姉は提案する
「真音は中学三年だ。その三年間でやり残したことなんてないと、言い切れるのか?」
「…………」
ぐうの音も出ない。
受験して入学するつもりでいる高校ならばもう決めている。受かるかどうかはともかくとしても――落ちるつもりもないけれど――まさに盲点。
未来を見据えていたつもりが、目の前の未来を蔑ろにしかけていた。見落としたつもりもまったくなかったというのに、見落としすぎていた。まだ約半年も残っているのに、すべてを受験勉強に明け暮れようとしていた自分が途端に情けなく思えた。恥を知れ!
「なーんて言うと思ったか! 鈴姉、中学時代に語るべきものはとっくに持ってるぜ!」
「じゃあ話してみな。三、二、一、はい」
「ぐう」
ぐうの音しか出なかった。
それ見たことかと奇妙な笑みを浮かべて僕を見る鈴姉の顔を、直視出来るはずがない。
昔から鈴姉はそうだった。弟の僕をいじめて楽しむタイプの人間だ。いつの時代もそうだったし、これからもずっとそうなのだろう。他人をいじめて楽しむが、逆にいじめられると本気でキレる面倒なドS。
いつか仕返しをと企むものの、反撃の方が大きそうなので達成出来る気がしない。
僕が一生鈴姉の弟であり続ける限り、敵うはずがなさそうだ。
総理大臣になっても、官房長官になっても、刑事局長とかになったとしても、鈴姉に勝てない。
実際、中学三年生の一学期最終日を迎えている僕だが、話したいと思う内容が、語れる思い出が浮かんでいない。
何があったかは覚えているはずだけれど、人に聞かせる話という内容ではまったくない。
定期テストで満点を取ったわけでも、学年で上位の成績を取ったわけでもない。
体育祭で優秀な結果を残したというのでもない。文化祭に至っては何もしてないし。
無論、彼女なんてもっての外。
やり残したこと?
それはこれから考える。
「ふっふっふ。お前はねーちゃんに意見する資格がないらしいな」
「いや、鈴姉から聞いてきたんじゃないか」
目覚まし時計を細工してまで。
「決めた!」
僕の言葉はもう鈴姉の耳に届いていないらしい。
突然手を打って晴れ晴れとした表情の鈴姉は、ズバッと僕を指差して言った。
「明日から夏休みという絶好の機会だ。中学時代の思い出を作って来い!」
なんとなく予想していた発言が飛び出し、驚きを見せなかったのが不満だったのか、もう一度ズビシッ! と指を指し直した。
後ろにのけ反るという半ば強制されたリアクションを見せてから「でもさ」と意見を述べる為に挙手をしてから口にした。
「具体的に何をすれば思い出になる? 夏休みったって受験生ばっかりなんだから、遊びにも行けないと思うけど」
受験は夏が勝負と、よく塾や予備校のコマーシャルで言われている。夏に勝負して冬の受験シーズンまで努力が続くのかと疑問を浮かべずにはいられないのだけれども。
大学受験ならともかく、高校受験、しかも公立高校でレベルも僕に合った場所。油断さえしなければ入れると担任の先生も言っていた。
それは僕の場合であり、友人たちは話が別だ。
塾に通っていると、夏休みは合宿だったり毎日塾だったりと大変なことが多い。かくいう僕も塾通いである。が、高校受験よりも大学受験に力を入れる塾だからか、自習室くらいしか行く用事がないのだ。
つまり、僕は時間を開けられるけれど、友人はそうもいかない。
「友人の都合なんかねーちゃんには関係ないな!」
「話が合わない」
性格も合わない。家族じゃなければ絶対に関わりたくない人間だ。
「受験生だからって毎日勉強してても疲れるだけだ。息抜きも必要だし、塾の先生も休みが欲しいだろう」
「……ぐう」
言い返せないがその通りだとは思えず、でも鈴姉にぶつける反論が喉から出て来ようとしない。
まだ約半年も残っているのに、すべてを受験勉強に明け暮れようとしていた自分が途端に情けなく思えた。恥を知れ!
と心の中で言っていた数分前の自分もいたが、それを否定した直後の自分を慰めたい。
鈴姉の言う通りに夏休みを過ごすよりも、勉強に明け暮れた方が良い気がしてきた。塾講師だって仕事をしていた方が給料も増えて後で楽になるだろう。
そう思ってしまうくらい、僕は今、猛烈に嫌な予感に襲われている。
リビングの壁時計に目をやると、そろそろ朝食を食べないと本当に遅刻しそうだった。
「じゃあ鈴姉。手っ取り早くこの不肖の弟にどうすれば中学時代の思い出を作れるか教えてくれよ。僕は鈴姉に教えを請うよ」
僕の言葉に気分を良くした鈴姉は、外に出るには露出の多い服装をひけらかすように胸を張り、さながら盗賊団のボスのように両腕をソファの背もたれに乗せた。
堂々とした姿だけは尊敬してもいいと思った。
「そりゃ、お前。決まってるだろうが。考える間すら必要ないレベルで決まりきっていて、それはもう決定事項以外に言葉が見つからないくらい分かりきっているだろうが。
――初恋を、してこい」