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箱の中のリトルガールズ  作者: おもながゆりこ
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第十七話

私がホスト遊びにはまらず、借金を抱えても300万円程度で済んだのは、カナエさんのお陰かも知れない。

 私の夫が9歳年下でもしっかりしているのは、カナエさんの相手になったホストのお陰なのだろう。

 私がナイトクラブで働く事はあっても、風俗で働かずに済んだのは、ヨウコとヤスエの弟のお陰だ。

 私がどんなに貧乏になっても、アダルトビデオに出ないでいられたのは、クミコの妹のお陰。

 私がヤクザな道に進まないで済んだのは、班目孝彦さん、フサエのお兄さん、本田泰之さんのお父さん、冴子さんのお兄さんのお陰。

 私がお酒に溺れる事はあっても薬物に手を出さなかったのは、アユミとフサエの彼のお陰。

 私が中絶した事がないのは、ヨウコとクミコとチカコのお陰。

 私が実父に凌辱されずに済んだのは、ヤスエのお陰。

 私が誰にも裸の写真を撮られず、脅迫されなかったのは、ノリコのお陰。

 私がどんなに腹が立っても人を刺さずに済んだのは、キミコのお陰。

 私が父母や男性に暴力を振るわれても、耳の鼓膜を守れたのは、チカコのお陰。

 私が結婚出来たのは、小椋純子さんのお陰。

 私の姉が何があっても生きているのは、タカエのお姉さんのお陰。

 私の父や夫が浮気をしないのは、アサコのお父さんのお陰。

 私の子どもが健康に生まれたのは、フサエの子どものお陰。

 私自身が健康に生まれ、元気に生きられるのは、マユミと、タカエの親御さんのお陰。

 私が髪を滅茶苦茶に切られず、入れ墨も無く、フィリピン人を見ても平静でいられるのはミナコのお陰。

 私が好きな事を職業に出来たのは、尼の中井さんのお陰。

 私がどんなに言葉を直されても寡黙児にならずにいられたのは、ナツミちゃんのお陰。

 私の両親が離婚しなかったのは、木本信一君の親御さんのお陰。

 私が監禁された事がなく、水商売を辞められたのは、マチコのお陰。もうひとつ、マチコは私の代わりに今なお水商売を続けてくれているのかも知れない。

 私が事故に遭っても軽症で済んだのは、アユミの彼と、桜井正一さんのお陰。

 そして牧原道子さんは、私の代わりに正一さんの死を受け止めてくれた。

 みんな、私の代わりにそうしてくれたのだ。

 私がぎりぎり「取り返しのつく状態」でいられたのは、みんなが代わってくれたお陰だ。

 本当にお陰様です。

 本当に大変な思いをさせて済みませんでした。

 本当に有難うございました。


  人はみな、何かしら重い荷物を抱えている。何もなさそうに見えても、よく聞くと重くつらい荷物をいくつもいくつも…。

 そう、私も重くつらい荷物をいくつも抱えていた。誰も理解してくれなかったが。

 光の園のみんなだけは、マチコ以外に誰も信じてくれなかった私の話を熱心に聞き、信じてくれた。だから私もみんなの話を熱心に聞き、信じられないような話でも、ただただ信じた。

若ければ若いほど、女であればあるほど、器量が良ければ良いほど、無知で経験値が浅いほど、純粋であるほど、悪い人に狙われる可能性や誰かに妬まれる確率は高くなる。

 だから相手が若くて綺麗だから、何もつらい思いをした事はないだろうと思うのは間違っている。その人は、どんなに若くても、例え子どもで、重い荷物を背負っている。

 そう、誰も、彼も、彼女も、どんな人も…。死ぬほど重く、つらい荷物を抱えているものだ。

 だからこそ、絶対に人の人生を軽んじてはならない。平凡な人生を送っている人などひとりもいない。


 そして、最後と言うのは後から思うものだ。

 あの人と会うのは、あれが最後だった。

あの人が私に優しくしてくれるのは、あれが最後だったんだ。

あの仕事が最後だったんだ。

あそこへ行くのはあれが最後だったんだ。

 そう、「これが最後かも知れない」と思えば、どんな人も、どんな仕事も、絶対に粗末にすることは出来ない。

「明日、何かでその人たちやその仕事と永久に別れるかも知れない」のだから。家族でさえ。


  そういえば私は子どもの頃に、学校で色々な科目がある事を不思議に思っていた。

 何故、国語や算数、理科、社会、歴史、体操や道徳を学ぶんだろう。何故方程式など覚えるのだろう。何故粘土や絵画や料理をするんだろう。何故読書感想文や詩を書いたりするんだろう。何故歌を歌ったり楽器を演奏するんだろう。何故生徒会の役員を決める選挙などやるのだろう。

 何の役に立つんだろうと心底分からなかった。だが大人になった今なら心底よく分かる。

それはその人が将来どんな仕事をするか分からないから、その人にどんな才能があるか分からないから、それを開花させる為に、合う職業に出会う為に、幼少期のうちに色々な経験をさせてくれる場所、社会で通用する為に学ぶ、覚える訓練をする、それこそが学校の役目なのだとよく分かった。よくよく腑に落ちた。

 また、母が毛嫌いしていた漫画も決して悪くはない。私はフランス革命を、漫画のベルサイユのばらで学んだし、歴史に関心も持った。 


どんな職業も「世の中に必要」であるが為に存在している。世の中に馬鹿にしていい職業などひとつもない。

 ヨウコやヤスエの弟が働いていた風俗業界も、決して馬鹿にしてはいけない。「一般の女性を、性犯罪から守ってくれている」のだから。

父はそうでもなかったが、母は人の学歴や職業しか見ない人だった為、私が美容師になっていたと知った時、いちばん大変な仕事だの、社会的信用が低い等、散々言った。

 そして母は私が転職するたびにこう言った。

「それは、いちばん大変な仕事よ」

 世の中にいちばん大変な仕事は随分たくさんあるんだなと、呆れた。

 大人になってから

「定時制高校や通信制高校も、卒業すればきちんと高卒として認可されるよ」

と話した事があったが、

「でも、そう思うじゃない」

と、昔窓を開けたままシャワーを浴びたと決めつけた時と、まったく同じ答えが返って来てがっかりした。母はどこまで行っても分からない人だった。

  また母は、私のいとこで、なっちゃんとよしこちゃんという姉妹が親のコネでスチュワーデスになった時(本人たちも優秀だったのだろうが)、旅行先の空港でスチュワーデスを見るなり、さも羨ましそうにこう言った。

「なっちゃんとよしこちゃんもこうなるのよ」

私は聞き流した。

 母は私が小学生の時に悪意無く言った言葉、友達の親が子どもが困っている時だけ助けてやると言う考えの持ち主である、それを聞き尊敬した、というのに過剰反応した。そして事あるごとに蒸し返し、一生忘れないとねちねち私をいじめた。

 私は母を許したが、母はスチュワーデスになれなかった私を許さなかった。

だが、同じく私のいとこで母親の過干渉の為に20年以上引きこもっている、まさくんとゆみちゃんというきょうだいと比較して、私の方がまだマシだと、おかしな感心の仕方をして褒めてくれた事もあった。あまり嬉しくはなかったが。

 そのゆみちゃんだが、自分の家族にこんな事を言ったそうだ。

「私は沖本家に生まれたかった」

 それを聞き、父母も姉も私も仰天した。

 繊細なゆみちゃんがうちに生まれていたら大変だったろう。姉と私だからこそ何とか突っぱね、跳ね返し、蹴って、外に飛び出せたのだ。隣りの芝生は青く見える、とはこの事だと思った。

 

  また母は、父とさえ結婚しなければ、だの、あんたたちはもっと酷い家庭に生まれたかも知れない等よく言っていた。

うちより酷い家とはどんな家だろうと当時は想像も付かなかったが、クミコやヤスエはうちより酷い家庭環境だった。


母について物凄く意外だったのが

「私は造花の仕事でも、英語の勉強でも、努力をしたらそれなりの結果を出したし、良い評価も受けたけど、家族だけはどう努力しても良くならなかった」

と言っていた事だ。

 私には「自ら引っ掻き回し、わざわざ修羅場を起こしている」ように見えたが、母はあれで「努力していた」のだった。

 返事のしようがなく、黙ってしまった。


 私は中高年になった今なお、あまり深く考えずに何かしてしまう事が多々ある。それは幼少期、母に考える力、工夫する力、最後までやり遂げる力をことごとく潰された経験があるからではないかと言う気がする。勿論いい年をしてそのせいにしてはいけないが、だったらなおの事、息子が何かするのを辛抱強く待たねば、と思っている。

 確かに子どもがなかなか出来ずにいる姿を見ているのはじれったい。だがそこをぐっとこらえ、口出し手出しをせず、考える力を、工夫する力を、最後までやり遂げる力を育ててやらねばならない。子育ての基本は「待つ事」と言っても過言ではない。

 母は待てない人だった。


私は母が絶対に無理と言い切った事を次々に成し遂げてきた。

 まともな就職、まともな生活、まともな人生、幸せな結婚、婚礼司会、愛情のある育児、そして何より自分で選択、決断、実行する事。

 そして母がおしまいだと言い続けたどん底の状態から、何度でも蘇って来た。

 これからだって負けるもんか。

 これからも次々に奇跡をおこしてやる。スチュワーデスにはなれないが。

  ひとり暮らしを長く続け、あらゆる手続きを自分でこなした。何をどうするか、自分で選び、決断し、行動した。 

 また、10日間に渡り、北海道をひとり旅をした事もある。パックの旅行ではなく、ガイドブックを見て、泊まるホテルから、乗る飛行機、新幹線、汽車のチケットの手配、名所はどこを見る、どの順番で回る等、全部自分で決めて実行した。

 お金もかかったし、頼れるのは自分だけで、緊張し過ぎ、腹を壊しっぱなしだったが、私のたいせつな財産になっている。

 やれば出来るんだ、物凄い達成感を味わった。

幼い日、その日着る洋服を自分で決めた事や、渡れなかった信号を渡れるようになった時の達成感を思い出した。

 そう、母に1から10まで命令され、何もかも決められていた時代は捨てた。


 私の仕事や交友関係に必ず口出ししてきた母だが、ひとつだけ「口出し出来ない仕事」があった。

 それが「婚礼司会」だった。

 分からないから、口を出せなかったのだろう。つまり婚礼司会だけは「思い付かなかった」のだ。

 また、結婚式の仕事は儲かってたまらない事もなかった。お金に糸目を付ける人は多かった。おしめを付ける人はいなかったが。


  子どもを自分の思い通りにしようとするのは、その子を「自分以下にする」という事だ。自分が思いつかない事は「させられない」のだから。

 だから子どもを尊重し、個性や可能性を信じるべきなのだ。そうすれば子どもも親を信頼しながら、親が思いもよらない人生を満ち足りた気持ちで歩んでくれる。

 いちばんの親孝行とは、温泉に連れて行く事でもなく、豪華な結婚式を挙げる事でも、孫の顔を見せる事でもなく、幸せに生きる事だ。


 そして人を変える事は出来ないし、その必要もまったくない。それが私の持論である。

 私は小学生の時、授業中に手を上げられない子どもだった。先生に促されても、友達みんなが手を上げていても、それでも私の手だけは上がらなかった。母は呆れたし怒ったが、上がらないものは何をどうしても上がらなかった。

 また16歳の時にアルバイト先で、いらっしゃいませ、と大きな声で言えないという理由で、先輩に死んだ魚を背中に入れるという嫌がらせを受けた事がある。びっくりして悲鳴を上げた私にその人はこう言った。

「ほら、大きな声出るじゃない。その調子でいらっしゃいませって言いなさいよ」

だが私は婚礼司会者として何百人を前に堂々と話し、悠然と仕切った。

 その頃、先生も、友達も、先輩も、みんな私がそんな職業を選ぶとは考えもしなかったのだろう。

 つまり「今の状態」だけを見て、無理矢理方向転換させる必要はないのだ。長い目で見れば、相手は思いもよらない方向へ進む可能性がふんだんにあるのだから、性急に直す必要はない。

また、人に文句を言ったり責める事も出来ないし不必要だ。相手の美点はそのまま自分の美点で、相手の欠点はそのまま自分の欠点だからだ。

 この人はずるい、と思っても、誰かにとって自分はずるい人間だ。この人は親切と思ったら、誰かにとって自分は親切な人という事だ。

 文句があっても、まったく同じ事が自分にも当てはまる。

  例えば旦那さんが奥さんにこう言ったとする。

「お前、母親だろう、きちんと子どもの面倒見ろよ」

  まったく同じ事が言える。奥さんはこう言えば良い。

「あなた父親でしょう、きちんと子どもの面倒見てよ」

 旦那さんがこう食い下がったとする。

「お前、誰のお陰で生活が出来る」

 奥さんはこう言い返せばいい。

「あなた、誰のお陰で仕事が出来るの?私がいなければ、子ども抱えてどうやって家事と育児と仕事するの?私が家事と育児をやっているお陰でしょう」

  親が子どもにこう言ったとする。

「誰のお陰で学校に通える?」

 子どもはこう言えば良い。

「じゃあ行かない。不登校する」

 困るのはどっちだ?その親はなおもこう食い下がったとする。

「勉強しなさい、あんたが壁にぶち当たるのよ」

  まったく同じ事が言える。

「そっちこそ仕事の勉強しなよ。壁にぶち当たるよ」

  その子どもはこうも付け加える事が出来る。

「だからその程度の人生なんだよ」

 不倫していた男性が、別れ際に相手の女性にこう言ったとする。

「君、俺との事は誰にも言わない方が良いよ。これから君もいつか誰かと結婚するだろうけど、その時に自分の妻が妻子持ちに抱かれていたカスだなんて知ったら旦那さんはショックを受けるからね」

 女性はこう言い返せば良い。

「あなた、私との事は誰にも言わない方が良いですよ。自分の夫が他の女を抱いていたカスだなんて知ったら、あなたの妻も子どももショックを受けるからね」

 結婚式を挙げた翌日、旦那さんが新妻にこう言ったとする。

「なあ、釣った魚に餌はやらないって知っているか?俺にとってお前はもう釣った魚だ。餌はやらないから一生そのつもりでいろ」

 新妻はこう返せば良い。

「じゃあ私にとってもあなたは釣った魚だから餌はやらない。ご飯も作らないし、掃除も洗濯もしない。勿論優しくもしないし今後一切口も利かないから、一生そのつもりでいてね」

 動揺するのはどっちだ?旦那さんがこう言い訳したとする。

「冗談だよ、ちょっと困らせてみたかっただけだよ」

 新妻は宣言通り、今後一切口を利かず、黙って離婚してしまえば良い。家庭裁判所は必ず妻の味方をするはずだ。結婚生活たったの一日で棄てられた旦那さんは周囲に言い訳さえ出来ない。

同僚のだらしなさに腹が立ったとする。だが自分もだらしなく、そんな自分が嫌だからこそ、その人のだらしなさが目に付くのだ。

 ずるい人をみて苛立つのは、自分も誰かにとってずるい人で尚且つそれが嫌だから。

 つまり自分の欠点を受け入れていれば、苛立つ事はまったくない。

 神様は、その都度必要な人を目の前につかわしてくれる。

 何故今この人に会ったのか?

 何を学べばいいのか?

 常にそう考えればいい。


 私は10代で荒れた時代も、20代ですさんだ頃も、決してこのままでいいと思っていた訳ではなかった。

 挫折の真っただ中にいる時、人は我を失う。そしてどうしようもないながらもバランスを取ろうとする。傍から見てどんなに間違っていても本人はそれでバランスを取っているのだから「間違っていない」という事になる。

 ましてや神様は必ず立ち直りのチャンスを与えてくれるから、率先して自分がこの人を立ち直らせようと、説教したり、ああせい、こうせいと、導こうとする必要もない。事情があって「そうせざるを得ない」のだから。誰よりもこのままではいけないと自覚しているのは、他ならぬその人だから。

 それに私の非行に代わるものは何だったのか?

 犯罪か?

 精神病か?

 何十年にも渡る引きこもりか?

 終わる事ない家庭内暴力か?

 家出をして未来永劫行方不明になる事か?

 それより「すぐそこで元気に非行に走っている」方がましではないか?


  世の中に何も事情のない人も、学ばせてくれない人も、ひとりも居ない。

 銭湯で泣きわめいているその赤ちゃんは、気が利かない母親に熱い湯と冷水を交互にかけられ、熱くて冷たくて心臓発作を起こしそうだと、洗面器にちょうどいい温度のお湯を汲んでそこに自分をつけてくれと訴え、学ばせてくれているのだろう。

 よちよちと歩いているそこの幼児は、実は育児放棄されているのかも知れない。

 ランドセルをしょったその小学生は、実は小児癌の上、虐待されているのかも知れない。

 通学路で友達の鞄をいくつも持たされているその中学生は、いじめられているのだろう。

 笑いさざめき歩いているそこのギャルは、実は脅迫されているのかも知れない。

 中卒で働いているその少女は、実は一家の大黒柱で親兄弟や祖父母を養っているのかも知れない。

 随分と痩せたその少年は、極端な薄給で一日一食しか食べられないのかも知れない。

 制服のままゲームセンターにいるその女子高生は、たださぼっているのではなく、ただ遊んでいるのではなく、集団リンチを恐れて学校へ行くに行けないのかも知れない。

 にこやかに販売の仕事をしているその若い女の子は、罪を犯し、今朝刑務所から出てきた父親の身元引受人になっているのかも知れない。

 笑顔で上司の秘書を務めているその青年は、親からお金をせびられている上に、統合失調症と闘っているのかも知れない。

 学校や仕事の帰りに必ず寄り道する人は、家庭内に居場所がないのだろう。

 バスの中で立ったまま寝ている人は、不眠不休で親の介護をしている人なのだろう。

 道端で吐いている人は、酷い上司に無理矢理お酒を飲まされて苦しんでいるのだろう。

 喧嘩をしてる人は、誰かをかばおうとしてやむを得ず争っているのかも知れない。

 仕事を掛け持ちしてる人は、友達の借金の保証人になり、その人が逃げてしまった為に自分で返そうとしているのかも知れない。

 会社をしょっちゅう休む人は、たったひとりで障害のある子を育て、その子が頻繁にてんかんを起こしているのかも知れない。

 転職した人は、前の会社で酷いいじめに遭い、居たたまれなかったのだろう。

 訴訟を起こした人は、理不尽なパワハラをされているのかも知れない。

 宝くじを買う為に長蛇の列に並んでいる人は、恐ろしいご近所トラブルを抱えている上、息子と娘が行きたがっている私立大学と海外留学の費用を捻出したいのかも知れない。

 遺産相続で揉めている人は、きょうだいに死んだ親の預貯金を盗られたのかも知れない。

 不正をしている人は誰かに弱みを握られ、仕方なくそうさせられているのかも知れない。

 駅や公園で寝泊まりしてる人は、信じた人に騙されて全財産を奪われたのかも知れない。

 高齢で職を探している人は、貧しい息子夫婦に代わって、孫に渡すプレゼントを買おうとしているのかも知れない。

 ミスを隠そうとしている人は、実は発達障害を抱えそれを周囲に知られたくないと思っているのかも知れない。

 電車の中で歌を歌っているその少年は、誰かから無理矢理歌わされているのだろう。

 誰かをいじめている人は、別の場所で誰かからいじめられているのかも知れない。

 いじめられている人を嗤っている人は、自分がかつていじめられた経験があるからこそ、二度と誰からもいじめられたくないと恐れているのだろう。

 地方から急に上京し、都会の駅の構内で人を探している人は、振り込め詐欺に遭っている上に、末期癌なのかも知れない。

 案内板を見つめている人は、筋金入りの方向音痴の上、吃音で人に聞けないのかも知れない。

 街中で道に迷っている人は、若年性アルツハイマー病で自分がどこにいるか分からなくなった人かも知れない。

 よろよろと歩いては立ち止まり動けなくなった人は、筋ジストロフィー病と闘っているのかも知れない。

 しょっちゅう倒れる人は、白血病なのかも知れない。

 アタッシュケースを持ち颯爽と歩いているその人の手は、実は義手なのかも知れない。

 ナイトクラブでお客さんを接待しているその華やかな女性は、実の親に食い物にされ、給料を全部巻き上げられている上、無理心中を迫られているのかも知れない。

 自殺しようとしている人は、どうしてもそうせざるを得ない事情があるのだろう。

「どうしましたか?」

そう声を掛けた時に、どう説明したらいいのやら、という顔をする人の何と多い事か。

「お手伝いしましょう」

または

「良ければお話を聞かせてください」

と言うと、嬉しそうな顔をする人の何と多い事か。

 相手が何か言わずとも

「何かご事情があるのでしょう」

と言った時に、ほっとした顔をする人の何と多い事か。

 人は必ず、事情を抱えている。

「何もかも」出来ずとも、「全部」は手伝えなくても、「何かひとつ」は出来る。

だから私は絶対に人の人生を馬鹿にしない。

 今日も誰かに声を掛け続ける。

「何かご事情があるのでしょう」

そう言って、相手にほっとして欲しいから。


41年前、電車の中で無理矢理歌を歌わされていたタムラアキヒロ君は、その後悪い友達とは縁を切っただろうか。

 今の私だったら

「こっちへ来なさい」

と言って庇ってやるだろう。

 タムラ君をいじめる子たちに

「あなたもいつか同じ目に遭うよ。だからやめな」

と言えるだろう。

 それでタムラ君が少しでも救われるなら。一瞬でもほっとできるなら。

 そう、タムラ君も弱みを握られている等、何か事情があったのだろう。

  …婚礼の仕事をしている時、よく入っていた式場で「多村明弘さん」というスタッフがいた。

 もしかしてあの時の少年だったのか?という気もしたが(歌わされている時、あまりに気の毒で、ちらりとしか見られなかった為、顔を覚えていなかった)、まさか本人に聞く訳にもいかず、黙っていた。

 もしそうなら、今は幸せという事だ。結婚指輪もはめていたし、きりりと仕事をこなし、仕事仲間にもお客さんにも信頼されていた。

多村キャプテン、本当に良かったですね。


母が愛したJELは、いっとき経営破綻し、会社更生法の適用を受けるまでに至った。それもそうならざるを得なかったからだろう。

 その後V字回復を遂げたが、もし低迷している時だったら、母は果たして父と結婚しただろうか?

 しなかった気がする。そして姉と私もこの世にいなかった筈だ。

 自分から勉強する子どもだった姉も、スチュワーデスにはならなかったしJELに入社もしなかった。


 くどいようだが、世の中に馬鹿にしていい仕事はないし、事情のない人もいない。

 それは何度も転職をして、様々な職業を体験し、色々な人に会った私だからこそ言える言葉かも知れない。


いっとき水商売にはまった。それも借金という事情があっての事だった。

 ただ若いから、まあまあ器量が良いからと言うだけで、そこそこ売れた時代もあった。

 ある銀座の店では短期間だったがナンバーワンになれ、最高月収200万円を得た。ちやほやされ、天職と勘違いし、男性とうまくいかず別れてばかりいた事もあり、失恋特攻薬だとのぼせた。

その頃は、新聞に毎日目を通すようになっていたし、客に個人的に付き合えと言われても、絡まれても、かわせるようになっていた。

 どんな話題を振られても、即答すればいい。相手が気付かぬ間に別の話題にすりかえ、延々と盛り上げてやればいい。自慢話に騙されてやればいい。

 例えば

「俺はマサコの客だ。そのマサコから俺を奪いたければ店がはねた後、俺に付き合え」

と言われたら

「マサコさん美人だし性格も良いし、本当に憧れます。彼女テニスやっていたんですってね、だからあんなに健康的で爽やかなんですよね。所で、〇〇さんスポーツやっていました?」

などと。それで相手が

「野球をやっていた」

とでも言えば

「わあ凄い!だから体格も人柄も立派なんですね。どんな思い出あります?」

等返せばいい。たいていそれでかわせた。しつこい客もいるにはいたが、毎度かわした。

「俺の事好き?」

と真顔で聞いてくる人には

「そりゃあ好きですよ、みんな!〇〇さんの事、好きよねー?好きな人、手を上げてー」

と周囲を巻き込み、笑いを取ればいい。

 何を言ってもいったん受け止め、かわせばいい。

「どこに住んでいるの?」

と聞かれれば

「田園調布です。皆さん、私を田園調布のお嬢様とお呼び!おーっほっほっほ!」

とかわした。

「あなた、お父さん何やってる人?」

と聞かれても

「大会社の社長に決まってるじゃないですか」

とかわし、

「私生まれは良いんですよ、育ちも良いんですよ、ただ単に性格が悪いだけで。おほほ」

とも返した。

「反物巻ける?」

と聞かれれば

「反物は巻けないけど、負けなくってよ!」

とかわし、難しい漢字を読めと言われたら

「私はフランス人ですから」

とかわし、フランス語を喋ってみろと言われたら

「どぶにどぼーん。着物の下はながじゅばーん。更にその下はコシマキとハダジュバン。更にその下はハダカンボ」

とかわし、自分の妻がいかに凄いお嬢様かと自慢されたら

「あら、わたくしもお嬢様よー!おーっほっほっほっほっほ!」

とかわした。

 馴染みの客となれば

「水商売をする為に、この店で働く為に生まれてきました!」

と笑いを取った。

 オーナーにも気に入られ、少しは良い状態が続き、いい気になった。

 だがやはり水商売は浮き沈みが激しく、半年ほどで人気は落ち、低迷した。

 辞めたい、もう辞めたい、普通の仕事がしたい、そう思いながらずるずる続け、何度も店を移り、悪い人脈ばかり出来て、貯金も出来ず、月収20万ほどしか稼げず、本当に嫌だった。

 この仕事は苦痛だ、と思いながらも借金を返す為に働き、わざと馬鹿騒ぎをして自分をごまかしている最中に突然

「さびしい?」

と一緒に働く女の子に聞かれた事がある。思わずうなずいてしまった私。

 そこで初めて自分がずっとさびしかった事に気づいた。ああ、この仕事辞めよう、辞めなくては…。でも私に何が出来るの?と思った。

 水商売をしていて、ひとつだけ良い事があったとすれば、客とカラオケを歌う場面が多かったのだが、この時ボイストレーニングを受けた経験が役立った事だ。

 歌手にはなれなかったし「素人にしてはうまい」というレベルだったが、それでも酒場で歌う分には上手ともてはやされ、やはり無駄な事はひとつもないと思えた。

「あなたは歌が決してうまくはないけど、歌う心を知っているね。だから聞き惚れるよ」

とその店のママに言われ、お客さんも同感という顔で頷いてくれ、嬉しかった。

 だがいずれにしても、私は水商売には向いておらず、嫌だ嫌だと思いながら上辺だけで働いていたような気がする(今となっては、雇ってくれた店や付いたお客さんに悪かった)。

 ある時勤めていた店で、尻文字をやれと言われたり、王様ゲームで客の耳を舐めろと強要された事があった。どうしても嫌で、どんなに言われても耐えられず、仕事を放り出して途中で帰ってしまい、そのまま辞めた。

 そして新しい店に面接に行った時の事、「驚愕する事」があった。

 ああ、この道、覚えている。このビル、覚えている。このエレベーター、覚えている。この店のドア、覚えている。

 …そう、私は一度面接に行き、何かで断ったか断られたか(そこは忘れた)した店に、もう一度面接に行こうとしていたのだ。

 その店のドアの前で愕然とする。私はあまりにお酒を飲み過ぎ、記憶力がおかしくなっていたのだ。面接はせず(出来る訳なかった)くるりと踵を返し、アパートに戻った。

 今度こそ水商売を辞めよう。そう心に決め、少ない給料でもやっていけるようあらゆる工夫と節約を試みた。

 そしてナイトクラブではなく、会社に面接に向かうようになった。28歳の時だった。水商売としてはぎりぎりだった。

 神様がその一件で私を水商売から抜け出させてくれたのだろう。勿論、さびしいかと聞いてくれた女の子のお陰もある。彼女もあの後、水商売を抜けられたろうか?どちらも有り難い、奇跡のような出来事だった。お陰で今があるのだから。

 すぐにどこかに正社員としては就職出来ず、派遣で生計を立てる毎日だったが、それでも小椋純子さんをはじめとする良い友達が出来るようになった事は嬉しかった。

 ああ、これからは良い人脈が出来る。今度こそ良い経験を積んでいこうと思えた。

 それも水商売で悪い人脈ばかり作って嫌な思いをしたおかげだ。洋服を買えない事なんて、外食出来ない事なんて、遊びに行けない事なんて、何でもなかった。

 今はぎりぎり生活するだけだが、近い将来必ず貯金し、やりたい事をやれるよう、好きなものを好きなだけ買えるよう、なりたい自分になれるよう頑張ろうと思えた。決してこのままでいいとは思わないが、借金があるから今はこうするしかない、と思っていた。

 借金を完済するのとほぼ同時にその「尻文字・王様ゲーム事件(私はそう呼んでいる)」が起こり、水商売を辞められた。それも神様がそうしてくれたのだろう。

 借金返済に追われていたというのもあるが、水商売をしていた頃に稼いだ金はまったく残っていない。

 よく楽をして稼いだ金は身に付かないというが、ホステス稼業は決して楽ではなかったが、それでも貯金は出来なかった。

 だが会社勤めをして得た給料は少しずつでも貯められた。その「少しずつ」が大きな金額になっていくのは嬉しかった。やはり、何か違うのか。いずれにせよ「楽な仕事はこの世にない」と学んだ。

 年齢が上がるごとに転職は難しくなる。若いうちはどこへ行っても自分が最年少だったが、だんだん中間層になり、最年長になっていくのもつらい。年下に叱られるのも悔しいし、若いうちに足元を固めておく方が賢明だ。

 真面目に働いた派遣先では、正社員にしてやるとも言ってもらえた。その経験が、得た自信が、今につながっている。


 私の人生は、良い嵐と悪い嵐が交互に吹くような気がする。

 良い嵐が吹いてくれていた時、私はそれが永遠に続いて欲しいと願った。だが絶妙なタイミングで悪い嵐に代わってしまった。

 悪い嵐が吹きすさぶ中、私はいつまでこれが続くんだろうと辟易しながら過ごした。コツコツとすぐには報われない努力を重ねながら。

 そしていちばん良いタイミングで良い嵐に代わってくれた。そして積み重ねた自分の努力が一気に花開くのを、目を見張る思いで見た。それは何度も何度も続いた。

 そのうちこう思うようになった。

 さあ、この悪い嵐から何を学ぶ?

 そして良い嵐が来たらこう思った。ああいらっしゃい、待っていたよ。

 …という事は、みんなそうなのか?という気もする。

 もうひとつ、悪い嵐の中からでも必ず幸せは見つけられるものだと学んだし、自分の努力だけでなく色々な人のお陰で良い嵐になった事を忘れなければ、感謝し続ければ、良い嵐は続いてくれるし、例え悪い嵐が来ても「この程度で済んで良かった」と思えるものだ。


 いっとき不倫にはまった。男たちは私に、好きだの、愛しているだの、守ってやるだのと鼻息荒く言った。

 最初は口説き文句かと思ったが、そうではなく本当は妻に言いたい言葉を代わりに私に言っていたのだ。誰かの代わりはさびしかった。さびしいからと、あまり好きでない人を相手にしているともっとさびしくなってしまう。

 その時に学んだのは「男は絶対に妻を愛している」という事だった。

 私の前でどんな凄まじい妻の悪口を言っても、必ず家に帰って行った。

 あれ?嫌いじゃなかったの?別れたいんじゃなかったの?と言いたいのをぐっと堪え、私はそれこそ大きな不満と疑問符を頭に乗せながら、その人を見送った。

 何故私はこんな風に「恋してはもらえても、愛してはもらえない」のだろうと、言葉に尽くせぬ孤独感にいつも悩み狂った。

 結局妻が好きなんだな。不満があるから私の所に来るのだ、そして本当に好きなのは妻だから帰って行くのだ。

 家事が下手だろうが、自分の親きょうだいと仲良く出来なかろうが、金遣いが荒かろうが、結婚以来15キロ太ろうが、それでも妻が好きなのだ。結婚しようとまで思った人なのだから。

 妻の所に「帰る」為に私の所に「来る」のだという事を、何もやましい事のない人生がいちばん楽しく充実していて幸せなんだと、嫌というほど学んだ。

 もうひとつ、決まった相手のいる人に横恋慕して無理に奪ったとしても、必ずその人は元の女性の所へ戻っていく。何年かかっても必ず戻る。

 桜井正一さんも、本田泰之さんも不倫した何人かの男性も「必ず」元の女性に戻って行った。

 その悔しさといったら歯ぎしりするほどだった。だったら私の存在は何だったのか、あの月日は、あの努力は、労力は、一体何だったのか、と頭の上に乗りきらない程の疑問符と怒りのマグマが乗った。

 だがこうも思った。だったら私も、毎日毎日私の所にきちんと帰って来てくれる男を見つけよう。私を「決まった相手」にしてくれる人にしよう。…見つかって本当に良かった。

 不倫をしていていちばん嫌だったのは

「ただいま」

と言われる事だった。

 あなたの家は他にある。何故私の家に来てそんな事を言うのか、理不尽な、と腹が立ち

「いらっしゃい」

と返した。不満そうにするその人を、なお冷たくあしらってしまった心無い私。さびしいからただいまと言うのだろうが、嫌なものは嫌だったし、私の部屋に髭剃りや着替え等、自分の私物を置いていかれるのも腹立たしく、見るたびに捨てた。

 ひとつだけ不倫して良かった事があったとすれば、仕事で多少便宜をはかってもらえた事だろう。だが相手に新しい女性が現れるとそれもなくなった。

 これも転職が多かった理由のひとつだ。だったらえこひいきしてくれなくていいから、惨めな思いもさせないでくれと思った。何もない方が返って気まずくなくて良いと、プラスマイナスゼロ、というのはこういう事だと嫌という程学んだ。

 最後に不倫関係になった人には、出会って間もない頃にこう言われた。

「俺には忘れられない人がいる。その彼女への償いをあなたでしたいと思っている」

 その人は妻の前では私に操を立て、私の前では妻に操を立てるというおかしな人だった。それは何となく分かった。その上忘れられない女性がいるとは…。

 さびしさに負け付き合ったが、無論長続きせず、すぐ別れた。その人は別れ際にこう言った。

「もう妻の前であなたに操を立てなくていいし、あなたの前で妻に操を立てなくて良いと思うとほっとする。昔の彼女に対する償いを、あなたではやはり出来なかった。彼女とあなたは全然違う人だった」

 そう聞いて目から10枚くらい鱗が落ちた。この人はそれを学ぶ為に私と会い、私はやはり不倫に向かないと学ぶ為に、その「駄目押し」の為にこの人と出会ったのだ、と。

 付き合っている間、いつもお互い不快だったが、別れる時だけは満面の笑顔で別れ、もう二度と不倫をしないと誓った。決して良い思い出ではないが、それさえ今に活きている。


 実家の成田には時々帰る。

 …と言うか、「行く」。

 今は空き家になっている。


 12年前、母が子宮癌で逝った。

 母の病気のきっかけは、他ならぬこの私だ。


 年を重ねても両親は変わらなかった。

 過干渉も、過支配も、大人げないのも、交換条件も、罰則も、脅迫も、ついに変わらなかった。

 息子を産んだ時、しばらく実家の世話になった。

 母も最初は多少優しかった。息子をあやす私を見てこんな事を言った。

「あんたが赤ん坊の頃の事を思い出すわ。あの頃暮らしていた社宅の壁の色、ドアの色、間取り…思い出すわ」

 感傷的になり、ひとりでヒロインになり、めそめそ泣く母を私はまったく構わず、相変わらず泣くのが好きなのだろうと放置していた。それに気分を害し

「あんたは自分の子にだけ優しくて、親には優しい言葉のひとつもないのね」

と言い放った上

「あんたはいくら何をしてやっても無駄!」

と私の背中を蹴った。産後間もない私をよく蹴るなと別の意味で感心した。

 そして私が家事をしない事にも苛立ち(産後すぐは家事が出来ないから実家の世話になるのだという事を、母はまったく理解しなかった)一週間もたたないうちにカリカリ怒りだした。

「自分の家に帰って、もう面倒見きれないわ」

と言った。そんなに面倒見てくれていないだろうと思ったが言わなかった。

「産んでからもう一週間近く経つしもういいでしょう!家事もやって!」

 母はヒステリックにわめいた。

 まだ赤ん坊の息子の前で、

「私は育児に失敗したわ。もっと親思いになるように育てれば良かった、あんたは失敗作だわ!失敗作!!あんたは私の最大の失敗作よ!」

と大声で怒鳴った。今まさに育児をしている私に向かって…。

 何を言っても無駄だと分かっていたから、ただ黙って母の罵る姿を見ていた。

 ああ、この人変わらないな、と悲しいまでに冷静だった。


 ただ、翌年の私の誕生日にくれたメールが、私を爆発させた。

 私の誕生日なのだから、私の事について何か書いてくれればいいものを、自分の事ばかり、自分の人生は失敗続きだったが何とかここまでやってきた、と書いてあった。そしておちゃらけたように、あなたが人生というカンバスにどんな絵を描くのか楽しみにしていると結んであった。

 携帯電話を持つ手が震えた。

 あらがたい程の怒りが込み上げる。

 まだ言う気か。

 まだ口出しする気か。

 まだ侮辱する気か。

 まだ見下すか。

 まだ足りないのか。


 心底

 猛烈に

 腹が立った。


 そしてその怒りと共に、

 私の潜在意識から滞在意識に上がってきた

 「ある記憶」が、鮮烈に脳裏に蘇り、

私の全身を、全霊を、

稲妻のように打ち抜いたのだった。


 それは

「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」

という言葉だった。


「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」

 その時の母の表情から、台所仕事を中断してツカツカと歩いてきた様子から、ぐっと身をかがめる姿勢から、私の目をじっと見下げる冷たい眼差しまで思い出した。


「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」

その言葉は、記憶は、何十年も私の潜在意識の中に眠っていたのだった。


 あんたは小さいうちに死んだものと思っていると何千回も言い、生まれてきた事も、生きている事も、存在そのものも、何もかも否定した事。

 幼い私に向かい、自分は夫選びに失敗したと言った事。

 父の悪口を散々言った後に、あんたは父さんそっくりと罵倒した事。

 父さんと母さんどっちが好き?としつこく聞き続け、幼い私がパニックに陥り、幽体離脱するまで追いつめた事。

 真冬の寒空の下、家から閉め出した事。

 これ見よがしに手首を切り、自殺未遂をしてみせた事。

 小学生の頃から私の友達の悪口を言い続け、あんたの友達はみんなあんたの財布を狙っている、と真顔で言った事。

 忘れ物の多い私を、あちこちの医者や宗教団体に連れて行き、

「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」

と丸聞こえなのに囁いたり

「こんなおかしい子、生まれる筈ないじゃないですかっ!」

と私を指差しながら叫んだりした事。

 蜂に刺され、激痛に泣きわめく私を大声で嗤った事。

 この家にあんたの居場所はない、と言った事。

 何度も食事を抜かれた事。

 強引に大量の水を飲まされた事。

 私の日記を勝手に読み、内容についてとやかく言った事。

 気に入らない友達からの電話を勝手に切った事。

 汚れたナプキンを私の顔に押し当てた事。

 私が琴を習っていた頃、テレビで琴の演奏をしていると必ず指さしながら

「マリ、ほら、お琴」

と何百回も言った事。

 やめた後でさえ同じ事を言い続けた事。

 学校から帰った私に

「何故ここに帰って来るのだ」

と言い、居たたまれない気持ちにさせた事。

 出掛けようとする私を「いなくなれ」という目で見送った事。

 いつもはしゃぐか荒れるか極端だった事。

 安心させてくれた事はなく、いつもいつも不安にさせられた事。

 わめき散らす私の口を「股で塞いだ」事。

 手に負えなくなった私を施設に放り込み、「親に逆らうとこうなるんだ」と正当化した事。

 ここに来てどんな事が分かったかとしつこく聞き、しまいに答えられなくなった私に

「出してやらないよ」

と言った事。

 光の園で集団リンチに苦しむ私を助けてくれなかった事。

 自分を低く見ろ、安売りしろと言った事。

 父と離婚しようかと思い悩んでいる時に

「許すお稽古よ」

という祖母の声がどこからともなく聞こえてきた、と何度も興奮しながら言っていたが、私に対しては「許すお稽古」どころか「罰するお稽古」ばかりした事。

 私だけでなく私の恋人もいじめ、セックスフレンド呼ばわりしたり、面と向かって

「絞め殺してやりたい」

と、言った事(歪んだ愛情でしかないし、その人もびっくりしていた)。

 ひとり暮らしを始め、11年経過後、ようやく連絡先を教えるようになった途端に毎日電話をよこし、そのたびに必ず名前は名乗らずに

「私よ。別に用は無いわ」

と、切り口上で一万回は言った事。

 その舌の根も乾かぬ内に、仕事や交友関係に口出しした(つまりそれが用だった)事。

 留守番電話にもまったく同じ言葉を吹き込んでいた事。

 その用無し電話をやめてくれと、何回言ってもやめてくれなかった事。

「用がなきゃ電話しちゃいけないって言うの?」

と喧嘩腰で言った事。

「あんたは用のある時しか電話して来ない」

と理不尽な怒り方をしていた事。

 電話のたびに30分も1時間も私の時間を奪い、切る前に自分だけ機嫌よく

「またかけるね。グンナイッ(good night)」

と言って、翌日またまったく同じ電話をかけてきた事。

 うんざりしている私の事をまったく考えず、自分さえ良ければ良いという態度を貫いた事。

 歌舞伎を観て楽しかった、同窓会に行って楽しかった、映画を観て楽しかった、口内炎が痛い(私にはどうしようもない)等々、自分の事ばかり機関銃のように喋りまくり、父とうまくいかない自分のストレスだけを解消し、私に凄まじいストレスを与えた事。

「何か変わった事ない?」

と聞いておきながら、こういう事があった、と話しても

「さあどうしたらいいかねえ?私にはそういう経験ないから分からないねえ」

と答え、まったく役に立たなかった事。

 それでもまた翌日電話をかけてよこし

「何か変わった事ない?」

と前日の会話をすっかり忘れ、まったく同じ事を言い放った事。

 美容師は無償で髪を切ってもらえるしパーマやカラーもしてもらえるんだと言った時

「それくらいメリットなくっちゃね」

と、また逆撫でした事。

 自分は言いたい放題のくせに、私の悪意のない失言は許してくれず、

「あんたの言葉はメスのように私の心に突き刺さった」

と言ったり、過剰反応して道の真ん中で泣き出したり、レストランで泣きながら食事したり、泣きながら電車に乗り

「泣くような事を言うのが悪いんじゃない!」

と恥をかいた事さえ私のせいにした事。

 私の言い分は聞いてくれないくせに、自分の言い分が通らないと酒の力を借りてまで、暴れ狂い

「死んだ方がましよ!」

と怒鳴り散らした事。

 酒を飲んで暴れるというより、暴れる為に飲む、「タチの悪い酒乱」だった事。

 選択肢を出す事も、どうして欲しいか聞いてくれた事も一度もなく、こうするしかないからこうしろ、出来ないならこういう罰を与える、と常に罰則を設け、脅し続けた事。

 私が恋人と別れた後、毎日電話をよこし、毎回

「彼から連絡はないの?」

と丸4か月間も言い続け(私よ、別に用はないわ、とも言っていたが)、いい加減にしてくれと怒ったら

「1回しか言っていない」

と後の120回くらいを忘れていた事。

 それに限らず、自分の言った言葉を忘れて同じ事を何十回も何百回も言った事。

「あんた、まさかと思うけど妊娠してるんじゃないでしょうね」

と3000回は言った事。

 毎年私の誕生日に電話をよこし

「どう?〇歳になった気分は?」

と必ず言った事(それも何度やめてくれと言ってもやめてくれなかった)。

 自分の言う事を聞かないなら、アパートの保証人にも、就職の際の保証人にもならないと、また交換条件を持ち出した事。

 熟年夫婦の離婚を扱ったドラマに影響され、父と別居して私と暮らすと言い出し、アパートを探してくれと言う母の要望に応えて部屋探しを始めた途端に尻込みし

「あなたがそんなにどんどん手続きすると思わなかった。私はもう少しこの家にいて貯金をする」

と逃げた事(最初から別居する気はなく、ただ修羅場になる事を望んでいただけだった)。 

 それに限らず常に修羅場を求めていた事。

 私がストーカー被害に遭い、早急に引っ越しをしなくてはならず、必要書類を「書留」で送ってくれと何度言っても「速達」で送ってよこした事(速さは問わない、確実に私の手元に書類が届かないと、そのストーカーに大事な書類を集合ポストから盗まれて新しい住所を知られてしまう可能性がある。だから書留、と何度言い聞かせても母は理解せず、速達で送って来た)。しかも郵便番号を毎回間違える為にきちんと届かなかった。その郵便番号も何度違うと訂正しても別の番号に間違え続け、私を苛立たせ続けた事。

 親戚の葬儀に出た時に

「私が今何を考えているか分かる?おばあちゃまの事よ」

と言って、何年経っても祖母の死を引きずり、悲劇のヒロインを気取っていた事。

 例え幸せな状態であっても、その中から不幸を見つけ出してわざわざ言ってきた事。

 私が母に対していい加減にしてくれ等怒ると毎回ゲラゲラ笑った事(怒っている時に笑われるほど腹の立つ事はない)。

 私を可哀想がる事で優しさをひけらかそうとしていた事。

 水商売=売春と決めつけていた事。

 夫と付き合い始めた頃、9歳も年下ならばすぐ捨てられる筈だと決めつけ、電話のたびに、会うたびに、

「どう?彼は」

と、さも早く捨てられろと言わんばかりに200回は言った事。

「その人といて幸せな気持ちになる?」

と、まだ干渉した事。

 結婚を決めた時に

「どんな人でも年を取ると結婚したくなるのねえ」

と、また逆撫でした事。

 子どもを産む時に、産院まで来てくれたは良いが、陣痛に七転八倒する私に、

「昔はお産でよく人が死んだものだけどねえ」

と何度も何度も言って、苦しむ私をいたわる訳でも助ける訳でもなく、ただ苛立たせた事。

 元気に五体満足に生まれてくれた息子の事を

「私はあの子がダウン症とかでも愛するし可愛がるわ」

と言った事(ダウン症を見下しているし、ダウン症の人たち、その家族に失礼である)。

 息子の足の中指が人差し指より長い事を

「ここが奇形ね」

と平気で言った事(奇形の人に失礼である)。

 産後間もない私と、まだ新生児の息子を、面倒を見きれないと放り出した事。

 そんなに面倒を見てくれていないのに

「あんたはいくら何をしてやっても無駄!」

と言って私を蹴った事。

 幼少期は勿論の事、大人になっても尚、私を自分の「所有物」と思い込んでいた事。

 私を人間として駄目だと否定し続け、負の財産を有形無形に注ぎ込んだ事。

 まったく愛情のない状態にし続けた事。

 親が子どもに向ける言葉や態度でなかった事。

 親らしい事をしてくれなかった事。

 出来ない我慢をさせられ続けた事。

 人間扱いされなかった事。


 封印していた記憶が、一気に蘇り、凄まじい勢いで爆発した。

 許そうと、潜在意識に押し込んでいた記憶が、滞在意識に変わった瞬間だった。


 グラリ。

 目眩がするほどの衝撃を伴いながら、

 その記憶は滞在意識に上がってきた。


 母の「そのメール」だけは「斜めに読む事」が出来なかった。


 闘ってやる。

頭の中で久しぶりにゴングが鳴り響くのを聴いた。


 怒りのまま、頭に血がのぼったまま、長文の返信を打った。

 母に、失敗続きとは何事か、失礼な、言っても良い事と悪い事がある。あなたはいつの日も、自分を被害者と言っていたが、そうではなくむしろ加害者であると、事例を並べながら怒りのままに書いた。

 そう、「事例」ならいくらでもあった。

 そして思った。どうせこのメールも読みながらゲラゲラ笑うんだろう。そうはさせない、と決意した。

 だからメールの最後に、どうせ今笑ってるんでしょう?私が何かで怒ると必ず笑ったものね、私はそっちが怒っている時に笑った事など一度もないけどね、と書き、続けてこう書いた。

 まあ、今に始まった事ではないけどね、

 私が幼い頃から自分は夫選びに失敗しただの、

 マリ、あんたはもう、小さいうちに死んだものと思っているからね、というのも何度も何度も聞いたしね、と原文通りに付け加え、送信ボタンを押した。

 母が受けるであろうショックを思ったが、幾分すっとした。

 すぐ言い訳がましい返信が送られ、再び爆発した。

 そこで子どもは育てたように育つ。私はあなたが育てたように育った。そこまで否定されて親思いの素晴らしい娘になる訳ないだろう、死んだものと思っているなら何をしていても構わないだろう、私が汚らしい娼婦なら、そのように産み育てたのは、他ならぬあなただと書いた。躊躇なく送信ボタンを押した。

 またすぐ返信が来た。

 今度は泣き落すかのように、あなたが間違った道に進むのが悲しくて恐ろしくていけない言葉を使ったかも知れないが、それは非行に走ったあなたに原因がある。あの頃自分は本気で自殺を考えていた、それもあなたのせいだった。

 ましてあなたが親になったら自分の気持ちを分かってくれると思った、と書いてあった。

 怒りのマグマは頂点に達し、親になってもあなたの気持ちは分からない。あなたは私が非行に走る、そのずっと前から死んだものと思っていると私を否定し続けた。そして自分がまず子どもになって私に甘えていた。私の不幸を願っていた。私は迷惑だった。親が子どもに対する態度では決してなかった。

 そして何より私は自分の子を虐待していないと並べ立てた。

 あなたは私の失言を一生許さないと言ったが、では私があなたに虐待された事を一生許さないと言ったらどうするか考えろと書き立てた。

「虐待」という言葉を遂に使ってしまった。

 なすすべを持たぬ幼女を、

 無知な少女を、

 保証人がいなければ就職さえ出来ない若い女を、

 初産の女を、

 弱い立場の実の娘を、

 徹底的にいたぶり、嘲笑い、交換条件を出し尽くし、これでもかといじめ、侮辱し、脅し、虐待したのはあなただと、私の心に鋭いメスを突き刺し続けたのはあなただと、あらん限り書き立て、決定打を振り下ろすつもりで、致命傷を与えるつもりで送信ボタンを力いっぱい押した。

 …返信は来なくなった。

 ほどなく母は子宮癌になった。


 母の子宮癌という病気と、私のメールはつながっていたと思う。

 だが、私の幼少期からの出来事すべてが、その3通のメールにつながっていた。


 癌になった人がどういう死に方をするか、私たち家族は目の当たりにした。

 どんな凄まじい臭いを放ちながら悶え苦しむか。どんなに自分の行いや発言を後悔しながらひれ伏し、心身共に病むか。

 母は、とても緩やかで、

 そして、とてつもなく激しい自殺をはかったのだ。


 元気だった頃、誰より若々しく、光を放つように美しく、華やいでいた母。

 姉や私が結婚する際に、ブーケを作り、ウエディングドレスも喜々として縫ってくれた母。

「娘たちのブーケを作りたくて造花を始めたの」

と幸せそうに言っていた母。

 普段着もたくさん手縫いしてくれた母(おかげで何万も節約できた)。

 旅行に何度も連れて行ってくれた母(旅費を必ず出してくれた)。

 私の給料でラーメンを奢った時、たかが500円のラーメンに感激して何度も有難う、御馳走様と言ってくれた母。

 私が32歳の時に、初めて自慢の娘と言ってくれた母。

 何度罵詈雑言を浴びせても連絡をくれ、歩み寄ってくれた母。

 60歳にしてイギリスへ1年間、語学留学をした母。 

 癌と診断された時、私の事だけが気掛かりだ、他の事はもう何も未練がないと言った母。

 延命治療を望まなかった母。

「もう歌舞伎も宝塚も観に行けないよ」

と涙ながらに呟いた母。

 一度は手術が成功し、造花の仕事を再開出来るかも知れないという夢を持った母。

 癌の再発によりその夢を絶たれた母。

 抗癌剤の影響で髪が抜け、気力も体力も奪われ、ただ横たわるしかなくなった母。

 余命宣告を笑顔で受け入れた母。

 孫の見舞いに心から喜んだ母。

 点滴のスタンドにつかまりながら、よろよろと病室へ歩いた母。

 日に日に弱っていった母。

 まったく闘病しようとせず、

「新しい世界へ入れる事を嬉しく思っている」

と言った母。

 初めて私に心から謝ってくれた母。

 自分の病気は絶対に私のせいではないと、初めて「自分の責任」と言った母。

 病気になって初めて、一切言い訳をしなくなった母。 

 見舞いに行くたびに私を気遣い、時計を気にして

「そろそろ帰りなさい」

と言ってくれた母。

 自分の友達が見舞いに来た際

「まだ帰らないで、まだ帰らないで」

と懇願した母(私に言えない我がままを、友達になら言えたのだろう。また、もうあと何日も生きられないという自覚もあったのだろう)。

 私が息子を夫の両親へ預け、泊まり込みで看病すると言う申し出を、愛情を持って断ってくれた母。

 それでも泊まり込もうと準備を始めたその日に、迷惑をかけまいとばかりに逝った母。

 容姿や美声、度胸やセンス等の、金で買えぬ「正の財産」をたくさん残してくれた母。

「教えてくれて有難う」と言ってくれた母。

 世界でたったひとり、私の母。


 おそらく、私と母は、お互いにお互いしか手に負えなかったのだろう。

 母は普通の母親ではなかった。きっと姉と私にしか「こなせなかった」のだろうが、姉と私も母にしか「こなせない娘」だったのだろう。

 母しか姉と私を「育てる事は出来なかった」し、姉と私にしか母に「育てられる事が出来なかった」のだろう。

 そう、私と母は、あらゆる意味でお互い様だった。母は私が悪いと言い続けている間、私も母が悪いと言い続けた。そして母が自分が悪かったと思うようになったら、私も自分が悪かったと思えるようになった。

 本当にあらゆる点で「お互いに、お互い様」だった。


 よく堪忍袋の緒が切れる、という言い方をするが、私は袋どころか、大きな我慢の箱を持っていた気がする。その箱が、溢れ、壊れてしまった。

 箱の中には、もうひとりの小さな私がいたのだろう。

 溢れるまで、壊れるまで、箱の中を怒りで満たしたのは、主に母だった。


 ただ、葬儀の際に来てくれた人が皆驚くほど、母の死に顔は「微笑んでいた」のだった。本当に笑っているようだった。末期癌で逝った人の顔ではなかった。

 その顔を見て私はこう思った。ああ、母は自分の人生に納得して逝ったんだな。

 どうしてこうなったか分からない、娘があんな風だと母親に原因があると思われるんだと散々怒鳴り散らしていたが、自分こそ被害者だと言い続けていたが、何故こうなったか、何が原因だったのか、自分がどういう種を撒いたのか、その種がどんな芽を出し、どんな草木を伸ばし、どんな実をつけ、どんな花を咲かせたのか、骨身に応えるように理解した顔だった。

 どんな小さな出来事にも必ず原因と結果があり、その二つは必ず合致している。それをしっかりと理解した表情だった。母の最後の使命はそれを学ぶ事だったのだろう。

 すべての原因を作ったのは、他ならぬ自分だと悟った上、自分の撒いた種を自分で刈り取った、充足感に満ちた良い笑顔だった。

 鬼のように我がままで酷い母親だったが、死ぬ寸前は杜子春の母のようだった。

 私もいつか、微笑んで死のう、そしていつか、杜子春の母のような母親になろうと思えた。

 もうひとつ、母の顔を見てつくづくこう思った。

 ああこの人、綺麗な人だな。

 幼い頃、周囲に散々

「こんな綺麗なお母さんいないよ」

等言われた事を思い出し、「さびしい嬉しさ」を感じた。勿論悲しかったが、見えない檻からようやく出られたような気もしてほっとした。

 また、当時まだ幼かった息子がよくまわらない口で何度もこう聞いてきた。

「おばあちゃま、どこに行ったの?」

 涙ながらに

「天国に行ったんだよ」

と答えながら、もう母は家中、世界中、どこを探してもいない。本当に死んだのだと実感した。

 ああ良かった。母は地獄のような入院生活を経て、ようやく天国に辿り着けたのだ。


 そしてこんな考えもよぎった。

 もしかして母は、発達障害があったのかも知れない。父も。だから二人とも、徹底的に相手の立場に立つ事が出来なかったのではないか?同じ事を何百回も言ったり、普通は絶対にしないような事をしたり、性格異常と言うよりも、障害だったではないか?

 ならば、ある意味仕方なかった気もする。

 幼い私を医者や宗教団体に連れて行き

「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」

と言っていたのは、実は自分の事だったのではあるまいか?と言う気もする。


 だが、母の死後、姉と険悪になった。

 姉は、母を殺したのは私だと罵った。

 自分は母の子だ、私は父の子だ。父と母がたまたま夫婦だったというだけで、自分と私は赤の他人以下だと、それこそ罵詈雑言を浴びせた。

 さあ、謝れ、自分に頭を下げて謝れ、母がどんなにショックだったか、思いを馳せろ、母を生き返らせろとまで言った。

 誰よりも母を死なせた原因を作った事に責任を感じ、自分を責めている私に、追い打ちをかけるように責め立てた。こちらが言葉を失う程、姉は怒り狂った。自分は被害者だ、私を加害者だと言いきった。

 その怒りようは、まるでかつての母のようだった。本当に「全盛期」の母を見ているようで、恐ろしくなった。母が姉に乗り移り、姉の口を借りて、私を再び罵倒しているようにさえ見えた。

 いっときは本当に仲が良く、一緒に映画を観たり、美術館へ足を運んだり、毎週待ち合わせをし、きょうだいで毎週会っていて、まるで恋人みたいだねと笑いあったり、お互いのアパートに泊まりあったり、お互いの結婚を心から祝福したり、子どもがいない姉が私の息子を我が子のようにかわいがってくれたり、たくさん良い思い出を作ってくれた姉が、他人以下になってしまった。


 同棲していた恋人の事故死を受け止めきれず、荒れ狂った私を支えてくれた時。

 満たされない心を物で埋めようと買い物依存症になり、借金まみれになった私を心配してくれた時。

 水商売にはまり、酒や男に溺れ続ける私をそれでも見捨てなかった時。

 何年もかけて借金を完済した私を、本当に偉いと褒めてくれた時。

 私の立ち直りを心から応援してくれた時。

 会社に就職した際に、自分の事のように喜んでくれた時。

 32歳にして、初めてのボーナスをもらえたと報告した時に、ちゃんと貯金しなよと言ってくれた時。

 自分の結婚式で私にヘアメイクを頼んでくれた時。

 私の結婚式(私は勿論、きちんと結婚式を挙げた。写真だけの結婚式ではなく。母に可哀想がられる人生など断じて送っていない)で、心のこもったスピーチをしてくれた時。

 妊娠した私を気遣ってくれた時。

 息子に愛情を注いでくれた時。

 そのときどき、私は姉をいちばんの親友だと思った。神様がいちばんの親友を姉として会わせてくれたと、心から喜んだ。

 子どもの頃にいじめられた事など、どうでも良くなった。今、良くしてくれるから、過去はどうでも良い。心からそう思ったのに、もはやただ残念だ。本当に残念でたまらない。

 何年も音信不通で、何度か歩み寄ろうとするたびに私を突っぱねる姉に、もはや取り付くしまもなくなった姉に、どうにも接しようがなかった。  

 たったひとつの救いは、姉が私に「無関心」ではない事だ。愛の反対は憎悪ではなく、無関心だ。これはマザーテレサの有名な言葉である。姉は確かに私に対して憎悪にみなぎっているが、決して無関心ではない。

 この経験から私はこんな事を学んだ。

 いくら本当の事といえども、人に「仕返し」をしてはならない。

 あの時あなたは、ああ言った、こう言った、こんな仕打ちをした、と後から蒸し返して思い知らせた所で、攻撃した所で、何にもならない。並べ立てた事例が本当の事であればあるほど、心当たりがあればある程、相手は衝撃を受け、打ちのめされる。

 そして自責の念にかられ、自分を罰する。そう、母のように。

 そして最悪の場合、命を落とす。母のように。


 私は何故、人に「仕返し」をしてしまうのか、じっと考えた事がある。

 そして小学生の頃、友達にいじめられ、父に話した所

「お前も同じ事やり返せばいいだろう」

と言われた事を思い出した。その言葉が私の潜在意識にあったのだろう。勿論そのせいにしてはいけないが、もう二度と仕返しなどするものではないと学んだ。


 もうひとつ、どんなに腹が立っても人を追い詰めてはならない。

 父と母は私を物凄く追い詰めた。

「親が絶対って思わせる」

そう言いながら、出口をふさぎ、追い詰めた。追い詰められれば追い詰められるほど私は逃げたくなった。親や教師が追えば追う程、私は逃げた。

 だが私も共に暮らした桜井正一さんを追い詰めてしまった。悪かった。逃げ道を作ってあげるくらいの気持ちで付き合えば良かった。正一さんは私を決して追い詰めなかったし、馬鹿にしなかった。

 正一さんだけでない、友達や恋人を追い詰め、いじめた事は何度もある。悪かった。私を追い詰め、いじめた人もいたが…。

 神様がそうする事で勉強させてくれたのだろう。ならば、だからこそ、私は夫や息子に寛大でありたい。


 母は私によく「なになにって言ったじゃない」と蒸し返して思い知らせようとした。私はそれを嫌々ながら「受け取ってしまった」のだろう。

 そして「なになにと言ったね」と、事例を並べながら、受け取ったものをそっくり母に「返してしまった」のだ。


 母はよく「いちばん怖いのは人よ」と言っていた。

 だから私という「人」に命を落とすほどの「怖い目」に遭わされたのだろう。


 母は幼少期から私に何度も言い続けた。

「だって本当の事じゃない。何が悪いの?」

「自分の撒いた種は自分で刈り取りなさい」

 文字通り、言葉通り、母は自分の撒いた種を自分で刈り取ったのだ。

 私もその悪魔のようなメールを送る時にそう思った。本当の事だ。何が悪い。自分の撒いた種を自分で刈り取れ。

 だが、やはり本当の事を言えば良いというものではない。現に母は打ちのめされ、逝った。そして、姉は私をなかなか許そうと「しなかった」。


 ではどうすれば良いか?この回答は夫から学んだ。

 夫は私が忙しい等で苛立ち、声を荒げた際にビシリとこう言う。

「ああ随分きつい言い方するね」

 これにはハッとさせられる。我に返り、すぐに謝り、改める事が出来る。

 そして彼は私や息子に苦情を言いたい時に、褒め言葉でサンドイッチしてくれる。

「ママ、俺はママを信頼できる人だと思っているけど、イライラしてヒステリックな声を出すのは子どもにも良くないと思うよ。後は完璧だもんね」

「ママ、家事を一生懸命やってくれるのは有り難いけど、疲れて怒りっぽくなるのは勘弁してよ。せっかくの美人が台無しだよ」

等々「褒める→本当に言いたい事を言う→また褒める→その話をすっきり終わらせる」という図式にそって神対応してくれる。一発で良いと思い、すぐに自分に取り入れた。おかげで人間関係は昔よりずっと良くなった。

 神様がよくこんなに出来た人に巡り会わせてくれたものだ。関白タイプでありながら暴力などとんでもない人だ。

 そう、神様はかつて関白タイプの人と結婚したいという私の願いもかなえてくれた。駄目な私をどんどん引っ張ってくれる、優しくて頼もしい関白タイプの人を。どこまで私は幸運なのだろう。

 そして私が夫をたいせつにするのは、彼が年下だからではない。

 母は年上女房は逃げられたら困るから若い亭主を大事にするのだと言っていたが、私は彼の精神や性格が好きだから、一緒にいて楽しくて幸せだから、感謝しているから、大事にする価値があるから、何より「たいせつだからたいせつにする」のだ。

 一日経つごとに愛情が増していく。私の喜びを何倍にもしてくれ、私の悲しみを千分の一にしてくれる。そんな人は初めてだ。

 今ほど静かに人を愛し続けている時はないし、今ほど幸せを実感している時も、安心している時もない。

 今世で会えて本当に良かった。来世でも再来世でもその次も次も次も、私は夫と結婚するし添い遂げる。私は本気でそう思っている。

 ああ、これが奇跡でなくて何だろう。


 また、かつて母や私に暴力を振るい続けた父は年を重ねて足腰が弱り、車椅子で移動するようになった。姉か私が交代で車椅子を押す。

 病院で長い待ち時間に苛立つ父を何とかなだめ、文句をまったく言わずにただ黙って車椅子を押し続ける私に、ある時父が言ってくれた。

「良い娘を持って俺は幸せだ」

その言葉に報われた。

 私はこの父親を選んで生まれたのだろう。

 勿論あの母親も、私は選んで生まれたのだろう。

 

 そう言えば、母は大人になった私に一度だけこんな事を言ってくれた。

「子どもっていうのは、生きていればいいんだなって思うわ。あなたを見ていて。どんな風にもなるから」

 それで許せば良かった。もうひとつ、

「マリは小さい頃からお菓子でも何でも、最後のひとつなんて絶対に手を出さなかった」

と言ってくれた事もあった。

 …幼少期、家族4人で4つのお菓子を食べる際に、父は必ずふたつ食べてしまっていたせいで、私は食べられず、姉に最後のひとつを渡していた。

 その時母は気が付かないのかと思っていたが、実は気付いていたのだった。だったら、何故その時に何も言ってくれなかったのか、という気もするが。


 そして父も、大人になってから私に良くしてくれたように思う。私が婚礼司会の仕事をしている時に

「お前がそんな仕事してくれるようになるとはねえ」

と言ってくれた。また、別の時には

「うちの娘たちは打って出るからねえ。よくあの若さで家を追い出されてまともに生活してきたねえ」

とも言ってくれた。

 これも意外だった。母は「勝手に出て行った」と言い続けていたが、父は「追い出した」という自覚があったのだ。

 またこんな事も言われた。

「お前をもっと良い学校に入れてやりたかった。そうしたらもっと良い会社で働けたのに」

 私は即答した。

「私は愛社精神を持って働ける最高の会社で10年も働けたし、最高の人間関係に恵まれたし、婚礼司会も出来たし、最高の旦那さんと結婚できたし最高の子どもを生めたし、今以上の人生はないと思っているよ」

 父は言ってくれた。

「なら良かった」

 そう、それが私の本心だ。

 この人生で本当に良かった。

 それに私は父から「たったひとつの事を最後までやり遂げる辛抱強さ」を学んだ。

 父は38年間JELで働き、生活費を家に入れ続け、家庭をぎりぎり捨てなかった。嫌らしく、大人げなく、酷い父親ではあったが、そこだけは良かった。


 いずれにしても、過去の仕打ちは許そう。

 あのつらかった日々があるからこそ、今がある。

 私はあの父母と、姉と、あの家庭環境を選んで生まれた。でなければここまでの精神力はなかった。神様が私なら耐えられる、私なら多くを学べると思ってそうしてくれた。

 おそらく、私の場合どちらかだったのだろう。幸せな家庭に生まれ育ち、不幸な結婚生活を送るか、またはその反対か。

 生まれる時に神様に聞かれ、今の状態を選んだのだろう。だとすると、すべて合点がいく。


 私は今、自分が与えてもらっているものを当たり前と思った事が一度もない。すべては奇跡だ。

 生きている事。

 心身が健康である事。

 大切に思う家族がいる事。

 住む家がある事。

 良い人間関係に恵まれている事。

 私の話を信じてもらえる事。

 何も我慢する事なく、穏やかに暮らせる事。

 それを当たり前と思う事なく、奇跡だと有り難がる、神様がそうさせてくれた。


 死にたくてたまらなかった日々もあった。だが何故か死ねずに「生かされた」。

 家族を憎んだ時期も長かった。家がいたたまれない場所だった。すべき仕事がない時代もあった。悪い人に騙されて地団駄を踏んだ事もあった。

 そのすべてが今につながっている。


 例えば30歳を過ぎてやっと「正社員として就職」した私は(実家と断絶していて保証人を立てられなかったという事もある)、年下の先輩に仕事を教わる事が多かった。

 良い気持ちはしなかったが、フリーターや派遣でいるより、ましてや水商売よりずっと良いと割り切れた。二度と不正規の仕事をしたくなかった(現在、不正規の仕事をしている人や水商売で生活している人を否定するつもりは毛頭ない)。

 またその会社で嫌な事があっても、嫌な人がいても、辞めるものかと踏ん張れた。二度と無職も職探しをするのも嫌だった(無職の人、職探しをしている人を否定するつもりもまったくない)。

 そして衝動買いやローンを組んでまで物を欲しがらなくなった。借金地獄を経験したおかげだった(借金をしている人を否定するつもりも一切ない。応援する気はある)。そう言えば20代前半で、欲しいものを我慢出来ない時期があった。なぜこんなに洋服や宝飾品が欲しいのか、自分でも分からなかった。だが、幼少期に喚けば何でも買ってもらえた事が少なからず関係していたような気がする。やはり親ならば尚のこと、愛情を与えず,代わりに物を買い与える,という行為はその子どもの将来に悪い影響を及ぼす事を考えるべきだ。泣き喚きうるさいから,面倒だから、ましてや自分の言う事を聞かせる等の交換条件で買い与えるというのは良くないと、私は自分自身から学んだ。


 人の悪口を言わなくなった。言い過ぎてみんなに嫌われ、その時の仕事を辞めざるを得なかった経験のおかげだ。それに人の悪口というのは言っても何も良い事はない。それを聞いている自分の耳がすぐそばに二つもある。相手も自分も気分が悪くなる。

 だが誉め言葉は相手も自分も気分が良い。それを聞いている自分の耳もすぐそばに二つある。だから私は今日も誰かを褒め続ける。

 上司の表情を見て、何が必要か、どうして欲しいのか、瞬時に判断出来るようになった。親の顔色を見続けて育ったおかげだ。

 会社の友達と600円の弁当を食べている時に満ち足りた気持ちになれた。200円の弁当さえ買えないほどの極貧を味わったおかげだ。

 上司や先輩、同僚や後輩、みんなにあてにされ、仕事を頼まれるのが嬉しかった。誰からもあてにされず、その職場にいたたまれなかった経験のおかげだ。

 謙虚になれた。仕事を覚えられず、後輩に追い抜かれる惨めさを経験したおかげだ。

 そしてその会社で数字を見ている部署に配属された。これも縁があったと言えよう。

「沖本さんは数字に強いね」

と言われるのが嬉しかった。

 この時、中学時代に数学が好きだった事を思い出していた。ドンピシャリ!と合う瞬間が、大人になっても好きだった。

 また、その会社は固定客の仕事に介入する事もあったのだが、あるお客さんが和楽器の演奏者をしており、定期的にコンサートを開き、社員が招待される事が多かった。

 みんなが退屈して居眠りをする中、私だけは関心を持ち、姿勢を正して最後まで堪能する事が出来たのは、やはりお琴を習っていたお陰だろう。やはり無駄な事は何もない。

 そして35歳にして、婚礼司会者としてプロデビュー出来た。会社に正社員として雇ってもらえ、ボーナスをもらえるまでに長続きし、そのボーナスでアナウンススクールに通えたおかげだ。

 勿論仕事は甘くない。式場スタッフや所属事務所の人に滅茶苦茶に叱られる事もあった。だが、言えば何とかなる、と思うからこそ言ってくれるのだろうと受け止められる。誰からも何も言われず、いちばんつらいのは人から何も言われない事、すなわち見捨てられる事だと実感した経験のおかげだ。

 そして仕事の時、私は必ず母の作ったコサージュを左胸に飾った。

「天才華道家・沖本麗子」の手掛けた見事なコサージュを。


 婚礼司会者は、有名な大学を出た人や、元局アナ、元タレント、有名な劇団にいた人など、そうそうたる人が多い。

 だが私にはそういう華やかな過去やブランドがない。モデルとして活動した期間も短く、自慢できるほどのキャリアではない。

 MCとしては何のコネもツテもなく、それこそただ努力するだけで昇りつめ、夢を叶えた自負と自信が私にはなみなみと溢れていた。母のように。

 母の娘でなければ、この声と度胸はなかったろう。やはり、私は母を選んで生まれてきたのだ。


 そしてものは言いよう、考えよう、という言葉がある。私は確かに低学歴であるが、その事をあまりコンプレックスに感じた事がない。母は言い過ぎ、気にし過ぎたが、私自身はまったく感じていないしそう思わない。

 と言うのは、働いてきた喫茶店やレストラン、デパートや会社が「最高の大学」だったからだ。

 あまりにも中卒、中卒と馬鹿にされる事に辟易し、19歳以降は高卒と偽った(美容専門学校の高等科コースを卒業したという事もある)。そしてその途端に周囲の扱いが変わった事に驚いた。誰も

「どうして高校行かなかったの?」

と聞いてこないからだ。当然と言えば当然だが、もう余計なダメージを受けたくなかったし、言い訳をするのも嫌だった。


 私の主婦仲間で成人した子を4人持つ女性が、堂々とこんな事を言っていた。

「うちの子たち、みんな中卒で働いてくれているから助かっている」

 母に聞かせたかった。母は姉が国立大学に受かった時、知友人みんなに自慢して回った。そして私が高校を中退した事は一切口にせず隠し、私に関しては貝のように押し黙っていた。

 そして父が会社に私が高校を卒業したという証明を出せず恥ずかしかった、という事をねちねち言い、私のせいで居たたまれなかった事を恨みがましく言い続けた。

 父も母も、言っても仕方ない事を、いくつになっても言い続けた。

 母は

「お姉ちゃんもマリも自分の手の届かない遠い所へ行ってしまった」

と言った事もある。「所有物」と思えばこそ出てくる言葉だろう。いつまでたっても私を中卒と見下し、馬鹿にしているのだろう。

 だが私はこう思う。

 私の「最大の強み」は「中卒である事」だ。

 お陰で人の話を素直に聞けるのだから(経営の神様と言われた松下幸之助さんのように)。

 もうひとつ、今まで本当に色々な人に会ったが、私にまったく何も学ばせてくれない人はひとりとしていなかった。

 そう、私の座右の銘「我以外、皆、師成われ・いがい・みな・しなり」。自分以外はみんな先生である。

 ある人は、私に優しく教えてくれた。

 またある人は、厳しく言ってくれた。

 別の人は

「沖本さん、私たちのペースに付いて来られないのね」

と苛立って言い放つ事で(嫌味を言う事で)伝えてくれた人もいる。

 また別の人は軽蔑の眼差しで見る事で、どう思っているのか伝えてくれた。

 またある人は

「ああ…沖本さん?…」

と嫌そうな声を出す事で、私を嫌いなんだと意思表示してくれた。

 が、その人たちはあくまでも私の「行動が嫌い」なのであった。私自身を嫌いな人はあまりいなかったような気がする。

 本当に私を嫌いな人と言うのは、私の目も見てくれないし、名前も呼んでくれなかった。目を見てくれただけ、名前を呼んでくれただけ、ましだった。 

 いずれにしても何も教えてくれない人や、何も伝えてくれない人は、本当にひとりもいなかった。しかもその人たちは私から1円たりとも授業料を取ろうとしなかった。こんな有り難い話があろうか。

 教えてくれて有難うと、心から御礼申し上げたい。


 さらに借金を完済した時に感じた達成感は、並大抵のものではなかった。自分の撒いた種を自分で刈り取る事が出来たのだ。

 はげたおじさんひとりを騙せば済む話なのに、という友人もいたが、それではあの物凄い達成感はなかったろう。

 変な例えだが、自分の前をずっと覆っていた雲が一気に晴れ、爽やかなお花畑に舞い降りたような感じだった。

 ああ、良かった。もう借金の為に働かなくていい。欲しいものはおろか、必要なものさえ買えなかった時代は終わったんだ。これからはきちんと考えてお金を使おう。金銭管理能力を今度こそ身につけようと思えた。

 そしてこんな風に思った。

 ああ私は今いちばん幸せだ。貯金もゼロだけど、借金もゼロだ。

 そして、こうも思った。

 ああ幸せだ。今、私を可愛がってくれる恋人もいないけど、いじめる恋人もいない。

 ああ幸せだ。良い友達もいなくなったけど、私を騙そうとする悪い友達もいなくなった。

 そう、悪い方でなく、良い方を見れば、幸せは山のようにあった。

 そして借金がなくなったお陰で生活にゆとりが生まれ、友達との外食や旅行も楽しめるようになった。

 何より、良い友達がたくさん寄ってくるようになった。

 

 私はきっと悪い友達や悪い出来事を自ら引き寄せていたのだろう。私自身が悪かった時、変な友達や男や出来事がどんどん寄って来たし、借金は借金を呼んだ。

 そして私はもう二度と馬鹿な事をしない、と決断して以降、良い友達や良い出来事がどんどん寄って来てくれたし、貯金は貯金を呼ぶようになった。


 歳月が私を強くしてくれた。出来なかった反論や説明を出来るようにしてくれた。そのせいで母は命を落としたが。

 もうひとつ、感謝も出来るようになった。何か良い事があるから感謝するというよりも、何もなくても、悪い事が起きても、それでも私はこの程度で済んで良かったと感謝して生きる。

 毎日寝る前に、今日の奇跡は、家事がスムーズに済んだ事、家族がきちんと帰って来てくれた事、ストレッチやウォーキングが出来た事。道で友達に会えた事、茶碗を割ったが怪我をしなかった事、宝くじで一万円も当たった事等思い起こし、微笑んで眠る。

 そして目覚めた時はこう思う。「さあ、今日はどんな楽しい事があるのかな?」

 いつしかこういう考え方が身に付いた。

 信号や電車の乗り継ぎがスムーズであれば良かったと喜ぶ。

 スムーズでなくても時間に余裕を持って外出したから大丈夫だと喜ぶ。

 時間に余裕がなければ、どうすれば一刻も早く到着するか知恵を絞り、そんな自分を喜ぶ。

 狭い道で行き交う人が譲ってくれたら、勿論早く進めるから喜ぶ。

 自分が譲ってあげられたら余裕があるという事だ、と喜ぶ。なるべく譲るようにしている。

 電車で座れれば勿論有り難い。だが人に席を譲れるのも、健康という事だから有り難い話だ。私はいつも座れた時に、誰に席を譲ろうかと辺りを見回し、座りたそうな人と目が合うとにっこり笑い、すっと席を立って車両を移るようにしている。

 鼻血を出した子どもや人を見たら、さっとポケットティッシュを渡す。そういう時も、恩着せがましい顔をせぬよう車両を移る。

 意地の悪い人がいたら、この人は不幸なんだろうと思いを馳せ、私は幸せだからこそ人に優しく出来ると喜ぶ。

 外食や買い物をする時、新人らしい店員がもたついていても

「ゆっくりどうぞ」

と言える。

 相手が何かミスをしても「その行為」だけを注意し、さっとおさめられる。

 若い店員がわざと手抜きをした対応をしても、やはり「その行為」だけを注意し

「自分の子だと思って言っているんだからね。お母さんだと思って聞いてね」

と救いのある言い方で早めに切り上げ、横で恐縮している上司らしき人に

「あなたはもうこれ以上注意しなくていいですよ。この人はじゅうぶん応えているだろうから。あと若いなりに、何か事情があるでしょうから、首にもしないで下さい」

と言える。

 人に厳しかった自分が、寛大になれた事を喜ぶ。

 もしも仕事を首になったら、切られるより切る方がつらいだろうと相手をいたわり、傷つかないように切ってくれて有難うと喜ぶ。

 自分から辞めた場合は、首になった訳ではないから良かったと喜ぶ。

 恋人に振られたら、振られるより振る方がつらいだろうと相手をいたわって、傷つかないように離れていってくれて有難うと喜ぶ。

 自分から振った時は、振られた訳ではないから良かったと喜ぶ。

 いずれにしても、その会社や男性と合わなかったりご縁がないという事は、他にご縁があるという事だし、合わないという事は、どこかに合う所があるという事だからそこを探せばいい話だと喜ぶ。

 神様が新しい未来をプレゼントしてくれたと喜ぶ。 

 次はどんな会社や男性が私の前に現れてくれるのかなと楽しみに、喜ぶ(そうしたら本当に愛社精神を持てる会社に出会えたし、最高の夫に出会えた)。

 何があってもなくても、良い所を見つけて喜ぶ。

 喜んで喜んで喜びまくる。

 更に喜ばしい事がやって来るから、また喜ぶ。

 ますます幸せが満ちる。

 小さな事でも良かった点を見つけて喜ぶ。

 自分の幸せが世界平和につながると喜ぶ。

 私の人生は幸せに満たされていると、心から喜ぶ。

 不満を山のように抱えて生きていた私が、何があっても喜べるようになった。

 人に会うとまず欠点に目が行ってしまっていた私が、まず美点に着目出来るようになった。

 人の悪口ばかり言っていた私が、いつも誰かを褒めてばかりいられるようになった。

 何て素敵な人生だろう。


 私には、自分の運勢が音を立てて上がった瞬間というのがある。

 それは「口角が上がった瞬間」だ。

 鏡に向かい試してみれば分かるが、口角だけ上げようとしても上がらないし、1秒ともたない。だがこれを簡単かつ、永続的に上げる方法がひとつだけある。

 それは目が微笑む事だ。目が微笑むと自然に口角は上がる。

 では目が微笑む為にはいったい何をすれば良いか、これも簡単だ。それは「自分の周りにいる人の美点に注目する事」だ。

 例えば、ああこの人は家族を大事にしている人だな、とか、この人は決して人の悪口を言わない人だ、とか、この人は人を傷つけないものの言い方を出来る人だ、とか、この人は神対応が出来る人だ、この人はパソコンに精通している、この人は誰かを叱る時はみんなに分からないように叱り、褒める時はみんなの前で褒める人だ、等々、人それぞれの良い所に注目すると、本人を前にした時に思わず尊敬の念が込み上げる。

 必ず目は微笑み、口角は上がり、それが相手にも伝わり良い気持ちになってくれる上に、自分の運勢も音を立てて上がる。

 ああ、何て幸せなんだろう。


 箱入り娘という言葉がある。

 多くの場合、たいせつに育てられた御令嬢の事をいうのだが、私の親は私を狭く暗く窮屈でつらい箱に閉じ込めた。そしてきちんと育てた、姉と同じように育てたと言い張った。姉に死んだものと思っていると言った事は一度もないのに…。

 反論も説明も苦手だった私は、言葉で言えない分、行動で伝えようとしてしまった。それは全然違うよ、と。…誰にも理解されなかったが。

 そう言えば、かつて交際した男性で最初にこう言ってくれた人がいた。

「君は箱に入れてたいせつに取っておきたいような綺麗な女の子だ」

 その人も決して私をたいせつにしてくれず、心地良い箱に入れてもくれなかった。勘違いする人を相手にしてはならないという学びはもたらしてくれたが…。

 ただ私は、結果的に自分で自分を心地良い箱に入れる事が出来たのだから良かった。


 一昨年、私は大きな決断をした。それはずっと経過を診ていた子宮の病気を手術により完治する、という事だった。

 子宮筋腫、内膜症、卵巣嚢腫、と豪華三本立てだった。筋腫は、赤ちゃんの頭くらいの大きさに成長し、尚且つ「塊」が見える。切除して検査をしてみないと良いものか悪いものか分からない、このまま「経過を診続ける」事は命の危険を伴っていた。

 夫や息子と離れたくない。生きて二人の役に立ちたい。夫と添い遂げたい。息子の成長を見届け、幸せな大人になる姿を見たい。入院すれば一時的に迷惑をかけるが、長い目で見て行こうと思った。

 そして結果的に、また大きな幸せを実感する事になれた。


 手術をする、と夫と息子に告げた時、二人が動揺しない事にほっとした。

 夫も、夫の両親も、地に足のついた対応をしてくれた。私も自分の事ながら、あまり、というか、全然動揺しなかった。

 いちばん動揺したのは父だった。

「母さんと同じ病気なんて」

と何度も言った。

 だが私は「それは違う」と思った。

 母が私を、自分と同じ「子宮癌にさせない為に」わざわざ子宮を全摘出するようにしてくれるんだろうと嬉しく思ったし、私の子宮の病気に代わるものは何だったのかと考えると、痛み等の自覚症状もなく、日常生活に一切支障のない子宮の疾病は、むしろ幸運だと思えた。

 神様は二人目の赤ちゃんは授けてくれなかったが、その代わりに子宮の病気を全部持ち去ってくれようとしているのだろう。体のあちこちに病気があるのではなく、子宮という場所に3つの病気が「集中してくれた」のも有り難い話だ。一気に治せるのだから。

 母が逝ってちょうど10年という節目の年でもあり、まして命日月に手術と言う事にも不思議な縁を感じた。

 もうひとつ、当日は大安吉日であった。婚礼の仕事をしている者ならではの価値観だろうが、手帳を見て大安と分かった瞬間に、この手術を機にあらゆる事が一気に好転するという確信が生まれた。根拠のない自信にみなぎっていた。

 ああ嬉しい。早く手術したい。新しい自分になれる。

 それに私は、きっと誰かの代わりに子宮を全摘するのだろう。だったら尚更良かった。

 フサエか、マユミか、中井さんか、チヨミちゃんか、加山さんか、マチコか、誰か分からないが、誰かが子宮を取らなくて済むのだ。今まで散々代わってもらったのだから、今度は私が代わる番なのだろう。

 ああ良かった、なんて恵まれているんだろう。なんて幸せなんだろう。ワクワクする心を抑えられないほど浮足立ってしまった。どこの世界に手術をこんなに楽しみにするやつがいるんだろうと、我ながらおかしかった。

 一日に何度も下腹に手を当て、まだそこに存在してくれている子宮たちに話しかけた。

「子宮さん、卵巣さん、筋腫さん、今まで私と一緒にいてくれて有難う。私の為に働いてくれて有難う。お陰で良い子を生めました。お陰様で良い人生です」

と、御礼を言い続けた。

 入院中、夫の両親が、手伝いに来てくれる事になり、有り難く受け入れた。申し訳ない気もしたが、ここは頼んでしまおうと思った。

 そして入院までに、可能な限りの事をやろうと思った。ちょうど仕事がなく、良いタイミングと言う気もした。

 神様が暇を与えてくれたと思い、家事を一心にこなした。万一(命を落とす)、という事もあるので、整理整頓をして、例え私がこの家に帰って来られなくても、家族が困らないようにと、家の中を整えた。

 そして息子に家事を一通り教えた。食事の作り方、後片付けの仕方、ごみの出し方、部屋や風呂場やトイレの掃除の仕方、洗濯機の回し方、干し方、取り込み方、畳み方、しまい方、息子は毎日繰り返される家事に疲れ、大文句を言ったが、私は容赦しなかった。私が死んでも息子が困らないように。

 もうひとつ、世の中に無駄な事はひとつもない。息子がいつかひとり暮らしをしたり、家庭を持った時には勿論、仕事をする上でも家事経験は役に立つ。「段取りが良くなる」のだから。


 要領の悪い母に育てられた私は、若い頃は家事がどれもこれも苦手だったし下手だった。

 だがいかにして時間と水道光熱費、手間や体力を節約するか、洗い物を少なくするか等々考えに考え、色々な情報を集め、工夫を凝らすようになった結果、まあまあ段取りは良くなったように思う。

 弁当も彩り良く作れるようになったし、ひとつの食材を活かしきる、使い切る、おいしく食べられるよう愛情を込め続ける。

 洗濯物ひとつ、どう干せば乾きやすいか、どう畳めばしまいやすいか、どう収納すれば探しやすいか、どう掃除すれば効率がいいか、ごみの出し方は、等々考え続け、ひとつのやり方に固執せず方法を変え続ける。

 それを懸命に息子に伝授した。いつかきっと息子の役に立つ筈だ。私が居なくなっても。

 そう、私は命を落とすかも知れない事を覚悟し、受け入れていた。母も一切闘病せず「病気を受け入れて」いた。

 友達にも事情を話し、ランチした。もしかしてこれがこの人との最後のランチになるかも知れないと思いながら、笑顔で分かれた。


 そして入院の半月前の事、「人生最後の生理」が来た(この半月前、というのも、物凄くナイスなタイミングだった。生理が済み、ちょうど一週間した所で、つまり出血していないきれいな状態で手術が受けられるのだから)。

 それが凄かった。溢れかえるのではないかという程の量。もはやトイレから出られないくらいだった。

 まるで子宮が意志を持ち「これが最後だ」と悟っているかのようだった。

 その時に思い出したのだが、私は光の園で過ごした9カ月間、生理が止まっていたのだった。環境の激変に体がついていけなかったのだろうが、私と同じように生理が止まった女子入園者は何人もいた。誰も妊娠はしていなかった。

 そして退園した翌月、まるでそれまでの生理がまとめて来たような凄まじい生理に見舞われたのだった。

 その時も子宮が意志を持って「今まで止まっていた分だ」と言っているような気がした。なかなかトイレから出られなかったし、生理用品もいくらあっても足りなかった。

 その後、ひとり暮らしを始めた時も生理は半年近く止まった。やはり環境が変わった事に体が反応したのだろう。

 転職や引っ越しをするたびに、私の生理は止まった。だが同じ会社で働き続け、同じアパートに住み続けるようになったら生理も安定した。

 何か、体が私に「安定してくれ」と訴えかけていたような気がする。

 …人生最後の凄まじい生理に付き合いながら、私は下腹に手を当ててこう言った。

「今まで私の為に働いてくれて有難う。あなたはお役御免と分かっているんだね。本当にお疲れ様でした。有難う。有難う」

 段々生理が終わりに近づくにつれ、不思議な安堵感に包まれた。

 ああ閉経だ。有り難い話だ。つくづく、人の体というのはよく出来ていると感動した。


 さあ、入院までもうあまり時間がない。気持ちを切り替え、私は家事に邁進した。

 可能な限り料理の作り置きをして、冷蔵庫の中をタッパーで埋め尽くし、買い物をした。

 布団を干し、部屋を掃除し、当日も早起きして洗濯物を残らず洗って干してから、病院へ向かった。家族の負担を少しでも軽減したかった。

 そうしながら、母は祖母の看病に行く時にめそめそ泣いて悲劇のヒロインを気取るばかりで、家事は一切しなかった事を思い出していた。


 入院の翌日、夫が忙しい仕事を休んで来てくれた。

 何か、久しぶりに会ったような気がして嬉しく、手をつないで病院内を歩き、帰る彼の後ろ姿をいつまでも見送った。


 手術当日の朝、腕につけていたパワーストーンのブレスレットが突然バラバラになった。

 夫がこう言ってくれた。

「ママの身代わりになってくれたんだよ。良かったね」

 ああこれで、全部うまくいくとますます嬉しくなる。


 夫と、夫の両親が、手術室の前まで一緒に来てくれた。いよいよ看護師に呼ばれる。

 まずはお舅さんに言った。

「お父さん、行ってきますね」

 そしてお姑さんに言った。

「お母さん、行ってきます」

 そして夫と息子と握手をして言った。

「行ってくるね」

 心配そうな顔をする4人を見て、こっちが心配になった。

 大丈夫だよ、笑顔で手術を受けて来るよ、というメッセージを込め、笑って手を振った。手術室のドアが閉まるまで、満面の笑顔で手を振り続けた。

 実際嬉しかった。さあ、やるぞ。腹が決まる。

 手術室に入った時に、担当医が言ってくれた。

「頑張りましょうね」

 その時、口をついてこんな言葉が出てきた。

「100%信頼してお任せします」

 担当医が、はっとした顔をする。そして、嬉しそうに、嬉しそうに、笑ってくれた。

「スタッフの皆さん、よろしくお願いします」

 司会の仕事で、披露宴会場に入る時のような気持ちでそう言った。

 背中に注射を打ち、手術台の上に仰向けになる。若い女性看護師が、緊張する私を安心させようと手を握ってくれ、こう言った。

「私、ずっとここにいます」

 性格の良さそうな、可愛らしい子だな、いつか息子のお嫁さんにこんな子が来てくれたらいいなと思った。

 麻酔をかけるまで、まだあと数分あるようだ。意識があるうちに何か話したかった。

「私は今、いちばん幸せなんです。家族も友達も、みんな応援してくれていて、本当に、今まで生きてきて、今この瞬間いちばん幸せなんです」

そう言うと、その看護師が笑顔を見せてくれた。

 周囲では、この手術に関わるスタッフが、何人も何人も立ち働いている。何事か打ち合わせたり、機械を運んだりしている。

 有り難い気持ちでみんなを見回し、思わずこんな言葉が出てきた。

「みんな、私の為に働いてくれて有難う」

 看護師がはっと息を飲む。そして、心から笑ってくれた。

 ああ、言葉と言うのは、魔法だ。暴力にもなるが、こんなに人を幸せそうに微笑ませる事だって出来るのだから、と誰より私自身が幸せだった。

 さあ、笑顔で手術を受けるぞ。さあ、運命を変えるぞ。

 麻酔医が言った。

「これより麻酔をかけます」

 笑顔で頷く。

 …これ以降の記憶がまったくない。あっという間に眠り落ちた。

 そう、小学生の時に貧血を起こし、無理をして自力で家に帰り、布団の上に崩れ落ちた時のように。


「1、2、3!」

という掛け声が遠くから聞こえ、手術台からベッドへ移されたような気がした。うっすらと意識が戻る。

 そう、光の園でリンチされ、ヨウコの

「みんなもうやめで」

という声を遠くに聞いた時のように。

 スタッフが手早く後処置をしているような感覚があった。

「終わりましたよ」

そう声をかけられ目を開けた。手を握ってくれた看護師だった。

 ああ、生きている、と思った。

 ベッドごと移動されている。天井の蛍光灯が眩しかった。移動していく様子を見ていたかったが、目が回り嘔吐しそうな気がして目を閉じる。


 ガチャリ。ベッドが定位置におさまる音がする。

 その音を聞いて一瞬こう思った。ここは反省室か?それとも奥之院の奥か?

「病室に戻りましたよ。分かりますか?」

 同じ声がした。目を開け、看護師に頷く。

 …と、ここで初めて夫と夫の両親、息子の4人がベッドの周りを囲み、心配そうに私をのぞき込んでいる事に気付いた。それを見て、最初に奥之院の奥へ叩き込まれた時に少女たちが倒れている私を取り囲んで、心配げに見入っていた事を思い出す。

 反射的に両手を上げる。夫と、お姑さんが握ってくれた。夫が何度も何度も瞬きをしている。

 その憐れむような眼差しに、幼少期に自分を見ていた大人たちの眼差しを思い出す。母が連れて行った病院の医者や看護師、宗教団体の幹部、同じ社宅の脇田さん。

 まったく声に力が入らないが、それでも絞り出す。

「だいじょうぶ?」

 酸素マスク越しで聞こえなかったらしく、夫が耳を寄せる。

 安心させようともう一度笑いかけてから言う。

「わたしは、だいじょうぶ」

 声が掠れている。フガフガとしか喋れない。治るのか?また声の仕事が出来るのか?

「あしたも、しごとでしょう?はやく、やすんで」

 夫の眼差しがこう言っていた。

「こんな時まで人の心配をしなくていいよ」

 お姑さんに言った。

「おかあさん、わざわざ、きて、もらって、ありがうございました」

 自分でも説明できぬ涙が滂沱と溢れる。そう、幼い頃、瀕死の祖母を前に、自分でも分からぬままに涙が溢れたように。

 幸せだった。私は病んだ子宮を全摘して「もらった」のだ。自分では出せないから、医者や看護師がチームを組んで「出してくれた」のだ。

 子宮と引き換えに、輝かしい未来の扉が、音を立てて開いた。


 その夜、手術当日の夜、

 凄まじく長い、長い、長い夜、

 麻酔が切れ、痛み出した傷は容赦なく私を苦しめた。

 もうひとつ、真冬の海へ落とされたような凄まじい寒気。3時間に及ぶ手術中、私は全裸にされていたのだ。

 意識がなかった為その時は寒さを感じなかったが、その悪寒が「今頃来た」のである。光の園で経験した寒冷地獄の比ではなかった。

 看護師に助けを求めようとするが、体も手もガタガタに震え、ナースコールさえ掴めない。ようやく掴めた、と思ったが、今度は指が言う事を聞かずボタンをなかなか押せない。ようやく押せた、と思ったが、今度は口がうまく回らず

「寒い」

そのたった一言がなかなか言えない。看護師に何とか寒さを伝え、電気毛布をかけてもらい、ようやく寒冷地獄から救われるが、下腹の痛みはどうしようもない。

 凄まじい下血の臭いが鼻を突く。これとまったく同じ臭いを嗅いだ事がある。他ならぬ母の病室での事だった。紛れもなく母と同じ手術を受けたのだと、腐敗したような濃い血の臭いで思い知らされる。

 喉が焼け付くように乾いているが、吐いてしまうからという理由で水を飲ませてもらえない。

 測らなくとも高熱に見舞われているのが分かる。

 膀胱に入れられていた管が曲がっていた為、小水がうまく排出されておらず、凄まじい尿意で股間が痛い程に熱い。

 この苦しみを、母も味わったのだ。


 ようやく訪れた朝。

 ありついた一杯の水。

 差し出してくれた看護師が天使に見えた。

 母もきっとそうだったろう。


 その入院生活を、私は奇跡の入院、と呼んだ。

 起きられなかったのが、起きられるようになった。

 重湯とはいえ、食事が出来た。

 座れなかったのが、座れるようになった。

 飲めなかった水を、好きなだけ飲めるようになった。

 歩けなかったのが、点滴のスタンドにつかまりながらとはいえ、歩けるようになった。

 傷が日に日に痛まなくなった(痛いという事は勿論、治っていくというのも生きているという事だ)。

 母も同じコースをたどった筈だ。


 下腹に大きな手術痕が残ったが、私はこれを「名誉の負傷」と呼んだ。少しも嫌ではなかった。母の下腹にも同じ傷があった筈だ。

 同室の人たちとも仲良くなれた。点滴のスタンドにつかまりながらとはいえ、よろよろと歩けた時は、同室のみんなが笑顔で励ましてくれた。

 誰かがくしゃみをし(くしゃみさえ傷に響いた)、痛みに呻けば誰かが声をかけた。

「大丈夫?今の痛かったでしょう」

 そう、痛いというのは生きているという事だ。痛みさえ嬉しかった。

 ただ、やはり化粧品の匂いやドライヤーの音等、トラブルはあった。

 個室は料金が高いので、夫に負担をかけまいと気を使い8人部屋を選んだが、同室の人に一日中気を使う事になった。同じく入院中8人部屋にいた母もそうだったろう。

 何でもそうだ。一長一短。良い所もあれば、困る事もある。早く退院したくて息をひそめるように2週間を過ごした。

 傷の癒着と合併症を防ぐ為、病院のフロア内を毎日ウォーキングした。スムーズに歩けるようになった事が嬉しく、誰彼となくハイタッチしたいような気持になる。そう、幼い頃、誰かれとなく手を振っていた時のように。

 ハイタッチの代わりに、スタッフや他の入院患者に笑顔を向けた。相手が必ず微笑み返してくれるのが嬉しかった。そう、人に微笑して欲しければ自分から微笑する事だ。

 夫が心配した筋腫の中の塊は、検査の結果、癌ではないと分かった。私は生かされた訳だ。まだ使命があるという事だ。

 退院当日、夫が迎えに来てくれた。同室の人たちに挨拶をし、スタッフにもお礼を言う。

 清掃スタッフの女性が、大真面目な顔で私にこう言った。

「もう二度と、こんな所に来るんじゃないのよ」

 何か、刑務所を出所する人の気持ちが分かった。笑顔で頷く。


 会計を済ませ、2週間ぶりに病院の外へ「出た」時、見上げた空の大きさと美しさに感動した。

 私はたった2週間といえども、病室や廊下の窓から見える「小さな空」しか見ていなかったのだ。

 この空を、愛おしいようなこの空を、ずっと見ていたかった。

 ああ、外に出たんだ。心が舞い上がる。

 光の園を退園した時と同じだった。


 自宅に帰った時、広い病院に慣れたせいか家が狭く思えた。夫、息子、夫の両親、私の5人で食卓を囲む。

 ベッドの周囲にカーテンを引き、ひとりで食べていた病院食はまずくて孤独でつらかった。そう、幼少期に家族で囲む食卓が苦痛だったように。

 ああ、生かされている。

 ああ、自由の身になった。

 ああ、空はこんなにきれいだったんだ。

 ああ、私は自分の足で立ち、歩いているんだ。

 ああ、私にはたいせつに思う家族がいるんだ。

 不平不満ばかり言っていた私が、自分の人生に感動出来るようになった。


 そして体が徐々に元に戻っていく過程を経験し、また感動した。

 家の周りを歩けるようになった。

 家事を少しずつ出来るようになった。

 私には奇跡だった。

 これは母には出来なかった事だった。そう、母はいっときは持ち直したが、ほどなく再発し、まっしぐらに死へ突き進むことになったのだから。

 そう言えば、家事が出来ずに弁当や総菜を買って食事を済ませていた時、夫も息子も一言も文句を言わずにいてくれ有り難かった。段々持ち直し、退院後に初めて米を炊いた時に息子が「本当に嬉しい事」を言ってくれた。

「良かった、母さんの炊くご飯が、俺にはいちばんおいしい」

 翌日、味噌汁を作った時も

「この薄からず濃からず仕上げた味噌汁が、俺にはいちばんおいしい。市販の味噌汁はしょっぱくて嫌だ」

と言ってくれた。

 翌日、おかずを作った時は

「良かった、コンビニ弁当はまずくて嫌だった。母さんの作るご飯の方が2億倍おいしい」

と言ってくれた。「2億倍」嬉しかった。

 ああ、家事をあなどってはいけない。家族がこんなに喜んでくれるんだからと、仕事以上にやり甲斐を感じた。そう、私にとって家族以上にたいせつな人などいない。


 私は夫や息子を送り出す時に必ず

「行ってらっしゃい。待っているよ」

と言う。外でどんな事があってもあなたの帰ってくる場所はここだよというメッセージだ。

 そして帰って来た時は

「お帰り、待っていたよ」

と言う。ここがあなたの居場所だよというメッセージだ。

 私も親にそうして欲しかった。父母は出かける私に、二度と帰って来るな、と言い放ち、帰宅した私に、どうしてここに帰って来るのだ?と言った。

 酷い育ち方をしたからこそ、だからこそ、私は家族をたいせつにする。


 もうひとつ、姉とはもう仲直り出来ないのかと思っていた時に、父が脳梗塞で倒れた。

 変な言い方だが、これもタイミングが良かった。私が入院中だったり、退院したばかりだったら、対応できなかった。ある程度体が元気になった時に父は「倒れてくれた」のだ。

 一日おきに実家に来ていたヘルパーが父の異変に気付き、救急車を呼んでくれた。もしヘルパーが来ない日だったら、父は助からなかったろう。母が助けてくれたような気がしてならない。

 発見と処置が早かった為に父の命は助かった。

 そう、命だけは。


 父は脳梗塞の後遺症で「右半身不随」になった。

 これも意味がある気がしてならない。

 かつて家族を殴り続けた右腕を、蹴り続けた右足を、神様がおさめてくれた。交通事故の時も父は右腕と右足を負傷したが、それは一時的なものだった。

 このたびは「永久に」右腕と右足を神様はおさめてくれたのだ。

 もうひとつ、父は徹底的にハプニングに対応できず、何かあれば暴力でねじ伏せるか、黙ってその嵐が自分の前を通り過ぎるのを待ち、解放された途端にほっとした顔でテレビを付ける人だった。

 神様は永遠に暴力を振るえない体にしてくれた上、その嵐が未来永劫通り過ぎず、父の中に留まる事にしてくれた。

 父に、ここから学べと、あなたの問題なんですよ、と、口で言って分からないなら体で分からせますよ、と、避けようのない障害を与える事で、これ以上ないメッセージを贈ってくれているのだ。


 父は介護付きの老人ホームに入った。

 こまめに顔を出すが、行くたびに家に帰してくれと懇願され、気が滅入る。が、これも意味がある気がしてならない。

 自分が言った事、やった事は巡り巡って必ず自分に返ってくる。

 父はかつて手に負えなくなった私を施設に叩き込んだ。そして私がどんなに出してくれと頼んでも

「お前がまた悪い事しないなんて、そんな保証どこにもない」

と子どものように口を尖らせて言い、なかなか出してくれなかった。

 母もしまいに家にいられず、激痛と闘いながら病室で命を落とした。

 父も、母も、自分のやった事が返ってきたのだろう。


 父が言う。

「お前はどうして俺を家に帰してくれないの?」

「帰さない」のではない。「帰せない」のだ。右半身不随の上、認知症も患っている為、もうひとり暮らしは無理だといくら説明しても父は理解しない。

 いっそこっちも口を尖らせて言ってやりたい。

「家に帰ってもひとり暮らし出来る保証なんてどこにもない」

と。だがそれを言った所でどうなるものでもない。ぐっと堪える。


「病院に入ってからおかしくなった。薬を盛られた」

と被害妄想も、大人げないのも相変わらずだ。

「俺は意地悪されている」

とも

「俺、ここを逃げ出そうと思う。警官雇え」

とも言った。

 そう、人は年齢ではない。人間性だ。たまたま「92年生きてきた」だけで、人間性は変わらない。


「牢獄に閉じ込められているようだ。早く出してくれ」

 父が言う。

 あなたも私を牢獄に閉じ込めた筈だ。特に反省室は、牢屋より酷かった。

「俺、ここで死ぬの?」

 父が言う。あなたも私を

「今度やったら一生だ」

と光の園に一生居ろと、光の園で死ぬまで過ごせと何度も言った。

 ある日突然、否応なしに光の園に入れられた私。

 ある日突然、否応なしに脳梗塞になり施設に入るようになった父。

 お父さん、私にやった事が返って来たんだよ。

 神様が帳尻を合わせてくれているんだよ。


「お前、俺に何してくれた?」

 父が私を責める。

 なかなか帰れぬ苛立ちを、思うように動かなくなった体に対する絶望感を私にぶつける。関節が固まらないように、自分の右手足をマッサージする私をなじる。

 そう、小学生の時、友達の誕生日プレゼントを買う金をくれと言った私に、

「その友達はお前に何をしてくれた?」

と聞いた時のように。父が何度も何度も言う。

「お前、俺に何してくれた?」

 父の、何かしてくれたから何かする、とか、何かしてやったから何かしてくれ、という交換条件、損得勘定は、直らない。

「お前、俺に何してくれた?」

 黙って父の手足を曲げ伸ばししながら、私は耐える。


 私は色々な事をした筈だ。

 会社でボーナスをもらうたびに5万円ずつ送った(姉はそんな事をしなかった)。

 学校に行かなかった分、学費をあまりかけさせていない(姉は国立大学を卒業した後、一度就職したが、その後、美術大学に入り直し、多額の学費を父母に出してもらった)。

 大きな病気をしなかった(姉は盲腸で入院し、費用を父母に出してもらった)。

 結婚式のバージンロードを父と歩いた(姉は旦那さんと歩いた)。

 披露宴で両親への感謝の手紙を朗読した(姉は読まなかった)。

 孫の顔を見せた(姉には子どもがいない)。

 そして何より、あなたの暴力と暴言に耐えた(私は大人になった今なお、顔の前に手や物があるのが耐えられない。父の手がスローモーションのように近づき、殴打され、吹き飛ばされた場面が蘇るからだ)。

 虐待された割にまともに育ち、まともな就職をし、まともな結婚生活を送り、自分の子を虐待せずに育てていられる。

 補導された事も逮捕された事も一度もない(姉もないが)。

 姉ときょうだい喧嘩した際、あなたは理由も聞かずに姉の味方をして私を殴っておさめたが、それにも耐えた(きょうだい喧嘩で学ぶ事は多かった筈。ただ暴力を用いておさめた父は学ばず、私と姉にも学ばせなかった。また母は泣き落すだけでおさめようとし、やはり学ばず、学ばせなかった)。

 父は私が30歳になった途端に

「その年で」

と言うようになったが、それにも耐え、反論も、父を年寄り扱いもしていない。

 頻繁にあなたの所へ通い、身の回りの事をしている(姉もしているが)。

 大も小も、しもの世話をした(姉は今の所していない)。

 理不尽な言い分にも、凄まじい暴力にも、裸を見られ、股間や胸を凝視されても耐えた(私は最近、息子が湯上りという事を知らずにうっかり脱衣所のドアを開けてしまい、すっぽんぽんの息子に遭遇した事があるが、即座に目もドアも閉じ、股間を凝視など絶対にしなかった)。

 施設に放り込まれても、それでも耐えた。

 息子が幼い頃、食事に行った店内で、走り回る姿に苛立ち(子どもは走り回ってなんぼだ)、

「あいつナントカ言う病気だよ、医者に見せろよ」

と異常児呼ばわりしても耐えた(幼い私にもまったく同じ事を言った)。

 当時3歳の息子がおむつをしているのに対し

「お前もう大きいのに、まだおむつしているのか」

と馬鹿にしたように言ったが、それも耐えた。

「そんな事言うなら、お父さんが将来おむつするようになった時に同じ事言うよ」

とも言わなかった(現に今、父は大人のおむつをしている)。

 ぎりぎり堪え、口にしない。言っても仕方ない。それはお前がああだから、こうだからと言い訳するばかりだろう。

 仮に自分が悪かったと理解したとしたら、父は自責の念に駆られ、母のように逝くだろう。

 父は学ばないから長生きなのか?

 長寿な人が学ばない人とは思わないが。


 ただ父の脳梗塞は、姉と私を再び姉妹にしてくれた。頻繁に会い、連絡を取るようになれた。

 私に対して敬語を使ったり、名前にさん付けで呼ぶなど、ぎりぎり距離を置いているのは分かるが、何年も連絡を取り合わなかった頃よりはずっと良い。

 共に老人ホームの見学に何軒も回った。実家の点検をし、少しずつ片付けもしている。行き帰りの電車でもよく話すようになった。 

 ある時、姉は言った。脳梗塞で命を落とす人は多い。助かっても誤嚥性肺炎で死亡する場合も多い。父がそうでないのには意味がある。

 それは私たちに甘える為だ。父は母にも娘ふたりにも甘えられなかった。勿論、戦後の混乱期に育ち、親にもきょうだいにもあまり甘えられなかった。

 今こそ、人生の最後に、父は誰かに甘えたいのだろう。だから右半身不随になってまで、命だけは残したんだろう。

 …それを聞いて目から鱗が落ちた。

 もしかして、父の暴力は「甘えたい」という気持ちの表れだったのかも知れない。

 そして母も、暴力と暴言で「甘え」を表現していたのだろう。どこまで虐待しても自分を慕ってくる私を試し、安心し、甘えていたのだろう。

 それに父の脳梗塞に代わるものは何だったのか?

 癌か?

 アルツハイマーか?

 筋ジストロフィー病か?

 詐欺にお金をむしり取られ続ける事か?

 孤独死か?

 徘徊し行方不明になり、山の中で凍死する事か?

 なら今の方がずっと良い筈だ。


 もうひとつ、目から鱗が落ちた事がある(私の目には何枚の鱗があるのか?)。

 私は義務感から父の所へ「行かねば」と思うと、高熱を出したりぎっくり腰になったりする。何故そうなるか?おのずと答えは出た。

 要するに「行きたくない」のだ。だから体が熱を出したりぎっくり腰になったりして「行かなくていい状態」にしてくれるのだ。

 ああ、なんて私の体はよく出来ているんだろう。

「分かったよ」

そう体に話しかけると症状は治まった。

 ある時、行きたくないと思いながら駅へ向かった所、電車が不通になっていた。

 ああ神様がわざわざ電車を不通にしてくれた、ここまでしてくれるのかと驚いた。


 父が言う。

「帰してくれ。家に帰してくれ」

 私は感情を殺しながら答える。

「右手も右足も動かないから無理だよ」

 父が激高しながら言う。

「そんな説教も理屈も聞き飽きた!」

 もう、黙るしかない。

 私はあの頃決して「そんな説教聞き飽きた」とは言わなかったのに。

 気持ちは分からなくもない。私もかつて、いつ退園できるか分からない状態に焦れ、光の園の友達をいじめた。その友達は私のいじめに耐えた上、私がリンチされそうになった時にこう言ってくれた。

「マリちゃんをいじめねぁで」

 私はそんな良い子をいじめてしまったのだ。

 中学の同級生である加山さんも、高校で私が上級生に集団リンチされそうになった時に私を守ろうとしてくれた。私は加山さんをいじめたのに。


 父が焦ったように言う。

「この施設、一日1万円かかるんだよ」

 私は穏やかに答えた。

「一日1万円で面倒見てくれるなら良いじゃない」

 父がすねたように言う。

「家に帰ればタダじゃないか」

 相変わらず浅はかな人だ。もし家に帰れば一日1万円では済まない。24時間交代勤務のヘルパーを何人も雇わなくてはならない。幾らかかるか分からない。だったら今の方が良い筈だ。


 父が言う。

「俺、アカデミー賞取ったんだ。受賞式に出ないといけないから帰して」

 …脳梗塞と認知症がいよいよ進んだのか?

 私は絶句する。


 父が言う。

「いつ帰してくれるか確約してくれ」

 …それさえ忘れてくれ。


 父が言う。

「俺、再婚したんだ。もうすぐ子どもも生まれるんだよ。俺の3人目の子ども」

 …妄想もいい加減にしてくれ。


 ある時、見舞いに行った私に父が言った。

「ここにいるのは嫌だ。死ぬ思いだ」

 何故かと聞いた私に父は言った。

「複数の女の職員が俺を蹴るようになった」

 驚き、誰がそんな事をするのかと問いただしたが父は答えられなかった。白内障と老眼を極めた父の目は、その職員の名札は勿論の事、顔の特徴もよく見えないと言う。

「施設側に相談しよう」

と言ったが

「そんな事したら仕返しされる。やめてくれ」

と、昔詐欺に遭った時と同じ事を言う。

 父はまったく進歩していなかった。

「相談しないと解決しないじゃない」

と言ったが

「解決策は家に帰る事じゃないか」

と言う。


 そう、父は92歳の子どもだった。

 いつ家に帰れるか分からない状態に焦れ、何か問題を起こせばこの老人ホームを追い出され、家に帰れると甘い考えを持ったのだ。

 どうしようもないから、手に負えないから老人ホームにいるのだという事を、父はどうしてもこうしても理解しなかった。そして「家に帰れば体が元に戻る」という幻想も捨てられなかった。

 何をすれば職員を怒らせるかと幼稚な考えで、父は自分の股間を掻き、その手で女性職員の顔を嗤いながら触った。当然相手は怒り狂い、頭に血がのぼったまま父を思い切り蹴った。そしてその職員から話を聞いた介護士仲間も父に怒りを覚え、忌み嫌うようになり、寄ってたかって父を蹴るようになったのだ。

「怒らせれば追い出されて家に帰れる筈」だったが、父のその行為は「いじめ」につながった。食事だけはかろうじてさせてもらっていたが、他は酷かった。

 目が開かないほどの目ヤニだらけ、髪もボサボサ、何日も着替えをさせてもらえず、風呂にも入れてもらえず酷い加齢臭を放ち、何もかもぐちゃぐちゃ、情けなく惨めな姿の父が半泣きで頭を下げながら言う。そう、まるで「可哀想な象」のように。

「頼む、頼む、家に帰してくれ。もう嫌だ、ここは嫌だ。1日も嫌だ。あと1回も蹴られるのは嫌だ。誰にもいじめられないように、家に逃げて帰りたい」

 それを聞いて、私も昔まったく同じ事を父に言った事を思い出す。

 光の園でリンチされ、ここは嫌だ、あと1日も嫌だ、あと1回も殴られるのは嫌だ、誰にもいじめられないように家に逃げて帰りたいと訴えた。

 髪を短く刈られ、顔も体も痣だらけ、惨めな姿の私の訴えを父は退けた。お前が家族に暴力を振るった報いが来ている。あと1年は辛抱しろと。

 …いっそ、同じ事を父に言ってやりたかった。

 あなたも家族に暴力を振るった。私を施設に放り込み、中でリンチされているから助けてくれと頭を下げて訴えても突っぱねた。その報いが今来ているのではないのか?まして股間を掻いた手で顔を触られたら怒るのも分かる。排泄も入浴も自分では出来ないし食事も通常食は食べられない。通常食を食べたいとあなたは言うが、食べたら誤嚥して死んでしまう。

 私も忙しい身、毎日3食、ペースト食を作れない。毎日風呂を沸かしてあなたを抱えて入浴させる事も出来ない。四つん這いになっても、と言うが、右半身不随のあなたは、四つん這いにさえなれない。自分の事を自分で出来ない。そして過活動膀胱ゆえに10分おきにトイレに連れて行けというあなたの面倒を見きれない。介護虐待したくない。

 そう、家族があなたに暴力を振るう訳にいかないから、代わりに施設職員が、介護と暴力を「ワンセット」で行なってくれているんですよ。

 ただお父さん、娘にやられるより良かったでしょう?

 人に暴力振るわれるとつらいでしょう?

 へこむでしょう?

 私もあなたやお母さんに殴られるたびにへこんでいましたし、本当につらかったんですよ。


 言いたい放題の父母に育てられた私は、確かに若い時は人に言いたい放題だった。

 だが母の死後、自制するようになった。言ってはいけない。何でも言えば良いというものではない。ぐっと、堪える。


 その時私に出来たのは、施設長に掛け合う事だった。

 複数の女性職員が父を蹴るようになった。父が失礼な事をしたならば、私が父に代わりその人に謝罪をさせていただく。父は右半身不随で逃げる事も抵抗する事も出来ない。そんな弱い父を蹴るのはどうか容赦して欲しい。

 施設長は「犯人を捜す」と言ってくれたが、私は誰が犯人でもいいのでとにかく蹴るのだけはやめてくれ、ただその人にも生活があるだろうから解雇処分はしないでくれと訴えた。

 次に見舞いに行った時、父に訊ねた。

「最近どう?まだ蹴る人いる?」

 父は言った。

「そう言えば最近は蹴られなくなった。それでも帰りたい。四つん這いになっても家に帰りたい。帰ったら固いご飯食べたい」

 蹴られなくなったんだと、少しほっとする。そして父はリンチに悩む私を放置した事を思い出す。

 父は光の園側に掛け合い、リンチをやめるよう言ってはくれず放置した。父は助けを求める私の手を振り払い、「悪くした」が、私はその父に手を差し伸べ「良くして」いる。

 だが加山さんやヨウコや小椋さんを始めとする友達に、私は「悪くしてしまった」のに、友達は「良くしてくれた」のだ。何か、巡りあわせを感じる。

 ブラック会社、というのがあるが、父が居たのはブラック施設だった。ただそのブラック施設で、父は大きな業を落としたような気もする。

 これも「巡りあわせ」なのだろうか。


 その後、父は別の老人ホームに移った。新しい施設では虐待もなく、何とかなっている。相変わらず

「帰せ」

と言い続けるが。

「少しでも何か言うとすぐ報復される。ご飯だってみんな普通のご飯なのに、俺だけペースト食で。お前が職員に何か言ったんだろう。お前のせいで俺は意地悪されている」

とも言った。脳梗塞だから誤嚥を防ぐ為にペースト食しか食べられないのだと、どうしても父は理解しないし出来ない。

 そう言えば50年ほど前にもまったく同じ事を言っていたね、私が喘息の治療の為に行った病院であまりにも待たされ、文句を言った途端に診てもらえ、次にその病院に行ったあなたが物凄く待たされた時に

「お前が文句言うから俺は今日凄い待たされた。お前のせいで俺は意地悪されている」

と。あの日の父の声が蘇る。

 お父さん、成長しようね。


 もうひとつ、何年か前に膝に人工関節を入れる手術をした事がある。この時父はこう言った。

「なんか、カタワになっちゃったみたい」

 …せっかく手術したのに、その言い草は何だと腹がたった。外から見る分には何も変わらないし、痛みも消え、不自由なく歩けるようになったのだから、それを喜べばいいものを、と言いたかった。

 ただ、神様がその言葉を聞き、父を右半身不随にし、本当にカタワにしたのだろうかという気もする。

 お父さん、言葉に気を付けようね。私は子宮を取ろうが、卵巣を取ろうが、自分をカタワなんて思わないよ。むしろ良くなったと思っているよ。


 私は常々、あらゆる事はプラスマイナスゼロで釣り合いが取れていると思っている。もうひとつ、強く願った事は必ず叶うという事も。

 幼少期に強く願った事を、神様は今、叶えてくれている。優しく穏やかな人と静かに暮らしたい、という願いを。

 そう、父と母は猛り狂うような日常と修羅場を姉と私に与えた。私は静かに暮らしたかったのに。

 夫は仕事が多忙であまり旅行等は行けないが、毎日の生活の中で小さなプレゼントをしてくれる。

 それは「有難う」という言葉だったり、いたわってくれたり、嫌な顔ひとつせずに家事や育児を手伝ってくれる事だ。

 息子が小さい頃、絵本の読み聞かせをしてくれた。決してうまくはないが、愛情のこもった読み聞かせだった。また、おむつ替えやミルクも頼まなくてもやってくれた。

 何より、私の仕事がうまくいっている時も、うまくいかず悩んでいる時も、何も言わずに支えてくれた。私が自力で乗り越えるのを黙って見守り、待ってくれた。

 父と母は、不要な物は買い与えてくれたし(ランドセル等必要な物は買ってくれなかったが)、旅行もたくさん連れて行ってくれたが、肝心の愛情がまったくなかった。まだ小学生(つまり義務教育)の私に、誰のお陰で学校に行けるかと恩着せがましく言い続けた。

 夫は特に物は買わないし旅行も何年かに一度だが、日々愛情を持って私や息子に接してくれ、気持ち良く養ってくれる。誰のお陰で生活出来るかなど、一度も言われた事はないし、喧嘩らしい喧嘩もした事はない。私が本当に望んでいたのはそれだった。

 また、父母は私が幼い頃から家事をさせ、幼稚園の上履きも必ず自分で洗えと命じた。手も荒れたし面倒で嫌だったが、お陰で自立心が付いたし、何より自分の撒いた種は自分で刈り取れる心構えもついた。

 そして父母は、親は子を養ってやっているのだから子は親の言う事を聞き、100%従って当たり前、と言い続けたが、私はそうは思わない。

 子は親の言う事を聞かなくて当たり前だ。まったく別人格なのだから。考え方も価値観も違って当然だ。だからこそアイデアを出して選択をさせる。

 父母はそれこそ今さえしのげれば、私さえいなくなれば、という考えから私を施設に監禁したが、長い目で見れば絶対にそんな事は出来なかった筈。

「今さえしのげれば」ではなく、「どうして欲しいか」聞くべきだった。だからこそ私は家族に希望を聞く。


 私は親が子どもを可愛いと思う理由が分かる。それは、我が子が自分の好きな人に似ているからだ。

 そして親が我が子を虐待する理由も分かる。それは、自分の嫌いな人(夫や妻)に似ているからだ。

 だから父と母は「父にそっくりで、母にそっくりな私」が憎かったのだろう。

 虐待により幼い子どもが命を落としたと聞くと心が痛む。つらかったろうと、その子の魂に手を合わせる。

 だがその子の使命は「親の体罰を禁じる法案」を国会で成立させる事だったのだろうかとも思う。


 そう言えば独身の時、友達がどんどん結婚していくのを見てこう思った。

「どうして私にはそういう幸せが来ないんだろう」

 離れていく友達が増えるほどに、さびしかった。


 不倫相手に不実な事をされてもこう思った。

「愛人なんて立場に立っている私はこんな目に遭って当然だ」


 街で小さな子を見てこう思った。

「子どもを生むなんて、私には許されない事なのかな。散々悪い事をしたのだから」


 家族連れを見ても同じ事を思った。

「陽だまりみたいだな。私は決してそこに入っていけないのかな」

 何となく、自分には普通の幸せは来ないような気がしていた。

 ただこうも思った。

「私が結婚するのにふさわしい人になれば、神様はいちばん良い人に会わせてくれるかな」

 そしてその予感は当たった。


「取引先の会社の人が来るから駅まで迎えに行って」

 上司に告げられた私は、言われるままに駅に向かった。


 改札前に横向きで佇む彼を見た瞬間、私は「ああ、この人だ」と思った。まったくの初対面で、言葉も交わさず、ただ姿を見ただけだったのにもかかわらず。

 彼のもとに歩いていくその何秒間の間、周囲の音が消えた。

 音のない世界を私はゆっくり進んだ。

 見える映像はスローモーションになった。

 私はこの人と結婚するために、今までの恋人とうまくいかなかったのだ。

 私はこの人と望んだ以上の幸せな結婚生活を送り、この人にそっくりな男の子を生み、この人の両親とも仲良くやっていける。

 待ち焦がれた人生が今、幕を開けたんだと確信した。

 そして彼の前に立ち、笑顔を交わし合った時、音が戻ってきた。これも、不思議だった。

 私はこの時の事を生涯忘れないだろう。

 人は死ぬ前に、自分の人生を走馬灯のように思い出すというが、私はこの映像を間違いなく見るのだろう。


 私はみんなに祝福されて結婚した。

 人は結婚するから幸せになるのではない。その人と一緒にいて幸せだから結婚するのだ。

 良い結婚はこの世の天国、そして結婚式は夢の舞台だと心底実感した。

 出来ればもう少し若い時に花嫁衣裳を纏いたかったが、それでは相手が夫ではなかったろうから、ここまでの幸せや感動を実感できなかったろう。

 私は夫でなければ絶対に結婚しなかった。

 だから40歳のその時が最高の適齢期だった。


 新婚の頃、会社から帰宅する際に心が弾んだ。

「ああ幸せだ。待っていてくれる人がいるから」

 誰も待っていないアパートにひとりで帰る虚しさを、何年も経験したおかげだった。


 妊娠していると分かった時にこう思った。

「ああ幸せだ。育児が出来るようになったと神様が言ってくれているんだ」


 子どもを生んだ時にこう思った。

「ああ幸せだ。赤ちゃんを生ませてもらえた」

 面倒を見ているという感覚はない。

「育てさせてもらっている」という感覚はあるが。

 息子は我ままな私に色々な事を教えてくれる「先生」だ。神様が最高の先生をつかわしてくれた。


 私は色々な仕事を経験させてもらったが、育児以上に勉強になる仕事はない気がする。

 そう、子どもは育てた通りに育つのだから。

 私は息子に生まれた時から言い続けている。

「パパみたいな人になって。パパ素敵でしょう?パパそっくりになって」


 母は父の悪口を散々言った後、必ずこう言った。

「あんたは父さんそっくり!」

 父は何度も言った。

「お前さえいなければ」


 私は息子に繰り返して言う。

「生まれてきてくれて有難う。パパとママを選んでくれて有難う。君がいてくれて嬉しい」

 幼かった息子は笑顔でこう言ってくれた。

「僕が輪の真ん中に居て、たくさんのパパとママがぐるっと囲んでいたの。それでこのパパとママが良いって選んだんだよ」

 有難う、有難う、私と彼を選んでくれて、本当に有難う。


 母は私に何度も言った。

「あたしの人生の最大の失敗は、父さんと結婚した事と、父さんそっくりのあんたを生んだ事よ」


 私の人生の最良の出来事は、夫に出会えた事だ。おかげで夫の両親にも息子にも、ママ友達にも幼稚園や学校の先生にも会えた。

 そして私はこの生活が尊いから、純粋に、好きだから、たいせつだから、有り難いから、大事にするのだ。母は家族を粗末にし続けたが。


 息子が保育園に通っている時にこんな事を言われた。

「ママ、僕を好き?」

 きっと私が忙しくて苛立っているのを敏感に感じたのだろう。慌てて言った。

「好きだよ、大好きだよ」

 ほっとした顔をした息子が更にこう聞いた。

「ママはどうして僕を生んだの?」

 自信を持って即答した。

「ママはね、パパが大好きで、パパの子どもを是非生みたいって思ったの。パパの子どもを生まないなんてそんな勿体ない事は出来ないって思ったの」

 息子が嬉しそうに笑ってくれた。

 私もそう言われたかった。


 その頃息子はよくこう言ってくれた。

「僕、ママだあい好き!パパもだあい好き!」

 私は笑顔で答えた。

「有難う、ママも、パパと君が大好きだよ」

そう答えながら、かつて母にこう言われ、責め立てられて事を思い出す。

「父さんと母さんどっちが好き?」

 母はそう言って私が幽体離脱するまで追い詰めた。


 また息子はこうも言ってくれた。

「僕、大きくなったらママと結婚する」

「有難う、結婚しようね」

 私もかつて父にプロポーズをした。

 良いものも、悪いものも、必ず返って来る。

 なんて有り難いんだろう。


「もうねんねしよう」

そう言った私に息子が言った。

「ママ抱っこ」

 家事や仕事の準備で忙しく、ちらりと苛立ったがそれでも私はしゃがみこみ、息子をぎゅうっと抱きしめる。息子の満ち足りた顔が嬉しかった。

 私も幼い頃、母にそうして欲しかった。

 母は私を布団に向かって突き飛ばし、襖を閉め、開けられないように力づくで押さえていた。私の満たされない心は母に届かなかった。たまらなくさびしかった。

 だからこそ、私は息子を満たしたい。


 小さかった息子を連れて買い物に行ったり、歯医者に行ったり、そんな時にお店や病院の人が息子にこんな事を言う事が多かった。

「君のお母さん美人だねえ」

「こんな綺麗なお母さん、いないよ」

 それは私が幼い頃、母と共に出掛けた時によく言われた言葉だ。まったく同じ言葉を、世代がひとつ降りて再び聞くようになったのだ。勿論嬉しいし、鼻も高い。息子もにこにこしている。

 だがある時、家事と仕事で忙しくて苛立った私に息子がこう言った。

「僕にとってママが綺麗かどうか、どっちでも良いんだ。そりゃ汚いより綺麗な方が良いけど、それより僕に優しいか優しくないか、そっちの方が大事なんだ」

 ああ君は私より余程弁が立つねえ。私も小さい頃まったく同じ事をおばあちゃんに対して思っていたけど、うまく言葉にならなくて伝えられなかったんだよ。私の代わりに言ってくれて有難うねえ。


 息子について、不思議に思う事がある。

 それは良くも悪くも私に似ている事だ。親子とはこんなに似るのかと驚く。

 パッと見た感じは夫似だが、目、鼻、口、耳、と言ったパーツは私にそっくりだ。歯並びが悪く、下の歯が前に出ていて上の歯が後ろになっている。頭のつむじも二つある。そんな所まで似てしまった。おまけに私と同じ遠視で、右目の視力は良いが左が極端に悪い。

 父と母は私の目も歯も矯正しなかったが、私は長い将来を考え、小さいうちに矯正する方が良いと躊躇なく矯正を行なった。

 矯正歯科に行き、歯にワイヤーをかけ、眼科に行き、低視力の良い方の目にアイパッチという大きな絆創膏のようなものを貼って塞ぎ、強制的に左目を使って視力を上げるという方法を取った。

 毎朝ノルマのように息子の右目にアイパッチを貼り続けた。

「これ貼ってると、よく見えないからつまんない」

と息子は言ったが、私は剥がさなかった。お陰で左目の視力は随分上がったし、歯並びも綺麗になり、上の歯が前になった。お金も手間もかかったが、やって良かったと思っている。

 また息子は乗り物酔いが酷く、電車で出かけてもひと駅ずつ降りて酔いを癒し、それからでないと乗れない。車はもっと酔う。

 だが私も酔う子どもだった。父は理解してくれず

「そんなに酔うならお前を遊びに連れて行かない。遊びに連れて行って欲しければ酔うな」

と無理難題を言ったが、私は酔う息子を理解出来るし、全然嫌ではない。何時間でも待てるし、落ち着いていられる。

 そうしながらふと、父母が私にすべきだった事を、私がこの子にする。それが私の使命のひとつであり、この子の生まれた意味のひとつなのかも知れないと感じた。

 もうひとつ、母は私を宿した時にお腹の子は男の子だという予知夢を見たという。それは本来息子だったのだろう。

 だが神様が、母に息子を育てさせる訳にいかないと判断し、私と息子を急遽入れ替えたのかも知れない。いずれにせよ有り難い話だ。お陰で私は息子に会え、育てさせてもらえる事になったから。

 息子は父の色盲が隔世遺伝してしまい、色弱である。それさえ有り難い。色盲までいかず良かった。色は私が教えよう。この焼き肉は火が通っているよ、それはまだだよ、と。

 神様、息子の目を見える状態にしてくれた上で生まれさせてくれて有難うございました。


 もし神様が好きな時に戻してあげると言ってくれても、私はこのままでいいと答えるだろう。

 例え今の記憶を持ったまま20歳の時に戻してくれても、15歳の時に戻してくれても、3歳の時に戻してくれても、結果は同じという気がする。

 何故こんなにつらい事ばかりと思った事もあったが、すべて意味があった。

 あの経験があるから今がある。

 あの人に会ったからこそ、こんな学びを得た。

 あの仕事をしたからこそ、この仕事が有り難くてならない。

 あの職場で働いたからこそ、今なお付き合える友達が出来た。

 決して回り道をした訳でなく、必要だからその道を通った。だから、このままでいい。私はなんて恵まれているんだろうと嬉しくてたまらない。

 私はこの人生を選んで生まれ、たいせつに生きている。


 そう言えば、実家の片付けをしていて大量の写真が出てきた。母方の祖母の結婚式の写真や父の赤ん坊だった頃の写真まで出てきた。当然の事ながら、父にも赤ちゃんの時代があったのだ。

 そして、母の少女時代の写真を見た時に、あまりに姉の少女時代と生きうつしで驚いた。親子はここまで似るのかと、良くも悪くも見とれた。

 そして今の姉は、私を罵倒していた頃の母にそっくりだ。

 また、祖母をいじめた祖母の妹の写真もあった。私はその人に会った事はないが、ひと目でこの人が祖母をいじめた人だとはっきり分かってしまった。

 

 最近、夫現病ふげんびょうという言葉があるが、私は父現病ちちげんびょう姉現病あねげんびょうを患っている。二人の事を思うと胃が痛む。父はいつまでたっても大人げないし同じ事ばかり言うし、姉は姉で私を責めてばかりいる。

 施設で父にプリンを食べさせている時(自分では食べられない為)、少しでもこぼそうものなら

「こぼれているじゃない!」

と姉は声を荒げる。今拭こうと思っていたのに…。

 父の親指の爪が巻き爪になっているのを見て

「どうして気が付かないんですか?私が気付かなきゃ誰も気づかないんだから」

といきり立ち、私を延々と責めた。

「あなたの方が家がここから近いし、もっと来て下さいね。家が近いんだから」

と何度も言う。確かに父のいる施設から、姉の家は遠い。だが父が倒れた当初

「私の方が家が近いから」

と言って、私は頻繁に父の所へ通ったし、大量の洗濯物も持ち帰って洗い、次に見舞いに来る時に持参し、またたまっている洗濯物を、文句ひとつ言わずに引き受けた。

 つまりそれは私が自分から言う言葉であって、姉が言う言葉ではない。

 姉は「自分だけが正しい」という態度を崩さない。いつも私を責め、間違いを指摘し、改めるよう要求し、馬鹿にし続けている。誠に疲れる。子どもの頃からそうだが。

 私は姉に決して

「長女だから、あなたは親に学費をたくさん出してもらったから、あなたも親不幸したから、あなたは私ほど虐待されていないから」

などと決して言わないのに。

 姉現病はまだある。ある時、息子について

「どんな大学行くのかな。どんな仕事するのかな」

と言った私に姉はこう言った。

「そんな良い所に行ける訳ないでしょう」

 何故そんな事を言うのだろう、と不思議に思い

「先の事は分からないじゃない、どうしてそんな事言うの?」

と聞いた所、こんな答えが返って来て絶句した。

「じゃあご自分は、どこの学校出ました?」

 …それはそうだが、我が子の将来を楽しみにしない親はいない。相変わらず意地が悪いな。母と同様こちらのいちばん痛がる所を上手に突いてくる。常に私の上に立ちたがり、マウントを取ろうとしている。

 国立大学を出たこの人はこういう目に遭わないのだろう。私も親に迷惑をかけた娘だが、姉も私に負けないくらい暴言を吐き、迷惑をかけ、金をかけさせた娘だ。

 ましてや今年の母の命日に息子と3人で会った際

「あなたのお母さんは小さい頃から嘘つきでね。まことしやかに嘘つくのよ」

とせせら笑いながら言った。

 確かに私は嘘つきな子どもだったが、それは父母の体罰や罵詈雑言、追い出しや否定を免れる為、つまり自分を守る為に仕方なくそうしていたのだ。

「そんな事を聞いたら、この子は私がこれから言う事も全部嘘だと思うでしょう」

と反論した所、まるで囃し立てるように

「難しーい」

と言った。何て酷い事を言うんだろう。失言する方は悪くなく、それに苦情を言う方が悪く難しいなんて…。母そっくりな、この姉こそ目に見えぬカタワ者だと思った。  

 姉は自分が高校生の時、教師と恋愛沙汰を起こし、親に下手な嘘をついていた事も、小学生の時にスカートで昼寝をして陰部を父に見られ悔しがっていた事も忘れている。私がそれを一言も言わないのをいい事に。

 また、父に関する事を話した時だけはまともな返事が返ってくるが、仕事の悩みを話した時、姉は必ず黙り込み、返事をしなくなる。

 何故そう言う対応なのかと聞いた所、こんな答えが返って来た。

「そういう事は、何年も疎遠だった私ではなく、ご家族に相談したらいかがですか?父の事を念頭にしましょう」

 …これも絶句した。

 それ以降、私は息子の事も、仕事の事も、姉の前で一切口にしなくなった。

 そう、言ってもどうせ黙ってしまうか絶句させられるかどちらかだから。私は家族であって、家族でないという事か。

 私は母にも何度も絶句させられたが、姉にも絶句させられる。

 鉛筆の芯で刺されないだけましと言う所か。

 それとも「許すお稽古」なのか?


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