表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

君の声が聞こえた夜

作者: はた 幸

 仙台市内から北へ電車で十五分。泉台ヶ丘駅に降り立つと、冬はいつも和泉山おろしが吹きつける。頬を刺すような冷たい風に肩をすくめながら、徳井佑二郎はコートの襟を立てた。五年前に仙台市と合併して以来、かつて「カエルの鳴く街」と呼ばれたこの町は、モダンな住宅地へと姿を変えた。茅葺き屋根の家々は消え、かわりに灰色のマンションが並んでいる。


 駅のエスカレーターに乗ると、今日も人々はばらばらに立っていた。東京のように右を空ける秩序はない。前の人に倣って立つ――それが仙台流だ。東北から集まった人々がつくり上げた「のんびりとした風景」の中に身を置きながら、佑二郎は心の中でつぶやく。

 ――のんびり行こうぜ、人生は。


 定年を過ぎてもなお、嘱託として会社に通う毎日。かつては部下だった青年が、いまは上司になっている。最初の数日は「徳井さん」と呼んでいたが、すぐに「徳井君」に戻った。周囲の目を気にする小心な男なのだろう。そんなことは百も承知だが、佑二郎にとって会社はまだ「生きている証」だった。


 家の玄関のドアを開ければ、そこは別世界になる。節子の声が洪水のように押し寄せてくるのだ。

「だってしょうがないでしょ。一日中、誰とも話さないんだから」

 時に耳を塞ぎたくなる夜もあるが、その賑やかさが家の匂いでもあった。


 いまの節子の趣味はクーポン集めである。台所の引き出しには、色とりどりの割引券がきちんと仕分けられて並んでいた。

「この店は肉が安いけど魚は高いの。あっちのスーパーは大根は安いけど、ネギと白菜は高いのよ」

 目を輝かせる妻を眺めながら、佑二郎は心の奥で小さく笑った。


 雪国の寒風が吹き荒れても、この家の中は不思議と温かい。平凡で、退屈で、ありふれた夫婦。けれどもその日常のひとつひとつが、二人のささやかな物語を紡いでいた。


 徳井佑二郎の出身は仙台、節子は宮城郡。どちらも宮城の生まれである。大きな病気もなく、大きな争いもなく、ただ穏やかに暮らしてきた。見ようによっては、何の変哲もない仲良し夫婦だった。


 節子はよく言う。

「貯金がなくても、私たち大金持ちよね」

 子宝には恵まれなかったが、お互い健康体で病院にお金を収めなくていい。それだけで十分だと彼女は言う。楽天的な妻に比べ、佑二郎は石橋を叩いて渡る性格だった。


 結婚当初、財布の紐は節子が握っていた。しかし無計画な買い物や突発的な旅行で貯金が尽き、佑二郎が激怒したことがある。

「貯金がなかったら、もし何かあったらどうするんだ」

「もしものために保険に入ってるんだから大丈夫よ。それに、もしものために今を我慢するなんておかしいわ」

 笑いながらそう言われ、言葉を失ったのを覚えている。それ以来、財布の管理は彼に移り、どれほど貯金があるのか節子には知らせていない。


 たまに節子は尋ねる。

「ねぇ、今どれくらい貯金あるの」

 佑二郎は苦笑して答えるのが常だった。

「それを聞いてどうするんだ」


 毎夕六時、佑二郎は泉台ヶ丘駅前の赤い公衆電話から自宅へ電話を入れる。家の古時計が時折止まってしまうからだ。五回だけ鳴らして切る――それが合図だった。受話器を取らない節子も心得ている。十円が落ちるのはもったいないからだ。


 合図を受け取った節子は駅に向かい、二人は途中の西宮公園を三周する。色あせた木のベンチに並んで座れば、節子の口は自然と動き出す。

「だから、どう思う?」

 問いかけに、佑二郎はうなずきながら言葉を濁す。まともに受け止めていたら頭がおかしくなる――そう思うからこそ聞き流す。それが二人の夫婦生活の知恵だった。


 やがて、祐二郎が話題を切り替える。

「ところで、晩飯は? 肉か、魚か、鍋か」

 むっとしながらも節子は口元を緩めた。夕暮れの公園に、二人の声がいつまでも響いていた。


 そして、ある冬の朝。台所から節子の慌ただしい声が飛んできた。

「大変、大変!」


 居間から顔をのぞかせると、鍋がぐらぐらと沸き立つ中、節子は立ち尽くしていた。

「味噌が切れてたの」

 短い言葉に、佑二郎はため息をつく。


 たかが味噌、されど味噌。節子にとって味噌汁は一日の始まりを告げる合図だった。なくてはならない習慣である。彼女はコートも着ず、エプロン姿のまま外へ飛び出していった。


 数分後、赤い頬で戻ってきた手には、近所から借りてきた味噌のパック。声はどこか誇らしげだった。

「ほら、これで大丈夫」


 やがて台所に立ちのぼる香りは、すぐに家全体を包み込んだ。湯気の向こうで嬉しそうに微笑む節子を眺めながら、佑二郎は胸の奥で小さくつぶやいた。

 ――こういう些細な事件があるから、退屈な日々も愛おしいんだ。


 節子は出不精だった。できれば歩きたくない。うどの大木のようにごろごろするのが好きなのだ。それを佑二郎は見抜いていた。だからこそ、毎夕の電話の合図は半ば強制でもあり、二人を外へ連れ出す習慣でもあった。季節を感じながら、時に手をつなぎ、歩く。要は散歩に過ぎないが、それが二人の日々を繋ぐ糸だった。


 天気の悪い日は合図はない。それでも節子は、五時半になると傘を手に家を出て、泉台ヶ丘駅で祐二郎を待つ。そのまま一緒に帰るだけ。西宮公園を回ることはない。傘越しに見る祐二郎の背中を追いながら、家へ戻るのだ。


 家に着くと、いつものやり取りが始まる。

「先にお風呂入ってきて」

 そう言う節子に背を押され、佑二郎は素直に浴室へ。


 風呂は昨日の湯を温め直したものだった。だが湯気は立ちのぼり、温泉の素の香りが漂う。

「一番風呂は気持ちいいな」

 湯船につかりながら声をあげる夫に、節子は台所から笑い混じりの声を返す。

「昨日の湯なのにね」


 しばらくして佑二郎が浴室から出てきた。

「いい湯だった。……ところで着替えはどこだ?なんで出してくれてないんだ」

「何度言ったらわかるのかしら。右のボックスに入っているわよ」


 引き出しを開けた佑二郎は、顔をしかめた。

「なんだ、このでかいパンツは。はけないぞ」

「それ、わたしのパンツでしょ。どこ見てるのよ」

 笑い声が家の中に響く。


 ふいに、佑二郎の顔が青ざめた。

「節子、大変だ。五万円もする腕時計を落とした。確かにあったはずなのに、ない」

 必死に周囲を見回す夫に、節子は静かに言った。

「その右手首についているのは、何かしら」


 佑二郎はぽかんと手元を見下ろした。いつも左腕にしている時計が、なぜか右手に巻かれていた。

「……どうして右にしてたんだろうな」

 気まずそうにつぶやく夫を見て、節子は肩を揺らして笑った。


 近頃、佑二郎からはすっかり「亭主の威厳」というものが抜け落ちている。だがそれもまた、長年連れ添った証なのだろう。


 結婚したばかりの頃は、若さに任せて互いを強く求め合った。十年も過ぎればその熱は穏やかになり、それでもなお形を変えて続いていった。そして古希を過ぎ、体力が衰え始めたいま、愛し方にもまた変化が生まれている。


 節子は、妻であり、友であり、そして人生の同志でもあった。ときに母のように、また恋人のように、彼を包んだ。佑二郎にとって、彼女は生きる証そのものだった。いて当たり前の存在――だが、その当たり前の温もりこそが、老いゆく二人に残された最も確かな愛だった。


 その日の夕暮れ、西宮公園の遊歩道は薄い氷に覆われていた。前夜に降った雪がうっすらと解け、再び凍ったのだ。裸の木々の枝に冷たい風が音を絡ませ、あたりは静まりかえっていた。


 佑二郎と節子は、いつものように並んで歩いていた。

「滑るから、ゆっくりな」

 そう言った矢先、節子の足元がふっと浮いた。身体が前へ傾く。


 咄嗟に佑二郎が手を伸ばした。

「危ない!」

 ぎゅっと握ったその手は、思ったよりも細く、冷たかった。だが確かに自分の中で、まだ守るべきものがあると感じさせる重みがあった。


 二人は顔を見合わせ、息を吐いた。

「……助かったわ」

「まったく、出不精のくせに、こういう時ばかり危なっかしい」

 佑二郎の苦笑に、節子も小さく笑った。


 公園を抜けると、道の端で一匹の猫が待ち構えていた。白と黒のまだら模様。人懐っこいのか、二人の前に立ちふさがるように座り込み、尾を左右に揺らしている。


 節子がしゃがみ込むと、猫はすぐに近づいてきた。

「まあ、かわいい子ね」

 声を弾ませる妻の横顔に、佑二郎は小さく肩をすくめた。

「そんなにかまうと、あとをついてくるぞ」

 案の定、猫は二人の後ろを小走りに追ってきた。


 住宅街の角を曲がる頃、ようやく猫は立ち止まり、名残惜しそうに鳴いた。その声は、冬空にひとすじ溶けていった。


 家に戻ると、節子は湯飲みを手にぽつりとつぶやいた。

「転びそうになったとき、あなたが支えてくれたでしょ。あれで、なんだか若い頃の気持ちを思い出したの」


 佑二郎は湯気の向こうで、わずかに笑みを浮かべる。

「俺だって、まだ役に立つんだな」


 その一言に、二人のあいだの空気がふっと温かくなる。外は凍てつく風が吹いていたが、家の中には確かに春の兆しが灯っていた。


 散歩から戻ると、留守番電話が点滅していた。折り返しを望む早口の声。番号を言っているようだが、佑二郎にも節子にも聞き取れない。


 二人は並んで座り、耳を澄ませる。

「私は最初の六桁を覚えるから、あとは頼む」

 節子はメモ帳を握りしめ、構えた。

「よし、二人でやれば何とかなる」

 佑二郎もペンを構え、真剣な顔つきになる。


 だが記憶力は年々怪しくなる。特に数字は頭からこぼれ落ちやすい。何度も繰り返し聞き、五度目にしてようやく番号を写し取ることができた。


 恐る恐る電話をかけ直す。

「もしもし、徳井佑二郎と申します。お電話をいただいたようですが」


 受話器の向こうの声は、意外なものを告げた。

「ご応募ありがとうございました。しゃぶしゃぶレストランの“一名様ドリンク付き招待券”に当選されました」


 いつ申し込んだのか、二人ともすっかり忘れている。ただ、一名分というのが問題だった。


 結局、もう一人前を注文し、鍋に火を入れる。肉は紙のように薄く、透けて見えるほどだ。追加を頼む羽目になり、ビールも一本では足りず、次々と注文を重ねる。気づけば「無料招待」どころか、むしろ割高の晩餐になっていた。


 箸を止めながら佑二郎は、隣の妻を見て微笑む。

「節子、美味いか? 値段はともかく、こうして元気に食えることに感謝だな」


 しかし返事はない。節子は夢中で鍋をのぞき込み、肉を泳がせていた。普段はおしゃべりな妻も、この時ばかりは無口になる。しゃぶしゃぶの湯気が、夫婦の笑い声の代わりに静かに立ちのぼっていた。


 満腹というより、むしろ食べ過ぎで胃のあたりが重たい。二人はほろ酔い気分で夜道を歩いていた。冷たい風が頬に心地よく、しゃぶしゃぶの湯気をまだまとっているようだった。


 駅へ向かう途中、節子がふいに立ち止まった。

「傘がない……」

 レストランの椅子に立てかけていたはずの傘が、手元になかった。


 戻るかどうか迷ったが、外は幸い晴れていた。佑二郎は肩をすくめ、歩き出した。

「仕方ないな。安物のビニール傘だろう。忘れ物は授業料だ」

 そう言いながらも、節子の顔に小さな影がさしたのを見て、彼はそっと歩調を合わせた。


 改札を抜け、電車に乗り込む。二人で腰を下ろしたとき、車内アナウンスが流れた。

「次は南行き、終点の長町――」

 聞き慣れない駅名に、佑二郎は眉をひそめた。


 どうやら反対方向の電車に乗ってしまったらしい。

「節子、やっちまったな」

「あなたについてきただけよ」

 互いに顔を見合わせ、思わず笑い声がもれる。


 引き返す道すがら、二人はどこか楽しげだった。忘れた傘も、乗り間違えた電車も、大したことではない。むしろ、こんな小さな事件があるからこそ、日常は退屈にならずにすむ。


 窓の外を流れる街の灯りを見ながら、佑二郎は心の奥で思った。

 ――今日もまた一つ、笑い話が増えたな。


 定例の電話が鳴った。時計を見ると、ぴたりと六時。節子はいつものように家を出る。学童保育からは子どもたちの声が響き、踏切のカンカンという音に混じって、公園の向こうに佑二郎の姿が見えた。弁当箱を片手に、こちらに気づいて手を振っている。


「今日は散歩はやめて、そのまま寿司屋に行こう」

 駅前で合流すると、佑二郎はそう言った。

「おまえの好きな赤身マグロをたくさん食べろ」


 節子は少し驚いた。外食はめったにないことだ。それも回転寿司ではなく「寿司屋」と聞いて、どんな風の吹き回しかと心の中でつぶやく。昔のテレビコマーシャルの一節まで思い出しながら、少しだけ胸の奥に期待を忍ばせた。


 暖簾をくぐると、板前の威勢のいい声が迎えてくれた。二人はカウンターではなく奥の座敷に腰を下ろす。若い見習いらしい店員がお茶を置き、控えめに下がっていく。


「とりあえず赤身を四貫」

 佑二郎が落ち着いた声で告げた。


 六月十八日。結婚記念日。四十年――ルビー婚式である。豪華で盛大でもない。ただ二人で、ささやかに静かに迎える夜だった。赤いものを贈るのがならわしというこの日を、二人は赤身のマグロで祝うことにした。


「節子、四十年間ありがとう」

 祐二郎が言葉を口にした。


 節子は思わず目を丸くする。

「わたし、結婚記念日を……忘れていたわ。でも、毎日が結婚記念日みたいなものだから」


 日本酒と赤ワインで乾杯する。二人の杯が小さな音を立てて触れ合い、しばし沈黙が続いた。板前がにこやかに言う。

「おめでとうございます。ルビー婚式ですか。いいですね」


 佑二郎はしみじみと呟いた。

「早いものだ……もう四十年か」


 節子は返事をしようとしたが、口いっぱいにマグロを頬張っていた。無言のまま味わい尽くし、飲み込んでから照れくさそうに言った。

「長い間ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」


 そう言って、彼の手をそっと握る。

 佑二郎は一瞬黙し、やがてその手を握り返した。四十年間の重みと、これから先の時間への願いとを、言葉ではなく手の温もりに込めながら。


 翌朝、台所に立つ節子は、いつもと同じように味噌汁を温めていた。昨夜の寿司屋の賑わいが嘘のように、窓の外には柔らかな朝の光が差し込んでいる。


 湯気の立つ椀を卓に並べながら、節子はふと笑みを浮かべた。

「昨日のマグロ……まだ口の中に残ってる気がするわ」


 新聞を広げていた佑二郎は、視線を外に向け、ぽつりと応えた。

「贅沢したな。けど、たまにはいい」


 味噌汁をすすりながら、節子は少し真顔になった。

「四十年も続けられたのは、やっぱりあなたが我慢強いからよ」


 佑二郎は新聞をたたみ、椀を持ち上げた。

「お互い様だろう」


 短いやりとりの間に、二人の間を通り抜けていくのは、穏やかで静かな時間だった。昨日の祝宴はすでに思い出になり、今日からまたいつもの日常が続いていく。


 食後の茶碗を流しに重ねながら、節子は心の奥でそっと思った。

 ――記念日も、何でもない朝も、きっと同じくらい大事なのだろう。


 秋が過ぎ、季節は冬となった。外は銀世界。近くの小学校から、子どもたちの元気な声が響いてくる。節子はふと耳を澄ましながら思う。――子どもがいないからこそ、こうした声が余計に心地よいのかもしれない、と。


 冬の朝の出勤は、七十歳の身には堪える。稼げるうちは稼がなければ、と佑二郎は思っていた。貯金などあっという間に消えてしまうのだから。けれど、体の奥にけだるさが残る日が増えたのも確かだった。


 六時の電話は、冬には鳴らない。外は真っ暗、凍った道で転んでは元も子もないからだ。それでも天気のいい日は、合図がなくても節子は駅へ向かった。


 ホームに降り立つと、弁当を下げた佑二郎の姿が見えた。

「来たのか。寒いんだから無理するな」

 彼は少し恥ずかしそうに呟いた。

「家を暖かくしておきましたよ。お風呂も沸いてます」

「そうか。帰ったら風呂に入って、それから一杯だな」


 夜。風呂上がりの佑二郎は、頭のてっぺんから湯気を立て、ちゃぶ台の前でちびちびと日本酒を飲んでいる。

「節子、疲れないか」

「そんなに変わらないわ。洗濯も掃除も今までどおり。あなたこそ?」

「……けだるいな。年にはかなわない」


 節子は少し真顔になり、静かに言った。

「もう仕事をやめてもいいんじゃない? 子どもがいない分、二人でゆっくり楽しみましょう。クルーズとか温泉巡りとか」

 佑二郎は盃を見つめたまま、うなずいた。

「いいなぁ、それも。……もし私に何かあったらどうする」

「その時はその時よ」

「そうだな」

 彼は笑い、酒を飲み干した。


 翌朝。台所では節子が米を研いでいる。冷たい水に手を入れながら、もう十五年も使っている電気釜のスイッチを押した。雪の朝は音が消え、しんしんと降る白だけが世界を覆う。


 朝食は、わかめの味噌汁に豆腐と納豆、それに塩鮭。百円の一切れをこんがりと焼いた。魚焼き器のおかげで煙も出ず、ふっくらと仕上がった。佑二郎の大好物である。


 茶の間はすでに温まり、食卓の上には湯気が立ちのぼっている。時計の針は七時を指そうとしていた。ニュースの時間だ。

「佑二郎君、もう起きてください。朝のニュースが始まりますよ」


 声をかけながら、節子は心の奥で願った。――今日も無事に過ごせますように、と。


 春の雪解けを待つように、佑二郎は会社に辞表を出した。長年通った駅への道のりは、もう歩くことはない。肩の荷が下りたような解放感と、少しの寂しさ。その両方を抱えながら、新しい朝を迎えた。


 隠居といっても、時間を持て余すことはなかった。二人の暮らしに、新しい日課が自然と生まれたからだ。


 朝は近所の散歩から始まる。

 花壇にパンジーが咲き、畑の畦道には小さな草花が芽吹いている。節子は歩くのがあまり好きではなかったが、今では杖代わりに祐二郎の腕をつかみながら、ゆっくりと歩調を合わせていた。


「ほら、あそこにふきのとうが出てる」

 佑二郎が指差すと、節子は目を細めてうなずいた。

「春の匂いがするわね」


 昼前には図書館へ足を運ぶ。新聞や雑誌を読むだけの日もあれば、節子が料理本を抱えて帰ることもある。佑二郎は古い地図帳をめくるのが好きで、ページを開くたびに「いつか行こう」と夢を口にした。


 午後は小さな畑で土に触れる。トマトの苗を植え、ねぎを並べ、季節ごとに少しずつ彩りが増していく。手に土がつくたび、夫婦の頬には自然と笑みが浮かんだ。


 翌冬。

 雪は静かに降り続き、町全体を白で包み込んでいた。音という音が消え、世界が息をひそめているようだった。


 台所では、節子が味噌汁を作っていた。鍋の中で出汁が小さく踊り、立ちのぼる湯気が朝の光をやわらかく反射している。その湯気の向こうで、節子はいつものように微笑んでいた。頬はうっすらと紅をさし、湯気に包まれて、まるで雪の中の灯のようだった。


 茶の間では佑二郎が新聞を広げ、老眼鏡の奥で行間を追っている。ときおりページをめくる音だけが、静かな家に小さく響いた。


 ――いつもと変わらぬ朝。そう思った矢先だった。


 ふいに、金属の音がした。お玉が床に落ち、転がりながら止まる。節子の手からすべり落ちたのだ。


「節子?」

 新聞を置き、立ち上がる。

 節子は振り向かない。

 背中がわずかに揺れ、そして、すっと崩れ落ちた。


 床に倒れた節子を抱き上げる。

 頬はまだ温かく、唇にはわずかに笑みが残っている。

「節子、聞こえるか……? おい、節子!」

 肩を揺らしても、返事はなかった。


 外の雪が強くなった。

 その白の中を、遠くのサイレンがゆっくりと近づいてくる。

 やがて赤い光が窓辺を染め、カーテンに波のような影を作った。


 救急隊員たちが駆け込み、短い言葉を交わす。

 酸素マスク、心臓マッサージ、ストレッチャー。

 そのすべてが、遠い世界の出来事のようだった。


 数分後、医師が来た。

 冷たい聴診器の音。

 短い沈黙。

 そして、静かな声が落ちた。

 ――心停止です。


 その瞬間、外のサイレンが止み、雪の音が戻ってきた。

 白い世界が、再び静けさを取り戻していた。


 台所には、まだ味噌汁の香りが残っていた。

 鍋の中で湯気がゆらゆらと揺れ、ひとつ、ふたつと薄れていく。

 節子の右手には、菜箸が握られたままだった。

 指先はまだ、ぬくもりを残していた。


 そのぬくもりが、ゆっくりと失われていく。

 まるで、長い年月をともに過ごした夫婦の時間が、静かに解けていくように。


 佑二郎は、動けなかった。

 声も出せず、ただその顔を見つめていた。

 穏やかな笑みを浮かべたまま、節子は、眠るように――いなくなっていた。



 季節は巡り、冬桜が散り、暖かな春が訪れた。

 台所には、節子が集めたクーポンがきれいに仕分けされたまま残っている。冷蔵庫の扉には、買い物メモがそのまま貼られていた。


「節子……おまえの声が、まだここにあるようだ」

 佑二郎はつぶやき、椅子に腰を下ろした。湯飲みの湯気が、静かに揺れていた。


 八月。蝉の声が重たく響き、陽射しは容赦なく照りつける。町内の家々からは盆提灯の灯りがこぼれ、夕暮れの風にほのかな線香の匂いが漂っていた。


 佑二郎は仏壇の前に座り、両手を合わせた。

 目を閉じると、節子の声が聞こえてくる。

 ――佑二郎君、今日はお刺身買ってきたわよ。

 胸の奥が熱くなり、涙が滲む。


 ふと玄関を開けると、風鈴が揺れた。涼しい夜風が頬を撫でる。

 暗がりの向こうに、確かに節子の姿が見えた気がした。いつものように、駅の方から歩いてくる。

「……節子」

 声に出してみる。けれど振り返ることはなく、影はやがて夏の闇に溶けていった。


 秋風が吹き始めた。窓辺のカーテンがゆるやかに揺れる。

 佑二郎は机に向かい、便箋を広げた。


「――節子へ」


 文字を書き出した瞬間、胸の奥にあたたかなものが広がった。


「おまえがいなくなってから、もういくつ季節が過ぎただろうな。

 おしゃべりな声が恋しい。静かな家は広すぎる。

 でもな、不思議と寂しくはない。

 毎朝、台所から『おはよう』と聞こえる気がするんだ」


 ペンを止め、窓の外を見た。庭の柿の木が赤く色づき、鳥が枝に止まって実をついばんでいる。


「今も、公園のベンチに座っておまえが好きだった桜を見ているよ。

 いつかまたそこで会おう。

 その時は、ゆっくりでいいから――また話を聞かせてくれ」


 手紙を書き終えると、佑二郎は便箋を仏壇にそっと置いた。

 静かな部屋に、夕暮れのチャイムが鳴り響く。


 佑二郎は目を閉じ、深く息を吸った。

 ――節子、また春に会おう。


 そして、冬が来た。


 雪が降りはじめると、人はふっと北に惹かれる。終わらせるためでも、始めるためでもない。ただ、心の静けさに、そっと耳を澄ましたくなる。


 仙台駅を十一時五十分に発った「特急はつかり一号」は、雪をはらいながら北へ向かっていた。幕の内弁当とビール二缶、そして週刊誌を買い込み、車窓の景色を眺めながら食べる――それが祐二郎の、旅のささやかな楽しみだった。二缶のビールを飲み干し、週刊誌を読み終えるころには、車窓の外はすっかり白い世界に変わっていた。


 夕方四時二十二分。雪をまとった「特急はつかり一号」は、海に突き出た終点・青森駅に滑り込んだ。遠くに霞んで見えるのは、連絡船の桟橋――過去と現在が交わるような風景だった。


「青森、青森、終点、青森」

 アナウンスが、どこか悲しげに響いた。


 祐二郎は、どこにでもいる七十過ぎの男である。節子を失い、心がどこにも居場所を見つけられずにいた。だからこそ、この旅は必要だったのかもしれない。


 駅構内の立ち食いそば屋から、白い湯気が立ちのぼる。その温もりを横目に、外へ出た。吐く息は白く、街灯に溶けて消えていく。


 駅前の広場には人影もまばらで、タクシーの運転手が煙草をくゆらせながらエンジン音を聞いていた。海の方から潮の匂い。遠くで汽笛が鳴る。もう連絡船はないはずなのに――あの音は、過去の呼び声のようだった。


 古びた旅館「青森屋」の木戸を開けると、灯油ストーブの匂いが懐かしく胸に沁みた。畳の部屋に通され、荷を下ろす。窓の外では、街灯の光の中を雪が音もなく降り続いている。


 ビールの缶を一本だけ開け、冷たい泡を口に含んだ。雪の音を聞きながら、ただ静かに時間が過ぎていく。――このまま眠ってしまえば、夜はただ過ぎていくだけ。だが今夜は、それが惜しい気がした。


 立ち上がり、マフラーを巻く。宿の戸を開けると、吹きすさぶ雪が頬を打った。

 足跡を確かめながら歩き出す。

 この旅のどこかに、まだ〈何か〉が待っている気がした。


 雪に半ば埋もれた小料理屋「小雪日和」の看板が目に入る。

 旅の匂いを誘うその佇まいに、吸い寄せられるように引き戸を開けた。


 黒のタートルに黒いエプロン姿の女が、カウンターの中から静かにこちらを見た。

 五人も座ればいっぱいになる小さな店。裸電球がやわらかな光を落としていた。

 流れているのは『津軽海峡・冬景色』。湯気とともに、懐かしい歌声が店の奥へと消えていく。


 祐二郎はカウンターの真ん中に腰を下ろし、壁のメニューに目をやる。

 女将の小雪が、温かいおしぼりを無言で差し出した。





「とりあえず、ビールをください。さっき青森駅に着いたばかりで……」


「そうですか、それは、それは……」

 小雪は小さく微笑み、ビール瓶とグラスを置いた。

 祐二郎はグラスを満たし、静かに口をつける。冷たい泡が喉を通り、旅の疲れがわずかにほどけた。


 黒板には〈本日のおすすめ 魚介のうまみ鍋〉とある。

 丸みのある、やわらかな字だった。


「魚介のうまみ鍋って、何が入ってるんです?」


「エビとイカ、ホタテに、長芋とごぼうです。魚介の出汁に少し辛みを利かせてます。寒い日にぴったり。ビールにも合いますが……やっぱり日本酒ですね」


 ――その瞬間、胸の奥が静かに震えた。

 それは、節子しか知らない祐二郎の好物だった。

 だが、祐二郎の心を揺らしたのは料理だけではなかった。


 何気ない仕草の中にあった、やわらかな気遣い。

 言葉少なに注がれる湯気の向こうに、かつての節子の面影があった。


 節子もまた、よくこうして彼の前に小鉢をそっと置き、

「熱いから、ゆっくりね」と笑っていた。

 そのときの声の調子まで、今の女将に重なって聞こえる。


 祐二郎は箸を握る手を止めた。

 あの冬の朝、節子が倒れたときのことが、ふいに胸をよぎる。

 もう戻らない時間。

 けれど今、目の前の湯気の中に、確かに彼女がいるような気がした。


 ――節子、おまえはこうして、俺の旅路を見ていてくれるのか。


 そう思った途端、熱いものがこみ上げた。

 箸の先がわずかに震え、視界がにじむ。

 料理の味も、酒の香りも、ただ胸に沁みていった。


 料理のうまさではなく、その奥にある「誰かを想う心」が、祐二郎の凍った心を溶かしていった。


 涙が頬を伝い落ちる。

 それを見た小雪は、何も聞かず、静かに盃を満たした。


 何気ない口調のやわらかさ、器を置くときの慎ましさ、そして、相手の目を見てそっと言葉を添える――そんな渋さの中にある、やさしさだった。


 そのやさしさが、節子の面影のように胸の奥に染みわたっていく。長い年月を越えて、誰かが自分を包んでくれるような、あの懐かしい感覚。


 気づけば、視界が滲んでいた。湯気の向こうで、小雪の姿がぼやけて見える。祐二郎は箸を置き、ただ黙って目頭を押さえた。


 ――ありがとう。声にならないその言葉が、胸の奥で何度も響いた。雪の夜に灯るロウソクのように、消えかけた心の奥に、小さな温もりがともった。


 そのとき、電球がふっと消えた。停電だった。


「動かないでくださいね。ロウソクを出します」


 小雪は暗闇の中を歩き、やがて小さな炎を灯した。

 ロウソクの光が、ふたりの間をゆらゆらと照らす。影が壁に溶け、店は幻想のような光景に変わった。


 小雪はカウンターを回り、祐二郎の隣に腰を下ろした。

「寒いでしょう。少しだけお酒をどうぞ」

 徳利を傾け、盃を差し出す。指先が触れ、わずかな熱が伝わった。


 外では雪が強まり、風が窓を叩いている。

 ロウソクの灯がかすかに揺れ、彼女の瞳の中で光った。


 祐二郎は思った。

 ――この人に、旅愁を感じる。

 それは、終わりを知りながらも歩き続ける人の、静かな背中のようだった。


「雪、ひどいですね」

「ええ。でも……悪くないです」

「悪くない?」

「ええ。こうして、誰かといる夜なら」


 ロウソクの炎が小雪の頬をやわらかく照らす。

 外の吹雪が、少しずつ遠のいていった。


 小雪がそっと言った。

「……あなたの奥さん、優しい人だったんですね」


 祐二郎は驚いて彼女を見る。

 小雪は微笑んだ。

「今のあなたの顔を見れば、わかります」


 その言葉に、祐二郎の胸が熱くなった。

 涙がこぼれ、頬を伝う。

 彼は小さく首を振りながら言った。

「……不思議だな。あなたの声を聞いていると、節子が隣にいるような気がして」


 小雪は微笑みを浮かべたまま、ふと目を閉じた。

 その唇が、ゆっくりと動いた。


「祐二郎……」


 ――その声は、確かに節子のものだった。


「いつまでも、そんな顔をしてちゃダメよ。

 私が先に行ったことは、悲しいことばかりじゃないの。

 生きていたことも、大事。

 そして、あなたと過ごした時間が、私の宝物だったのよ」


 祐二郎は息をのんだ。

 目の前の小雪が、次第に節子の面影と重なっていく。

 ロウソクの灯が彼女の頬を照らし、その光が、やわらかく揺れた。


「ご飯は、ちゃんと食べてる?

 洗濯は? 掃除は?

 埃まみれは体に悪いんだからね。

 まだまだ、そちらで楽しんでね。

 私はこっちで元気にしてるから……」


 声が少しずつ遠ざかっていく。

 雪の音が、静かに店を包む。


「それじゃあね、祐二郎。もう行くわね」


 祐二郎は、思わず手を伸ばした。

 だが、そこにはもう誰もいなかった。

 小雪はただ静かに、ロウソクの火を見つめていた。


 炎が揺らめき、ふっと小さくはぜた。


「……節子」

 祐二郎の口から漏れたその名は、雪に溶けるように消えていった。


 小雪は何も言わず、ただ盃を満たした。

 ロウソクの灯がふたりの間で揺れる。

 まるで、節子が微笑みながら見守っているように。


 ――その夜、祐二郎の中で、止まっていた季節が、静かに動き出した。


 ***


 翌朝。

 目を覚ますと、青森屋の布団の中だった。

 障子を開けると、眩しい銀世界が広がっている。


 みそ汁をひと口すする。――昨夜の鍋と、同じ味がした。

 小雪の笑顔、ロウソクの灯、吹雪の音。

 すべてが、夢のように、現実のように胸をよぎった。


 チェックアウトのとき、フロント係が言った。

「昨夜は、あの吹雪の中をよく無事にお帰りになりましたね。地元の人でも迷ってしまうほどでしたよ。道に迷われませんでしたか?」


「ええ、誰かが……足元を照らしてくれて」


「どちらへ行かれたのですか?」


「飲み屋街にある、小雪日和という小料理屋です」


 係の女性が、一瞬目を見開いた。

「えっ、『小雪日和』ですか? ……あそこはもうありませんよ」


 祐二郎は息をのんだ。


「だいぶ前に店を閉めています。たしか……お姉さんが亡くなって、その後、妹さんは――」


 言葉はそこで途切れた。

 ロビーの窓の外では、再び雪が静かに降りはじめていた。

 街灯の明かりが白に溶け、滲む。

 その光が――まるで、あの夜のロウソクの灯のように見えた。


 祐二郎はそっと呟いた。

「……節子。ありがとう。あの人が、おまえの代わりに、俺を癒してくれたよ」


 雪の中を歩き出す。

 遠くの空が、かすかに明るみ始めていた。


 そして、祐二郎の中にも――

 確かに、春が訪れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ