アリス、旅立つ。
一週間前。
郊外の町、ガラシューカ。小さな個人商店や民家が寄り集まったこじんまりとした町である。そんな町の片隅にリベラ道具屋という古い看板の掛けられた一軒家はあった。その玄関の中で、アリスは自分にぴったりの革靴を履いていく。黒いブラウスに白のリボン、アメジストを思わせる深い紫のワンピースというトウ・ロヴァリス学院の制服を身にまとった彼女の表情は希望に満ち溢れていた。後ろで孫娘の出発を見送る老夫婦は、己の心配を気取られないようつとめて明るく声をかける。
「忘れ物はないかい?」
祖父の言葉に振り向いたアリスはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫、ありがとう」
「気楽におやりよ。ね」
そう柔らかく伝えたのは祖母である。
「うん」
アリスは元気よく頷くと、玄関ドアに向き直る。ドアを押し開けながら、彼女は老夫婦に出発の挨拶を送った。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
若者の姿は遠ざかり、ドアはゆっくりと閉じられる。彼女が去ってからも、しばらく二人はドアを見つめていた。
早朝の陽光の中、ガラシューカの住人たちが店の準備をしている道を、アリスは軽い足取りで通り抜けていく。
「みんなおはよう!」
張りのあるアリスの声に、住人たちは笑顔で言葉をかける。作業着姿の大男が低い声で笑う。
「おはよう。もう今日か」
「うん。行ってくるよ」
アリスと大男はすれ違いざまハイタッチをした。近くにいたエプロンの女性がアリスを激励する。
「えらいもんだよ。ガラシューカ商店街の星だ。がんばんな」
「ありがとう。がんばるね」
アリスはその場でいたずらっぽくスカートのすそを持ち上げた。その後も見送りの挨拶を浴びながら通りを跳ねるように歩いていく。
ガラシューカの中心部に位置する小さな駅。
アリス以外誰もいないホームで彼女は青空を見上げる。ほどなく蒸気機関車が入ってきた。吸血鬼との和平と時を同じくして起こった産業革命によってこの国は様変わりした。国力は増大し、民は裕福になった。しかし輝かしい栄光の裏で、影もその存在をより濃くしている。貧富の差は開き、犯罪は凶悪化している。小さく平和な町で生きてきたアリスがそのことを実感するのは、ほど近い未来のことであった。
ゆれる機関車の中、窓際の席でアリスは外を眺める。離れていく故郷と、近づいてくる新天地。アリスは様々な感情を押し込めるように拳を握りしめた。
半日近い時間をかけ、機関車は首都中心部、ロヴァリス駅に到着した。人波にもまれながら、アリスはゆっくりと駅舎から出ていく。彼女の口から意図せず声が漏れた。どこか不気味ささえ感じるような、美しい街並みが彼女を歓迎していたからである。
「わあ……」
呆けるアリスに通行人の男がぶつかった。
「邪魔なんだよ」
どこか皆急いでいるような空気に、アリスはぽかんとする。生来楽観的なアリスである。自分からぶつかってきたのに不思議なひと、などとぼんやり考えていた。すぐに通行人のことは脳内から消えていく。崩れた体勢を整えると、アリスは手帳を開く。
「次はバスね」
そしてまた、彼女は歩き出した。