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どこもかしこも磨き上げられた白い壁に柱たち。
所々に使われた上質な木材が温もりを与えつつ、高級感を発している。
自分の手で触れていいのか迷ってしまう。
そんな場所にシェリは立っていた。
「留守の間については任せるから、お父様も帰ってくるとは思うけれど、よろしくね」
「はい、かしこまりました」
聞こえてきた会話に、ああ、もうすぐ出かけてしまうのだなと知る。
お見送りに行きましょうとメイドから連れられてきた時点でわかっていたが、なるべくその可能性を考えないようにしていた。
(リゼットさま、行っちゃうんだ……)
ぎゅっと自分のドレスの裾を握りしめる。
シェリにとって、目の前の人がこの屋敷からいなくなることは何より恐怖だった。
豪華な屋敷に自分がいることに、まだ慣れることができない。
足下にはふわふわの毛足の長い絨毯が敷かれていて、歩くたびに不思議な感触がする。
目線の高さくらいにあるドアノブは、この頃やっと届くようになった。自由に開け閉めするには力が足りず、誰かにお願いしないといけない。
「あら、シェリ、来てたの?」
人混みを越えて、目の前にかの人の姿が現れる。
目と目が合った瞬間に、ふわりと優しく微笑まれた。この人に微笑まれると、勝手に心臓がドキドキしてしまう。
初めて会った時から、それは変わらない。
今までで見てきた中で、一番美しい人。一番朗らかに笑う人。
世の中にはこんな人がいるんだなと本気で思った。
「ちょっと仕事に行ってくるから。大人しく待っていてね」
「はい。気をつけて行ってきてください。リゼットさま」
距離が詰められる。人一人分ぐらいの近さに来ると、リゼットはしゃがんでくれた。
腰まである金髪はさらさらと、どこも絡まることなく流れていく。身にまとうのはに灰色の外套であり、彼女が仕事に行くときによく着ているのを知っていた。
シェリはこの屋敷で、突然放り込まれた異物に過ぎない。それなのに、自分に優しくて、放って置いても仕方ないのに、本当の家族のように目をかけてくれる。色々教えてくれる。
まさに聖女のような存在。
シェリはしゃがんでまで、視線を合わせてくれるリゼットの顔を眩しそうに見つめた。
「だーめ」
「いたっ」
ピンと人差し指で額を弾かれる。
わずかな衝撃に目をつむった。
何で?とリゼットを見上げれば、不服そうに頬を膨らませた表情。
先ほどまでに凛とした雰囲気とは違い、年相応の幼さが見えている。
「リセット様じゃなくて、お姉ちゃんよ」
「……でも」
「いいから。言わないと仕事に行けないわ」
他の使用人たちの視線が痛い。リゼットの一言で、シェリは自分の身に棘が刺さるように感じた。
お前が名前で呼ぶのかという圧力と、リゼットの仕事の邪魔をするなという圧力。
どちらに転んでも針のむしろだ。
彼らに共通しているのは、シェリのことを認めていない。気にしていない。見下げている。つまりは、どうでもいいということだ。
(お姉ちゃんって、呼んでいいのかな)
リゼットが喜ぶならば、姉と呼ぶくらい何てことない。
呼んでも呼ばなくても視線の圧力は変わらないのだから。
「ねえ、さま」
さすがにお姉ちゃんとは言えなかった。
初めて口にした言葉を舌先で転がす。
なんと言うか甘かった。慣れない言の葉に体がついていってくれない。
音がこもる。小さい、その上、モゴモゴしていて、リゼットには聞き取りにくかっただろう。
それでも、慣れない姉という言葉を、彼女はきちんと受け取ってくれた。
舌っ足らずな呼び方に破格の笑顔見せてくれたのだ。
「すぐに帰ってくるから、お利口にして待っていてね」
ポンポンと頭を撫でられる。
リゼットの艶やかな髪には及ばないが、この家に来てからよく手入れされている。リゼット自身が梳いてくれる時さえあった。
そのおかげで、肩甲骨ぐらいまで伸びた髪の毛はふわふわしている。
もっとも、シェリの頭をなでる人などリゼットくらいだから、その変化に気づいてるのも彼女だけだろうけれど。
「気をつけて行ってきてください」
暖かい手だった。
まるで彼女が使う魔法のようで、顔が勝手に緩んでいく。
一度、庭で転んだ時に魔法を使ってもらったことがあった。
聖女の魔法。限られた人間にしか使えない力。私用は禁止されている。
二人だけの秘密ねと言われたことは、シェリに焼き付いていた。
「大丈夫。今回は巡回だし、教会で祈ってきたらすぐ終わるわ。帰ってきたら一緒に本でも読みましょう」
「姉さまが読んでくれる本、大好きです」
どんな顔をしていたのか。シェリにはわからない。
だけど、不安そうな顔をしていたことは想像できる。
優しい言葉をかけてくれる姉の姿に、自分の寂しさを押し込めて、精一杯の思いを伝えた。
シェリの言葉を聞いてリゼットは満足そうに頷くと、立ち上がった。
「行ってくるわね」
「いってらっしゃいませ」
くるりとこちらに背を向ける。
シェリは噛まないように気をつけながら、一番大きな声で見送った。
リゼットの後に何人か従者がついていく。
完全に扉が閉まるのを待って、馬車が遠くに行くの聞いても、しばらくは動くことができなかった。
「お部屋に戻ります」
「……はい」
姉がいない今、この家にシェリの面倒を見てくれる人はいない。
姉が早く帰って来てくれることを祈って、部屋に戻った。
部屋で待っているのは貴族令嬢らしくあるためのマナーと教養。
怒られてばかりのシェリには、嬉しくない時間だった。
(姉さまが帰ってきたら、いろいろ話を聞こう)
姉のようになるために、この勉強は必要なのだ。
そう自分に言い聞かせて姉を待つ。
だが、すぐに帰ってくると言った姉は帰ってこなかった。
これがシェリが姉を見た最後の日になった。
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