした。
だが、そこにはもう誰もいなかった。
小雪はただ静かに、ロウソクの火を見つめていた。
炎が揺らめき、ふっと小さくはぜた。
「……節子」
祐二郎の口から漏れたその名は、雪に溶けるように消えていった。
小雪は何も言わず、ただ盃を満たした。
ロウソクの灯がふたりの間で揺れる。
まるで、節子が微笑みながら見守っているように。
――その夜、祐二郎の中で、止まっていた季節が、静かに動き出した。
***
翌朝。
目を覚ますと、青森屋の布団の中だった。
障子を開けると、眩しい銀世界が広がっている。
みそ汁をひと口すする。――昨夜の鍋と、同じ味がした。
小雪の笑顔、ロウソクの灯、吹雪の音。
すべてが、夢のように、現実のように胸をよぎった。
チェックアウトのとき、フロント係が言った。
「昨夜は、あの吹雪の中をよく無事にお帰りになりましたね。地元の人でも迷ってしまうほどでしたよ。道に迷われませんでしたか?」
「ええ、誰かが……足元を照らしてくれて」
「どちらへ行かれたのですか?」
「飲み屋街にある、小雪日和という小料理屋です」
係の女性が、一瞬目を見開いた。
「えっ、『小雪日和』ですか? ……あそこはもうありませんよ」
祐二郎は息をのんだ。
「だいぶ前に店を閉めています。たしか……お姉さんが亡くなって、その後、妹さんは――」
言葉はそこで途切れた。
ロビーの窓の外では、再び雪が静かに降りはじめていた。
街灯の明かりが白に溶け、滲む。
その光が――まるで、あの夜のロウソクの灯のように見えた。
祐二郎はそっと呟いた。
「……節子。ありがとう。あの人が、おまえの代わりに、俺を癒してくれたよ」
雪の中を歩き出す。
遠くの空が、かすかに明るみ始めていた。
そして、祐二郎の中にも――
確かに、春が訪れていた。