1 姉は求めている
「十代の内にしておくべきことって、何だと思う?」
突然の姉の質問は、忙しい朝にやって来た。
夏休み前の七月後半。
海の日目前の今日は終業式だけで学校が終わる。中学生活最後の夏休みを前にした僕にその質問は高度としか言いようがなかった。
現在十九歳の姉――風丘鈴音は十一月に来る成人の誕生日の前に焦りを覚えているらしい。まだ七月なのに十一月なんて冬の話を考えている時点で僕にはその思考回路が意味不明なのだが、しかし姉は十代と二十代の間にある《大きな壁》を超えるのに必要な儀式みたいなものを求めているようだ。
そんなの、成人式だけで十分じゃないかと中学生の僕なんかは思うわけだけれど、言わせてもらえば九歳と十歳の間に壁なんかあったかと問い返したい気分にもなるわけだけれど、生憎あまり時間に余裕はない。
「鈴姉、その話は帰ってからでもいいか?」
「ああ、真音。お前の時計はねーちゃんが大切に時間を一時間前倒ししておいたから安心しろ」
「何してくれてんだよ!?」
「大事な弟があろうことか終業式に遅刻なんてしたら大変だと思ってな。つまり、あと一時間は余裕がある。ねーちゃんの質問に答えなさいな」
父親が若干無理をして買った一軒家の一階、リビング。
クーラーと扇風機の力によって涼しくなっている空間にねーちゃんはソファでふんぞり返っていて、僕はばっちり制服に着替えて鞄も持っていざ学校へ! と意気込んでいたのに。
意気込んで、は言いすぎか。遅刻かもしれない不安と恐怖ですでに汗だくだった。
落ち着いてリビングの時計を見てみれば確かに一時間も余裕があったし、必ず朝食を準備してくれている母親の姿もまだなかった。……と思ったら、「こんな早くに学校へ行ってどうするの?」とリビングに登場した。
「恥をかかなくて済んだな!」
「誰の所為だよ、誰の!!」
十代の内にすべきこと、というか、二十代になる前にしておくこととして、鈴姉はもっとしおらしくなるべきだ。
と、言いたいのをぐっと堪えて(五歳差では勝てるわけないと、これまでの人生でしっかり学んでいる)、僕は鞄を下ろしてソファに座った。
十代の内にしておくべきこと、と何度同じ質問をされたところで、やっぱり中学三年生の現役十五歳にはピンとこない話である。
まず十代と二十代の間に明白な違いがあるとは思えない。そしてどうして鈴姉が突然そんなことを言い出したのかが、分からない。
「理由なんかないよ。ただ、あー、十代もあと数えるほどだなーって思ったら、やり残したことありそうだなーってなってだな」
「女らしさは十代に置いて行くつもりなんだな?」
すっごい睨まれた。
タンクトップにハーフパンツという女子力の欠片も失われた格好で、大きく足を開いている鈴姉に睨まれようとも、改善する気がないのなら弟の意見を聞いてくれてもいいと思う。まだクラスの女子たちの方がよっぽど女らしい。
この世に存在するほとんどの物を「可愛い」と言える彼女たちの方が、二十代を気持ちよく迎えられそうに見える。
「次言ったら時計を一時間進めておいてやるからな」
脅し文句を言う度に、鈴姉の女子力は勢いよく落ちていく気がした。
「しておくことって言っても鈴姉。まだ焦る時期でもないだろ? 誕生日は十一月で、まだ七月なんだし」
「甘いな、弟よ! 今この瞬間にも十代の時間は奪われている! 一分一秒も無駄には出来ないんだよ!!」
言っている意味が、やっぱり僕には分からない。
初めて死を意識したのは小学校五年生の時。
身内に不幸があったのではなく、突然自分の中に死という概念が生まれ、心を占領した。勿論怖かった。長い人生が待っていると言われ続けて来たのに、最終的には死ぬ運命しかないことに絶望さえした。
当時の担任は「死を恐れるのは馬鹿である証拠。死を考える奴はもっと馬鹿」だと言っていたけれど、そうは思わない。
死を恐れ、抗い続けてこそ、人生は輝かしいものになる。
死を恐れない人間の方が、よっぽど怖い。
そんなのはただの、死にたがりだ。生き急ぎだ。怖いもの知らずだ。
悔いの無い人生を生きたいと思いこそすれ、鈴姉のように十代の内に、という考え方は理解し難い。
だって、年齢なんて通過点にしかすぎないのだから。
こう考える僕は、子どもじみているだろうか。
「サークルの先輩にさ、十代限定のライブに行ってみれば? って提案されてはいるんだけど、もっとこう、十代の記憶代表! みたいなのがねーちゃんは欲しいわけさ」
鈴姉は僕の意見を急かすよりも、一人で話し出している。こういう人はたいてい、結論は出ているけれど、話だけを聞いてくれる人を探しているものだ。いつぞやの数学の授業で先生が言っていた。
「男は女の話を黙って聞くものだ」
という言葉は、名言として語り継がれている。
この場合、姉弟間で適用されるかどうかは置いておこう。
姉という立場を利用して弟に話を無理矢理聞かせているのが、今の状況の正解だろう。僕の部屋の目覚まし時計を勝手に操作する強硬手段まで使われていて、急ぎ損の僕からすれば迷惑以外の何物でもない。
「十代限定のライブって言ってもさ、好きでもないバンドのライブ行くよりは好きなバンドのライブに行きたいし、そのバンドが十代限定のライブを開いてくれてる保障なんてないじゃない? 好きでもないライブのチケット取るくらいなら、そのバンドを好きな人にチケットは行くべきだとも思うわけよ。まずねーちゃん的にはさ、ライブは一人で行くより友達と行きたいと思ってるんだけど、友達は誰もライブに行きたがらないんだよね。これどうするべきだと思う?」
長い。
要するにライブには行ってみたいけれど、率先して行きたいとまでは思っていない。ましてや、十代限定でなくてもいい、と暗に伝えている。
「じゃあ、十代の内に結婚とか?」
我ながら突拍子もないと思う。
「それはちょっと」
無表情で冷静に拒否された。
こういうとこ、血の繋がった姉弟である。
「相手がいるかどうかじゃなくて、なんかこう、モラルとかあるよね」
妙に現実的な言い方をする鈴姉も、見た目はパンクだけれど常識的だ。今時そんなに珍しいことでもないとは思うけど、やはり学生の身分というのが冷静さを保っているのかもしれない。
「さすがに十代で結婚は慎重になるわ」
鈴姉らしくない言動に、キッチンで朝食を準備している母親もさすがの言動に作業の手を止めてこちらを見ていた。
「ま、まぁ、そんな男なら家族全員反対だよ! ね、母さん!?」
「そ、そそ、そうね!」
驚きすぎて包丁を落としそうな母さんに慌てて声を掛けると、我に返った母さんは「ほほほ」と違和感のある笑い方で笑った。
再び聞こえて来た包丁の音に安堵しつつ僕自身も冷静を取り戻してから、鈴姉に向き直る。
ガサツだし適当な部分も多いが、結婚観は現実的で家族としては一安心といったところか。家に彼氏を連れて来たことも、彼氏がいたという話も一切聞いた覚えはなかったけれど。
鈴姉が選ぶ男の人とは、一体どんな人物なんだろう。想像しても何も浮かばない。
「鈴姉。例えば記憶に残ってる十代の思い出を教えてくれよ」
話を戻して逆からアプローチを試みる。これからの思い出を作るよりも、今現在持っている記憶の中からヒントを見つけようという算段だ。あわよくばこれですでに十代にしておくべきことは一通り終わっていたと思いたい。
「十代の最初って、小学生でしょ? 小学四年って何かあったかな……。あ、そうだ。運動会の短距離走で学校記録を叩き出したっけ。あとは小学六年の時に中学生の喧嘩に混ざって、その場に一人ねーちゃんだけが立ってたっていうのも良い思い出だなぁ」
どんな姉だ。いや、こんな話が聞きたいのではない。バイオレンスな話は聞きたくない。
僕は至って普通の中学三年生であり、喧嘩や暴力とは無縁のところで生きてきたし、これからもそうするつもりだ。
「中学時代は……演劇部に入った後輩と山を毎日走り回ってたかな。ほら、真音の中学校の裏手にさ、山があるじゃん? あの山でねーちゃんが知らないことはないってくらい走り回ってたわ」
ああ、と頷いてから待てよ、と止まる。
小学校高学年で登る機会のある山で、標高は決して高くはないが、それなりに山として認知されている。標高は高い方ではない。確かにないのだが、低くもなかった。
現に、校舎の三階の窓から見えるのは、山の中腹。
毎日簡単に走り回れる山ではなかった、はず。
調子に乗って来たのか、鈴姉はご機嫌に人指しを伸ばして話し出す。
「何と言っても高校時代はあれだな」
「鈴姉、もういい。分かった。もう十分なくらいに分かった。十分知ってしまったよ。知りたくないことまで知ってしまった気分だよ」
しかし僕は詳しく話を聞く前に止めた。もう聞きたくもなくなっていた。
結論は、こうだ。
「今さらやっておくべきことなんか、ない」
「いやいやいやいやいや、弟よ。もっとよく考えてみてくれよ。姉の一大事だぜ? 二度と来ない十代という青春時代を有終の美をもって飾りたいわけだ。それをたった一言で、お粗末な一言で済ませてくれるなよ」
語尾に「ぜ」と付けるような姉に対して偉そうに意見を言う口を、僕が持っていると思われていることが心外でならない。
「むしろ二十代で何をするかを考えるべきだよ。濃い十代を過ごしてしまったら、鈴姉の二十代は薄っぺらなものにしかならなさそうだ」
必要以上に頷きながら僕は言う。文句の一つでも出してきそうな、それこそ「見捨てるような言い方は止めろ」とでも言ってきそうだと身構えているのに、鈴姉は一向に文句を言ってこない。
見捨てる真似なんて到底出来ないけれど。
「本当、アレだよな」
言葉を濁す鈴姉に、続きを促す沈黙を返した。
「なるほど、と素直に頷いてやりたい気持ちは重々あるのだけれど、弟らしからぬ、むしろ中学生らしからぬ台詞回しにねーちゃんは心配をしてしまうな」
「…………」
「達観でもないし、悟っているのでもなさそうだ。中二病と呼ぶのも何かが違う」
「……鈴姉」
「本質的には中二病に分類しても良いだろうけれど、どうも的を射ている言葉ではない。文学的、というにはねーちゃんは文学を知らないし、純文学なんてもっと知らない。ねーちゃんの乏しい語彙力で例えるなら、表すとすれば、そうだな――スレている」
スレているんだ。と同じ言葉をもう一度繰り返した鈴姉は、納得したように「そうだ、そうだ」と笑顔を浮かべている。
弟に向かってスレているなんて言うだろうか?
普通を知らない僕に答えは出ない。
一番気になるのは鈴姉の言葉遣いだ。文学を知らないと言っているのに、小学校の頃に流し読みした文学小説に登場する人物が話しそうな言葉遣いに聞こえるのは僕だけだろうか?
細かく覚えてはいないけど。
「お前はスレている。もっと言えば、ズレている。世間一般の中学三年生に、あんな台詞を言われてたまるかと、ねーちゃんは言いたい」
もう言っている。
「四歳の頃から真音の姉を務めてはいるのだけれど、だからこそ許せるというものなのだけれど、中学三年生が二十歳を前にしたほとんど大人の人間相手に堂々と言ってのける奴なんかいてたまるか」
怒られた。
言われた通りに、指示通りに、命令通りに鈴姉の問いに対する僕なりの答えを言ってみただけなのに、怒られた。
夏休み前の終業式の朝に。
目覚まし時計に細工をされて一時間も早く起こされたのに。
怒られた。
理不尽極まりない。
「お前なんかさっさと学校に行ってしまえ!」
「理不尽!!」
横暴にも程がある。弟にも人権はある。
なのに、鈴姉を前にすると毎月存在する人権の日も意味を成さない。
この世はなんと理不尽にまみれた世界なんだ。
「だいたい、十九歳のギリギリになって慌てる鈴姉が悪いんだろ?」
「その通りすぎてぐうの音も出ないが、黙れ、真音」
「理不尽!!」
姉としての職権を乱用しすぎだ。
「じゃあお前はどうなんだよ?」
「どう、と言うと?」
話の矛先が僕に向けられ、これはいよいよ本当に終業式に遅刻するかもしれないと不安に襲われながらも、しかし正直に聞き返してしまった。
鈴姉はさも当然だとタンクトップで胸部の装備に不安があるのを忘れているのか、胸を張って言った。
「真音は中学三年だ。その三年間でやり残したことなんてないと、言い切れるのか?」
書きかけのデータを探していたら見つけました。探していたデータは見つかりませんでした。
書いたのは2016年らしい。最後だけ書いてなかったのでこれから書きます。
内容が夏なので、ほぼ毎日投稿してみようと思います。
お付き合いよろしくお願いいたします。
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