第五話
うちの社宅の近くに小学校が新しく建設される事になった。何もなかった広場に、どんどん完成に近づいていく学校を見ているのは楽しかった。
母さんが言う。
「あんた、4年生からはこの学校に通うのよ」
もうすぐ4年生。新築の学校に通うのは楽しみだった。
そして待ちに待った春、新しい学校に通い始める。
知っている子も少しはいたが、全然知らない子の方が多かった。子どもなりに緊張していたけど、新しい環境はやはり嬉しかった。
良かった。あたしが授業中散々トイレに通った事を知らない子がたくさんいる。膀胱も落ち着いているし、新しい環境でやり直そう。
小さな胸に決意がみなぎっていた。
その春、姉ちゃんが中学生になった。セーラー服を着た姉ちゃんも緊張しているように見えた。
母さんが誇らしげに言う。
「制服着ると、一層立派に見えるね」
あたしが中学生になる時も同じ事を言ってくれるのかな?
その頃、学校では男子と女子の違いを学ぶようになった。女子だけ集められスライドを見せられたりした。クラスでは生理の始まっている子も何人かいた。
教室に戻ると男子に
「女子だけ何のスライド見てたんだよ!」
とからかわれた。
山城さんって女の子は
「何でもない」
と目を伏せて答えていた。納得しない男子たちはしつこく聞いてきた。
着替える時、男子が教室の外に出され、女子は堂々と脱がず、もぞもぞと着替えた。カーテンの向こう側で着替える女子もいた。
その子は言ったよ。
「畑のおじさんが見る」
…お年頃だねえ。
前の学校で一緒だった友達と遊んだ。
その子は得意気な顔でこう言った。
「うちの親が、マリちゃんの通っている学校ってうちの学校の分校だって言っていた」
何が言いたいのか分からない。
「だから?」
と聞いたら得意気な、自慢気な顔で、もう一度まったく同じ事を言う。
「だから、うちの親がマリちゃんの通っている学校はうちの学校の分校だって言っていた」
絶句する。だから何なの?そっちの学校が偉くて、こっちの学校がレベル低いって言いたいの?
この人、母さんみたい。
家の電話が鳴る。最初に母さんが出て、姉ちゃんに代わった。
姉ちゃんは最初楽し気に受話器を取ったが、急に表情が硬くなり
「はい、はい、はい」
しか言わない。電話を切ってからもむやみに深刻な顔をしている。
…何だろう?
その電話は頻繁にかかって来た。
そのたびに姉ちゃんは
「はい、はい、はい」
しか言わず、切ってからも暗い顔でいる。
時々
「すみませんでした」
と謝っている事もあった。
…はて?なんじゃらほい?
ほどなく学校の上級生に脅されているという事が分かった。原因は、端的に言うと「やきもちを焼かれた」と言う事らしい。
油絵が好きな姉ちゃんは、部活に美術部を選んだ。最初は楽しく活動していたが、その部に素敵な3年生がいて、
「明夫先輩、明夫先輩」
と懐いていた。ついこの前まで小学生だった姉ちゃんから見れば、中学3年生ってーのは物凄く大人に見えた。明夫先輩も可愛がってくれたらしい。
その明夫先輩っつーのはえらくモテるタイプで、他にもファンがいっぱいいた。そのファンの子たちが、自分らより年下の姉ちゃんに嫉妬して、わざわざ電話をかけてきてまで
「明夫に近づくな」
と脅していたのだ。
へえ。中学校ってーのは恐ろしい場所だねえ。脅迫があるとは。
姉ちゃんはしばらく悩んでいたらしいけど、当の明夫先輩がみんなに
「あの子はまだ子どもだから、僕はあんな子を相手にしないよ」
と言ったとかで、ファンの子たちは安心したのか、誰も姉ちゃんに電話してこなくなった。
それを誰かから聞いた姉ちゃんは、自分は相手にされないのか、と傷ついたようだが、それより何より上級生の脅迫電話ほど怖いものはなかったらしく、電話が来なくなった事にほっとしていたよ。
もしかして明夫先輩は姉ちゃんを守ろうとしたのかも知れないけど。
おー、おっかねー!あたしはまだまだ小学生でいたい!
新しい学校で、初の野外学習。バス遠足のお知らせが来た。
持ってくるものを書いた用紙を母さんに見せ、用意をしてくれと頼んだ中に、子ども用の酔い止めの薬と嘔吐の為の袋を二枚、必ず「紙の袋の中にビニール袋を二重にセットするように」とあった。
母さんは面倒臭そうに薬箱の中を漁り、古い大人用の酔い止めと、父さんが会社から持ってきた嘔吐用の袋をくれた。
父さんの会社の袋は、紙の袋の内側がビニール加工されているものだった為、それでいいと思ったらしい。
あたしは母さんに言った。
「紙の袋とビニール袋を二重にセットしてと書いてあるよ、そうして」
母さんはもっと面倒くさそうに言った。
「だってこれ、中がビニール加工してあるもん、だから大丈夫よ」
「もし破れたら困るからちゃんとしてよ、ちゃんと用意して」
「いいよ、これで。これでいいよ、うるさいなあ」
当日、大人用の酔い止めをどうしても飲めなかったあたしは案の定バスに酔い、その袋に吐く事になった。
母さんから渡されたその袋は、内側がビニール加工されてあったとはいえ、あたしの嘔吐物の温度に耐え切れず(そりゃそうだ。たった今まであたしの胃の中に入っていたんだから、温かいに決まっている!)破れて中のゲロが飛び散り、みんなに本当に迷惑をかけ、大ひんしゅくをかった。
帰ってから母さんにそれを伝え、みんなに悪かったし、恥ずかしかったと訴えたが、やはり他人事という感じで
「そうお?んー?」
と首をかしげ、とぼけるばかりでゴメンの一言もなかった。
その遠足でもうひとつ、つらい思い出がある。
最初あたしはバス遠足に行きたくなかった。
しょっちゅう顔やら体に痣を作っていたり、家族の事を話したがらず、つまりみんなと違うあたしはクラスで浮いた存在で、一緒にお弁当を食べる友達がいなかったからだ。
「あんた、バス遠足に行きたくないって言ったんだって?どうして?」
母さんにしつこく聞かれ、しぶしぶ理由を話した。
「そう、なら先生に言ってあげる」
母さんはそう言うと、すっくと立ち上がって電話機に向かった。あたしはまさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったし、慌てふためいた。
「やめて、そんなの恥ずかしいからやめて!やめてよう!!」
母さんはその場で学校に電話をかけ、必死に阻止しようとするあたしを肘で押しやったり足で蹴ったりしながら担任の先生に伝えた。
そして電話機を下ろしながら勝ち誇ったように言う。
「だって本当の事じゃない、何が悪いの?自分の撒いた種、自分で刈り取りなさいよ」
呆然とする。
…翌日、先生がクラスのみんなの前で
「沖本さんが一緒にお弁当を食べる人がいないので、遠足に行きたくないと言っているそうです。誰か沖本さんとお弁当を食べてあげて下さい」
と言いやがった。
みんなが、馬鹿じゃない?という目であたしを見る。元々いたたまれなかったけど、更にいたたまれず、消えてなくなりたかった。
ああ、なめくじみたいに溶けちまいたい。誰か塩でも振ってくれよ。母さんもひどいけど、先生も先生だよ。
そして遠足の当日、
「あ、沖本さんとお弁当食べてあげなくちゃ」
と、聞こえよがしに言われた。仲間に入れてもらっても、ちっとも嬉しくなかった。
その弁当も、彩りが悪い上に極端に小さく、
「本当にそれで満腹するの?」
だの
「ねえねえ、沖本さんのお弁当あんなに小さいよ!」
と、みんなが次々に見に来るような、惨めな弁当だった。
みんなが色とりどりの、大きくてきれいなお弁当を楽しそうに広げている中、あたしは蓋で隠しながら必死に食べた。早く空っぽにしたかった。早く弁当の時間が終わって欲しかった。
帰宅してから
「もっと大きくてきれいなお弁当作って、今日、恥ずかしかった」
と訴えたあたしに母さんは言ったよ。
「え?だって、あんたお弁当小さくていいって言ったじゃない」
「え?あたしそんなこと言ってないよ。お姉ちゃんじゃないの?」
と言ったら
「え?んん」
と、混乱しながらすっとぼけてやがる。
「とにかくもっと大きくてきれいなの作ってよう!」
と言ったら逆切れして
「じゃあ自分でやればいいじゃないっ」
と怒鳴り、本当に作ってくれなくなった。
それからあたしは小学生にして、いつも自分で弁当を作る羽目になった。
新設校ゆえ給食の設備がまだ整っておらず、毎日いちばん苦痛な時間は弁当の時間だった。
ある時自分で作った弁当は、手提げの中で傾いて片側により、開けたら半分しか入っていない状態だった。みんなにどっと囃したてられ、その後もずっと悪口を言われ続けた。
「沖本さんの弁当っていつもいつも、すっごいみすぼらしいんだよ。この前なんて、半分しか入ってなかったんだよ」
同じ班の女の子は、あたしに聞こえよがしにそう言っていた。
3か月くらいして、ようやく給食がスタートした時、ああこれでもう弁当作らなくて済む、って誰より嬉しかったよ。
その頃、あたしはよく貧血を起こし、朝礼や授業中に倒れる子どもだった。そのたびに保健室に運びこまれ、母さんが迎えに来るまでへなへなになりながら寝ていた。
「かわいそう、真っ青」
という保健室の先生の声を遠くに聞きながら。
母さんはいつも
「まあ、申し訳ありません」
なんて言いながら保健室に入って来る。
そしてさも心配そうに
「あんた、大丈夫?」
とか言いながら、あたしを連れて帰る。
そして家に入った途端に
「あんた、寝てなさい。あたしは忙しいから」
と冷たい背中を向けられた。実は心配なんてしていないのがよく分かった。放置されたあたしは自分で布団を敷き、ひたすら寝た。
また別の時、迎えに来てくれたのはいいが、家に入った途端にまだクラクラするあたしを
「倒れる前にしゃがみなさいよ」
と肘で小突いた。
押されたあたしは気を失い、そのまま倒れたよ。
母さんったら、自分の目の前であたしが白目をむいて倒れたもんだからびっくりして、ちょうど遅番でまだ家にいた父さんを呼んできて、二人がかりであたしをリビングまで運び、ユサユサ揺すって目を覚まさせたよ。
はて?自分の身に何が起きているのかよく分からず、ふらふらと起き上ったあたしを見て、母さんはわざとらしく壁に向かって座り、ハーハー言いながら自分の胸を押さえていたよ。
ったく、急に良い母親ぶるなよ、もううんざりだよ!原因はオマエだろ!
翌日、学校に行ったらみんなが集まってきて心配そうにこう言ってくれたよ。
「沖本さん、大丈夫?」
嬉しかったね。親は迷惑がるけど、友達は心配してくれる。
「大丈夫だよ」
と答えると、片岡さんって子が不思議そうにこう言った。
「沖本さんて、どうしてしょっちゅう倒れるの?」
「貧血なの」
「貧血ってなあに?」
んん、何て説明すればいいんだろう。迷ってからこう答えた。
「血が足りない病気」
「血が足りないの?」
「そう」
これでみんな納得してくれるかと思ったが、別の意味で納得したらしい。
その日からあたしのあだ名は「吸血鬼ドラキュラ」になった。
…勿論、嫌だった。
その何日後だったか、また朝礼で貧血になった。
目の前がすっと暗くなる。頭の奥がしびれるような感覚。倒れてはいかん、としゃがみこむ。
「またあ?」
高橋さんの声がする。しょうがないじゃん、て思った。
先生が両側からあたしを支えて、保健室に連れて行ってくれる。ああ、助けてくれる。有り難いけど母さんには連絡しないでくれ。あたしの頭の中は、それでいっぱいだった。
母さんに連絡しないで、どうか連絡しないで。
「先生、あたし大丈夫ですから、家には連絡しないでください」
必死に頼み込む。
「沖本さん、どうして?お母さん心配するでしょう」
「いいえ、心配なんかしませんから。本当に大丈夫ですから、ひとりで帰れます」
自分でも授業を受けられる状態ではないのは分かった。ヨタヨタしながら家に帰る。
途中、林の中からカンガルーが出てくる幻覚まで見たよ。ああ、頑張れあたし、これは幻だよって自分に言い聞かせながら、ようやく家にたどり着く。
母さんはいなかった。心底ほっとする。
自分で布団を敷き、崩れ落ちる。その後の記憶なんてない。一瞬で眠り落ちた。
…夕方になりやっと目を覚ます。ふらふらと部屋を出ると母さんが言った、
「何よ、あんた。学校から電話がかかってきて、あたしわざわざ迎えに行ってやったのに。行かなきゃ良かったわ。あんた、さっさと帰っちゃうんだもん」
ああ、行き違いになったのか。先生はやはり母さんに電話をかけたんだ。あんなに電話しないでくれと頼んだのに。
母さんは、自分に迷惑をかけまいと無理をして自力で帰ったあたしに、いたわりの一言もなかった。あたしはまだフラフラだったのにさ。毎日レバーばっかり食べさせられるし、もうレバーなんか飽きたよ!見るのも嫌だ!
母さんはあたしがやってくれという事はしてくれず、やめてくれと言う事は強行し、自分に気を使ったり、自分を懸命にかばうあたしに「当たり前」という態度をとり続けた。そして傷つくあたしを嘲り笑い、更に針のむしろに座らせた。
「だって本当の事じゃない。何が悪いの?」
だの
「あたしはひとつも間違った事を言っていないし、してないわ。あたしに何のミスがあるの?」
だの
「自分の撒いた種は自分で刈り取りなさいよ」
だのと平気で言っていた。それが母さんの言い分だった。
本当の事を言えばいいってもんじゃないし、じゅうぶん間違っているよ。
「あんたがあたしの思うような良い子になりさえすれば、可愛がってあげる」
ともしょっちゅう言っていた。
こっちは
「母さんがあたしの思うような良い母親になりさえすれば、尊敬してあげる」
なんて言わないのに。
こっちは「無条件」なのに「条件付きの愛情」しかもらえないなんてさ。
そして
「あんたは幼稚園くらいで死んだものと思っているからね」
と言うようになっていた。
「小さいうち」が「幼稚園」になっていた。
あたしは言われるたびに思ったよ。
あたし、そんなに悪い子なのかな?疑問で疑問でたまらない。
母さんの気に入るタイミングで気に入る事が出来ない事が、学校の成績が悪い事が、忘れ物が多い事が、母さんの言う「良い友達」と仲良く出来ない事が、そんなに悪い事なのかな?そんな凄い勢いで怒鳴られたり、ひっぱたかれたりするほどの事をしているのかな?死んでくれと言われるほどの酷い事をしているのかな?
「あんた、あたしへの嫌がらせでやっているとしか思えない」
とかね。
あたしは母さんの意にそぐわない子どもであり、生きていてはいけない子どもだった。
そして常に「生きていてはいけない子」と自覚しているあたしにもうひとつ、災難が降りかかった。
父さんと母さんは、毛深い人だった。腕も足もフサフサと毛が生えている。母さんは気にして、腕や足や脇をしょっちゅう剃っていた。
が、良い事もあった。二人とも睫毛が長い事。
あたしと姉ちゃんも親に似て、毛深いけど睫毛も長かった。
小さい頃から知らない人にもよく言われたよ。
「お嬢ちゃん、睫毛長いね」
って。
あまりによく言われるので「睫毛長いって何の事だろう」くらいに思っていた。
だが長い睫毛を気に入らない人たちがいた。学校の友達が何人も束になってきて、あたしに言う。
「睫毛切れ!」
何でそんな事言うんだろう。
「別にいいじゃん」
苦手な反論をする。みんなはむきになって言う。
「目障りだから!」
「関係ないじゃん」
「とにかく切れ!」
みんな、あたしの顔を見るたびに言う。
「近くに来なきゃいいじゃん」
そのうちクラス中の子が、つられたように言うようになった。
「目障りだから睫毛切れ!」
女の子たちは聞こえよがしに悪口を言い、男の子たちはあたしに足払いをかけ、転ぶと笑った。
「お前、毛深いな。毛だくらもうじゃ!」
という声も飛んでくる。
我慢しているのに、いじめは止まらない。
学校に行くといじめられる。
勉強も出来ないし、友達も少ないし、つまらなかった。
毎日トイレ掃除を押し付けられる。当番制の筈なのに。
「あんたなんかトイレ掃除がお似合いよ!」
罵詈雑言も漏れなく付いてくる。水かけられるし、もう嫌だ。
家でも学校でも掃除ばかり、いじめられるばかり、本当にもう生きてるのがつらいよ。
下校時間、ひとりで帰ろうとすると後ろから10人くらいで追いかけてくる。
「よーわむーしさーん!」
高橋さんが笑いながら叫んでいる。走って逃げたが校庭内で追いつかれた。
「沖本、来いよ。可愛がってやっからよ!」
男子が拳を振り回しながら言う。みんなの前であっという間に引き倒され、滅茶苦茶に蹴られた。
下級生たちがびっくりした目で見ている。悔し泣きするあたしを尻目にみんな笑いながら行っちまった。
教室の窓から先生が見ている。目が合うと、さっと背を向けて奥に消えちまった。そしてそのまま校庭に来てくれる訳でもなく放置された。
あたしは下級生の前で恥をかかされた上に、先生にも見殺しにされた。この人たちはこういう目に遭わないんだろう。
悔し涙にかきくれる。
今日は母さんの機嫌がまあまあだ。もしかして助けてくれるかもしれないと思いながら、友達にいじめられるから、学校に行きたくないと相談してみた。
母さんは即答した。
「あんたが悪いんじゃないの?」
…話にならなかった。今から原因を言おうとしていたのに。以前、男子に突き飛ばされ怪我した時と同じだ。
学校で受けているいじめについて、父さんに話した。いつかサトル君を怒鳴ったように、また学校に乗り込んでいじめっ子を怒鳴りつけたりするのは困るが、もしかしたらちゃんと対応してくれるかも知れないと、わずかな希望を抱きながら。
父さんはあたしの方を見ようともせず、平気で言った。
「やり返せばいいだろう」
そんな事したら、どんな事で返されるか分からないよ。
「水をかけられる」
「かけ返せばいいだろう。水なんて、蛇口をひねればいくらでも出てくるだろう」
…そういう問題じゃないよ。大勢対あたしひとりでかなう訳ないじゃん。せめて共感してくれよ。
テレビのニュースで、小学生がいじめを苦に自殺したと報じていた。あたしは命を絶った子の気持ちが分かったよ。あたしだって死にてーよ。
だが父さんと母さんは平気で言う。
「馬鹿ね、その子。そういうの死に損っていうのよ」
「そうだ、やり返せばいいんだ」
…さびしい気持ちになる。
事故のニュースが流れていた。
「怖いね」
って母さんに言ったら
「あたしは事故なんて少しも怖くない。あたしは人がいちばん怖いわ」
という答えが返ってきた。
…意味が分からない。
災害のニュースが流れていた。
「逃げようがないから怖いね」
と母さんに言うと
「あたしは災害なんて何ともない。いちばん怖いのは人よ」
とまた言った。
…また意味が分からない。
テレビドラマで女の人が恋人にお金を渡しているシーンがあった。
母さんが言う。
「馬鹿ね、この人。お金なんか貢いで。利用されているだけなのに」
そしてあたしの方を見て言う。
「あんた、今のままじゃ、あの女の人みたいになるわよ」
うるさかった。
テレビドラマで、男の人が恋人にソフトクリームを買ってもらっているシーンがあった。
母さんがまた言う。
「こうやって最初は安いものからねだるのよ」
本当にうるさかった。
テレビドラマで小学生の女の子が親を相手に、キーキーわめいているシーンがあった。
母さんがまたまた言う。
「この子は親に反抗しているのね。あんたみたい」
テレビくらい、黙って見られないのかよ。
転校した友達に手紙を書いていたら母さんがまたまた言う。
「あんた、いつまでその友達に手紙書く気?」
父さんも言う。
「そうだ、切手代の無駄だ」
そして二人で仲良くせせら笑う。
「この調子で捨てられた男にも手紙を書き続けるのかねえ」
そうなって欲しいのか?不幸になって欲しいのか?もう黙っていてくれ。
20歳の息子が親をバットで殴り殺す事件があった。
母さんがまたまたまた言う。
「子どもが親を殺すと罪が重いのよ。育ててもらったんだから」
じゃあ他人を殺す分には罪が軽いのかよ。いい加減にしてくれ。
テレビで歌手が「心が寒い」と、歌っていた。
母さんが言う。
「あたしも心が寒いわ。あんたのせいで」
どうか、その口を閉じてくれ。
「結婚するなら関白タイプの人が良い」
と言った。勿論、駄目なあたしをぐいぐい引っ張ってくれそうだから、という意味だ。
母さんがすかさず言う。
「毎日殴られてるのがいいの?」
それはあんただろ!関白タイプ、イコール暴力振るうとは限らないし、悪く悪く取って、人の神経をとことん逆撫でするんだよねえ。父さんはただの暴力亭主で、決して関白タイプでも何でもないし、その暴力も母さんが誘発しているし…。
もう何も言えない!うんざりだ!
夫が妻を日常的に殴り続け、ついに殺してしまったというニュースが流れていた。関白タイプだったのか、ただの暴力亭主だったのか、そこは知らないが。
…母さんが言う。
「かわいそうに、この奥さん。毎日殴られていたなんて」
あたしは言った。
「警察に言えば良かったのに」
母さんが憤然と反論してくる。
「警察は実際に殺されるまで何もしないのよ。どんな暴力受けていても、ただの夫婦喧嘩とみなされて何もしてくれないのよ」
「そうかなあ?どこかにその奥さんを助けて、かくまってくれる所あるんじゃないの?」
というと、居丈高に責めて来る。そう、いつか旦那さんの年収を知らない奥さんに詰め寄った時のように。
「そんなものある訳ないじゃない。だったらその奥さん、死ぬまで殴られている訳ないじゃない。あんた、何も分かっていないのよ!」
そうかなあ?本当に何も分かっていないのは母さんじゃないのかなあ?
週刊誌の見出しで、「高校生が集団リンチで死亡」と出ていた。
感想の言いようがなく黙っていたら、母さんがまた言う。
「あんた、そういう時はさっさと逃げなさい。負けるが勝ちっていうのよ」
と言った。負けるが勝ちって、なんかおかしくないかなあ?負けは負けだろうって、不思議で不思議で、相変わらずあたしの頭の上には疑問符がいっぱいに並んでいた。
テレビで女子刑務所の特集をやっていた。母さんが言う。
「悪い事したらこの人たちみたいに牢屋に入れられるのよ」
だから何だよと思っていたら更に言う。
「こういう所に入ったらね、お尻の穴まで見せるのよ」
それがあたしとどういう関係があるんだよ、と思っていたらもっと言う。
「あんた、こういう目に遭いたいの?」
そんな訳ないじゃん。ただ黙っていた。
「あんた、赤の他人にお尻の穴まで見せるようになりたいの?刑務所に入りたいの?」
悪い事をするとこういう目に遭うからしないでくれ、と言いたいならそう言えば良いのに。それか、良い事をすれば表彰されるよ、とか。
得意気にあたしを見下ろし続ける母さん。その口にガムテープでも貼ってやろうか。
どうしてそう人の神経を逆撫でするんだい?こんな母親いらない。
母さんの顔なんか見たくない。
いつもいつもあたしを駄目な子どもだと負の言葉を注ぎ込んで来て、一切自信持つな、自分を低く見ろとか言って、劣等感を持つように持つように洗脳して、もう嫌だ。
目が合わないよう家の中で帽子を目深に被って過ごしていたら、母さんがまた言う。
「何?あんた、人に顔を見せられないくらい悪い事してるの?」
違うよ、母さん。見せられないんじゃなくて、あんたの顔を見たくないんだよ。
「あんた、やましい事あるなら死ねば?そうよ、死んだらいい。死になさいよ、ほらほら」
母さん、あんたこそ死んでよ。そんなにイライラさせるなら、いっそ死んでくれよ。ほらほら。
うちの風呂が壊れ、銭湯に行った。
体を洗っていたら、赤ちゃんを抱っこした女の人が、湯船につかろうとしているのが見えた。
湯船のお湯は赤ちゃんには熱過ぎ、嫌がって凄い声で泣いている。そしたらそのお母さん、水道の蛇口をひねり、出てきた冷たい水を赤ちゃんにかけている。冷水をかけられ、もっと泣く赤ちゃん。今度はそのお母さん、温めようとしたのか、熱過ぎるお湯に赤ちゃんをジャブッとつける。熱くて死にそうな声で泣く赤ちゃん。今度は冷やそうとして、冷水をかけるお母さん。赤ちゃんは熱いお湯と冷水を交互にかけられ地獄だろう。
可哀想に、このお母さん、気が利かなくて、うちの母さんみたい、…と思っていたら、知らないおばさんが見るに見かねて
「洗面器にちょうどいい温度のお湯を汲んで、そこに赤ちゃんつけてあげたらどうですか?」
と言った。
そのお母さんは仕方なさそうに笑い、その通りにしたらやっと赤ちゃんは泣き止んだ。うん、おばさんが正しい!ただ、人の言う事を素直に聞くだけそのお母さんもまあまあだ。
うちの母さんもちょうど良くしてくれないかなあ。だったら生きていてもいいんだけど。
姉ちゃんが苦労して、オムライスを作った。
4人でそれを食べる。
まずくはないが、おいしくもない。可もなく不可もないって感じ。
父さんがあたしに言う。
「お姉ちゃんが作ったから、後片付けはお前がしなさい」
黙って皿を洗い、生ごみを片付ける。姉ちゃんは、ご苦労さんと言われ、当然って顔をしてる。
こき使われるシンデレラと、えこひいきされる姉みたいと思った。
あたしが苦労して、カレーライスを作った。
4人でそれを食べる。まずかった。
父さんが言う。
「お前が作ったんだから、お前が後片付けもしなさい」
黙って皿を洗い、生ごみも片付ける。
「ああ、まずかった」
姉ちゃんが聞こえよがしに言う。同じきょうだいでありながら、こんなに扱いが違うとは、なんて理不尽なんだ。
母さんが苦労して、魚の煮つけを作った。
4人でそれを食べる。激しくまずかった。
父さんがあたしに言う。
「後片付けはお前の仕事だ」
黙って皿を洗い、生ごみを片付ける。
母さんが言う。
「風呂掃除とトイレ掃除も」
黙って風呂とトイレを掃除する。
本当に理不尽だ。腹が立って、腹が立って、悔しくて、悔しくて、地団太を踏みたい。
食後に母さんは毎回言う。
「マリ、お茶淹れて」
そう言えば、自動的にお茶が出てくる。さぞかし便利だろうなあって思いながら、人数分のお茶を淹れる。
父さんが言う。
「何で淹れる時に急須を少し持ち上げるの?」
無意識にそうしただけだ。そんな事、どうだっていいだろうと取り合わなかった。
洗った皿を拭いていたらまた言う。
「何で拭く時に布巾をパンって広げるの?」
それも無意識だ。どうだっていいだろう。何でそんな細かい事をいちいち指摘するんだろう。気にしなきゃいいのに、もしくは見てなきゃいいのに。
もう、嫌で嫌でたまらない。黙っていて欲しくてたまらない。
「お前は言葉がやくざだねえ」
父さんが言う。
「女の子らしくきれいに喋れよ」
誰がてめえの前できれいに喋るかよ。
母さんが横からひょいと顔を出して言う。
「うちは堅気なんだからね」
要するに、二人ともあたしのやる事なす事、気に入らないんだろう。
帰宅した父さんが言う。
「腹減った」
母さんはいないし、姉ちゃんは知らん顔しているし、あたしが面倒見るしかないんだろう。
もたもたと食事の支度を始めたら、怒って言う。
「もういい!ご飯に卵ぶっかけて食べる!」
ほんの少しも待てないのか、何て短気な人だろうと思ったらまた言う。
「仕事で疲れてお腹空かせた俺に、早く食べさせてやろうって思わないのかねえ」
父さんや、ただ単に、卵かけご飯が食べたかっただけじゃないのかい?1分や2分で飯が出来るかよ。
帰宅した父さんが言う。
「腹減った」
母さんは仕事でいないし、姉ちゃんは相変わらず知らん顔だ。残り物でいいのかな。それとも卵かけご飯かいな。
「ご飯あっためる?」
と聞いたら
「当たり前だ」
と即答された。
「お前と一緒にするな」
続けて
「冷や飯食わす気か」
とも。
…父さんはひとつ言うとみっつ返してくる人だった。
友達と電話で話していたら、父さんが急に来てフックを押し、強引に切りやがった。
「明日、学校で話せばいいだろう」
と、怒鳴りつける。
電話代が気になるだけだろう。何てケチな人だ。
友達から電話がかかって来た。しばらく話してから切り、別の友達にこっちから掛けた。いくら喋っていても、父さんは何も言わない。
最初に向こうから掛かって来たから、電話代を払うのは向こうだと思っている様子だ。その後こっちから掛け直したことに気付かないアホな父さん。
やっぱりただのケチだ!
父さんが会社の人と電話で話している。こっちも勝手にフックを押して切ったろか!
「明日、会社で話せば良いだろう!」
と、怒鳴りつけてやろうか。
電話代が気になりまっせ!
ニュースを見ている父さんに何気なく聞いた。
「日本の警察って優秀なの?」
父さんが即答する。
「そうだ、だからお前が悪い事したらすぐ捕まる」
悪い事をしないでくれと言いたいならそう言えば良いのに、夫婦でマイナスの言い方ばかりするんだねえ。ってか、そこだけは価値観が合っているんだねえ。
父さんはあたしのやる事なす事気に入らず、いつもいつも怒ってる。相変わらず「自分が今何故怒られているのか分からない」まま、怒鳴られるあたし。
「お前は絶対に不幸になる!親不幸だからだ!断言する!!」
不幸になって欲しいのかねえ。
学校のクラスで席の近い河野さんという女の子が、あたしに言った。
「ねえ、これやっといてくれない?」
先生に頼まれた学級新聞を作る作業だ。
黙って手伝ってあげたら、目をギラギラさせる。
「こいつ、嫌って言えない性格なんだ」って言わんばかり。
その日から河野さんは、しょっちゅうしょっちゅうあたしに何かを押し付けてくるようになった。掃除当番やら、机と椅子の片付けやら、石鹸水の補充やら、黒板消し作業やら、図書室から借りた本を返しておいてくれだの、なんやらかんやら。毎回こう言う。
「ねえ、これやっといてくれない?」
黙って手伝うたびに目をギラつかせる。
「こいつ、嫌って言えない性格なんだ」と、はっきり顔に書いてある。
「終わったよ」
と言うとニヤリとしてこう言う。
「あんがと、じゃ次、これやっといてくれない?」
河野さんは次々に用事を押し付け、あたしの時間をどんどん奪う。給食を配る時だって、河野さんはあたしがおかずを取ろうと手を伸ばした瞬間に、さっと引っ込めて取れないようにするし、何て意地悪だ!
「こいつ、いじめてもいいんだ」って顔して見てる。
あたしは何も頼まないし、気持ちよくやってあげるのをいい事に。
調子に乗った河野さんがこう言いやがった。
「昨日片岡さんにジュース代100円借りたの。沖本さんのお金で返しといてくれない?」
冗談じゃない。その質問には答えずこう言った。
「あたしも今度、河野さんになんか頼もうっと」
河野さんの顔色がさっと変わる。「生意気な!」と言わんばかりだった。
その日の給食の時間、河野さんはシチューをこぼして洋服を汚していた。
「あ」
と言ってあたしの顔を見ている。
自分でやったんだろ!と知らん顔してやった。コノヤローって顔で河野さんがあたしを睨んでる。あたしがティッシュでもさっと差し出すとでも思ったのかね!誰がそんな事してやるかよ!
調子こいて散々あたしを使い走りにしやがって!今までずっと我慢して来たなら、これからも我慢しろってか?冗談じゃない!
更に放課後、河野さんは廊下で滑ってみっともなく転んだ。あたしはまた知らん顔で脇を通って帰った。
翌日、河野さんは手の平にキャラメルを乗せ、黙ってあたしに差し出してきた。いかにも済まなそうな顔をしている。
「悪かった。でもあたしに用事を頼んで来ないで」って言わんばかり。あたしはそのキャラメルをつまみ、そのままごみ箱に捨ててやった。河野さんがドキリとした顔をする。すかさず言ってやった。
「ねえ、これやっといてくれない?」
先生に頼まれた、みんなが書いた図画の絵の整理だ。河野さんはあたしの顔色をチラチラ見ながら手伝ってくれた。
「終わったよ」
そう言った河野さんにあたしは言ってやった。
「あんがと、じゃ次、これやっといてくれない?」
河野さんが唖然とする。あたしは次から次へと河野さんに用事を言いつけ、その日丸1日どんどん時間を奪い、散々振り回してやった。
河野さんがぐっと堪えているのが分かる。あたしもあんたにはずっと我慢していたよ!もう二度と我慢しないけどね!あははははは。
河野さんは二度とあたしに用事を押し付けて来なくなった。
「耐えているといじめは続くが、反撃すればいじめられなくなる」と学んだ瞬間だった。
喘息の治療の為に専門医へ行く。
二時間近く待たされ、もしかして順番に入っていないのかも知れないと思い
「沖本ですけど、後どのくらい待ちますか?」
と受付の女の人に聞いた。
その人は何故かどもりながら
「せ、先生に、な、何か、お、お考えが、あ、あるのかと」
と言う。それでは答えになっていない。
「もう二時間近く待っているんです。いつになりますか?」
と言ったが
「で、ですから、せ、先生に、な、何か、お、お、お考えがあるのかと」
とまた言う。
「順番に入っていますか?抜けていませんか?」
イライラしながら聞いたら、またどもりながら言う。
「し、ししょ、少々、お、お待ち、く、く、ください」
「少々どころか、物凄く待っているんですけど」
「で、で、です、ですから、しょしょ、少々、お、お、お待ち、くだ、くだ、くだ、さい」
と、吃音みたいになっている。
…そしたらすぐ呼ばれた。なあんだ、もっと早く言えば良かった。
河野さんと同じで、我慢しているとそれでいいんだって思われるんだな、そう思いながら治療を受け、さっさと帰ったよ。
父さんと母さんにも得意満面で話したさ。
父さんが自分の喘息の治療の為に、同じ専門医に行った。二時間半くらい待たされ、ようやく治療してもらえたらしい。
帰ってから凄い勢いであたしをなじる父さん。
「お前がこの前文句なんか言うから、だから俺は今日凄い待たされた。お前が余計な事言うからだ。お前のせいで、俺は意地悪されているんだよ。お前のせいで意地悪されてる」
…呆れて言葉を失う。父さんが何度も言う。
「お前のせいで俺は意地悪されている。お前のせいで俺は意地悪されてる。お前のせいで」
この人、年はいくつなのかなあ。こういう考え方しか出来ないのかなあ。どもらないだけいいのかなあ。
友達と遊ぶのにうちのカメラを持ち出し、どこかに置き忘れ失くしちまった。一生懸命探したが、ついに見つからなかった。勿論わざとじゃない。
謝っているのに、父さんがテレビを見ながら滅茶苦茶に怒る。
「お前は何でも失くす!」
苦手な反論をする。
「何でもって事はないでしょう」
父さんがテレビから目を離す事無く言う。
「何でも!」
どんな時もテレビから目を離さないんだねえ。
「他に何を失くした?」
と聞いたら
「何でも!」
と不満で不満で張り裂けそうな顔で言う。
カメラが勿体ないだけだろう。
「例えば?」
「カメラ!」
「他には?」
「何でも!」
「例えば?」
「カメラ!」
「他には?」
「何でも!」
「例えば?」
「カメラ!」
「カメラ以外に何失くしたか言ってみて」
「何でも!」
「カメラだけじゃん」
「何でも!」
…これでよくJELに勤められるなあ。
別の意味で感心する。
春先は花粉の影響でくしゃみと鼻水が止まらず、ティッシュを何枚も使わざるを得ない。
父さんがまた言う。
「お前、何でそんなに鼻かむんだよ」
何でって、鼻水を垂らしている訳にいかねーだろ。
「お前、ちょっと我慢してみろ。治るから」
治らねーから、鼻かんでんだろ!ただティッシュが勿体ないから使わせたくないだけだろ!オイルショックを引きずってんのか何だか知らないけど。あたしはティッシュさえ使わせてもらえない身分なのかい?花粉アレルギーだっちゅーに。娘よりティッシュが大事なのかい?
「お前はティッシュキチガイだ」
あーあー、色々なキチガイがあるねえ。
姉ちゃんが痔になって、尻が痛いと言っている。
父さんが言った。
「お前、そこにうつ伏せになれ。俺がさすってやるから」
お前がさすって痔が治るかよ。ただ尻が触りてーだけだろう。痴漢かよ。
父さんのスケベ伝説はまだあるよ。あるよ。いくらでもあるよ。
姉ちゃんが昼寝をしている。ズボン姿で寝ればいいものを、スカート姿で寝ている。
スカートはまくりあがり、掛布団をかけていない姉ちゃんのパンツは丸見えで、しかもパンツまでずれていて、陰部が見え、陰毛も見えた。顔だけは気持ち良さげに寝ているみっともない姉ちゃん。
その姿を父さんが呆けた顔でじっと見ている。本当に呆けた顔で、いつまでもいつまでも立ちすくんで見ている。
あたしは黙って姉ちゃんの部屋の襖を閉めた。父さんはさぞかし残念だろうが、姉ちゃんを守りたかった。
…姉ちゃんが起きてからその事を言ったら、滅茶苦茶に怒った。
「何でそんな事言うのよ!」
スカートで寝るのをやめなよって言いたかったのに。あたしは見たくない姉ちゃんの陰毛も見たし、父さんの変態顔も見る羽目になったし、注意喚起した姉ちゃんからも怒鳴られて散々だった。
ソファに座っていると、隣に父さんが来てテレビを付けた。何で隣にわざわざ座るんだろう、いつものようにテレビの前の座椅子にその形通りに座ればいいものを、と思っていたら、あたしの太ももを嫌らしい手付きで何度も何度も撫でる。
漠然とだけど、キャバレー通いするスケベオヤジのようだと思った。気持ち悪くて、吐き気がしそうで、自分の部屋に行く。
後年、ホステスのアルバイトを経験したが、その時に隣に座った中年の客があたしの足を、太ももを、何度も何度も撫でるのが嫌だった。
そう、それは幼い頃に父さんがあたしの太ももを撫でるのと、寸分変わらない触り方だったからだ。あまりに嫌で鳥肌が立った。
11歳のあたしは言った。
「母さん、父さんがあたしの足を触るんだよ。すごく嫌らしい触り方なんだよ」
母さんはあたしの気持ちをまったく考えず、平気で言う。
「大きくなったなあと思って触っているのよ」
「違うよ、そんな触り方じゃないよ。まっぴらごめんだよ」
苦手な反論をしているのに、母さんは知らん顔だ。
「とにかくもう嫌なんだよ。やめさせてよ」
母さんは知らん顔で仕事を始める。どうにもしてくれないのは、自分には関係ないと言わんばかりの冷たい背中で分かった。
本当に身の毛がよだつ。嫌で嫌でたまらない。
体育の時間に履くブルマーは、あたしの体の一部だった。体育でなくても、普段からあたしはブルマーを履いていた。取るに足らない事の筈だったが、父さんはそれが気に入らなかった。
「お前、何でいつもいつもブルマー履いているんだよ」
そう憎々しげに言った。いいじゃん、と思っていたら
「力づくで脱がしてやろうか?」
と真顔で言う。本当にやりかねない様子だった。
父さんはあたしの長風呂が気に食わなかった。冷え性だからしょがないってーのに。
風呂から上がり、脱衣所でもたもた体や髪を拭いていると、ドアの前で大声を張り上げる。
「マリ!早く出ろ!」
ボディローションを塗りながら答える。
「ちょっと待ってよ、開けないで」
10秒もたっていないのに、父さんが怒鳴る。
「マリ!早くしろ!」
何か別の事をやっていればいいものを、何でそんなにせかすんだろうと思っていたら、また怒鳴り声がする。
「もう我慢ならん!」
ドアが盛大に開かれる。しかも、父さんの目線はあたしの股間にあてられていた。まして、凝視している。
きっかり3秒間、父さんは唖然とするあたしの股間を凝視し、そして胸元へさっと視線を移す。胸も制限時間いっぱいと言わんばかりに凝視している。
「冗談じゃないよ!」
慌てて閉めたが、裸を、しかも股間と胸を見られた恥ずかしさと悔しさに張り裂けそうだった。
11歳のあたしの体は勿論「変化」していた。膨らむものは膨らみ、生えるものだって生えていた。それを父親に見られたくなかった。どうしても、どうしても、見られたくなかった。そんな恥ずかしい話はなかった。
なのに父さんは強引に見た。股間を、胸を、見た。こんなチャンスは滅多にないとばかりに凝視しやがった。
何て嫌らしい父親だろう。テレビで裸の女の人のダンスをにやにやしながら見たり、太ももを嫌らしい手付きで触ったかと思えば、今度は娘の裸を見たがるとは。
「お前が遅いのが悪い」
って平気で言ってるし。
それでいて「マリの裸を見た見た、シメシメ」って興奮気味な顔もしてた。
変質者かよ。そんな事したら娘にどんなに嫌われるか、考えもしないんだろう。今この瞬間良ければ後はどうでもいいんだろう。
母さんに言ってもろくに聞いてくれないし。もう嫌だ、本当に本当にもう嫌だ。こんな父親、本当にいらない。
誰かまともな父親と替えてくれ!
父さんが家にいないとほっとする。とにかく触られないように、裸を見られないように、いると気が張って、苛立って、たまらない。
母さんは平気で言っている。
「在職中に死んでくれれば1億円になるんだけどねえ」
生命保険の事を言っているらしかった。
なんちゅう女房だろうと、言葉も出なかった。
夕飯に焼き肉を食べた。
母さんが3分に1回の割合で、父さんに言う。
「タレを付け過ぎないで。体に悪いよ」
母さん、父さんを憎んでいるなら早死にしたって構わないんじゃないのかい?1億円、欲しいんでしょ!
父さんは肉を毎回タレにじゃぶじゃぶ付ける。
「ほら、付け過ぎ」
母さんがまた言う。
「ほら、干渉し過ぎ」
って、母さんには言ってやりたかった。
そして父さんには
「ほら、早死に」
って言ってやりたい。
夕飯にすき焼きを食べた。父さんが肉を取ろうとするたびに
「その肉まだ焼けていない」
と、母さんが止める。色盲の父さんには、焼けた肉と生肉の区別がつかないからだ。
「これ、焼けてる」
と、母さんが差した肉を父さんが黙って食べる。
「お姉ちゃんかマリ、どっちか男の子生んだら、その子は色盲かも知れないよ」
と、余計な一言も付いてくる。
…なんのこっちゃ。そんな先の事考えられないし、隔世遺伝なんて言葉も知らない子どもに言ってもしょうがない言葉だった。
夕飯に寿司を食べた。父さんが寿司を醤油につける時に控えていた。
そして笑いながら母さんに、こう言う。
「ちょっとしか付けていないよ」
へえ、父さんって一応母さんの事を好きなんだって意外だった。
日曜の朝、ゆっくり寝ていたら母さんがパジャマ姿のままあたしの部屋の襖を凄い勢いで開けた。
「父さんが眩暈するって言ってる!お医者さん呼んで来てよう!」
寝ぼけて頭が働かず、よろよろ起き上がったらまた言う。
「早くお医者さん呼んで来てよう!」
「救急車呼んだ方が早いんじゃない?」
と言ったら
「いいからお医者さん呼んで来てよう!」
そればかり言う。
母さんって一応父さんを好きなの?それこそ意外だ。それとも夫思いの妻を演じているのかな?これはパフォーマンスかい?
…その後父さんは普通に起き上がり、ご飯を食べたりテレビを見たりしていた。さっきのは何だったのか?家族の愛情を確かめたかったのか?それこそパフォーマンスだったか?
パフォーマンス夫婦だった。
母さんが玄関で、新聞の勧誘に来た男の人と格闘している。
「奥さん、うちの新聞を取って下さい」
「いいえ、もう決まっていますから」
父さんがステテコ姿のまま玄関に突進する。
「いらんっ!いらんっ!帰れ!!!」
勧誘の人はすごすごと帰って行った。母さんが言う。
「あんた、向こうも仕事だから」
父さんが得意気に言う。
「俺が言えばすぐ退散したろ」
それで家族を守っているつもりかよ。
ますますパフォーマンス夫婦だった。
父さんはテレビで軍歌が流れるたびに腕を振りながら一緒に歌う。昔からだけど。
さすが戦争世代だねえ。団塊の世代か?それもパフォーマンスかいな?
夕飯時、父さんが珍しく
「会社で褒められた」
と嬉し気に言う。オマエを褒めてくれる上司がいるのかよ、と思っていたらこう言った。
「これで」
と原稿用紙を出してくる。大人でも作文書くことあんのかよ、しかも会社で。
そこには「異常な体験」というタイトルで作文が書かれていた。
「私の人生に、異常な事は何も起こらなかった。ひとつとして異常な体験はなかった」という短い作文で、これのどこをその上司は褒めたんだろうと不思議だった。
父さんは
「俺は読み返してみて涙が出た」
と言う。
父さんは戦争体験者だし、尋常じゃない経験をした筈だ。それを忘れたのか?ましてあたしの事を散々異常な子どもと言ったのは誰だ。あんたの異常な体験は「戦争を経験した事」と「次女が生まれた事」だろうが!
学校の授業で得意なものなんてなかったが、いちばん苦手だったのが読書感想文だった。本を読むのは好きだったが、感想文はちょっと…。
母さんは
「思った事をそのまま書けばいいのよ」
と言うが、それが出来れば苦労しねえっつーの。
原稿用紙を前に、ウンウン頭を悩ませているあたしに父さんがにこやかに言う。
「マリ、父さんは作文が得意だぞ。だからお前も」
おいおい。会社でたったの一度褒められただけで、調子に乗るんじゃねえよ。
学校で毎日行われる色々な授業が不思議に思える。
何で国語や美術や体育や算数、社会や理科、家庭科もあるんだろう?
何で絵を描いたり、読書感想文も書かなきゃいけないんだろう?
平均台や鉄棒、マット運動も何の意味があるんだろう?
どうしてひとりずつ歌ったりしなきゃいけないんだろう?
何で笛なんか吹かなきゃいけないんだろう?
何の為にマラソンなんかするんだろう?
水泳して何になるんだろう?
どうして色々覚えなきゃいけないんだろう?
本当にさっぱり分からない。
母さんが得意気に言う。
「昔話でパンドラの箱を開けちゃったってのがあるのよ。その箱にひとつだけ残っていたものって何だか分かる?」
分からず首を傾げたら、胸を張りこう言った。
「人の心を見抜く事、なのよ。だから人は、他人の心を見抜くことだけは出来ないのよ」
そうなのかあ、とやっぱり不思議で不思議で、あたしの頭の上は相変わらず疑問符が所狭しと並んでいた。
母さんがまた得意気に言う。
「年上女房ってのは亭主を大切にするのよ」
「何で?」
と聞いたら、もっと得意気に言う。
「逃げられたら困るから」
そうかなあ?その奥さんが元々優しい性格とか、その旦那さんが大事にする甲斐のある人だからとか、ほかに理由があるんじゃないのかなあ?
母さんは父さんより年下だから、父さんを粗末にするのかなあ?だけど、仮に母さんが父さんより年上でも、粗末にするような気がする。実の娘も粗末にするくらいだし。
母さんは相手が誰でも粗末にするんじゃなのかなあ。役に立たないと思った友達も、見下して粗末にしていたし。
母さんが更に得意気に言う。
「結婚式場で働く人って儲かってたまらないわね。結婚する人はいなくならないし、人間そういう時にはお金におしめ付けないし」
…それを言うなら「お金に糸目付けない」だろうが!「糸目」と「惜しまない」が混ざったんだろうが、それに気づかないアホ面母さん!
おしめとは何だ!おしめとは!
母さんくらい堂々と言いきっちまえば、間違った事でも正義になるのかなあ。
あたしは大人になってから知ったんだけど、「負けるが勝ち」って、それを言うなら「逃げるが勝ち」であり、パンドラの箱にひとつだけ残ったのは「希望」だった。
また、災害や事故は避けられないけど、人は別の意味で避けられないし、容赦なく傷つけてくる場合もあるから怖いんだ、という事も知った。
そして当時から夫婦間の暴力に警察は対応してくれたし、夫の暴力に苦しむ女性を保護する施設も、数は少ないものの一応あった。
母さんが何故、そんなものは絶対にないと言い切ったのか、よく分からない。何も分かっていないのは母さんだった。
だが、もしそれを知っていても、母さんはなんやかやと理由をつけて拒否したような気もする。母さんにとって日常を変えようと闘うよりも、安全な所へ逃げるよりも、姉ちゃんとあたしの前で殴られて、可哀想と思え!とアピールしている方が良かったのかも知れない。悲劇のヒロインになりきれるからね。
まったくもう、母さんの思い込みのおかげであたしゃ色々な所で随分恥をかいたし、負けて悔しかったし、自分を駄目な奴だと思い込んで、一切の自信も自己肯定感も持てずに生きる事になっちまったよ。
歩くときは真下を向き、つまり自分の靴を見ながら歩くような子どもになっちまったさ。
よく友達に
「沖本さんって下向いて歩くんだよね」
って言われた。
しょうがないじゃん。ユウレイなんだからさ。
学校から帰ったあたしに、父さんが開口いちばんのたまう。
「お前、俺の小遣い取ったろう」
「知らないよ」
「じゃあ誰がやった」
「だから知らないよう」
「俺は知らん、お姉ちゃんがそんな事する訳ない。絶対にお前だ、断言する!」
よく断言するねえ、と思っていたら、母さんがひょいと顔を出して言った。
「あ、この前集金が来て、ちょうどお金足りなくて、あたしがあんたの財布から払ったの」
…絶句する父さん。不満げに見ていてもエヘヘと笑ってごまかすばかりで謝りもしない。いつかテニスラケットが無くなった、お前がやったんだろうと言った時と一緒で。
「マリに謝ってよ」
と言ったが、ヘラヘラしながらテレビの前に座り、いつも通り座椅子の形通りになって知らん顔で見てる。
こっちが絶句したい。
勉強しようとしないあたしに焦れた母さんがわめく。
「あんた、勉強しなさいよう!あんたが壁にぶち当たるのよう!!」
父さんも言う。
「な、お前、親の言う事に万にひとつも間違いはない。だから俺らの言う事聞け」
苦手な反論をする。
「だってこの前、俺の小遣い取ったって間違えたし、母さんだってしょっちゅうなんかしら間違えるじゃん」
母さんが間髪入れずに言う。
「親だって完璧じゃない。親だって間違う事ある」
じゃあ子どもはもっと完璧じゃないし間違うよ。それに死んだ身なら勉強したってしょうがないじゃん。
うちの親は相反する事ばっかり言うねえ。もう疲れるよ。
きっと、諦めてしまえば良かったんだろうね。サイレントベビーみたいにさ。
ただそうするのは、あまりにも不便で物理的に困った。頼んだ事はちゃんとやってほしかったし、親同士は仲良くしてほしかったし、あたしにも優しくしてほしかった。
どうすれば親は変わってくれるのかなと考え、一心に家事を手伝ったり、肩を叩いたりサービスに努めた。
が、駄目だった。親は変わらなかった。
間もなく母さんはあたしに、休む間もなく家事をさせるようになる。
部屋にいると母さんがノックもせずガラリと襖を開け、仏頂面をしてあたしを睨みながら一枚の紙を放り、すぐ閉める。
拾い上げたその紙には「トーフの味噌汁、たまご焼き、ほうれん草のおひたし」と書いてある。
あたしは台所に立ちながら思った。母さんってさぞかし便利だろうな。だって紙に書いて無言で放り込めば、自動的にそれができあがっているんだもん。お茶淹れて、と言えばお茶飲めるしさ。
それは来る日も来る日も続いた。
朝起きると、ダイニングテーブルのあたしの席にやっぱり紙が置かれてある。「洗濯、風呂ソージ」
あたしは洗濯機を回し、風呂掃除をしながらまた思った。母さんって何の為にあたしを生んだのかな。家事をさせる為なのかな。
学校に行く前に家事をするのは、あたしの日課だったし義務だった。
食事の支度から後片付けからごみ捨て掃除から洗濯から買い物から、何から何まで。
特に冬なんて、洗濯物を干す時に手がかじかんでつらかった。大量の洗濯物をやっと干し終え、いざ登校しようとすると玄関にゴミ袋が置かれている。「捨ててから行け」という事だ。
あたしは黙ってゴミ袋を持ち、ドアを開けた。ダストボックスにゴミを押し込んでいる所を、クラスの男の子に見られて囃し立てられた。
「やーい、ゴミ漁り、ゴミ漁り」
恥ずかしくて、ゴミ捨ては苦痛だった。
ここまでさせられている子はいなかった。
帰宅後、ダイニングテーブルのあたしの席に、メモと1000円札が置いてある。「もやし、鮭、キャベツ、ミソ」そのメモと1000円札を握り締め、とぼとぼとスーパーへ向かった。
帰ってからこれを調理させられるんだろうな、と思いつつ。
一度だけ母さんに文句を言った。
「なんでマリばっかり」
母さんは憤然と言ったよ。
「女の子だから。当然でしょ」
苦手な反論をする。
「お姉ちゃんだって女の子じゃん」
間髪入れず、得意な反論をする母さん。
「だってお姉ちゃんは勉強してるから。あんた、勉強しないじゃない」
姉ちゃんが勉強してるのは、早く自立して、早くこの家を捨てようと思っているからだよ。それに勉強している間は、出ていけとも家事を手伝えとも言われないからだよ。
…って言ってやりたかった。言えなかったけど。
小学生のあたしに分かっている事が、母さんにはまったく理解できていなかったからね。
母さんは来る日も来る日も言う。
「お手伝いして」
さあ、苦痛な時間のスタートだ。
「料理して」
「後片付けして」
「全部の部屋、掃除して」
「玄関掃除して」
「車の掃除して」
「洗面所掃除して」
「窓ガラスと網戸の掃除して」
「買い物して」
「靴磨きして」
「ごみ捨てして」
「風呂掃除して」
「トイレ掃除して」
「洗濯して」
「干して」
「取り込んで畳んでしまって」
1分たりとも休む事なく、労働させられる。なになにして、と言われるのは、もううんざりだ。へとへとになって、やっと座ろうとすると次の命令が来る。
「肩揉みして」
もう嫌だ。家事なんて、手伝いなんて、大嫌いだ。女中じゃねーよ、ふざけんな。
「暇ならやってくれたっていいじゃない。どうせ勉強しないんだし」
だの
「こんなうまい話ないわ。家の中に家政婦がいるなんて」
だの
「言われてからやるのが嫌なら、言われる前にやれば?そろそろ言われるってタイミング分かるでしょ?自分からどんどんやんなさいよ」
だの、本当に人間扱いされてねーよ。何が家政婦だよ。無休で無給で、駄洒落じゃねえよ。
そう思いながら、あたしは母さんの言うままに家事をこなし続けた。母さんは、有難うの一言もない。
「あんたのワイシャツの洗い方が悪いから、父さん会社で恥かいたってよ。ちゃんと洗いなさいよ、袖口の汚れ、人に見られて恥ずかしかったって言ってたよ」
だの
「あんた、子どものくせに手が荒れているわね。きっと苦労する人生ね。可哀想に」
だの。実の娘に言う言葉かよ。ってか、それ前にも言ってたよ。どうせ前に言った事も忘れているんだろうけど。
だったらゴム手袋をさせるとか、ハンドクリームを塗るとか、何とかしてくれよ。してやってるのに文句ばっかり、もうへとへとだよ。
親の顔色を見ながら家事をし続けるあたしは、まるで芸をすれば餌をもらえると思って空腹を堪えながら芸をし続ける「かわいそうな象」だ。
母さんはやり方が気に入らないと文句ばかり言い、餌をくれるどころか、鞭をくれるばかりだった。
確かにあたしは元々勉強なんて出来なかったが、家事で多忙を極め、成績は更に悪化の一路をたどっていた。
そんなあたしの成績表をパタリと閉じて母さんは言った。
「マリ、勉強しなさい、勉強!あんたが今に壁にぶち当たるのよ!」
そして泣き崩れた。
「マリ!あんたそんなに母さんを苦しめたいの?そんなに苦しめたいの?」
唐突過ぎて、何の事だかよく分からず慌てるあたしに、母さんは髪をかきむしりながら続ける。
「あんたが宿題をしないと、成績が悪いと、あたしは苦しいの!死んじゃうの!あたしを殺す気なの?!ねえっ!ねえっ!!」
どう接すればいいか分からなかった。どう慰めればいいのかも。
「マリが勉強しないなら、あたし死ぬ。本当に死ぬ。今すぐ死ぬ」
死んでみろよ、ほら死ねよ。そうすりゃ、「なになにして」と言われなくても、夫婦喧嘩見なくても済むから。
…ああ、また始まった。母さんがこれ見よがしに両手を広げ、壁につかまりながら段々崩れていく。これ聞こえよがしに大声で泣きながら、段々膝を折りしゃがんでいく。さあ慰めろと言わんばかりに。
それもう見飽きたよ。何回やりゃあ気が済むんだよ。家事で体が疲れ、母さんの狂言とわざとらしいパフォーマンスで、精神が疲れ果てていた。
おかしいだろう、こんな毎日。
普通の子どもが良かった、とか言っているけど、普通の親じゃないじゃん。うちは普通の家庭じゃないじゃん。
子どもは姉ちゃんだけで良かったんだろう。あたしは死んだものと思っているんだろう。生み外したんだろう。ここにいるあたしはユウレイなんだろう。
なら勉強なんてしたってしょうがないじゃん。努力なんてしたってしょうがないじゃん。だって死んでいるんでしょ?
大体どうして死んだあたしに家事をさせんだよ。何回あたしを殺すんだよ。何回も生き返らせて、また殺すのかよ!
「あたしは教えているつもりだけどねえ」
とか平気で言っているし。紙に書いて放り込むとか、そんなん人にものを頼む態度じゃないよ。こんなん教えてるって言えないよ。おかしいだろう、おかしいだろう、ものすごくおかしいだろうが!
そしてその日の夕飯時、母さんは目から鱗が落ちたような大声を出した。
「そうよ!お姉ちゃん、マリに勉強教えてやってよ!」
姉ちゃんは迷惑満面って顔をしてた。
「お姉ちゃんがマリの家庭教師になればいいのよ!」
母さんは世紀の大発見のように意気揚々としちゃってる。
そしてその日から、姉ちゃんがあたしに勉強を教えるようになった。
ただね、優しく教えてくれるんならともかく、ずっと罵倒し続けるもんだから、あたしはいよいよ勉強なんか嫌いになっちまったよ。
だって
「マリ、あんたこんなのも分かんないの?」
だの
「バッカじゃない?あんた何年生?」
だの
「敬語使えよ、バーカ」
だの、
「何?あんたこんな漢字も読めないの?頭も目ん玉もおかしいんじゃない?」
だの、そんな事ばっかり言うんだもん。
尚更苦痛な時間が増えて、勉強見てくれて有り難いなんて、これっぽちも思えなかったよ。
母さんは
「こんなうまい話ないわ。マリ、今日からお姉ちゃんを先生って呼びなさい」
なんて、きょうだいの中で上下関係まで作るし。
いいねえ、うまい話が家の中にいくつも転がってて。
それでいて造花教室の生徒さんの前では、誇らしげにこう言っていたよ。
「私は自分の子どもたちに、勉強しなさいなんて、ただの一度も言った事はありません」
生徒さんたちの尊敬の眼差しに囲まれながら、母さんは美しく華やいでいた。
その足元で踏みつけにされているあたしの悲鳴に気付いてくれる人は、ひとりもいなかった。そう、世界中に、ただのひとりも。
みんながあたしに言う。
「沖本さんのお母さんって綺麗ね」
「お母さん、美人だね」
だがあたしは、母さんが美人かどうかなんて、そんなのどうでも良かった。そりゃ汚いより綺麗な方が良いけど、それよりあたしに優しいか優しくないか、そっちの方が大事なんだよ。
「美人のお母さん持って、マリちゃんっていいね」
「あんな綺麗なお母さんいないよ」
周りはみんな言う。
「マリちゃんって、お母さんそっくり」
という人もいた。似たかねえよ!あんなオニババに!
うちの電話に出れば
「レイコさん?」
って掛けてきた相手が、あたしと母さんを毎回間違えるし、
「お待ちください」
と言って母さんに代わると
「お嬢さんと声がそっくりですねえ」
という声が離れていても聞こえた。顔も声も似たかねえよ!こんな意地悪ババアに!
母さんって、きっと面倒くさがりやだったんだろうな。仕事と顔の手入れだけは一生懸命やっていたが、それ以外の何かをするのは面倒で面倒でたまらなかったんだろう。
大変なのに、忙しいのに、疲れているのに、色々してやっている、それなのに文句を言うなんてとんでもない。よくそう言っていた。
だったらいっそ、子どもなんて生まなきゃ良かったじゃん。姉ちゃんもあたしもう生まれてきちゃったよ。今更ひっこめらんないじゃん。
勝手に生んでおいて
「生んでやった、育ててやった、大変だった」
と、毎日毎日恩着せがましく連発し、
「親孝行したい時に親はなし、って言うよ」
と言って、じいっとあたしの顔を見ていた。
さあ親孝行せよ、と言わんばかりだった。
親孝行って何だろう?
黙って殴られる事なのかな?
暴言に耐える事なのかな?
なになにして、と休む間もなく家事を手伝わされる事なのかな?
姉ちゃんを家庭教師にされ、家の中でいちばん低い身分になる事なのかな?
あたしには、どうしても、どうしても、ああどうしても分からなかった。
学校の帰りに別のクラスの男の子たちが大声でくっちゃべってるのが聞こえた。
「親孝行しようと思ったら自殺するしかねえよ!」
だって。
ん、そうかもな。うちの親は死ね死ねって言うし、死ねば金かからないし、だからいちばんの親孝行は死ぬ事なんだろうなあ。
ああ楽に死ねる方法ないかなあ。
あたしは1カ月も姉ちゃんの家庭教師に耐えられなかった。
分からない問題を前に、あたしの頭や顔を臭い足で蹴り続ける姉ちゃんに、
「もう嫌だ。勉強見てくれなくていい。見てくれない方がいい」
と、死ぬほど苦手な反論と抵抗をし、投げ出した。
姉ちゃんは怒って
「じゃあもう見てやらない!ひとりでせいぜい頑張りな!」
と部屋に行っちまった。
母さんがわめき散らす。
「あんた、どうするのよ!お姉ちゃんに謝って教えてもらいなさい!先生に謝りなさい!」
どうしても嫌だった。
「あんた、落ちこぼれよ!おしまいよ!本当におしまいよ!」
怒鳴りまくる母さんに言ったよ。
「じゃあ落ちこぼれでいい。おしまいでいい!勉強出来ないままでいい!」
それがあたしの精一杯の叫びだった。あたしにもプライドがあるという事を、母さんも姉ちゃんも、どうしてもこうしても何しても分からなかった。
母さんがまた切れている。
「あんたはもう死んだものと思っているからね!」
もうそれ何千回も聞いたよ。まだ言い足りないのかよ。
苦手な反論をする。精一杯、精一杯、反論する。
「じゃあ勉強しなくていいじゃん」
そしたら母さん、あたしを指さしながらこう言ったよ。
「そうはいかないよ。あんた、現に生きているじゃない」
生きててわりーかよ。
「あたしはあんたを認めない。うちの娘として認めない。沖本家の一員として認めない。絶対に」
と、自信満々で言いきった。
じゃあ何しててもいいんでしょ、勉強しなくてもいいんでしょって思った。
「あんたが落ちこぼれなら、うちの敷居をまたがせない」
敷居なんて、どこにあんだよ、そんなもん。うちは社宅だろ!社宅で敷居なんて聞いた事ねーよ!その日の締めくくりの言葉はこれだった。
「あたし、落ちこぼれの娘なんて要らない!あんたなんか要らない!」
こっちだって要らねえよ!
姉ちゃんの家庭教師を「蹴った」あたしは家の中でますます孤立していった。
家事をやる以外、家にいられる理由はなかった。だからあたしはずっと家事をやっていた。ってか、やらざるを得なかった。
ただね、母さんは来る日も来る日も何かしら嫌味を言ったよ。仕事で忙しい自分に代わって家事をやってくれて有難う、なんてただのいっぺんも言ってくれた事なかった。
だからあたし、専業主婦の人が不満に思う気持ちが小学生にして分かった。
「あんたなんて家事をやって当然よ!役立たず!」
って毎日言うし。しかもせせら笑いながらね。
役に立ってるじゃねえか、家事をしてるんだから!
散らかったリビングを片付けていた。
その時、ブラウン管に映しだされていたのは、外国のサーカス小屋のような場所だった。舞台の上で直立不動の男の人たちが、団長のような人に次々にビンタされていく。それを見て観客が笑っている。まったく無抵抗の人たちを、その団長は容赦なく殴っている。それを見て観客は更に笑い転げる。
…人が殴られているのを見て、どうして笑うんだろう、何がおかしいんだろう。不思議に思っていたら、母さんが言った。
「マリ、この人たち、どうしてこんな仕事しなきゃいけなくなったか分かる?」
そんなもん、分かる訳ない。首をかしげる。
母さんが勝ち誇ったように言う。
「この人たちはね、勉強をしなかったの。だからこういう仕事をせざるを得ないの」
そうかなあ?ほかに理由があるんじゃないのかなあ?
「マリ、あんた、こういう仕事したいの?」
したい訳ないじゃん。
「マリ、あんた、こういう仕事したいの?人に殴られて、笑われる仕事、したいの?」
返事なんてするまでもないだろう。
画面では、舞台裏で殴られた人たちが、涙と鼻血を拭いている様子が映っている。
「マリ、あんた今のままじゃこういう仕事をしなきゃいけなくなるよ。いいの?」
母さんがしつこく聞き続ける。うるさくて、鬱陶しくて、もうリビングにいられない。
片付けを中途半端でやめ、自分の部屋に逃げ込むあたしの背中に、母さんが大声で叫ぶ。
「マリ、勉強しなさい!勉強!!じゃなきゃあんな仕事するようになるよ!!」
あたしにそういう殴られる仕事して欲しいのかよ。イライラさせんじゃねーよ!
その日の夕方、つけっ放しのラジオから、人を殺して逃げていた犯人が5年ぶりに捕まった、というニュースが流れてきた。
夕飯を作りながら聞き流していたあたしに、母さんが言った。
「犯罪なんてやって逃げていても、ろくな仕事に就けないのよね。男はヒモ、女はホステスくらいしかないのよね」
そうかなあ?捕まった人って、たいていどこかの建築会社とか介護職でおとなしく働いている場合が多いじゃん。現に今捕まった人だってそうじゃん。
それにヒモって貢いでくれる女の人がいなきゃ成り立たないし、ホステスは雇ってくれる店がなきゃ出来ないし、おかしいじゃんって思っていると更に得意げにこう言いやがった。
「マリ、あんたヒモなんて持ちたいの?犯罪者と一緒になりたいの?」
そんな訳ないじゃん。そう思いながら黙っているとこう言ったよ。
「マリ、ちゃんと勉強しなさい。勉強を!!でないとヒモ持つようになるよ!」
関係ないと思うけどねえ。
自分の部屋で雑誌を読んでいた。その雑誌はマンガの部分と参考書の頁が交互に載っているものだった。ノックもせずにいきなり入ってきた母さんが見咎め、怒鳴る。
「マリッ、またあんたマンガなんか読んでっ」
次の瞬間、さっと参考書の頁を開いて読んでいるふりをした。
単純な母さんは、自分が見間違えたと思ったらしい。
「あ、参考書読んでいるの?やっぱりあたしの子」
とぬかしやがった。
何だよ、マンガ読んでたら他人の子で、参考書読んでりゃあ自分の子かよ。
誰が勉強なんかするかよ。誰がてめえの喜ぶ事するかよ!
学校から帰ると、母さんが食卓を指さしてこう言った。
「マリ、ケーキがあるよ」
喜んで食べようとしたあたしの右手を、力づくで押さえ込む母さん。
「マリ、このケーキ食べたかったら、母さんの言う事を聞きなさい」
目の前に食べたいケーキがあるのに、何なんだよ!振りほどこうとするあたしの手に、更にしがみつく母さん。
「マリ!マリ!このケーキ食べさしてあげるから、だから母さんの言う事、聞いて!」
もう食いたかねーよ!ふざけんな!変な交換条件しやがって!空いた左手で思い切りケーキを皿ごと投げてやった。
壁と床にべちゃりと崩れるケーキ。皿が割れなかった事を幸いに思え!
「何すんのよ!勿体ない!いくらしたと思っているのよ!」
そのケーキが何万もしたのかよ!バーカ!お前がわりーんだろが!自分の部屋に入ろうとするあたしに、母さんが叫ぶ。
「マリ!宿題と勉強しなさい!じゃなきゃ夕飯食べさせない!」
また交換条件かよ!そんな事言われて誰がやるかよ!!じゃあめしなんかいらねーよ!めし抜きなんて今に始まったこっちゃないしね!
夕飯時、部屋にこもり空腹と悔しさをまぎらわせながらビスケットなんぞかじっていたら、姉ちゃんがいきなり襖を開けて入って来て、箪笥の中を勝手にかき回す。
「あたしの下着、ないと思ったらここにあるじゃん」
「姉ちゃんの下着なんか着ないよ。気持ち悪い」
って言ったら
「ここにあるって事は着るって事じゃん」
と言いながら、つかみ取った自分の下着を持って出ていく。
…姉ちゃんが母さんに言いつけている声が聞こえる。
「母さん、マリなんてね、部屋でビスケットなんか食べているんだよ」
母さんが遠慮会釈なく襖を開けて入って来る。
「あんた、何ビスケットなんか食べてんのよ!食事抜いた意味ないじゃない!」
と、箱ごとビスケットを取り上げ、食べかけのさえ手から奪い、それを自分の口に入れ、あたしを睨みながらボリボリ食う卑しい母さんが、冷たい背中を向けて出て行く。
…何だよ、めし食わしてもらえねーならビスケット食うしかねーじゃん。
悔し涙がまたボタボタ落ちる。
「マリ、あんたあたしの言う事、全然聞かないから今日もご飯抜きよ!水を飲みなさい」
母さんが言う。仕方なくコップに水を汲み、喉なんかちっとも乾いていないけど、それでも飲む。
「もっと飲みなさい」
何杯も何杯も水を飲み続ける、惨めなあたし。
食卓では姉ちゃんが、知らん顔をしてご飯を食べている。
あんた、いいねえって思った。
仁王立ちの母さんが言い放つ。
「はい、あと一杯」
…これが今日の夕飯か。
「食べるの遅いねえっ」
母さんが苛立ち、声を荒げる。
だって、量が多すぎるんだもん。こんなに食えるかよ。
「さっさと食べなさいようっ!」
母さんの金切り声が響き渡る。
だったらもっと少なくしてくれよ。食べ盛りだからとか言って、でかい丼にてんこ盛りにするか、めし抜きか、どっちかなんて、極端だよ。
父さんが置時計をあたしの前にドンと置く。
「みんなより5分遅れるごとに一発ずつ殴るかなっ!」
そしてじっとあたしの食べる様子を見ている。そんなにイライラするなら見てなきゃいいじゃん。なおさら焦って食えねーよ。どうすりゃいいんだよ。5分ごとに本当に拳で殴るし、余計食欲落ちるよ。
自分は何しても許される、自分の子ならどんな仕打ちをしても良い、とでも思ってんのかね。
「早く食べ終えてみんなでテレビを一緒に見よう」
とか何とか、プラスの言い方は決してしてくれない人たちだった。いつもいつもマイナスの言い方をし、罰則を設け、脅すばかりだった。
家族で囲む食卓はほんの少しもおいしくも、楽しくも、幸せでもなかった。
好きな漫画をたいせつに並べていたら、急に部屋に入って来た母さんが、瞬間激怒症よろしく滅茶苦茶に投げ始めた。
「こんなものがあるから、あんた勉強しないのよ!」
ヒステリックにわめき散らす。
「捨てなさいようっ!」
と漫画につかみかかる。
またキチガイ沙汰だ!捨てないでくれ!捨てないでくれ!
「勉強するから!勉強するから!」
必死に叫びながら漫画をかばう。母さんがあたしを睨み続けている。
漫画をまずは引き出しにしまい、それからやる気もないけど教科書を広げる。仁王立ちのままあたしを監視し続ける、醜い母さん。
教科書のどのページを見たって、何にも頭に入ってこないよ。
母さんはその日から、毎日言い続けた。
「あんた、勉強するって言ったじゃない!」
友達と交換日記を始めた。
日記をたいせつにしていたら、また母さんが切れた。
「そんな事している暇ないじゃないっ!」
と、日記につかみかかる。
またキチガイ沙汰だ。
「交換日記、やめるからあ!」
必死に日記をかばいながら、教科書を広げる。
仁王立ちのまま、あたしを監視し続ける鬼母さん。
睨まれたあたしは、やはり教科書のどのページも頭に入ってこない。
…交換日記は密かに続けていた。
母さんが毎日言い続ける。
「あんた、交換日記やめるって言ったじゃない」
おやつを食べていたら母さんがまた言う。
「おやつなんか食べるからご飯が入らなくなるのよ。おやつ食べるならご飯食べなさいよ」
ご飯とおやつは違うだろう。
「ちゃんとご飯食べるから」
と答えた。
…食事の時間、嫌味かってくらい大量のご飯をデカい丼に盛った母さんが言う。
「ほら!全部食べなさい!あんた、ちゃんとご飯食べるって言ったじゃない」
話の流れで友達の悪口になった。
「加藤さんって意地悪なんだよ。もう付き合わない」
母さんが、ふうんと頷く。
…翌日、学校の帰りに加藤さんと会い、しばらく立ち話になった。
家の窓からそれを見ていた母さんが、帰って来たあたしに言う。
「あんた、加藤さんとは付き合わないって言ったじゃない」
もう何も言えないよ。母さんはあたしが何か言うと、いちいちそれを覚えていて
「あんた、なになにって言ったじゃない」
と蒸し返してくるから。本当にもう何も言えないよ!
ひたすら母さんが鬱陶しくて、鬱陶しくて、たまらないよ!
気が付くと、父さんが切れている。
原因は分からない。本当に、本当に、分からない。
父さんの手がスローモーションのように近づいてくる。
凄まじい痛みと共にふっ飛ばされるあたし。
自分の鼻血の飛沫が、写真のように見えた。
壁に叩きつけられ、一瞬で景色が変わる。
畳が上で、天井が下に見える。
父さんがわめいているのが遠くに聞こえる。
何を言っているのか分からない。
どうしても分からない。
最後の一言だけようやく聞き取れた。
「お前さえいなければ」
気が付くと、母さんが切れている。
原因は分からない。本当に、本当に、分からない。
母さんが滅茶苦茶にわめきながら、あたしを壁まで追い詰め、頭をがんがん砂壁に打ち付ける。
胸ぐらをつかみ、畳に引き倒され、蹴って蹴って蹴りまくる母さん。
頭が、顔が、腕が、足が、尻が、背中が、腹が、痛い、痛い、本当に痛い。
母さんがわめいているのが遠くに聞こえる。
何を言っているのか分からない。
どうしても、どうしても、ああどうしても分からない。
…暴れ疲れ、やり過ぎたと思った母さんが、戸棚からチョコレートを取り出し、倒れているあたしの前に、まるで餌のように置き、こう言った。
「愛の鞭だから」
これのどこが愛の鞭なんだろう?
この凄まじい暴力の代価が、ここにある一枚のチョコレートなのか?
チョコレートなどいらないから、暴力をやめてくれ。
気が付くと、姉ちゃんが切れている。
理由は分からない。
本当に、本当に、分からない。
鉛筆の尖った方をあたしに向け、威嚇している。
ああ、刺される…。
恐ろしくて、恐ろしくて、息が止まる。
体のすべての動きも止まる。
感覚も止まる。
永遠に、何もかもが、止まったように感じる。
…この後どうなったのか、何故か覚えていない。
どうしても、どうしても、ああどうしても思い出す事が出来ない。
…すっと、意識が戻って来た。
あたしは部屋で、ただひとりで座っていた。
右手首の内側がひたすら痛く、折れた鉛筆の芯が食い込んでいた。
…すっと、鼓動が戻って来た。
左手で、懸命に芯を取り去る。
だらだらと、手首から血が流れる。
だらだらと、心から血が流れる。
どうせ母さんは手当てをしてくれないんだろう。
震える左手でベランダのアロエをむしりながら、落ちた記憶を拾い集めようとする。
多分、
きっと、
姉ちゃんにやられたんだろう…。
おもちゃのブロックで小さな家を作った。
透明の窓を取り付け、そこから中が見えるようにした。
外で蟻を捕まえてきて、その中に閉じ込める。
蟻は出口を探して必死に動き回っていたが、だんだん元気がなくなり、しまいに死んでしまった。
何回も蟻を捕まえて同じ事をした。
学校の帰りに蟻の集団を見つけると、必ず足で踏みつぶした。
蟻が死んでいくのを黙って見ていた。
自分の心がすさんでいくのを感じながら。
あたしは
自分より
弱い蟻をいじめた。