委員長は尋ねる
終業式を終えて次々に教室をみんなが出て行く中、数人だけが残っていた。夏休みの課題を始めている奴が二人、別のクラスにいる恋人を待っている奴が一人、なぜ教室にとどまっているのか分からないのが一人、そして早乙女。さらに僕。
男女合わせて六人が残る教室内、誰も一言も発しないということはなかった。
「早乙女さん」
あろうことか早乙女に話しかけたのは、どうして教室にとどまっているのか分からない一人――三葉莉胡。
副委員長の上の立場の、クラス委員長。
クラスをまとめる気のないことである意味有名なクラス委員長の三葉莉胡が、部下たる副委員長の早乙女未樹に声をかけた。
「な、何よ、三葉さん?」
仲が悪いのではないけれど、とりわけ仲が良いのではない組み合わせの二人の会話には緊張が走る。主に早乙女に。
「いえ、特段何か用があるのではないのですけれど、一つだけ聞いておこうかと思って」
ミステリアスなことである意味有名な三葉は常に丁寧な言葉で話す。目上には敬語だし、年下には謙譲語を使う。
にこりと、同じ中学三年生とは思えない大人な笑顔で、続ける。
「今朝の怪談話、いつ頃仕入れたのですか?」
「え――……え?」
外見が整っていて他校からも人気なことである意味有名な三葉は、顔にかかる髪を耳にかけて首を傾げた。きょとんとしている早乙女の態度に疑問を持ったのだろう。
本人はただ質問をしただけだ。
誰から聞いたのか、ではなく。
いつその話を聞いたのか、を。
重箱の隅をつついた質問を投げかける。
「誰から聞いたのかを尋ねてはいけないけれど、いつ聞いたのかを尋ねられても、早乙女さんは呪い殺されたりしないのでしょう?」
周辺地域では有名な三葉は、そんな風に言った。
しかしその態度が気に入らなかったのか、今朝からの欝憤が限界に達したのか、早乙女は鼻で笑った。
「三葉さんは私の話したことのすべてを信じたの? 今時小学生でも怪談なんて信じないっつーの! 内容がどんなに怖くても、聞いている間の恐怖感を人間は楽しんでいるのよ。そんなことも分からないの!?」
本当に山に幽霊が出るって思ってるわけ? と、金切り声に近い叫び声を上げた。
「だいたい、呪い殺すなんて表現がまず古典的じゃない! 前置きした意味なんてね、これは冗談ですよって言っているのと同じことなのよ! どうして分からないの!? 察しなさいよ、これくらい!!」
八つ当たりだった。
これ以上ないくらいの八つ当たりを、早乙女は三葉に向かって叫んでいる。続けざまに受験のプレッシャーを話していることから、本当は叫びたかったのではないかとさえ思えてくる。
みっともない姿を晒すくらいならクラスの注目を集めたかったのではないかと、勘繰る。大勢の生徒が集中する瞬間に快感を覚えていたのかもしれない。だって彼女はクラスをまとめる気のない委員長を補佐する、副委員長なのだから。
中学に入学してからずっと三葉の下で副委員長を続けてきた早乙女未樹の、ストレス発散法だったのかもしれない。
それを今朝、担任教師によって破壊されたのだが。
「そうでしたか。まずは謝ります。誤解していたみたいで、また、誤解をさせていたみたいでごめんなさい」
「そ、そういうつもりじゃ……」
熱くなって叫んだのに、冷静に頭を下げる三葉を見て顔を赤くした早乙女は俯いたまま顔を上げない。
「私はただ、いつその話を聞いたのかが知りたかっただけ」
「……どうして?」
淡々と話す三葉に早乙女は俯いたまま尋ねる。
「なんとなく、です」
柔らかい笑顔を見ていたのは、僕だけだった。他の三人の視線は机の上か窓の外に向けられている。
二人の会話をじっと見ているだけの僕は僕で怪しいものがあったけれど、聞かれて困る話ではなさそうだし、三葉のする質問には、僕自身も興味があった。怪談を恐る恐る聞くよりも平然と聞いていられる。
「先週よ……」
小さくなった声でも聞きとれるくらいの大きさで答えた早乙女に、三葉は「そう、教えてくれてありがとう。よい夏休みを」と手を振った。
「先週仕入れたお話なら、とても新鮮な話を聞かせてもらったということですね。ありがとうございました」
お礼を言ってから教室を去る三葉は疑問が解決されて晴れた気分になったものではなく、何の変化もない雰囲気だった。どうして聞いたのか、質問の意味が、まるっきり不明だった。
取り残された状態の早乙女は気を取り直したらしく、素早く帰り支度を整えると教室を出て行った。
やっと平穏を取り戻したとばかりに落ち着いた空気が満ちる教室内。
貰ったばかりの課題を進める作業が捗る音が聞こえた。
僕も教室を後にした。
学校を出てからさほど離れていないのに、先に教室を出ていたはずの三葉の姿を見つけた。早乙女の姿はなく、三葉を抜き去ったのか、通学路が違っていたのかは、早乙女の家の方向を知らない僕には見当がつかない。
まっすぐ歩いている三葉の歩調は、遅かった。
突然くるりと振り向いたかと思うと、にこりと満面の笑顔が浮かんだ。
「風丘くんだ」
予想していたと思わせるタイミングで名前を呼ばれて、どきりとした。
予想、されていたのだろう。
だって相手は三葉莉胡なのだ。
学校の校門から三〇〇メートルも離れていないのに、僕が三葉に追いついてしまうことを予想されていた。そりゃ遅く歩いていれば誰かが追い付くだろうけれど。
横断歩道で車の隙が出来るのを二人で並んで待つ。この流れは二人で一緒に帰る空気だ。
「どうして風丘くんは教室に残っていたのですか?」
「どうしてって……」
何台も連続で走り去る車を目で数えていると、そんな質問が投げ込まれた。
なんとなく夏休み最後の教室を簡単に去るのが惜しいと思っただけで。
もしかしたら、何か思い出を作ろうとしたのかもしれない。今朝の鈴姉の問いかけについて考えていたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
結果としてはこれといった思い出は出来なかったけれども。
「当ててあげましょうか?」
どことなく楽しげな三葉に、僕は目を向ける。目が合って、逸らされた。
「早乙女さんに質問したかったのでしょう? それも、私がしたのと同じ質問を」
「…………」
僕は答えない。
「そんな顔をしていましたよ」
「え、本当に?」
思わず訊き返してしまった。間抜けな僕を、三葉は笑った。
「荒れた状態の早乙女さんに声をかけられるのは、私くらいなものでしょうからね」
「なんで三葉はあえて荒れた状態の早乙女に質問したんだ?」
「荒れていようが、そうでなかろうが、私には関係のないことですから」
僕を見上げる三葉はにこりと笑って言った。いつも見せる大人っぽいそれではなくて、もっと年相応な、無邪気な笑顔。
屈託のない笑顔に相応しい言葉を、続けた。
「なんて、ね」
学校の中では決して見せない表情に戸惑う。仕事をしないクラス委員は、教壇に立つだけで空気が引き締まっていたけれど、今の三葉がもし教壇に立てば、クラス会は何一つ進行せずに早乙女を怒らせるだろう。
それほどまでに緩んだ雰囲気を、三葉莉胡という少女は持っていた。
そして、一歩踏み出した三葉の腕を、引いた。
瞬間、巻き起こる強い突風。
道路に足が引き寄せられる風に、目を細める。
驚いた顔の三葉のよろけた体を支えて、僕は猛スピードで去っていくスポーツカーを睨みつける。
――あの車、三葉を轢き殺そうとしていた?
見える範囲の歩道の信号は赤く光っている。すぐに青信号になったけれど、三葉が足を踏み出していた瞬間、まさに車道の信号は赤かった。
信号無視にしては、悪質だ。
「あ、ありがとう……風丘くん」
「怪我はないか?」
「だ、大丈夫です。助かりました」
三葉の体から手を離して、車に注意しながら道路を横断する。怯えた様子はないまでも、どこかさっきの車を意識しているらしい三葉を見て、僕は提案した。
「心配だから家まで送るよ」
当然の流れの会話である。
偶然であっても女の子と一緒に帰っている以上、家まで送るのはとても自然なことのはずだ。鈴姉に前に言われた覚えがある。
『女の子を家まで送ってこそ、真の男だ』
小さい頃はそれが男の中の男だと信じて止まなかったものだ。今思えば、簡単に鵜呑みにして良い言葉なのかどうか、それは怪しいが。
しばらく固まっていた三葉は、正気に戻ると首を横に振った。
下心なく、素直な善意の言葉を拒絶されるのは心が痛む。三葉だって僕に送られるのは嫌かもしれないけれど、コメントもなく拒否するのは止めて欲しかった。
「優しいですね」
「……普通だよ」
褒められて嬉しいけど、それよりも恥ずかしさが勝つ。鈴姉の言葉を馬鹿正直に信じて実行しているのだとは、とてもではないが三葉には言えない。