第三話
そういえば幼稚園に通うようになって、母さんから少しでも離れる時間が出来た事が、物凄く嬉しかった事をよく覚えている。
「おかあさーん」
と、泣いている友達を見て、何が悲しいんだろう?と不思議だった。
だって、嬉しいじゃん。一日中怒鳴られてひっぱたかれるより、ずっといいよ。給食もおいしいし、先生は優しいし、近所の子だけでなく、新しい友達も出来たし。
幼稚園の入園テストは簡単だったよ。
知らないおばさんが、ビー玉やらおはじきやら積み木やら、色々なおもちゃが入っている箱を前にあたしにこう言った。
「この中から赤いおはじきをみっつお父さんに持って行って」
言われるままに、赤いおはじきをみっつ父さんに持って行く。父さんが何故か焦ったような、ほっとしたような顔で受け取ってくれた。
おばさんの所へ戻ると今度はこう言われた。
「この中から四角い積み木をいつつお母さんに持って行って」
また言われるままに四角い積み木をいつつ母さんへ持って行く。
母さんも何故か慌てた顔で
「はい、ありがとう」
と言いながら受け取る。
おばさんがまた言う。
「この中から黄色いビー玉をななつ持って行って、お父さんにふたつ、お母さんにいつつ渡して」
またまた言われるままに黄色いビー玉をななつ選び出し、父さんにふたつ渡し、母さんにいつつ渡した。
二人が同じ表情で同時に言う。
「はい、ありがとう」
おばさんが言う。
「お父さんからビー玉をひとつ、お母さんから積み木をふたつもらってきて」
また言われるままに父さんからビー玉をひとつ、母さんから積み木をふたつもらっておばさんに届ける。
おばさんが満足そうに言う。
「うん」
何だ、このおばさん。
…後で知った事だが、何も知らずに行き、いきなり入園テストと言われた父さんと母さんはえらく焦ったそうだ。
「お前、教えたか?」
「教えていない。どうしよう、マリ出来るかしら」
そんな会話が交わされていたらしい。あははははは。心配御無用!
あたしはあっさり受かり、晴れてその公立幼稚園に通うようになった訳だ。
母さんはね、料理が極端に下手で、家で食べる食事をおいしいと思った事は一度もなかったよ。
あたしにとって、初めて食べる「まともな食事」が幼稚園の給食だった。だから帰る時間が嫌だったさ。またあの家に戻るなんて、またまずい夕飯食べるなんて、ってね。
あたしは小さい頃、家で自分が何を食べていたか、覚えていないんだよ。普通、覚えているよね。けどあたしの場合、ほとんど記憶がないの。
唯一覚えているのが、厚切りのハムに厚切りのパイナップルを乗せて焼いたおかず。甘くておかずにならなくて嫌いだった。
「おいしくない」
と言うと、母さんは間髪いれずにこう言ったよ。
「じゃあ自分でやればいいじゃない!」
出来る訳ないじゃん、って思っていた。
父さんもよく文句を言っていたよ。
「高野豆腐くらいまともに作れないのか」
とかね。
「まともな高野豆腐ってどんなの?」
って母さんが聞くと、説明する事が苦手な父さんは
「だから、世の中の高野豆腐だよ」
と、よく分からない答えを言っていた。世の中の高野豆腐って、どんなんだろうねえ。
幼稚園の給食は色とりどりで、味付けもバランスもちょうど良かった。あたし、毎回おかわりしちゃったよ。おいしくておいしくて。
先生も怒る事はなく、何かあっても「やった事を注意する」って感じで、お前は駄目な子だとか、まして死んだものと思っているなんて否定するような事は一度も言われなかった。だからあたし全然傷ついたりしなかったよ。次からはこういう事をしなければいいんだなとか、こうすればいいんだなって理解できたしね。
友達も
「マリちゃん、遊ぼ」
って言ってくれて嬉しかった。
あたしが初めて出会った「楽しい時間」が幼稚園で過ごすひとときだったよ。
家族で出かけたって、車に酔うか、喧嘩を見るかでちっとも楽しくなかったしね。
あたしは幼稚園が大好きだった。
そうそう、プロポーズしてくれた男の子もいたよ。トモくんって子。
「ボク、大きくなったらマリちゃんと結婚する!」
と、みんなの前で恥ずかしげもなく宣言してくれた。
ノリくんが言う。
「お前、マリちゃんより背が小さいじゃないか!」
トモくんが自信満々で答えてくれた。
「大人になったら男の方が大きくなるんだ」
嬉しかったよ。
ああトモくん、早く大人になってあたしを迎えに来て。
幼稚園が休みの前の日、必ず上履きを持ち帰る。他の子はみんな、上履きをお母さんに洗ってもらっている様子だったが、うちは必ず自分で洗う決まりだった。
汚れた上履きをバケツに入れ、洗剤を振りかけてたわしでこする。汚れがどんどん浮き出てくる。それをきれいになるまで洗い、すすぎ、ベランダに干す。
ただ素手で洗うので毎回手が乾燥して嫌だった。あたしは幼稚園児ながら手が荒れていた。
母さんが言う。
「あんた、子どものくせに手が荒れているわね。きっと苦労する人生ね」
…苦労する人生なら生きたくないよ。
うちは家の中では冬でも裸足で過ごすのが決まりだった。
「その方が足が丈夫になるから」
というのが母さんの言い分だった。
だがあたしは何となく、靴下が早く傷むからなるべく履かせたくないと思っているのが分かっていた。その靴下も、穴があいたら自分で縫う決まりだった。
春や夏になると、幼稚園でもあたしは裸足に上履きを履いて過ごした。他の子はみんな夏でも靴下を履かせてもらっているというのに…。
「マリちゃんってどうしていつも裸足なの?」
と友達に聞かれ、返事のしようがなくて困っていた。
男の子にも
「やーい、裸足だ、貧乏だ」
とからかわれるし。
迎えに来た母さんに思い切って言ったよ。
「母さん、みんな夏でも靴下履いているよ」
あたしもそうしたい、という思いを込めて言ったのだが、母さんは高らかに即答する。
「よそはよそ。うちはそういう方針なのよ」
どんな方針だい?靴下方針かい?
困り果て、黙るあたし。
満足そうな母さん。
本当は靴下を節約したいだけじゃないの?娘の足より、靴下が傷むのが嫌かねえ。
それでいてあたしがほんの少しでもみんなと違う事をするとこう言った。
「あんた、何でみんなと同じようにしないの?」
…それは違った育ち方をしているからだよ。ところで、よそはよそ、じゃないのかい?
七夕の短冊にこんなお願い事を書いた。
「くつしたがほしい」
…夢がないねえ。
もうすぐクリスマス。
「今年はサンタさんに何をお願いするの?」
母さんの問いに即答した。
「靴下をたくさん下さいって言う」
…叶うといいねえ。ところで、もうサンタさんは断るんじゃなかったのかい?
その頃、姉ちゃんが歯の矯正と目の矯正をするようになったよ。姉ちゃんがニッと笑うたびに、ずらっと壮観なまでに矯正された歯が登場し、不気味だったさ。子どものくせに牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡かけちゃってるし。それぞれの矯正に金がかかり、我が家はますます逼迫していった。
…あたしも幼稚園の視力検査や歯の検査で、目と歯の矯正が必要という結果は出ていた。
その頃あたしは「下の歯が前で上の歯が後ろ」になっていたんだ。友達にからかわれて初めて上の歯が前ってーのが正しいんだって事に気づき、そこだけは無理矢理自分で直したけど歯並びがガチャガチャなのは、どうしようもなかったし、右目はよく見えるけど塞いで左目だけで見ようとすると、あんまり見えないって事にも気づいたさ。
幼稚園の担任の先生が
「マリちゃんも矯正した方が良いですよ」
と母さんに話しているのを聞いたけど、父さんも母さんも姉ちゃんは大事だけど、あたしはどうでもいいらしく、決してあたしの目も歯も矯正しようとしなかったよ。
「いいよ、マリは」
って一言で済まされちゃったしね。
…まあね、あたしは「死んだもの」なんだから、矯正なんかしたってしょうがないんだろうしね。
母さんは父さんが大嫌いだったから、父さん似のあたしが嫌だったんだろうな。
「マリ、あんたは小さいうちに死んだものと思っているからね」
というのは、ほぼ毎日言われていたけど、もうひとつよく言われたのが
「あたしの人生の最大の失敗は、父さんと結婚した事と、父さんそっくりのあんたを生んだ事よ」
という暴言だった。母さんは暴言とさえ思っていないみたいだったけど。
どっちも返事のしようがなかったよ。聞こえないふりをして黙っていると、母さんも言った気がしなかったんだろうね。おんなじ事、何回も何回も言われたよ。
あーあー、はいはい。生まれてきちゃって悪かったですね。すいませんね!なるべく早く死にますからもう言わないでよ!あたしは心の中でいつも叫んでいた。
そして母さんは自分にそっくりで、尚且つ取り入るのがうまい姉ちゃんを、あたしの前でこれ見よがしに可愛がり、こう言った。
「悔しかったらあんたもいい子になりなさい。そうすれば可愛がってあげるから」
あたしはただ黙って見ていたよ。張り裂けそうな心を持てあましながらね。
こっちは
「悔しかったら良い母親になりな。そうすれば懐いてあげるから」
なんて言わないのにさ。
それでいて機嫌良い時には、こんな事を言ってた。
「あんたがあたしのお腹にいる時に、夢を見たのよ。神様が出てきて、その子は男の子だって言ったの。立派な大人になるって言われたのよ。だからあたし、あんたは男の子だとばっかり思っていたんだけどさ」
…すいませんねえ。女の子で、しかも立派じゃなくて。
父さんはね、日本人なら誰でも知っている大手の航空会社に勤めていた。JELだか何か知らないけど、名前さえ言えば、みんながみんな、「へえ」と感心するような大企業だった。
父さんの父さん、つまりあたしからするとじいちゃんが勤めていて、父さんの11人もいるきょうだい(昔は生めよ、増やせよで、どこも大家族が当たり前だったのさ)のほぼ全員がJEL社員だった(結婚した伯母さんたちは専業主婦になっていたが)。
伯父さんは初代のパイロット、伯母さんは初代のスチュワーデス、別の叔母さんは日本初のタイピスト、もうひとりの叔母さんも重役秘書、叔父さんも機長。みんなコネ入社。そして航空会社一家って訳。ぱっと見は、華麗なる一族ってーの?
そして母さんは自宅で造花教室を開いていた。姉ちゃんとあたしを産んでから、多忙の合間を縫うように勉強を始め、学び続け、資格を取り、師範にまでなった。何のコネもツテもなく、ただ努力するだけで頂点へ登りつめていった母さんには、壮絶なサクセスストーリーと、努力すれば必ず夢は叶う、という自信やら自負やらがなみなみと溢れていた。
はいはい、立派だね。その前にあたしを殴ったり、否定したり、罵詈雑言浴びせるのをやめてくれないかね。我が家は綺麗なお花も溢れていたけど、汚い暴力も所狭しと溢れていたよ。
ただね、大企業ったって薄給じゃしょうがないんだよ。母さんはいつもお金がない、お金がないって怒っていたよ。
だったら姉ちゃんやあたしに習い事させなきゃいいのにさ。バレエだ、ピアノだ、オルガンだ、水泳だ、そろばんだって習い事ばかり。しかも全部母さんの意思で決められて、あたしの意思なんてひとつも通らなかったよ。どれもこれもやりたかねーよ。
「高い月謝払ってやっているのに、あんたはちっとも上達しないし一生懸命やろうともしない。勿体ないったらありゃしない!」
って怒られるばかりで、なんにも面白くなかったよ。
姉ちゃんはバレエやピアノの発表会に出て活躍して、みんなに褒められてご満悦状態だったけど、あたしはまるきり上達しないから、発表会も何も出た事なんて1回もなかったさ。怒られる回数が増えるばかりで全然楽しくなかった。
しかもその授業料がかさむとか言って、別の所にしわよせ来るし。
あたしは小さい頃、身に着けるものは全部姉ちゃんのお下がりばかりだった。いつなんどきも、あたしは姉ちゃんの小さい頃に着ていたものを着せられていた。
靴下だけは、姉ちゃんもボロボロになるまで履きつぶしていたから買ってくれたけど(すげー嬉しかったよ)、それ以外は全部お下がりだった。
そこまではどこの家庭でも当たり前だが、母さんは家に来客があるたびに
「これ、上の子のお下がりなの。お下がりなの」
と、まるで言い訳するかのように連発していた。
あまりに繰り返して言うのにたまりかね、反論ほど不得意な事のないあたしが思い切って言った事がある。
「ねえ、お下がり、お下がりって言うのをやめて」
母さんは平気で言った。
「だってお下がりだもん。本当の事言って何が悪いの?」
「でも嫌だ。お下がり、お下がりって言われるの、嫌だ」
母さんに気持ちを分かって欲しかった。お下がりを着せられるのが嫌なのではなく、そう言われるとあたし自身を「ついで、おまけ」と言われているようで嫌なのだという事を。
母さんはそれからも得意気に、お下がりと言い続けた。
お下がりは洋服や靴だけではなかった。
あたしが小学校に上がる時の事だ。
姉ちゃんは、もうランドセルを使わなくなっていた。学校で手提げ袋が流行っていて、それに教科書を入れて通学していたのだ。
母さんは姉ちゃんのランドセルを手に取り
「まだきれいだもの。勿体ないわよねえ」
と、それこそ言い訳するように連発し、あたしにしょわせた。
古いランドセルをしょわされたあたしは、学校で来る日も来る日もいじめられ、泣きながら家に帰る、惨めな小学校生活をスタートさせる事になる。
「どうしてランドセル古いの?どうして古いの?」
と、友達みんなに聞かれ、返事のしようがなかったのだ。それもみんながみんな、掻き分けるようにして聞いてくるんだよ。
「どうして古いの?どうして?どうして?」
って。
あまりにいじめが激しく、担任の先生にまで
「新しいランドセルを買ってあげたらどうですか」
と言われた母さんが、しぶしぶ新しいものを買ったのは、あたしが2年生になる時だった。
ちょうどその頃、父さんの転勤に伴い、あたしたちは福岡から大阪へ移り住む事になっていた。母さんとしては心機一転、学校も新しくなるし、ちょうどいいと思ったのだろう。
…だが新しい学校でも、あたしはスタートからみんなにいじめられる事になる。だってみんなが程々に使い込んだ中に、ひとりだけ新品のランドセルをしょっているんだもん。
「どうしてランドセル新しいの?どうして新しいの?」
と、クラス中の子に聞かれる羽目になっちまった。その時もみんながみんな、掻き分けるようにしてあたしに詰め寄って来たよ。
まったく違う学校で、まったく違う友達なのに、まったく同じ光景を見る羽目になっちまった。
「どうして新しいの?どうして?どうして????」
って。
それも返事のしようがなく、新しい学校でもいじめられ、あたしはいつも鼻を垂らして泣いていた。
もういじめられたくない一心で、新しいランドセルを何とか古くしようと、叩いたり蹴ったりして傷を付けた。
「やめなさい!勿体ない!」
母さんはわめいたけど、このランドセルがあたしを不幸にしていると思うとやめられなかった。
他の子と少しでも違っていると浮いてしまう、いじめられてしまう、母さんはそれが分からなかった。自分だけが正しいと主張を譲らなかった。
あたしは新しいランドセルを1ヶ月も使わなかった。もういじめられるのも、からかわれるのもたくさんだったからね。
母さんがさんざん
「勿体ない!せっかく買ってやったのに!」
と言ったが、手提げ袋に教科書を入れて登校した。
母さんは、適切なタイミングで適切な事をしてくれない人だった。
また、あたしは自分では分からなかったが「福岡訛り」があり、人と会話している時に話が通じない事が多々あった。
友達にも
「あんた、ナニジン?」
ってよく言われたよ。
それもいじめに拍車をかけ、道を歩いていて
「やーい、ガイジーン!」
と男の子に囃し立てられたりもした。言われても困ったさ。訛ってるってー認識ねーっつーの!!
更にその学校で、悲惨な思い出がある。授業中に失禁しちゃった事。しかも「でっかい」方。
なんで漏らしちゃったのか、なんて分からない。聞かれたって答えられない。ただどうしても我慢出来なくて、先生に手を上げてトイレ行っても良いですか?って言えなくて、漏らしちゃったんだ。
ニオイで、みんなすぐ気付いたよ。犯人があたしって事にもね。臭い、臭いって騒ぐみんな。どうしようもないあたし。
やっと来た休み時間。トイレに駆け込み、漏らしたものを懸命に処理しようとするがしきれない。どうしよう、どうしよう、先生に言おうか、でも先生だって困るだろう。ああ、言えない。
給食の時間、周りの子はみんなあたしを、これ以上避けられないってくらい避けながら食べている。あたしも、自分は臭いから悪いなって思いながら避けて食べる。
消えちまいたいくらい居たたまれない1日が終わり、やっと下校時間。気持ち悪さを堪えながら家に帰った。
風呂場で汚した下着やズボンを洗いながら、ようやくほっとする。ああ、明日は臭い臭いと言われなくて済む。
そこへ母さんがやってきた。
「あんた、何してんの?」
しぶしぶ訳を話したよ。
そうしたら
「あんたには呆れるわ、小学生にもなっておかしいよ!」
と、また罵倒された。
誰よりそう思っているのはあたしなのに、尚更惨めになった。
そしてさも汚なそうに、風呂場の床に洗剤をバンバン撒き散らし、タワシでガリガリ擦る。
「ここにウンチがいっぱい付いているに違いない!」
とか言いながら。途中で嫌になったらしく、タワシを放り出して言う。
「あんたがやりなさいよ!自分の撒いた種、自分で刈り取りなさい!」
仕方なく自分で風呂の床を掃除し始めたらこう言う。
「あんた、パンツ脱いでごらん」
あたしだってもう大きいのに、そんな事したくないよ。困り果て、首を横に振る。
「いいから脱ぎなさい!お尻見せてごらん!!」
どうしても、どうしても嫌で、首を横に振り続ける。ケツ見てどうすんだよ。
「あんた、どっかおかしいんじゃないの?」
そのセリフなら、ウンチを漏らす前から何回も聞いてるよ。
そして風呂掃除をし続けるあたしに向かって、ひとさし指を立てた手を突きつける。
「あんた、これ何本?」
何でそんな事するんだろう。
「これは?」
今度は4本立ててみせる。
「じゃあこれは?」
次は2本だ。ピースサインかよ。
「これは?」
お次は5本だ。平手で殴られるのかと思った。
「これは?」
次はグーだ。拳で殴られるのかいな?
「じゃあこれは?」
3本指が立っている。茫然とするしかない。
「なに、あんた、数も分からないの?」
母さんが、気が狂いそうに苛立っているのが分かる。
「あんた、おしまいよ、おしまい!おしまい!おしまい!」
その夜、帰ってきた父さんに母さんが、あたしが学校でウンチを漏らした事を言った。
父さんがあたしをちらりと見て、大きな大きなため息をつく。酷い口臭がした。
「こいつはキチガイ病院行きだな」
ああ、授業中にウンチを漏らしたらキチガイなんだ。
そして翌日から、学校であたしのあだ名は「ウンチ」になった。
男子も女子もみんなあたしを避け
「臭いからあっち行け」
「ウンチが通るよ!」
と来る日も来る日も罵倒された。
ランドセルが原因のいじめの時とは違う、みんながみんな異物を見る目に耐えられなかった。
当時、時々姉ちゃんが休み時間になると、あたしの教室に来てくれたよ。休み時間は苦痛だったからね。助かった、そう思いながら嬉しそうに廊下に出たもんさ。
廊下で姉ちゃんとあたしは、ただ黙ってにこにこしていた。何も話さなくても、あたしが姉ちゃんを待っていた事は分かったんだろう。姉ちゃん来てくれないかなと思っていたよ、と顔に書いてあったんだろう。そう、その頃までは姉ちゃんも時々はあたしに優しかったよ。時々、はね。
だがその後、姉ちゃんは勉強もできず、学校ではいじめられ、家でも親に怒られてばかりいるあたしを見下すようになる。賢い姉ちゃんはあたしをかばうより、母さん側について弱いあたしをいじめる方が楽になっちまった訳だ。
それはそれは恐ろしかったよ。姉ちゃんにまでぐいっと踏み付けられ、あたしはいよいよひとりぼっちになっちまったんだから。
台所にいる母さんに姉ちゃんが言う。
「母さんマリなんてね。今日教室行ったら、先生の話を手提げに顎乗せて聞いてるんだよ」
だの
「母さんマリなんてね。今日体操服忘れて、洋服で体育の時間やっていたんだよ」
だの、しょっちゅうチクッてやがった。
そのたびに母さんがあたしの所に来て言うんだよ。
「マリ、あんた先生の話を手提げに顎乗せて聞いていたんだって?」
「マリ、あんたまた忘れ物したんだって?」
それを聞いた父さんが言った。
「そこまで忘れ物するなんて、こいつどっかおかしいんだよ。ナントカ言う病気だよ。医者に診せろよ」
母さんがその言葉を真に受け、あたしをあちこちの医者やら宗教団体のオエライさんの所に連れていく事になる。
母さんが言う。
「マリ、今日もあんたを病院に連れて行くからね」
黙って付いていくしかない、小学校2年生のあたし。
忙しくて持ち物チェックする時間は惜しくても、医者や宗教団体に行く時間は惜しまない、おかしな母さん。
順番が来て、医者の前に母さんとあたしが座る。
「どうしました?」
医者がにこやかに尋ねる。
母さんが、まずは普通の大きさの声でこう言う。
「この子は忘れ物をするんです」
次にあたしをチラ見して、気遣っているような素振りをしながら身を乗り出し「囁いて」みせる。
「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」
どの医者も看護婦も宗教のオエライさんも、びっくりして母さんとあたしの顔を交互に見ていたよ。今の言葉、絶対にこの子に聞こえただろう。そう顔に書いてあった。
そして医者や宗教のオエライ先生は、必ずあたしに憐れむような眼を向けた。囁いたってあたしは隣にいるんだもん。そりゃ聞こえるよ。丸聞こえだよ。あたしに聞かせたくないなら、紙に書いて渡すとかすりゃいいのに。
その後、医者や宗教の先生が何事かを話し始める。内容はさっぱり分からない。
時々「ああ、可哀想に」という目でちらちらとあたしを見る。あたしにはその視線にも耐えられなかった。
「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」
その言葉だけが頭にこびり付いていた。
待合室でお会計の順番待っている時、看護婦に
「お母さん好き?」
って聞かれた事もあるし。答えられずに黙っちまったよ。そんな意地の悪い事聞かないでくれよ、意地悪で聞いてるんじゃないんだろうけど。何でそんな事聞くかなあ。真意分かんねー。
それは1回や2回じゃなかったよ。
ある時、どこの医者だったか忘れちまったが、いつものように相談に行った時の事。
順番が来る。診察室に入る。椅子に座る。もう慣れっこだ。
ただひとつ違ったのは、その時にあたしが持っていた手提げを母さんに
「そっちに置きなさいよ」
と言われ、椅子の脇に置いた事だった。
「どうしましたか?」
何も知らない医者がにこやかに言う。母さんが
「この子は忘れ物をするんです」
と、普通の大きさの声で言う。
次にあたしをチラ見してから身を乗り出し
「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」
と、小声で囁く。
それを聞き、いつものように相手のびっくり仰天した顔を見て、母さんって同じ事を何回繰り返せば気が済むんだろうと頭の中でぼんやりと考えていた。
どの医者も、機械を使うとかしてあたしの頭の中を見ようともしないし、宗教のおエライさんも念を送るとかしないじゃん。無駄な事するなよ。
その医者も、憐れむような眼差しをちらちらとあたしに向けながら、何事か話している。内容はあたしにはまったく分からない。大人同士の難しい話だ…。
あたしは窓の外に目を向け、そこから見える木の本数なんぞ数えていたよ。する事なかったからね。学校でウンチ漏らした事も相談するのかな、と漠然と思っていた。
…はっとすると、母さんが立ち上がりあたしに
「ほら、行くよ」
と、めんどくさそうに言っている。
ああ、儀式はやっと終わったのか。ふらふらっと立ち上がったら、母さんが慌てて言った。
「あっ、荷物」
ああ、そうか。椅子へ戻り、手提げを持って向き直ったら、母さんがそれこそ「ほら見ろ、こいつまた忘れ物したじゃないか、あなたの目の前で」というオーラをバンバン出しながら医者の顔を凝視していた。仁王立ちで、目を真ん丸くして、さも仰天したような顔で。
看護婦さんが、見るに見かねたように言ってくれた。
「お母さんが急かすから、つい忘れちゃったんだよね」
それは救いにも、何にもならなかった。
母さんはまるで、超常現象が目の前で起こったかのような、証拠を突きつけるような顔をして叫んだ。
「でも先生っ。JELって会社知っていますよねえっ?主人はJELなんですうっ」
医者と看護婦さんの顔が、呆れたように、仕方なさそうに曇る。
「私の父は弁護士ですうっ!父方の祖父は銀行の頭取やっていたような人なんですうっ!母方の祖父は医者ですうっ!主人の家系も代々立派ですうっ!この子の上に娘がいますが長女もまともですうっ!あたしは造花教室やってますうっ!経営者ですうっ!うちでおかしいのこの子だけなんですうっ!」
母さんがあたしを指差しながら叫ぶ。
「こんなおかしい子、生まれる筈ないじゃないですかっ!」
指をさされたあたしは、ベンゴシとか、イシャとか、ギンコーのトードリとかケイエイシャってそんなに立派で偉いのかなあ?と静かに考えていた。
「それにこの子、霊感が強くて、この子に主人のご先祖様の霊が降りてきた事もありますうっ!あたし、この目で見ましたあっ」
母さんが自分の目を指差して言う。
医者と看護婦は、痛ましい目で母さんとあたしを見ている。
それさえ、あんたに原因があるんじゃないの?このお母さんそういう考え方しか出来ないんだな、本当に病んでいて、本当に治療を受けるべき患者はこのお母さんだって思っているのは、小学校低学年のあたしにさえ分かった。分からないのは母さんだけだった。
更に叫ぶ母さん。
「この子が確かにおかしいって事を、もうひとつ証明してみせます!」
母さんはあたしの顔の前に、2本指を立てた手を突きつける。
「マリ、これ何本?」
答えたくない。んなもん、2本に決まってる。
「マリ、これは?」
今度は指を4本立ててやがる。分かったよ、わーかったよ、4本だろーが。だが答えたかねーよ。
「マリ、これは?」
今度は1本だ。もううんざりだよ。
医者と看護婦は、目の前で繰り広げられる「変な劇場」に辟易している。
母さんは苛立ちながら、まだ指を立て、2とか3とか、やっている。
「マリ、あんた小学校2年生にもなって数も分からないのっ?」
分かってっけど、答えたくねーの!早く終わってくれよ、その「指攻撃」。
…診察室を出て、支払いの順番を待っている間、母さんはあたしをじっと見下ろしながら独り言のようにつぶやいたよ。
「やっぱりこの子はどっかおかしいんだわ・・・。この子もうおしまいだわ」
ああ、あたしおしまいなんだ。じゃあ勉強なんかしたってしょうがないんだろう。友達と仲良くしても、夢を持っても、何かを努力しても、生きててもしょうがないんだろう。あたしはまったく価値のない、しょうがない存在なんだろう。
小学生の子どもにだって、少しはプライドがある。あまりにも情けなくて、惨めで、張り裂けそうだった。
それでも、もしかして受け入れてくれるかも知れないと、僅かな望みを抱きながら言った。
「母さん、ねえ母さん」
歩み寄ろうとしたあたしの存在を、伸ばした手を、母さんは汚いもののようにパンッとはたく。
「あたしもう嫌なのお!あんた見るのもう嫌なのお!!」
そう言いながらとめどなく後ずさりする、切れ切れ母さん。
母さん、そっちは壁だよ。そっちに道なんてないよ。
ああ何て切ないんだろう。母さんはもうあたしを見たくもないんだ。触れられるのも嫌なんだ。近寄ってはいけないんだ。
だったらあたし、いったいどうすればいいんだろう。本当にどうすればいいのか分からないよ。良い子になれったって、どういうのが良い子なのか、それさえ分からないよ。茫然とするあたし。
後ろから、看護婦の深いため息が聞こえる。
医者や宗教団体を訪れた日は、家に帰ると決まって父さんが母さんに聞く。
「医者は何て言っていた?」
とか
「宗教のお偉いさんは何て言っていた?」
とかね。
「それが…」
母さんが何事か答える。あたしにはそれも、何だかさっぱり分からない。
父さんがあたしを、まるで汚い昆虫でも見るような目で見ながら言う。
「お前がおかしいという事がはっきり証明されたんだよ。それも医者にさえ分からない異常さという事がな」
母さんはこう言った。
「まあ、あんたは死んだものと思っているから」
だったら最初から、医者にも宗教団体にも連れて行くなよ。
母さんは聞かされる相手がどんな気持ちになるかなんて、考えた事さえないんだろうな。
父さんの前でもよく言っていた。
「もっといい人と結婚すれば良かった。あたしは結婚に失敗したわ」
そんな事を言われたら、父さんだって怒るに決まっている。
「あんたなんかと結婚しなきゃ良かった」
平気で言う母さんに、父さんは怒り心頭で鉄拳を振り下ろした。
「じゃあ結婚しなきゃ良かったじゃないか!」
母さん憤然と反論する。
「だってそうしたら、子どもたちだって生まれてこなかったじゃない!」
「じゃあいいじゃないか!」
その意見は父さんが正しい。いいぞ!父さん!少なくともそこは間違っていないぞ!
「あんたが悪いのよ!あたしとあんたは合わないのよ!」
「じゃあ出ていけ!ここは俺の家だ!今すぐ出ていけ!」
ああ、母さん、どうか父さんを怒らせないで。
そして父さん、どうか母さんを殴らないで。
あたしは喧嘩を止めるのに忙しくて、まったく何も手につかなかったし、まったく何も考えられなかった。
父さんと母さんは、こんなにお互いを嫌い合っているのに、何で結婚なんかしたのかな?おおいに疑問だった。
父さんがいない時、恐る恐る母さんに聞いてみたよ。
「何で父さんと結婚したの?」
「だって、ある程度の年になってひとりでいると、どうして結婚しないの?って周りに聞かれるから。会社とかで、社会的信用が得られないのよ、ずっと独身だと」
「…そうじゃなくて、どうして父さんと結婚したの?」
「JELだから。父さんはJELだから」
そんな理由で父さんと結婚したのか、と落胆した。
「じゃあどうしてお姉ちゃんを生んだの?」
子どもが好きだったから、とか何とか答えて欲しかった。
しかしその思いは、次の瞬間もろく打ち砕かれる。
「だって、結婚して子どもいないと、どうして子ども生まないの?って周りに聞かれるから」
「じゃあ、どうしてマリを生んだの?」
「だって2人目は?ひとりっ子は可哀想よって周りに言われるから。そういうのも社会的信用に関わるのよ」
そんな理由であたしたちを生んだのか、もっと傷ついた。
「母さん、子ども、好き?」
無い勇気を振り絞って聞いてみたら、こんな答えが返って来た。
「だって、みんなが言うんだもん。自分の子なら可愛いよって」
答えになっていないよ。みんながそう言うから可愛いのかなと思って生んだら、ちっとも可愛くなかったって事じゃん。
母さんは周りに言われるから結婚をし(それも父さんというより、父さんの職業と)、周りの言うままに子どもを生んだのだった。
大事なのは「社会的信用」であり、「自分が周りにどう見られるか」だった。
「あんたも大人になれば分かるよ。いちばん大事なのは何なのか」
とも言われた。
本当にそうなのは、母さんの「しょうがないじゃない」と言わんばかりの顔を見てよく分かった。
その頃から、父さんがお酒を飲んで帰ってくるようになった。
「ただいま」
細い声で、青い顔で、居心地悪そうに、家に入ってくる父さんが情けなく悲しかった。
母さんは遠慮なくわめき散らす。
「飲む余裕がどこにあるのよ!そんなお金どこにあるのよ!」
父さんも、飲まずにいられなかったんだろう。家で晩酌ではなく、外で飲んで嫌な現実を少しでも忘れたかったんだろう。少しでも遅く家に帰りたかったんだろう。
母さんは壁のカレンダーにマジックで大きく書いた。
「父さん飲んだ日」
嫌味ったらしいね、これみよがしにさ。あたしは父さんが可哀想だった。
カレンダーは「父さん飲んだ日」という文字でいっぱいになっていった。
小学校3年生になる時、また父さんの転勤で東京へ引っ越す事になった。
あたしは転校出来るのが、嬉しくてたまんなかったよ。もう、ウンチだの、クセーだの、いじめられなくて済むしね。新しい学校では絶対にウンチも何も漏らすまいと力んでいた。
…だけどね、あたしがそう力めば力むほど、事態は何だか変な方向へ行っちまった。
あたしは毎朝必ず家でウンチを済ませたし、あまり水分を取らないように気を付けていたし、学校に行ってすぐにトイレへ行き、休み時間のたびにトイレへ通い、常に膀胱を空っぽにするようにしていた。けど、どういう訳か、授業中に必ずスゲー尿意に襲われるんだよ。しかも毎回毎回。
同じ間違いをしたくなかった。また漏らして新しい学校でもいじめられるのはまっぴらだった。
だから焦って先生の所へ行き、小声でトイレ行って良いですか?って聞き、トイレへ駆け込んだよ。
だけどさ、それが毎日、毎授業続いてごらんよ。先生も呆れるし、みんなも変に思うしさ。
ある時、ついに先生は言ったよ。
「沖本さん、ちょっと我慢してごらん」
冗談じゃない。漏らしたらどうなるか、どんなあだ名をつけられるか、どんなに避けられるか、どんなにいじめられるか、あたしゃ前の学校で経験済みだよ。教室を飛び出し、トイレへ駆け込む惨めなあたし。
クラスのみんなは、あたしのつらい気持ちをよそに平気でこう言った。
「仮病じゃない?」
どんな仮病だよ、そんな仮病あんのかよ!
あたしは新しい学校でも心機一転どころか、やはり浮いた存在だった。理解してくれる人なんてひとりもいなかったしね。
もうひとつ、大阪訛りがあるらしくて、それも友達にからかわれる原因になっていた。
「あんたナニジン?」
って。まったく違う学校で、まったく違う友達なのに、まったく同じ事言われる羽目になっちまった。ほんとに訛ってるってー認識ねーっつーの!
そしてトイレの件で、学校から連絡を受けた母さんはあたしにこう言った。
「やっぱりあんたはどっかおかしいんだわ。あんたおしまいよ」
そしてこうも言った。
「ほら、パンツ脱いでお尻見せなさい」
医者でも看護婦でもないあんたに、ケツ見せてどうなるっていうんだよ。
「今度授業中にトイレ行ったら、おむつさせるからね」
って脅すし。
おむつさせられるなんて、まっぴらだよ。冗談じゃない。そんな事言われたこっちがどんなに傷つくか考えもしないんだろう。また授業中トイレに行きたくなったら…考えるだけで気が狂いそうだ。
おむつさせられる、おむつにおしっこしなきゃいけない、濡れて気持ち悪いそのおむつを次の休み時間まで我慢して、自分でトイレで替えるのか?どこに捨てるんだ?おむつ…おむつ…おむつ…。
ああいっそ学校なんて行きたくない。登校拒否しようか、でもそんな勇気ない。
父さんは父さんでこう言った。
「お前はトイレキチガイだ」
…タオルキチガイとか、家キチガイとか、トイレキチガイとか、色々なキチガイがあるんだねえ。
日曜日は家にいられて、トイレの心配をしなくて済む。ああ家も悪くないな、なんて思っていたら部屋に父さんが入ってきた。
「お前、父さんと母さんが離婚したらどうする?」
あたしは黙っていた。そんな返事のしようのない事を聞かないでよ。
「俺が出て行ったら、お前がひとりでいじめられるんだろうなあ」
父さんは考え込み、困り果てていた。苛立ちを堪えるかのように、自分の足をこつんこつんと叩いている。
あたしも考え込み、困り果てた。自分の足をこつんこつんと叩く気にはならなかったけど。
考えきれないよ。どうしていいか、わからないよ。ただ、今目の前にある問題、父さんと母さんの毎日繰り返される喧嘩を止める以外、何をすればいいかまったく分からないよ。
きっと父さんは、自分は母さんにもう耐えられないし、姉ちゃんはまだ何とか母さんとやっていけるだろうけど、あたしだけは可哀想だと思っていてくれたんだろう。少なくともその瞬間はね。
あたしは全然親思いの子どもでも何でもなかったが、家が気になり、学校が終わるといつも飛んで帰っていた。父さんからは母さんを、母さんからは父さんを守りたかった。
父さんの会社はシフト勤務体制で、出勤時間がまちまちだった。夜勤の日は、日中喧嘩しているのが分っていたから、一刻も早く帰って2人の喧嘩を止めなくてはと、使命感に似た思いを抱いていた。
だが帰ってみて、やっぱり2人が喧嘩している姿を見るのは悲しかった。家にいるのはつらくて嫌だったし、喧嘩を止めるのは骨の折れる作業だった。
父さんは頭に血が昇ると、周囲が見えなくなるタイプだった。小さなあたしたちが見ていようが何だろうが、一切構わず馬乗りになって母さんを殴った。
「口で言って分からないなら体で分からせる!」
おなじみのセリフだった。それでいて人前ではおとなしかったよ。
父さんを知る人はみんなこう言った。
「あんた、あのお父さんに殴られた事があるの?」
あるよ、あるよ、何千回もね。
そして母さんは、これ見よがしな性格だった。父さんに殴られている自分を「どうだ」とばかりに姉ちゃんとあたしに見せ付けた。
ああ、マリたちが見ている。この悲惨な姿を見せれば同情して自分の言う事を聞くだろう、そんな感じだった。
そして殴られた後に必ず
「お姉ちゃん、マリ、ここに来なさい」
と言って、自分の両側に姉ちゃんとあたしを座らせ、両手であたしたちを囲むように抱き寄せ、何事かじっと考えているような顔をしていた。本当は何も考えていないくせに、何も分かっていないくせに、ポーズだけそうしていた。
姉ちゃんもあたしも迷惑だったよ。早く母さんから離れたかったさ。殴られて可哀想なんて、全然思わなかったしね。父さんを罵らなければ良いのにと思う事は多々あったけど。
そしていつもあれが気に入らない、これが気に入らないと文句を言って泣いてばかりいた。
そう、母さんはあたしたちの前で泣き過ぎていた。滅多に泣かない人が泣いていれば、そりゃ誰だって心配する。けれど、いっつも泣いている人がまた泣いていたって、誰も何とも思わないよ。ああ、また泣いている。よく泣くね。泣くのが好きなのかな、とさえ思ったさ。
しかも、母さんは泣きながら怒る人だった。
「あたしは泣いている時は慰めて欲しいのっ!」
って。母さんの場合、順番が逆だろう。慰めて欲しいから、同情してほしいから、わざわざ泣いて見せているんだろう。
それでいて外面は良かったよ。相手によって態度を変えていたけど。あと、場所が変わるたびにすっと馴染んでた。カメレオンかいな。
自分に利益をもたらしてくれる人には、素晴らしい挨拶をして周囲をお見事に圧倒してた。
家に来客があると、まずは玄関で立派な挨拶をし、招き入れたリビングで、夏は冷たいお茶が、冬は暖かいお茶が、お客さんが座るのとほぼ同時に、さっと出されていた。温かい微笑を浮かべながら相手の話を熱心に聞き、上手に褒め、良い気持ちにさせてあげるのが、それはそれはうまかった。
そして自分の造花教室の生徒さんをたいせつにし、よく褒め、教え方もうまかった。
お花のセンスも 抜群によく、色彩感覚はもはや天才的で、家の中を常にきれいなお花で飾り立て、自分の人生も飾り立てていた。
そして独学で英語の勉強を続け、英検の2級まで取得し、外国人の生徒さんに英語で造花を教えるまでになっていた。
母さんを知る人はみんなこう言ったよ。
「物凄く良いお母さんね」
違うよ、違うよ。職業と挨拶とお茶出しと建前が立派で上手なだけだよ。努力家なだけだよ。内情はぐちゃぐちゃだよ、うちは修羅場だよ。
「ではまた。ごきげんよう」
と上品にドアを閉め足音が遠ざかった途端に、仮面ライダーよろしくがらりと変身するよ。
「あの人はいかにも商売人って感じの人ね」
だの
「あの人は虎の威をかっているわ」
だのと、さっきまで仲良くしていた人の悪口を得意気に言うよ。自分は洞察力があるだろうと言わんばかりにね。
その後は決まって父さんの悪口だよ。自分は夫選びに失敗しただの、一流企業に勤めているんだからもっと良い暮らしが出来ると思ったのに生活費が足りない、社宅暮らしで持ち家も買えない、ハプニングに対応出来ないだのと散々言ってから
「あんたは父さんそっくり!」
と憎々しげに言うよ。その姿を見て欲しいもんだよ。
小さい頃、暴力を振るう父さんが悪いのかと思っていた。でも段々そうじゃない事が、嫌でも分かってきた。母さんが父さんの言う事なす事否定し、好きなものを遠ざけ、嫌いなものを押し付け、激高するまで神経を逆撫でするのが悪いんだって事が。
当時、DVなんて言葉さえなかった。夫が妻や子どもに暴力を振るうなんていうのは、テレビドラマの中だけの話だった。そしてそのテレビドラマでさえ、毎日それを受けている人の苦しみをきちんと描けていなかった。
それと一緒で、当時は虐待という言葉もなかった。まま母ならともかく、実の親が子どもにそんな仕打ちをする訳がないと、誰もが思っていた。
あたしは自分が否定されるのも、暴力も、暴言も、嫌味を言われるのも、追い出されるのも、勿論つらかったが、それ以上に誰も助けてくれる人がいない、何を言っても誰も信じてくれないというのが本当に悔しかった。誰かに助けて欲しくてたまらなかった。
学校で仲良くなった佐藤さんという女の子に「実は」という感じで相談した事がある。佐藤さんは「半信半疑」という顔で聞いてくれたが、翌日学校に行くと別の子が3人も並んでやってきて真顔でこう言った。
「沖本さんって、毎日親に殴られているんだって?」
…え?あたしは佐藤さんを信頼して、佐藤さんだけにというつもりで「恥と苦しみ」を打ち明けたのに、別の子たちに言いふらしていたなんて、と落胆した。
「え?何の事?あたし知らないよ」
すっとぼけて逃げるしかなかった。
また、この人ならと信頼した先生に相談した事もある。その先生も信じてくれなかった。
「沖本さん、同情買おうとしているの?私はあなたのお父さんとお母さんに会った事あるけど、あのご両親がそんな事をするとは思えないわ。あなた嘘言っているわ。テレビの見過ぎじゃない?」
ああ、あたしを助けてくれる人なんていないんだ。それ以上の言葉を飲み込んで、つらすぎる現実と、誰にも守ってもらえない孤独を背負ったよ。
この先生にしても
「殴られているんだって?」
と言いに来た高橋さんって友達にしても、きっとそういう目に遭わないんだろうなあ、だから未来永劫分からないんだろう。
高橋さんは、別の時にこんな事を言った。
「まともな人って、自分が間違っていて、みんなが正しいって思うんだって。でね、キチガイの人って、自分が正しくてみんながおかしいって思うんだって」
それってあたしに対する嫌味かい?あたしがキチガイって言いたいのかい?父さんと母さんが正しくて、あたしがおかしいの?そうなの?
…だがもしかしてみんなの言う通り、本当はあたしがおかしいのかな?って気もした。だけど現にあたしゃ毎日殴られて、嫌味を言われているんだよ。こいつぁどう説明してくれるんだよ!
「夢でも見たんじゃない?」
だと。夢でも何でもないよ!現実だよ!この痣を見てくれよ!
それでいてスッゲー不可解だったのが、父さんと母さんが決して仲が悪い訳ではない事だった。
毎年家族で海外旅行にも行ったしね。学校でも海外旅行なんて行った子なんて全然いなくて、外国に行った経験のある子なんて、あたしくらいだった。今と違って、海外旅行なんて信じられないって時代だったし、1ドル360円くらいだったし。
アメリカのディズニーランド(外人の白雪姫に会ったさ)だ、ハワイだ、ヨーロッパも一周したし、韓国だ、中国だって本当に世界中を飛び回ったよ。
特にイギリスやフランスの街並みが美しく、空も日本とは明らかに違っているのが印象的だった。
歩いている人の放っているオーラも違ったね。
本物のベルサイユ宮殿も行ったし、美術館もいっぱい行ったよ。あたしの愛読書は漫画の「ベルサイユのばら」でさ。初恋の人はオスカル様だもん。そりゃ嬉しいさ。
欧米ではアイスクリームの大きさが日本とは桁違いで、どうしても食べきれず姉ちゃんもあたしも残して捨てざるを得ない量だった。本当にバケツみたいなデカいアイスクリームで、こっちの人はこれを食べきれるのかって驚いたよ。
トイレの鍵の閉め方が分からず鍵を開けたまま(ドアは閉めてたよ)用を足していたら、女の人がドアを開け、あたしの姿を見て
「ソーリー」
と言った。こっちも
「ソーリー」
と思わず言っちまったさ。あはははははは。
カナダやトロント、ノルウェー、シンガポール、旅行は本当によく連れて行ってくれた。ナイアガラの滝の内側を船で通ったしね。ずぶ濡れになったけど、迫力あったし良かったよ。オーロラも見たさ。不思議でたまんなかったさ。
コペンハーゲンでは道端にヘアヌードの女の人の写真が貼ってあってびっくりしたもんだよ。当時日本ではヘア解禁されていなかったから、珍しくてさ。
姉ちゃんと
「コペンハーゲンのちんげ」
とか言って大笑いしたもんさ。あれえ、放送禁止用語だねえ。あははははははは。
南米では、あたしたちがいたホテルの部屋に外人の(そりゃ外人なのは当たり前だけど)女の人がやって来て、忘れ物があるから部屋に入れろという意味の事を言ってきた。怖かったよ。
父さんが必死に抵抗して入れなかったけど。
「あれきっと強盗だよ。部屋に入れた途端にズドンと撃たれたよ」
と言っていた。あれえ、外国ってのは恐いんだねえって思った。
それ以来、観光の為に部屋を出る時も、外出先からホテルに帰って来た時も、廊下等あたりを見回して
「それっ」
という父さんの掛け声と共に、部屋を出たり入ったりしたもんさ。あはははははははは。一応家族を守ってくれたよ。
でね、旅行中に父さんが何度も黒人の事を
「くろんぼ」
というのが気になったよ。差別用語じゃん。言わなきゃいいのに。
スイスで一度、
「ジャップ!」
という声と共に石が飛んで来た事があった。誰にも当たらなかったけど、やっぱり傷ついたよ。向こうの人から見たら日本人は見下すべき存在なのかってね。
オーストラリアで入ったレストランでは、ウエイターが現地の客とあたしたち日本人とで明からに接客態度が違ったし。
…父さんがくろんぼ、くろんぼ、と言わなければそういう目に遭わないのかなって気もしたけど。つまり「言った言葉が巡り巡って自分たちに返ってきてる」って事。
あと、時差ってのにも驚いた。ここはこんなに明るいのに日本は今夜中の3時、とかね。どういうこっちゃい。
本当に旅行はよく行ったよ。当時はJELも羽振りが良く、社員も家族も飛行機はタダで乗れた。ただしいつも羽根の上の座席で、飛行機内から外を見ても景色はあまり楽しめなかったけどね。
旅行以外でも、しょっちゅうあたしたちを連れてスケートやら花火やら海やら遊園地やら、あちこちに遊びに行ってたし、喜劇王と呼ばれたチャップリンの映画観に行った時なんて、楽しくて面白くて、来ているお客さんの中でいちばん大きな声で笑ったさ。
宝塚や有名な劇団のミュージカルの舞台や歌舞伎も、何回も連れて行ってくれたし、上野動物園にパンダも見に行ったし、イルカショーやら、潮干狩りやら、イチゴ狩りやらで、本当に忙しかったよ。
母さんは手先が器用で、造花もうまかったけど、洋裁の達人でもあった。自分や姉ちゃんやあたしの洋服は勿論、よそ行きのドレスまで仕上げてくれた。
とてもじゃないが、素人が作ったと思えない出来栄えの洋服やドレスは、みんなに羨ましがられたもんだよ。そのドレスを着て、親戚の結婚式に出席して、列席者から可愛いお嬢さんたちね、とか褒められて父さんも母さんもご満悦だったし。
ある結婚式で、父さんと母さんの結婚式で仲人やってくれた人ってーのに会った事もあったよ。父さんと母さんがその人の所に姉ちゃんとあたしの手を引っ張って駆け寄り、挨拶してた。
「結婚式で仲人をしていただいた沖本です。その節はお世話になりました。生まれた子どもたちです」
と言いながら姉ちゃんとあたしを紹介してた。
訳が分からないながらにお辞儀をする姉ちゃんとあたし。そのおじさんは覚えていないらしく、困ったような顔で笑っていたけど。
家でテレビの歌番組なんぞ見ながら、一緒に声高らかに歌っていた事もあったしね。そんな時、父さんと母さんは心から楽しげで、さっきの殴り合いはなんだったのかな、あたしの記憶違いだったのかなとさえ思った。ホント不思議でたまんなかったね、ありゃ。
ただね、あたしとしては、みんなが羨むほどの旅行やドレスより、喧嘩や暴力をやめてほしかったんだよ。
つまりうちは、「天国と地獄を同時に味あわされる家庭」だったんだ。天国も要らないから、地獄も勘弁して欲しいよ。
でね、姉ちゃんって自分から勉強する子なんだよ。珍しいと思うよ。そういう子の方が少ないし。姉ちゃんを見ていて、それが普通だって父さんも母さんも思ったみたい。だから全然やらないし、出来ないあたしが信じられないような事よく言われた。
「何であんたは勉強しないの?お姉ちゃん見習ったら?」
ってしょっちゅう怒られたけど、死んだものなら勉強なんかしたってしょうがない訳だし、しないなりに理由あるよ。
物心ついた時から死んだと思っていると言われ続けて、どうして勉強勉強って言うのかそっちの方が分からないよ。それに誰かを見習えって言われる程悔しい事ないしね。
あたしは母さんに他のお母さんを見習えって言った事ないのにさ。
「あんたどうするつもり?」
って聞かれても困るよ。どうすりゃいいか分からないから。
だって死んでるんでしょ?あたしはユウレイなんでしょ?じゃあどうするもこうするもないじゃん。おしまいだ、おしまいだって決めつけて、だったらいいよ、おしまいで。死んだものと思ってるとか、死んでくれとか、そんな事ばっかり言って、言いたい放題、暴力も振るいたい放題、さぞかし気持ちいいだろうね。こっちは地獄だけど。
「どうして欲しい?」
とか
「どうしたい?」
とか
「これとこれ、どっちがいい?この中からどれがいい?」
と言ってくれた事いっぺんもないし、いつも一択でこれしかないからこれにしろって押し付けられてきたしね。
あたしは希望を聞いて欲しかったし選ばせて欲しかったんだよなあ。
母さんが言う。
「物心付かないくらい小さい頃から海外旅行なんて連れて行ってもよく覚えていないから、勿体なかったねえ」
だったら大きくなってから連れて行くのは「勿体ある」のかよ。否定ばっかりするねえ。
母さんがまた言う。
「あんた、部屋ちゃんと片付けなさいよ!うるっさいお姑さんの所に行く事になるよ!」
部屋を片付ければ静かなお姑さんの所へ行けるのかい?また決めつけて!うるっさい母親だねえ。
母さんがまたまた言う。
「あんた、身だしなみ整えなさいよ!嫁に行き遅れるよ!」
苦手な反論をする。
「結婚なんかしない」
母さんが不思議満面で言う。
「どうして?」
「してもしょうがないから」
母さんが切り返してくる。
「でも、この前あんたの事占ってもらったら結婚するって言ってたよ!」
「しない。したくない」
「オールドミスになってもいいの?」
大きく頷く。
「どうして?」
どうしても納得できないって顔の母さん。
「だって、その占い、当たるよ!」
母さん、馬鹿だねえ。どうせ向こうの口車に乗ったんでしょう。おたくはああでしょう、こうでしょう、とその占い師がちょっと言っただけで、そうなんですよ、うちはああなんです、こうなんですって母さんがベラベラ喋って、それで当たってるって勘違いしてんでしょう。
あたしは結婚なんかしないよ!結婚に夢を描くって事がどうしても出来ないからね!
母さんがまたまたまた言う。
「あんた、好き嫌いしないで何でも食べなさい!好き嫌いの多い子が生まれるよ!」
また苦手な反論をする。
「子どもなんか生まない」
母さんが切り返す。
「でも占いの人があんたは子ども生むって言ってたよ!」
また占いかいな。
「とにかく生まない」
「でも、愛し合っていたらそういう事になるの!」
「なんで?」
「とにかく、愛し合っていたらそう言う事になるのよ!」
顔を赤らめながら言うおかしな母さん。汚れなき子どものあたしの頭の上にまた大きな疑問符が浮かぶ。
どうしてあたしの人生を決めつけるんだろう。そういうのって本人が決める事じゃん?
ところで、父さんと母さんは「愛し合って」姉ちゃんとあたしを生んだのかい?
人はどうして結婚したり、子どもを生んだりするんだろう?どうしても分からない。
何の為に結婚して子どもを生むのかなあ。本当に分からない。
母さんは、周りがそうしろって言うからそうしたって言うけど…。
あ、もしかして生んだ子に老後の面倒見てもらう為なのかな?きっとそうだね!
母さんはあたしのやる事なす事、気に入らないらしくて口を出す。ああしなさい、こうしなさい。1から10まで。
もううるさいよ!黙っててくれよ!自分で決めさせてくれよ!老後の面倒みてやらないよ!
母さん手製のワンピースを着て学校へ行った。
みんなが集まって来て
「可愛いね」
と褒めてくれた。嬉しかったよ。
高橋さんだけは
「服、可愛いね」
と「服」を強調して言った。
厭味ったらしいねえ。ぐっと堪える。
母さんが朝、あたしの髪を編み込みにしてくれた。みんなが集まって来て
「似合う」
と褒めてくれ、ニコニコしちまった。
高橋さんだけは
「髪型、いいね」
と、「髪型」を強調して言った。
また嫌味かいな。ぐぐっと堪える。
「沖本さんのお母さんって器用だね」
先生も、みんなも言う。
確かに、器用は器用だ。急に人格を切り替えるし。
宿題の刺繍を提出した時に、高橋さんがしたり顔でこう言った。
「お母さんにやってもらったんだ」
違うよ。自分でやったんだよ。たまらなく不愉快だった。
うちの電話が鳴った。出ると明らかに高橋さんの声で
「山口百恵ですけど」
とのたまう。なんてアホなんだろうと呆れる。
「沖本マリさんですよねえ?山口百恵です」
電話の向こうでクスクス笑っている数人の声が聞こえてくる。大スターの百恵ちゃんがあたしなんかに電話してくる訳がない。何でこんないたずらするかねえ。
翌日学校で高橋さんに言った。
「変ないたずら電話やめてよ」
高橋さんは開き直って言った。
「電話代、払っているのはこっちなんだから文句ないでしょ」
…そういう問題じゃないよ。そんなにあたしをいじめたいかねえ。
授業で新聞紙を使うので、うちにあった英字新聞を持って行った。深い理由なんてない。ただ家にあったからだ。
みんなは日本語の新聞なのに、あたしだけ英字だったので、珍しがって友達が集まって来た。
高橋さんがにやにやしながら言った。
「沖本さん、本当に外国に行った事あるって証拠見せようとして」
英字新聞は日本でも取れるんだよ。妬ましいのか何だか知らないけど、うるさいねえ。
その日の放課後、高橋さんが言った。
「日曜日、うちで遊ばない?誰もいないし」
どういう風の吹きまわしかなと思ったが、
「いいよ」
と答えた。
…日曜日、高橋さんの家に行ってチャイムを鳴らしたが返答がない。1時間くらい待ったが、誰も帰って来なかった。嫌な気持ちで家に帰る。
翌日、学校で高橋さんに聞いてみた。
「昨日どうしたの?家に行ったけどいなかったじゃん」
高橋さんは意地の悪い目つきで言った。
「だから言ったでしょ、誰もいないって」
ぞっとした。言っても無駄だと思い、黙って離れた。もう関わりたくないし。
…その話を聞いたらしい加藤さんが、にやにやしながら言った。
「ねえ、沖本さん。今日の夕方、教室で遊ばない?誰もいないし」
どうせ罠なんだろう。黙って首を横に振り離れた。どいつもこいつも、意地が悪いねえ。あんたらはこういう目に遭わないんだろうねえ。
…面白くない気分で廊下を歩いていた。友達がみんな、あたしを見てクフフ、とか笑ってやがる。何だかみんなであたしをからかっていじめようとしているように思えてくる。
もう嫌だ、こんな学校来たくない。
高橋さんにされた事と、加藤さんに言われた事を先生に話した。先生は素っ気なかった。
「そんなん知りませーん」
だと!ああそうですか!
学校の帰り道、あたしの前を並んで歩いている友達が4人。みんなわざとゆっくり歩き、しかも道を塞ぐように広がって、しかもそれぞれ間をあけないよう荷物をお互いの中間に持って、行く手をカンペキ塞いでやがる。
…あたしに何か恨みでもあるのかねえ。
家に帰り、友達にされた事を父さんに話してみた。父さんはテレビから目を離す事なくこう言った。
「お前も同じ事やり返せばいいだろう」
ぜんっぜん共感してくれないんだねえ。
今度は母さんに話してみた。そしたら急に泣き出す母さん。それも例によって最初に泣き顔を作り、大声で泣き声を上げ、後から無理矢理涙を出す嘘泣き。
「あんたって可哀想ねえ、本当に可哀想な子ねえ。何でこんなに可哀想な子なんだろう」
可哀想がればいいってもんじゃないよ。解決策を求めているのに、全然嬉しくない!
次の日の学校の帰り、歩いていたら急に男の子たちに突き飛ばされ転んだ。笑いながら走り去っていく男の子たち。擦りむいた膝が傷むぜ。
家に帰って、母さんに言った。
「男子たちに急に突き飛ばされて転んだ。見て、痛いよ」
母さんがベランダのアロエをむしり、差し出しながら言う。
「その子たちは何でそんな事したの?あんたが何かしたからじゃないの?」
「何もしていないよう!」
「何もしていないのにそんな事する訳ないよ。何かあるよ。あんたが悪いんじゃない?」
絶句した。何であたしが悪いんだよ!
母さんがまた父さんと喧嘩して殴られ、あたしの部屋に来た。
「父さんに殴られた。見て、痛いわ」
ムカついたあたしは母さんの真似をしてベランダのアロエをむしり、差し出しながら言ってやった。
「父さんは何でそんな事したの?母さんが何かしたからじゃないの?」
「あたしは何も悪くない!」
「何も悪くないのにそんな事する訳ないよ。何かあるよ。母さんが悪いんじゃないの?」
「あたしが悪いって言うの?!」
母さんがキーっとヒステリーを起こし、つかみかかって来た。滅茶苦茶に殴り、蹴り、髪を引っ張り、怒鳴りまくり、好き放題暴れる母さん。
「あたしを可哀想って思いなさいよ!!」
あたしはただ母さんの真似をしただけだ!おかしいのはあんただ!
リビングでテレビを見ていたら、外出先から帰って来た母さんがまた怒った。
「勉強しなさいようッ!」
そしてあたしの腕を掴み、部屋に押し込み、机の前に無理やり座らせた上に教科書とノートを自ら開き、強引に鉛筆を握らせる。その上あたしの頭をピシャッとひっぱたいた。
「あんたが今に壁にぶち当たるのよっ!」
頭上から、おなじみのセリフも降って来る。
…よく怒るねえ。
雨が降っていた。外出先から帰って来た母さんがまた怒る。
「洗濯物取り込んでよう!」
凄い勢いで洗濯物を入れ、またあたしの頭をバシッと殴る。
…よく叩くねえ。
雑誌に「写真だけの結婚式」というのが載っていた。
「これいいなあ」
と言ったら母さんがまた大げさに泣き出した。
「あんたって本当に可哀想な子ねえ。結婚式さえ挙げられない人生なんて」
…よく泣くねえ。
母さんとマドレーヌって洋菓子を作った。まあまあおいしかった。
…今日は怒らないんだねえ。
あたしの誕生日祝いに母さんがローラースケートを買ってくれた。
「5000円もしたのよ」
恩着せがましく何回も言う。はいはい、分かったよ。
夢中になって毎日遊ぶ。
…ある時、遊んでいる最中に友達に会い、ローラースケートをうっかりその場において公園に行っちまった。
置いたままのローラースケートを発見した母さんが、帰って来たあたしを怒鳴る。
「あんた、5000円をどぶに捨てるの?!」
はて?何の事か分からない。
「あんた、5000円をどぶに捨てるの?!」
何回も言う。
「あんた、ローラースケートを置いてどっか行ったんでしょう!あたしが拾って持って帰らなかったら誰かに盗られたじゃない!」
ようやく母さんが怒っている訳が分かった。だけどどぶに捨てた訳じゃない。
「ごめん」
と何回も謝ったが、母さんの怒りは止まらない。
「もう何も買ってやらないよ!あんたなんかに買ってやらなきゃ良かった!もう二度と何も買ってやらないからね!」
…よく脅すねえ。
牛乳を飲もうとコップになみなみと注いだが飲みきれなかった。
「これ捨てるね」
と悪気なく流しに捨てたら、また母さんが怒った。
「何すんのよ!勿体ない!」
いつまでもいつまでも怒る母さん。
「もうあんたなんかに二度と牛乳飲ませない!二度と飲まないでよ!」
…娘より牛乳が大事かねえ。
母さんが浴衣を着せてくれた。だが思うようにいかずイライラし始めた。
「ああもうイライラする!くねくねしないでちゃんと立っていてよ!」
そう言いながらあたしを突き飛ばす。突き飛ばしたら余計ちゃんと立っていられないよ。
…狂暴だねえ。
母さんはリンゴ等の果物を剥く時に必ず皮を少し残す。
「ここに皮が残っているよ」
と言っても
「このくらい残っていてもいいの」
と取り合ってくれない。
「何の為に皮剥くの?」
と聞くと
「農薬付いているから」
と答える。
「残った皮に農薬付いているんじゃないの?」
と聞くと
「だからこれくらいいいの!」
と「キレる寸前」って顔して言い切る。
…中途半端な事するねえ。
母さんがまた泣いている。原因は何だか分からない。分からないから慰めようもないし、励ましようもない。が、原因は何かと聞く気もしないので、父さんも姉ちゃんもあたしも知らん顔していた。
これ見よがしに泣き、しばらく待っても誰も慰めないと分かると怒り出すおかしな母さん。
「あたしは泣いている時は慰めて欲しいのっ!」
…我がままだねえ。
アイスティーを作って飲んでいた。
耐熱のカップに紅茶のティーパックを入れ、沸かしたお湯を注ぎ、じっくり蒸らして濃い目に紅茶を出し、砂糖を入れて溶かす。氷をたくさん入れたグラスの中にそれを注ぎ、更にレモンを絞り入れる。
あたしのやり方をじっと見ていた母さんが、したり顔で言う。
「アイスティーの作り方知らないの?砂糖はいちばん上に乗せるのよ」
冷やした紅茶のいちばん上に乗せても、砂糖は溶けないから、酸っぱくておいしくないじゃねえか。
…アホだねえ。
母さんは食事のたびに
「早く食べなさいようっ」
と怒る。それでいて
「よく噛んで食べなさい」
とも言う。よく噛んだら時間がかかる。早く食べるには、どこかの鳥か、爬虫類のように丸飲みし、胃に噛ませるしかない。
…どっちがいいんだろうねえ。
母さんが誰かと電話で話している。
学校から帰って来たあたしの顔を見るなり、これ聞こえよがしに言った。
「あたし、上はともかく、下は生み外したわ」
上って姉ちゃんの事だよね?下ってあたしの事だよね?生み外したって、変な子を生んだって事だよね?グリコのおまけのハズレってか、あたしはグリコのおまけ以下って事だよね?生んだはいいけど、ハズレだったって事だよね?自分が生んだ事と育て方は間違っていないけど、勝手に変な子に育ったって事だよね?
…そうだよねえ?ねーっ!!
家族で山登りに行った。
…が、あたしが首の後ろを蜂に刺されちまうハプニングに見舞われちまった。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!痛い!痛い!痛いいいいいいっ!!」
半狂乱で転げまわるあたし。
すかさず大声でケラケラ笑い出す母さん。
「泣きっ面に蜂ってこの事ね」
母さんは何度も何度もそう言って、本当におかしそうに笑い続けた。痛がっているあたしを病院に連れて行く訳でもなく、励ましたり患部を冷やしたりする事もなくただ大声で笑っている。父さんも姉ちゃんもただびっくりして見ているだけで、何もしようとしない。
苦しんでいるあたしに、誰も何もしてくれなかった。あたしは水筒に入っていた麦茶でハンカチを濡らし、自分の首に当てた。酷く熱を持ち、真っ赤に腫れ、あっという間にハンカチは熱くなった。
母さんはまだゲラゲラ笑っている。
…母さんは家に帰ってからベランダにあったアロエの葉をむしり、
「これ塗っとけば大丈夫よ」
と言っただけで、それ以上何もしてくれなかった。
そしてその後も、来客の度にあたしの前で平気で笑いながら言った。
「この子、この前蜂に刺されたのよ。泣きっ面に蜂ってね、クックックッ」
お客さんはびっくりした顔で、誰も笑ってなんかいなかった。
あたしはただ悲しくて黙っていた。
それでいて、その少し後に自分が子宮筋腫ってーのになった時(痛み等の自覚症状がない上に、命にも関わらない病気だと近所のおばさんに聞いた!)前代未聞の事態だ、とか言って、食卓に家族全員を集め、これ見よがしに泣きながら
「あたし、あんたたちの為に病気と闘うからね」
と感動して欲しそうに言っていた。
父さんは、ただ目を伏せて黙っていた(父さんは突発的な出来事に対応する能力ってーのに欠けていた。蜂に刺された娘を前に何もしないくらいだから!)。
姉ちゃんは本当か嘘泣きか知らないけど、涙目で母さんを見つめながら頷いていたよ。
あたしが痛くて泣いている時に笑っていたくせに、とあたしが知らん顔していたら
「マリは平気そうねえ」
と不満げに言う。
「マリは母さんが病気になっても平気?」
と聞くのでウンっと頷いてやったよ。
「どうして?」
と、さも不思議そうに聞く母さん。あたしが自分の目の前で、蜂に刺されて痛くてつらくて泣いている時に、あんたは平気で笑っていただろ、そのくらい分かれ!と思いながら黙っていたよ。
何度も何度も
「どうして?」
と聞く母さん。黙っている父さんと姉ちゃん。
突然怒り出す自己チュー母さん。
「どうせあんたはあたしが病気になったって、死んだって、平気なんでしょうよ!」
大声でがなりたてる。
「恐ろしい子だねえっ!病気の母さんに!母さんは病気なのに!」
死なないだろ、その病気じゃ。それにそんなに元気に怒鳴っていられるんなら大丈夫だよ。じゅうぶん元気だよ。病気を克服しちゃっているよ。
だいたい人が苦しんでいる時に笑うのは良くて、自分が命に関わらない病気になったのを心配してもらえないのは許せないなんておかしいじゃん!こっちはそれこそ許せないよ!反論の苦手なあたしは、心の中で叫んだ。
それに母さんよく言ってるよね?
「病気や事故に遭ってスッと死ぬならまだしも、重い障害を負ったりしたら大変よ」
って事は、何かあった時には「治す努力、生きる努力」をするのではなく「スッと死ぬ努力」をすべきって事でしょう?違うの?母さん。
じゃあ病気になった今、母さんは「スッと死ぬ努力」をすべきなんじゃないの?何で怒るの?言う事、なす事、めちゃくちゃじゃん。
「そんな事するなら死んでよう!いっぺん死んで完璧な状態で生まれ直してきてよう!」
とも、しょっちゅう言っていたしね。
父さんと同じで弁の立たないあたしは、心の叫びを日記に書いたよ。
「母さん、ベランダのアロエをむしり取って、子宮にこれ塗っとけば大丈夫よって言ってやろうか? どんな気持ちになるか?言ってやろうか?母さんこそ死んでよ、そんな事言うなら死んでよ、そんな事するなら、死んでよ。いっぺん死んで、完璧な母親に生まれ直してきなよ。母さんっ!自殺しろよ!」
そしてその日記を、母さんは勝手に盗む読みして、勝手に荒れ狂ったよ。
学校から帰って
「ただいま」
というあたしに、母さんが何の前置きも、脈絡もなく、怒鳴りつける。
「あんた!あたしが自殺すればいいと思っているんでしょう!」
ただいま、に対する答えじゃないだろう、と思いながら
「何でそんな事言うの?」
と聞いたら、また同じ事を言われたよ。
「あんたはあたしが自殺すればいいと、そう思っているんでしょう!」
不思議に思いながら
「何でそんな事言うの?」
と何回も聞いたけど、そのたびに
「でもそうなんでしょう!」
って、怒りながら泣いてやんの。
何なんだろ?不思議気分いっぱいのまま自分の部屋に入ったら、あたしの机の引き出しが開けっ放しで、しかも日記が開いてあった。
あ、日記を勝手に読みやがった。猛烈に腹が立ってリビングに行ったよ。
「マリの日記、勝手に見たの?」
って聞いたら、代休で家にいた父さんがこう言ったよ。
「見られて困る事を書くな」
屁理屈もいい所だろう、こんな時ばっかり夫婦で結託すんのかよ。
自分の日記に何て書こうが、そんなんあたしの自由だろ。人の日記を勝手に見るのは悪くなくて、思ったままを書くあたしが悪いなんて、見られて困る事を書くななんて、誰が考えたっておかしいよ。もう、日記さえ書けねーよ。汚らわしい!こんな日記、もういらねえよ!
ごみ箱に捨てながら、また悔し涙がこぼれる。
自分で本を作った。
不幸な女の子が、努力して幸せになるストーリーだ。心を込めて挿絵も書いた。表紙も作り、完成した作品にしばし見とれる。うん、なかなかの出来栄えだ。あたしの宝物にしよう。
そっと引き出しにしまおうとしたら、急に母さんが入って来た。
「あんた、風呂掃除まだじゃない」
と、不満満面で言う。
「なに?これ」
と強引にあたしの作品を取り上げ、乱暴にパラパラめくる。何するんだ、あたしの大事な本を。
慌てて取り返そうと、思わず母さんを突き飛ばしちまった。
母さんはひっくり返り、尻餅をついて怒鳴る。
「何すんのよ!親に乱暴する気?」
年がら年中、娘に乱暴しておきながら、言えたセリフかよ!
本は破れ、悲惨な姿になっている。ああ、もうこの本も汚らわしい存在になった。ごみ箱行きだ。
母さんのジコチュー伝説はまだあるよ、あるよ、いくらでもあるよ。
家庭科の授業で割烹着を作る事になった。
先生から縦横何センチの布を持ってくるように言われ、母さんにそのまま伝えた所、押入れから古布を引っ張り出して
「これ持っていきなさい」
と言われた。
その布は何かに使った余りで、大きさも合っていなければ、切り取った跡があり、みっともなかった。
「ちゃんとしたのを用意して」
と何度も頼んだが
「いいよ、これで。これでいいよ」
と取り合ってくれなかった。
仕方なくその布をもって学校に行ったが、いざ家庭科の授業の際に先生に
「あら、あなた切れた跡があるじゃない。これ何に使ったの?」
と聞かれちまった。返事のしようがなく黙り込んでしまう。
先生にもみんなにも変な目で見られ、恥ずかしくて居たたまれず、早く授業が終わって欲しかった。
家に帰ってから母さんに言ったがやはり取り合ってもくれず、あたしの気持ちを理解してもくれず
「え?そうお?んー?」
と、のんきな答えしか返ってこなかった。
学校で山登りに行った。
みんなで長い道を歩き、へとへとになった頃に、休憩になった。ジュースが配られる。
ああ、喉がカラカラだよ。飲もうとしたら、先生が口に手をメガホンのように当ててこう言った。
「配ったジュースは今飲まなくてもいいです」
じゃあ何の為に今配ったんだよ。あたしゃ喉が乾いているんだから、と飲もうとしたら友達が言う。
「今飲んだら、後でみんなが飲んでいる時に、沖本さんだけ飲めないんだよ」
いいじゃん、あたしの勝手じゃん、と思いながら飲んだ。
…勿論、頂上でみんなが飲んでいる時にあたしだけ飲めなかったが、別に気にしなかった。
その話を先生から聞いた母さんが言った。
「あんた、何でみんなと同じようにしないの?」
…みんなが飲むから自分も飲むっておかしいだろう。喉が乾いているか、いないか、だろう。自分が悪いとも変わっているとも思えなかった。
母さんは独り言のように
「この子は協調性がないんだわ」
と言いながら、異常児を見る目をしていた。
授業で「畑を写生する」ってのがあった。
畑で描いてもいいし、教室から見える畑を写生しても、どっちでも良いと先生は言った。
天気も良いし畑で描こう、とぞろぞろ外に行っちまうみんな。
あたしは教室から描きたかったから、ひとりでそうした。その時も、自分が悪いとも変わっているとも思わなかった。
その話を先生から聞いた母さんが、また言った。
「あんた、何でみんなと同じようにしないの?」
みんなが外に行くから、自分も外に行くってのはおかしいだろう。どちらから描きたいかだろう。それを選ぶのは、あたしの自由の筈だ。
母さんは相変わらず、異常児を見る目で言った。
「やっぱりこの子はどっかおかしいんだわ」
学校でスポーツバックを用意するように言われた。
母さんに言ったら、押し入れから使い古しのバスケットを引っ張り出してきて
「これ持って行きなさい」
と言う。
「スポーツバックを用意してよ」
と何度も言ったが、取り合ってくれなかった。
仕方なくそのバスケットを持ち、学校へ行く。
校庭にみんなで並んでいる時に見たが、やはりバスケットなんぞ持っているのはあたしだけだった。クラスの男子がじろじろ見て
「おもしれえ」
とか言うし。女子は
「沖本さんって変わっているね」
と言うし。
いちばん協調性ないのも、変わっているのも、おかしいのも、異常なのも、母さんじゃないのかなあ。
学校で給食当番の人はその週末に使った白衣を持ち帰り、洗濯してから月曜日に持参する。
ある月曜日の昼前、給食の準備をしている時に、その週の当番の男の子が白帽をかぶろうとして
「わあ!パンツ!!」
と言って白いパンツを放り投げた。見ると本当に白いパンツが床に落ちている。先生も笑っている。
「先週の給食当番だあれ?」
高橋さんが言う。
…言えないよ、あたしだなんて。母さんが間違えたなんて、言えないよ。とぼけ通した。
その日、帰ってから母さんに言ったけど
「え?そうお?んんんん???」
だって、しっかりしてくれよ!協調性ない上にドジな母さん!
お小遣いで鉛筆のキャップを買った。大事にしていたら、母さんがまた怒った。
「こんなんだって50円くらいするでしょう」
あたしは50円も自由に使えない身分だった。
母さんが古くなったストーブを捨てようとしていた。
「売ればいいじゃん」
って言ったら、また怒った。
「こんなん売ったって50円くらいにしかならないのよ」
苦手な反論をした。
「売ればいいじゃん。で、その50円を、このキャップのお金に充てればいいじゃん」
「バカバカしい!たかが50円で!」
母さんは冷たい背中を向けて行っちまう。
その50円にこだわったのは誰なんだよ。こっちが怒りたかった。
父さんの給料は少ししか上がらないが、物価はどんどん上がる。
家計簿をつけながら母さんがため息をつく。
「あんたたち、節約してね。節約。もうおかずなんかもあんまり良いの出来ないからね」
そんな事を言われたら、そりゃ心配になる。
「母さん、うち大丈夫?うち大丈夫?」
何度も聞くが、全然取り合ってくれない。心配で、心配で、張り裂けそうだ。
母さんが言う。
「マリ、そう思うなら勉強しなさい、勉強」
勉強したって金は入ってこないだろう。勉強するくらいなら働いた方がずっといい筈だ。
「マリ、中学出たら働くね」
それでうちが助かるなら、親が喜ぶならそうしようと本気で思った。
だが母さんが慌てたように言う。
「高校は行きなさい。それくらいのお金はあるから」
たった今、おかずを買う金さえないと言ったじゃないか。だったら高校行く金などどうやって捻出するんだ。出来る筈がない。小学生のあたしにもそれくらい分かる。
母さんが言い訳をし続ける。
「マリ、あたしそう言う事を言いたかったんじゃないのよ。だから…だから…勉強してよ」
答えになってない。中学を出たら働く、その意志だけが固まっていった。
うちの近くのデパートで、素人が出られる歌のお祭りが開催される事になった。出場者はノートがもらえる。ノート一冊でも、ただでもらえるならこんな良い事はない。家計の足しになる筈。
友達と出場を決めた。歌う曲も、何を着るかも決めた。
家で友達と練習していたら、母さんが真っ向から反対する。
「恥ずかしいからやめてよ」
何が恥ずかしいものか。
「ノートがもらえるんだよ」
と言ったが
「ノートくらい買ってあげるよ」
とのたまう。あたしの頭の上にまた疑問符が並ぶ。
「おかずを買うお金もないんだよね?だったらノート代を節約する事で…」
母さんがあたしの言葉を遮って言う。
「とにかく出ないで。恥ずかしいものは恥ずかしいから」
訳が分からない。家計に協力しようという小学生がここにいるんだ!
…結局、あたしは友達と歌のお祭りに出た。ノートをもらい、家計を助けた誇らしい気持ちで家に帰ったら、母さんが冷たい背中を向けながら言った。
「ああ恥ずかしい。そんなお祭りに出て、音痴な歌を披露しちゃって、ノートなんかの為に。ああ恥ずかしい」
あたしはどうしても、こうしても、恥ずかしい娘らしかった。
友達の家に遊びに行ったら、そこのお母さんが
「食べきれないから」
と言って、あたしに野菜をたくさんくれた。お礼を言い、重いのに頑張って家に持ち帰る。
父さんも母さんも喜んでくれたよ。2人の笑顔を見て嬉しくなったさ。
「これで食費が助かるね」
と悪気なく言ったら、父さんが急に怒り出した。
「何だ、お前、俺は金に困ってなどいない!ふざけるな!」
殴られ、座っていた椅子から落ちた。
「俺は乞食じゃないぞ!」
倒れているのに、なおかつ蹴られる。
「乞食じゃない!乞食じゃない!乞食じゃない!」
さも悔しそうに顔をしわくちゃにして蹴ってくる、切れ切れ父さん。乞食なんて、そんな事ひとことも言っていないし思ってもいない。冗談じゃないよ。
「今度の旅行もお前が行くなら俺は行かない!お前が行かないって言うなら俺は行く」
と関係ない話まで持ち出してくるし。何で関係ない夏休みの家族旅行の話に飛ぶんだよ!
「あたしは行くよ」
と答えたら
「じゃあ俺は行かない!お前が行かないって言うなら俺は行ってやる」
だと!なんちゅう大人げなさ!もう言い合いしている場合じゃない。慌てて自分の部屋に逃げ込む。
「父さんに何言ったのおー?」
母さんが大声で、父さんに聞こえよがしに言いながら、あたしの部屋に入って来た。
そして襖をぴしゃりと閉めてから、あたしに顔を近づけ小声で囁いた。
「どうしたの?何があったの?」
それでうまく世渡りしているつもりかよ。
この人っておかしいと、はっきり思った。
姉ちゃんの誕生日に、お小遣いでハンカチをプレゼントした。
母さんが珍しく
「あんた優しいねえ」
って言ってくれた。
姉ちゃんも嬉しそうだった。
あたしの誕生日が近いから、姉ちゃんに言った。
「本が欲しいな」
その途端に母さんが激高する。
「あんた、自分からものをねだるなんて、最低だよ!あんたは最低の子だよ!」
ねだったつもりはなかったんだけどな。
ましてや「行為」を咎めるならまだしも、あたし自身を最低の子だ、と「人格否定」するなんてさ、もう何も言えないよ。
友達の家に遊びに行くと言ったら、母さんがにやにやしながら言った。
「また野菜もらって来てよ」
あんただってねだってんじゃねえか。また修羅場を望むのか?
担任の先生が結婚する事になった。
父兄でお祝いをしようと言う事になり、プリントが配られた。お祝いのお金を集めるのでいくら寄付するか丸で囲んで下さいと書いてある。200円、300円、400円、と3通り。
お世話になっている先生だし、一生一度の結婚祝いだし、好きな先生だから少しは奮発して欲しかったが、母さんは躊躇なく200円の所に丸を付け、100円玉をふたつ袋に入れる。母さんは少しでも節約する人だった。
それでいて自分の仕事に使う布や染料は、いつも最高級のを躊躇なく買っていた。
「あたしは第一線で活躍する身だから」
とか言って。
自分には奮発、人にはケチ、勿論家族にもケチ、おかずもケチ、ご飯のお代わりも駄目、…なんなんだろうねえ。
母さんの友達がうちに来た。今も独身のその人が言う。
「あなたが羨ましいわ。結婚して、子どもを2人も生んで」
母さんが間髪入れずに言う。
「いない子に泣かされる事ないよ」
「…泣かされているの?」
「上はともかく、下はどうしようもないからね」
…その人が絶句しながらあたしの顔を見る。あたしも絶句する。あたしはどうしようもない、いない方が良い存在という事か?
その人はあたしを憐れむ目で見た後、いたたまれないように、そそくさと帰って行った。
そして2度と来なかった。
母さんの別の友達がうちに来た。
「この化粧水がとってもいいのよ」
そう言いながらポンプ式の化粧水をコットンに取り、自分の肌になじませてみせる。大人になると、こういうものを使うようになるんだと思いながら見ていた。
母さんが言う。
「手に取った方が節約になるんじゃない?」
母さんの友達が言う。
「栄養分を手に取られるからコットン使った方がいいわよ」
母さんがすかさず言い返す。
「コットンに取られるじゃない」
母さんの友達が困った顔になる。せっかくいいものを勧めてくれているのに、あたしはその人が心配になる。
母さんが更に憎々し気に言う。
「ポンプ式って早くなくなるのよね。いくらでも汲み上げるから。新しいのを早く買わせようって化粧品会社の魂胆ね」
母さんの友達が、更に困った顔になる。
「今の化粧水が肌に合わないって言うから持ってきたんだけど…」
母さんの友達は、明らかに気分を害している。
「そんなん、特別良いと思わないけどねえ」
母さんが平気で混ぜ返す。母さんの友達が黙って目を伏せる。
ああ母さん、そんな事言わないで、友達怒っちゃうよ。教えてくれて有難う。使うかどうかは考えておくね、とか何とか言えばいいのに。子どものあたしに分かる事が、大人の母さんには分からない。
…結局、その化粧水を持って母さんの友達は黙って帰って行った。母さんが言う。
「あー、良かった。無駄なお金使わなくて済んだわ!」
母さんは友達の好意も無にする人だった。
勿論その人も2度と来なかった。
母さんの別の友達がうちに来た。
「うちの夫の再就職がやっと決まったのよ」
ほっとした顔で言っている。
母さんが不満げな顔で言う。
「ふうん、その会社、社員は何人いるの?」
その友達が嬉しそうに言う。
「300人よ」
母さんがさも馬鹿にしたように言う。
「ふうん、小さい会社ね」
友達がびっくりして、もう一度確認するように言う。
「300人よ」
母さんが居丈高に切り返す。
「だって、うちの主人の会社なんて何万人よ!」
その人が絶句する。せっかく良い気持ちでいたのに、馬鹿にされてどんな気分だろう。
あたしはその人が心配になる。再就職おめでとう、とか、良かったね、とか言えばいいのに、子どものあたしに分かる事が、大人の母さんには全然分かっていない。
母さんは、得意満面な顔を友達に向け続けている。
その人は「言っても無駄だ」という顔になり、黙って帰って行った。
母さんが言う。
「あー、良かった。父さんがJELで!」
母さんは友達の事も馬鹿にする人だった。
勿論その人も、2度と来なかった。
社宅で隣の奥さんが来た。
「やっと一軒家を買ったのよ」
嬉しそうに言っている。
妬まし気な母さんが言う。
「そう、場所どこ?」
その人が笑顔で答える。
「橋の向こう。子どもたちも転校しなくて済むし、中古だけど良かったわ」
母さんが不満げに聞く。
「中古?」
その人は笑顔を崩す事なく言う。
「中古よ。新築はとても手が届かないわ」
謙遜しているのは小学生のあたしにも分かる。
母さんがすかさず混ぜ返す。
「あなたも可哀想ね。そんな中古物件つかまされて喜んでいるなんて」
その人が絶句する。やっとマイホームを買ったというのに、どんな気持ちだろう。
おめでとう、とか良かったね、とか言えばいいものを、中古とか馬鹿にして、可哀想がるなんて。子どものあたしに分かる事が、大人の母さんにはまったく分からない。
その人は怒った顔のまま黙って帰って行った。
母さんが言う。
「あー、あたしは新築の家が欲しい!」
勿論その人も、引っ越しするまで知らん顔していた。
母さんの別の友達が来た。
結婚して10年になる旦那さんの事を話している。
「優しくて穏やかな人で、感謝しているわ」
いいねえ。母さんも父さんの事をそんな風に人前で褒めてみたらどうだい?
人の不幸が大好きな母さんが言う。
「あなたの旦那さんって確か高卒だったわよねえ。年収いくら?」
何て事を聞くんだ。あたしはまた母さんが人を傷つける所を見たくなかった。
「高卒だけど…。頭のいい人よ。年収は知らないわ」
母さんが急に身を乗り出すようにして、その人に迫る。
「自分の旦那の年収知らないってどういう事よ」
その人はびっくりして、椅子の背もたれに倒れんばかりにのけぞっている。
「うちの主人は大学院を出ているの!大学、イン!乗れるレールがあなたたちとは違うの!」
居丈高にまくしたてる母さん。
絶句しているその人。
「あたしは主人の会社の人の年収を知っているわよ!誰の給料が幾らで、誰のボーナスが幾らか、全部知っているわよ!」
指折り数えて見せながら、言い放つ母さん。
「本当よ。誰の給料がいくらで、誰のボーナスがいくらか、全部知っているわ!誰がどこの大学を出ているか、その大学の偏差値がいくつか、そこまであたしは知っているわ!うちはそれでうまくいっているわよ!」
ほんまかいな。仮に本当に知っているとして、相手にそう言えるの?言えないでしょ。母さん、そんな事言わないで。その人、嫌な気持ちになっちゃうよ。それにうちはうまくいってねーだろ!
「年収知らないなら、旦那さんが他に家庭をもうひとつ持っても分からないじゃないっ」
母さんの勢いは止まらない。
「浮気するような人じゃないわよ…」
その人が細い声で言う。
「あなた、旦那さんに年収ひとつ聞けないのは、自分に自信がないからじゃないかしら」
母さんはもう他の事は何も見えないかのように、その人に迫る。
その人はただびっくりしている。
「じゃあ何かで生活費が足りない時はどうするの?」
その人はあまりにびっくりし過ぎて返事が出来ないでいる。
「どうするのっ?」
その人は答えない。ってか、答えられない。
「どうするのっ???」
母さんが椅子から腰を浮かしてまで詰問している。母さん、その浮いた尻を椅子に落ち着けなよ、それで気持ちも落ち着けなよ。
「あたしはね!大学院を卒業している人と結婚する為に自分も大学に行ったの。自分を同じレベルにする為にね!あなたもあたしみたいな考え方持っていれば大学院か、低くても大卒の人と結婚出来たんじゃないのかしら?」
その人が細い声でやっと反論する。
「私は彼の人柄が好きで結婚したから…」
母さんがまた切り返す。
「あなた!あたしと重視する所が違う!」
その人の開いた口がふさがらない。
「うちの主人が入社した時に主人の上司だった人たちは、今や主人の部下なのよ、部下!二流大卒だからね!」
帰りたそうな顔をするその人と、帰すまいと喋り続ける母さん。
「うちの主人はね、人員整理する側なの!する側!!前にも人を何人か切らなきゃいけないけど、この人は子どもが障害児で、この人は要介護状態の親がいるからって8人くらいの身上書を見ながらウンウン悩んでいる時に、あたしがこの人とこの人は残して後はクビ!って言って決めてやったの!あたしが!主人はその通りにしたわ!あたしが主人の部下を切ってやったわ!あたしは人の人生を左右出来る立場なの!!」
顎を天に向けて言い切る母さん。
「あたしたちはクビを切る側!あなたたちは切られる側!あたしたちが上!あなたたちは下!決定的な違いね!」
その人は悪魔を見るような目で見ている。
「あたしは子どもたちの学校へ行くとね、綺麗なお母さんって囁かれるのよ」
自慢気な母さん。
「本当よ、行くたびに綺麗なお母さんって囁かれるの!」
断言する母さん。その人が仕方なさそうに言う。
「はい、そうね」
早く話を終わらせて帰りたがっているのが分かる。
…と、そこでその人の手提げから難しそうな本がバサッと落ちた。
母さんがすかさず言う。
「あら、まあ!あなた中卒なのに本読むの?」
その人のふさがらない口がもっと大きくなる。よせばいいのに、そんな優しそうな奥さんを傷つけなければいいのに。
「あたしは自分に自信あるわよ。大学出ているし、元銀行員だし、今は経営者だし」
得意満面な顔を向け続ける母さん。そこまで自慢したり、学歴や職業や権力にしがみつくって事は、それこそ自分に自信がないって事じゃないのかい?
その人は黙って立ち、本を拾い、静かにうちから出て行った。
母さんが言う。
「あら、あたし何か変な事言ったかしら?分かってないみたいだから、懇切丁寧に教えてあげたんだけど」
分かってないのは母さんだよ。あの人もきっともう二度と来ないんだろうなあ。
母さんは友達を次々に失う人だった。
その夜、母さんが父さんに言うのが聞こえた。
「親が絶対って思わせるのよ。親が絶対って」
…「絶対に」間違っていると思うけどねえ。