泡沫ニ寅ヲ夢ム
トラがなやましげに頭を垂れていた。
密な体毛は麦秋を想わせる金色で、高貴な縞が夜よりも黒々としなやかな体躯を飾っている。煌々とした金の瞳は尊く凜として、絵師がひと目彼を見たなら、喰われることと引き換えてでも絵姿にしたいと、伏して泣き拝んだろう。
トラは名を五黄といった。
うなるようにグルグルとノドを鳴らし、暗がりを右に左に歩き回っては時折大きな鼻から長い息を吐く。
一刻も二刻もそんな有様だったが、彼はついに歩き出すことにした。
大きな前足の先には蛇のようにうねる道が、長く長く伸びていた。
それをとぼとぼと歩くので、道ゆきは遅々として進まない。
五黄には憂いがあった。行かねばならぬが、行きたくないのだ。
また立ち止まり、青い息をつくと遠くを見る。
道の奥に白い影が見えた。先から歩いてきたのは、一対の銀の角をもつたいそう大きな獣だった。千里歩いてきたとは見えぬ悠々とした足取りは、その牝牛がただならぬ者とすれ違う誰もにしらしめる。
白い牝牛は、道のはしでうなだれている五黄のそばで立ち止まった。
「五黄、ずいぶん遅いな、間に合うのか? なんとつまらぬ顔をしているものか。さような顔でつとめが成ろうか。まだここから江戸は遠いぞ。そこらの鳥から翼なりと借り受けて、疾く駆けてゆくがよい」
トラは昔馴染みの声に顔を上げたが、その双眸に喜びは宿らなかった。
「行っても好かれぬ。それがつらい」
「なにをいう」
「絵巻に載ろうと、扇を飾れど、ちいさき張り子になりてもいつも、暗い箱にいれられそれきり。我のように姿形かように大きく、ノド引き裂く爪と牙持ち、ふるえるほどに太き声をどうして愛でてもらえよう」
頼りなくつぶやかれた告白を、白い牝牛は笑い飛ばした。
「愛でてもらうとは!」
「嗤うな。ヌシにはわかるまい」
「愚か愚か、ちいさき肝の大きなる五黄。なれば、卑小な願い叶えて進ぜる」
白い獣が銀の角を振りかざし、ノドをそらし長鳴きすると、稲妻のような光が闇を裂き、うなだれた五黄にしたたかに打ち当たる。
すると、大きくしなやかだった五黄の体は、たちまちちいさな白い毛玉へと変貌した。変じた五黄のネズミのようなつぶらな瞳が己の身体をつぶさに眺める。
背も腹も真っ白で、細く頼りない手足は長い毛で覆われている。
牝牛は目を細めていじわるく言った。
「童の手まりのようだな、満足か五黄」
「とらはコレなら我を好いてくれようか。よう来た五黄と、笑うて撫でてくれるだろうか」
「さても、その姿では、その『とら』もヌシとはわかるまいよ。あわれなちいさき五黄」
「要らぬといわれたことのない者にはわかるまい。世話をかけた」
大きな牝牛はつまらなそうに鼻を鳴らして、蹄で地を蹴った。
五黄は白い身体をまりのように弾ませ、とことことまた長い道を行きはじめた。
大きな牝牛はそれを見送るとゆるく首を振ったが、思い直して五黄を追った。
江戸を目指す五黄の胸に、しばらくは愉快な気持ちが満ちていた。歓びといってもよかった。だが歩みを進めるごとに、五黄の足は重くなる。かつて千里を苦もなく駆けた強い四肢はすでに失く、己を奮い立たせんと天に放った声もなさけないほどか細く弱い。
疲れをおぼえた五黄はたちどまり、道ばたのちいさな水たまりに口をつけ、乾いたノドを潤した。
足をそろえて水面にうつる己を見つめた五黄は、牙も爪もしま模様も鋭い瞳さえ失った、ただの小さく丸い毛玉の己を省みる。
「とらはこの我を好いてくれようか。よう来たとゆうてくれるだろうか。ほんとうに、ほんとうに――」
のんびりと追いついてきた白い牝牛は、その呟きを耳にはさむと、おもしろそうに足下のちいさな毛玉をのぞきこんだ。
「どうした、五黄。気に食わぬのか」
「我の爪と牙は邪を砕く。我の瞳は闇を裂き、太い声は魔をくじく」
「いかにもいかにも、かつての五黄はそうであった」
揶揄する牝牛の声は、だが人が聞けばほのかに香るほどの慈愛を含んだ。
「失うては役立たぬ」
「しかり。ちいさく白き五黄よ。なれば如何に」
「元の姿に戻してくれるか、先の年神、旧き友」
「よいのか、五黄。そのなりで行けば、笑うて迎えてくれるやもしれんぞ。戻らばこたびも暗き納戸の肥やしになるぞ」
「我は我だ。とらを守る猛き爪と鋭き牙はいつの日も誇りであった。忘れまい、もう忘れまい」
「はは、好かれずともよいのだな、五黄」
白い牝牛は再び銀の角を天に突き上げた。ちいさく丸い影は光に飲まれ、代わりに猛々しい獣の輪郭が闇に静かに浮かびあがった。
「よい。のぅ、とら」
くるりと振り返った五黄の瞳は、朝日のように穏やかな金色をしていた。
ぶるりと震え、少女はハッと目覚めた。とびおきて乱れた寝間着のまま部屋の隅に駆け寄り、閉めたきりの二段の厨子棚に手をかける。
霜の降りた静謐な朝とさかしまに、とらの胸は早鐘のように鳴っていた。
両開きの扉を開く。中には、ぴっちりと閉じられた扇とぎっちり紐で留めたままの絵巻、ころりと転げたちいさな張り子。
少女はそっとそれらを取り出すと、漆塗りの文机にならべまじまじと見た。
忙しない足音がするすると廊下をすべってくる。
とらが気づいて顔を上げると、乳母が木戸の影から顔をだした。
「まぁ、とらさまお目覚めでよかった。晴れ着をお持ちしましたよ。さあ髪を整えましょう。亥之吉お兄さまも、妹のおたつさまも、もうお着替えなすって奥にゆかれましたよ」
とらはコクンとうなずいて、櫛をにぎった乳母がせかせかと身なりを調えるのに身をまかせた。ひとときすると、待ちあぐねたらしいとらの母の甲高い声も飛び込んでくる。
「とら、おとらや! とと様がまだかと申されましたよ。支度は済みましたか、はようはよう」
花尽くしの赤い晴れ着に金と黒の市松模様の帯を締め、とらは文机に置いていた扇を差すと、急ぎ父の待つ座所へ向かった。日頃は絶え間なく人の出入りする大店も、元日ばかりは静かなものだ。
上座にあぐらをかいた父は、常に輪をかけたえびす顔で、並んだ息子と娘たちをうれしそうに見てうなずいた。
とらの兄の亥之吉が、子どもたち三人がそろったのを見渡して頭を下げる。
「新年おめでとうございます。おとと様」
「うむうむ、みなおめでとう」
三人の子どもたちを見回すとひとしきり挨拶をのべ、父はポンポンと手を叩き、乳母に四つの包みを持ってこさせた。
「さぁ、みなに新年の祝いじゃ」
父のそばに座るとらの母には、京から取り寄せた美々しい西陣織、兄の亥之吉には猪を浮き彫りにした立派な舶来のすずり、妹のたつへの色摺りの絵本は龍がたいそう活躍するようだった。そしてとらには、ちいさな木箱が渡された。
「とらよ、開けてみよ。そなたの産まれ年もひとめぐり。元服、髪上げの頃合いじゃ。祝いの年玉も殊更ぞ」
開くとおさめられていたのは、銀のはなやかなかんざしだった。
いま江戸で流行りの形だ。
梅の花の打ち出しのある扇のふちから幾筋もの銀鎖が垂れていて、ゆらすとしずくのような桃色サンゴのつぶがさらりとすずやかな音を立てる。
ひとすじ太い鎖の先には、小指の先ほどの飾りがついていた。
手の込んだものとひと目でわかる、銀で練られたトラの細工物だった。
トラの四肢は大地を踏みしめる力に満ちて、墨色の上品な縞が、しなやかな身体を飾っていた。虚空をにらむちいさな瞳は金の象眼で輝いている。とらはそれをじっと見た。じっと見つめて動かなかった。
それを見たとらの母は、渋い顔をして夫をとがめる。
「あなた様ときたら、また寅の飾りをおつけになったのね」
「おうとも、とらを守るよう願いを込めた。産まれ年の年神さまは生涯の守り神、我の父も母もそのように申し、我が子たちにも御名をもろうた」
満足そうなとらの父は、妻の渋面をみても笑みをくずさなかった。
「ですが、おとらは寅のあしらいを好みませんと幾度も申し上げましたのに。イヤなとと様ですね、とら」
そんな母の声を聞いても、とらは手にしたかんざしをじっと眺めた。
手の中の銀細工も、とらをみつめているように思えた。
その無言を母はあわれみ、キッと強く夫をにらんで言った。
「辛抱なりません。娘が好かぬというものを、いつもいつも贈る親がありますか」
ついにとらの父もバツの悪そうな顔で、とらのほうに身を乗り出し不安げに尋ねた。
「むぅ。とら、好かぬか?」
「いいえ、ととさま。五黄はとらの守り神でございます。大切にいたします。たいそう気に入りました」
とらの母は目をまんまるにして驚き、父は満足そうに笑みのしわを深めた。降って湧いた「ごおう」という名には首をかしげたが、子どもの名づけ遊びとなにも尋ねずただうんうんと頷いた。
「さあ、みなを呼んでまいれ。上も下もめでたき朝をともに祝おう」
上機嫌の家の主人の呼びかけを合図に、店の若衆もかまどの係も皆がこぞって正月のごちそうをつぎつぎに奥の間に運び入れはじめる。
元日だけは、店のみなが集って飲み食いする特別な日だ。
とらは、童髪に留めた瑪瑙の飾りをひきぬくと、新しいかんざしを若い黒髪にスッとさす。
シャラリと鳴る銀かんざしの、端にゆれるちいさなトラが、朝日を浴びてキラリと光った。