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箱の中のリトルガールズ  作者: おもながゆりこ
11/18

第十一話

 よし、働こうと思った。あたしにも出来そうな仕事といえば、喫茶店のウエイトレスだった。

 千葉駅まで行き、駅ビルの中にある明るめの喫茶店に「ホール従業員募集」という張り紙を見つけた。

 応募したら即日採用。嬉しかったね。従業員のみんなも、常連客も、マリちゃん、マリちゃん、と可愛がってくれたし。まあ若かったしね。

 高校に居場所はなかったけどここにはある。そう思えた。

 だが、そこで働く20歳のオネーサンが嫌だった。

 あたしが来るまでは、自分が最年少でみんなに可愛がられていたのが、あたしが来た途端にその座をあたしに奪われて、悔しかったのか嫉妬したのか何だか知らないけど、毎日毎日嫌味ばっかり言うんだよ。

「マリちゃんってどうして高校行かなかったの?」

だの

「高校くらい出ていないとね」

って。お客さんにまであたしが中卒だって言いふらすし。

 たまりかねてこっちも嫌味言ったよ。

「大学どこ出たんですか?」

 そしたらすっとぼけて

「あたし大学は行ってないよ。でもいいじゃない。ちゃんと高校卒業してるんだから」

だって。

 エラソーに学歴の話するなら、有名な大学出てからにしてくれよ。高卒のあんたに言われたかねーよ。

 その上そのオネーサン、チアキさんって言ったけど、店の備品や食材の配達で、あたしが業者さんへの支払いのお金を立て替え、領収書を見せながら

「立て替えたのでこの金額を下さい」

と「正当なお願い」をするたびにこう言った。

「ああ、このお金よこせってそう言うんでしょう」

 毎回、毎回、大声で、他の人に聞こえよがしにそう言った。だから立て替えするのは苦痛だったよ。

 ある時、配達の為にやむなく立て替えし、その領収書に「ああこのお金よこせってそういうんでしょうなんて言わないで下さいね」とメモを付けて渡した。口頭で言うより良いかと思ったんだけど、チアキさん過剰反応したよ。小学校で同じクラスだった河野さんみたいに。その金額を「叩きつけるようによこして」きた。

 …あっけに取られたさ。その上、その日一日憎悪にみなぎった目で睨んでくるし。あんたが悪いんだろ!暴言吐くのは悪くなくて、それをやめてくれと言ったこっちが悪いなんておかしーだろ!

 けど、それ以来チアキさんはあたしに立て替え金を黙って払ってくれるようになった。この人も河野さんと同じで反撃した途端にいじめて来なくなったなと学んだ。

 そしてチアキさんは、ある時遅番で来ていながら、早く帰ろうとしていた。早番のあたしが仕事を終えて制服から私服に着替え、帰ろうとした所でちょうど鉢合わせになっちまってさ。

 びっくりして

「あれ?チアキさん今日は遅番じゃなかったんですか?」

って聞いたら

「え…ええ…えええええ」

って訳の分からない返事をして帰っちまった。

 ありゃま、大人のくせにさぼってやんの。しどろもどろで見苦しいねえ。

 で、翌朝の事。あたし自分の交通費の件で本社にいる社長に電話を掛けたんだよ。話が済んで切ろうとしたら、社長がこう言ったの。

「チアキさんから電話もらえるように言ってくれる?」

 社長がチアキさんに何か用事あるんだろうと思って

「分かりました」

って答えて電話を切ったら、そこにちょうど中番のチアキさんが出勤してきてさ。

「チアキさん、社長に電話してください」

って言ったら、ギクッとしてやんの。

「どうして?」

って聞くから

「してみればいいじゃないですか」

って答え、仕事にかかったよ。

 チアキさんったら茫然としてやんの。自分がやましい事あるからって馬鹿じゃないの?

「あんた、若いくせに生意気ね」

だって。自分が悪い事して、ばれて逆切れしてんじゃねえよ。

 恐る恐る本社に電話して真っ青な顔で社長と喋ってるし。結局全然違う要件だったらしく、あたしがチアキさんがさぼって早く帰ったとか言いつけた訳じゃないって分かったらほっとしてやんの。大人げないねー。

 だがチアキさんは、よっぽどあたしが憎たらしかったみたいで、その日の売上金が合わないからってこう言った。

「マリちゃんじゃない?」

 慌てて言ったよ。

「違いますよ」

 そうしたら母さんみたいなしたり顔でまた言った。

「マリちゃんじゃない?だって高校中退してるんでしょ?」

 高校中退してたら、店の売り上げ金を盗むのかよ!冗談じゃない!

 結局、前日の伝票が一枚紛れ込んでいて、それを抜いたら金額合ったからあたしの無罪は証明されたけど、犯人扱いされた事には深く傷ついた。

 きっとこれからも、何か悪い事があるたびに

「マリちゃんじゃない?だって高校中退してるんでしょ?」

って言うつもりなんだろう。

 おまけに本社の人が来た時に、チアキさんあたしを指差しながらこう言った。

「ああこの人、結構厚かましい所あるようで」

 本社の人もびっくりしてたよ。何であたしが厚かましいんだよ!

 あたしはチアキさんが嫌でそこを辞めた。

 働くってこんなに大変なんだって学んだ。


 次に選んだのは、やはり千葉駅から近い喫茶店だった。

 しかしそこにも似たようなオネエチャンがいた。

「マリちゃんって、どうして高校行かなかったの?」

と何回も聞くんだよ。

 うっせーな。どうしてもそうせざるを得なかったからだよ。

 その人も、前の店のオネーサンそっくりで

「高校くらい出ていないとね」

とほざいた。

 もうひとつ、あたしは小学生以来の持病である喘息に悩まされていた。年中喉に絡む痰に咳ばらいをせざるを得なかった。

 そのオネエチャン、それも気に入らないらしくてこう言った。

「マリちゃんの咳払い、あたしたちはもう癖だって分かっているけど、お客さんが聞いたらどう思うかしらね」

 癖じゃねーよ。喘息って病気だよ。痰がからむからしょうがないんだよ。もう咳払いさえ出来ないのかい?なんてやりにくいオネエチャンだ!

 その上

「その髪、くせ毛?真っすぐにならない?」

とか

「ほくろ、多いね」

って直しようのない事までとやかく言うし。しかも同じ事を何回も。

 たまりかねて

「あたしの顔見るたびに、どうこう言うのもう嫌なんですけど、やめてくれませんか?」

って言っても

「でもあたしは来たお客さんの上から下まで見なさいって言われたわよ」

って憤然と言い返してくるし。その人だって、それをあえて口に出して指摘しろとは言わなかったと思うけどなあ。

「顔、剃ったね」

とか、そんな事まで言って来るし、もう黙っててくれよ!うるさいよ!

 その上そのオネエチャン、ヒサコさんっていったけど、自分がシフトを間違えたくせに、それをあたしのせいにしやがった。なんて人だ!

「ヒサコさん、あたしじゃないですよね?ヒサコさんですよね?」

って勇気を出して言ったあたしの話を「凄い遮り方」するし。

「あーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあー」

ってあたしの顔見ながら大声で言うんだよ。その「あーあー」であたしの声をかき消すの!酷いよもう!

 用事があって電話しても、話の最中にガチャ切りするし。どうせ、手が滑ったとか言い訳するんだろうけど。

 更にヒサコさんは、あたしに用事がある時に直接言わず、メモに書いてよこしてくるんだけど、そのメモの端っこに必ず「カス」って薄く書いてやんの。あたしをカスだと言いたいのか?もう嫌だよ、こんな変なねーちゃん。

 ある朝出勤したら従業員全員が一斉にあたしを変な目で見た。はて?なんじゃらほい?

 訳が分からんまま仕事したけど、みんながみんな、変な目で見続ける。

「どうしたんですか?」

と厨房の人に聞いたらこう言われた。

「マリちゃん、ヒサコさんの家に脅迫電話したんだって?今朝、ヒサコさん泣きながら言っていたよ」

 がーーーーーーーん!!!!だからみんなあたしを変な目で見るんだ!

「していませんよ」

と言ったが

「でもヒサコさん、そう言っていたよ」

と何回も言う。

 もーやだ。今度は濡れ衣かよ!あたしの言い分を聞いてくれる人はひとりもいなかった。

 悔しかったけど、もうここにあたしの居場所はない、と悟って辞めた。

 人間関係って大変だって学んだ。


 次に選んだのは、また千葉駅前の喫茶店だった。

 だが、またしても似たようなネエチャンがいた。

 もーおーお。前の二人とおんなじ事言うんだよ。

「どうして高校行かなかったの?」

だの

「高校くらい出ていないとね」

だの

「学校もろくに出ていないくせによくそんな平気な顔していられるね」

だのと。

 しばらく我慢してたけど、ある時もういい加減にしてくれと思って言ったよ。

「すごく失礼だよね。あたし高校中退した事を一度も後悔した事ないし、これからもしないと思う。だからもう高校くらい出ていないとねって言うのやめてくれる?」

 勇気がいったよ。何で返されるか分からないしね。

 けど、言って良かった。その人、ぴたっと言わなくなったし。前の二人にも、こう言えば良かったのかな。

 だけどそのネエチャン、サトコさんっていったけど、お客さんが店に入って来た時に従業員全員で

「いらっしゃいませ」

と言うんだけど、その時のあたしの声が小さい、小さいって言うんだよ。

「ほらもっと大きな声で言いなさいよ。ほらもっともっと大きな声で。でないとこの店の一員になれないよ」

だと。叫べってか?

 でね、開店前でお客さんが誰も居ない時の事。背中に何か冷たいものを急に入れられたんだよ。何だろうと思って取ったら、何と!死んだ魚だった。

 びっくりして悲鳴を上げたらサトコさんこう言った。

「ほら、大きな声出るじゃない。その調子でいらっしゃいませって言いなさいよ」

 他のみんなも失笑している。あたしをかばってくれる人も、サトコさんを咎める人もいなかった。酷いよ。こんなんいじめだよ!

 更にその日の夕方、サトコさんはみんなの前でこうのたまった。

「マリちゃん、マリちゃんに聞いても無駄だと思うけど、レジの日次と月次の集計の取り方って分かる?」

 さも馬鹿にしたような聞き方だった。ヘラヘラ笑ってるし。みんなも失笑している。

 確かに分からなかったが、その前に「教わってない」んだよ。それに何もみんなの前でそんな事言うなんて、と茫然としていたら、

「あ、やっぱ分かんないね」

ってニヤニヤしながら2回ウンウンって頷いた。

 これで黙って我慢したらいじめられると思った。だから勇気を出して言ったよ。

「サトコさん、サトコさんって本当に失礼な人だね。今朝も死んだ魚、あたしの背中に入れたし。酷いよね?」

 サトコさんの顔色がさっと変わる。みんなの顔色も変わる。サトコさんは慌てたように

「マリちゃん、伝票の…」

とあたしが絶対に分かるだろうと思う事を、わざわざ聞こうとした。あたしはそれを遮って言ったよ。

「聞いても無駄だと思うなら、最初から聞かなきゃいいよね?ってか、教わってないし」

 サトコさんも、みんなも、黙る。

 サトコさんは二度とあたしを馬鹿にしたような事を言わなくなった。

 けど、意地悪な事は言った。

「マリちゃんには悪いけど、あたしたちみんな時給が上がったのよ」

 悪いと思うなら最初から言うなってーの!耐えられなくて辞めた。

 仕事そのものより、人間関係が本当に大変だと学んだ。


 次に選んだのは、60歳くらいの女の人がひとりで切り盛りしている喫茶店だった。

 オーナーひとりって事は、嫌な先輩にいじめられなくて済むかなって思ったんだけど、決してそんな事はなかった。

 そのオーナーっちゅーのがスゲー曲者で、あたしの「名前を呼ばない」上に、言った事ややったことで気に食わない事を「カレンダーに書き留める」人だった。

 お客さんがみんな帰って洗い物をしている時に

「あなた、お客さんに出すミルクカップ、ある程度使い回して」

と言うので、もしかしてあたしが洗うの大変だろうと気づかってくれているのかと思い

「大丈夫ですよ。まめに洗いますから」

と答えたら、むっとしたように黙っちまった。

 でね、その店は厨房からフロアへ出る壁にカレンダーが貼ってあったんだけど(つまりお客さんからは死角になっていて見えないけど、あたしは必ず目に入るって訳)、そこに「まめに洗いますから。お客さん100人の時、ミルクカップ100個」って書いてやんの。

 …あたし、カレンダーを前に茫然としちまったよ。明らかにあたしに対するメッセージってか、嫌味ってか、不気味ってか、このオーナー異常じゃねーの?って思った。

 ただもしかしてあたしが悪いのかなって気もした。だからオーナーに言ったよ。

「済みません、あたしの言い方に問題があったようで…」

 オーナーは苦笑いしながら許してくれた。その日はもう月末であと何日か辛抱して次の月になればカレンダーめくれて、そのメッセージは見なくて済むようになるし我慢したよ。

 翌月になり新しい頁のカレンダーになり、ほっとしたのもつかの間、オーナーがお客さんと話している最中に電話がかかって来た。

 あたし、取り次ごうとして

「電話です」

って言ったら、それも気に入らなかったらしくてむっとしてた。次に見たらまたカレンダーに「話の最中に電話と」って書いてあった。

 あたしその時も呆然としたよ。確かに

「お話し中済みません」

って言えば良かったんだけど、何もカレンダーに書く事ないだろうって。

 でさ、1回目は我慢したけど、2回目はやっぱり嫌で、そのメッセージを消しちまったんだよ。幸い鉛筆で書いてあったから消しゴムでサラサラと。まだ月初でこれから1か月近くこれを見るのは耐えられないって思ったからさ。

 そしたらオーナー、カレンダーを睨みながら鬼のような形相していたよ。あんたが悪いんじゃん。

 で、また翌日の事、お客さんが店内に居なくて二人で掃除していたら、オーナーが外した腕時計がないないって騒ぎだしたんだよ。目の前のカウンターに置いてあるっつーに気が付かないんだよね。

「腕時計、そこにありますよ」

と言ったが

「え?どこ?どこ?」

ってキョロキョロしてる。オマエが自分で外して「置いた」んだろ!「老いた」ババアめ!って駄洒落じゃないよ。あまりに分かっていないからついイライラしちまい

「目の前にあります」

って言っちまった。言っちゃってからイカン!って思ったんだけど、時すでに遅しで

「目の前にありますとは何ですか!」

って怒り心頭してやんの。それはあたしが悪いから

「済みません、済みません、済みませんでした」

って必死に謝ったんだけど、ババアの怒りは止まらなかった。

 で、次にカレンダー見たら「目の前にあります」ってやっぱり書いてあった。今度は消せないようにマジックで黒々と。

 何となく、昔母さんが父さんがお酒を飲んで帰ってくるたびに「父さん飲んだ日」ってカレンダーに書いてた事を彷彿させる出来事だった。

 更に翌日、嫌な気持ちと長続きしない予感を抱えながら出勤したよ。

 ひとりしかいないお客さんとオーナーが話し込んでいるから、洗い場をひとりで磨いていた。聞くともなしに聞いていたら、オーナーとお客さんがこんな会話していた。

「年は取りたくないねえ。目に来て、歯に来て、耳に来て、頭に来て」

「ほんと、ほんと」

 …なんのこっちゃい?分かんねーよ、何が目に来て歯に来て耳に来て頭に来るんだい?

「光陰矢の如しね、あたしなんてついこの前成人式だったのに」

「ほんと」

 バアサンたちの会話だねえ、と思っていたら

「ちょっと、あなた」

ってオーナーの声がする。だけどそのお客さんに言っているのかと思って、背を向けたまま洗い場を磨き続けていた。

「ちょっと、あなた、聞こえないのかしら、あなた!あなた!」

と声を荒げる。そこでようやくあたしを呼んでいるんだと気付いて

「はい、何か」

と振り返ったら、わざとらしく目をまん丸くして

「何回呼んでも聞こえないなんて、あなた頭がおかしいの?」

とそのお客さんの前で言われた。

 …だったら「名前呼んで」くれよ。「あなた呼ばわり」ばっかりして、分からないよ。

「お客さんと話しているのかと思ったんですけど」

と答えたら

「あなたよ、あなた。こんなに近くで呼んでも聞こえないなんて」

と、異常者を見る目で言う。母さんそっくり!

 そのお客さんでさえオーナーに対して呆れた顔をして、こう口添えしてくれた。

「名前呼んでくれたらいいのにねえ。分からないよねえ」

 あたしはその言葉に頷いたよ。オーナーは相変わらず変な目で見続けていたけど。

 で、次にカレンダーみたら「いくら呼んでも無視」って書いてあった。もう限界だった。

 このオーナーやっぱり変な人だわ。そのうち出刃包丁でも持って追いかけて来るんじゃねーの?って思ったら、恐ろしくて働き続ける気にはならなかった。

「辞めさせて下さい」

って言ったら

「あなたはやっぱりそういう人ね。拾ってやったのに、恩を仇で返すのね」

だって。

 あたしの次にここで働く人が可哀想だから思い切って言ったよ。

「気に入らなかった事をカレンダーに書くのはやめた方がいいですよ」

 そして黙ってドアを開けて出て行った。なんか助かったような気がしたさ。

 年を取った人が大人になっているとは限らない、と学んだ。


 その頃、急に右手の甲が痒くなった。

 尋常じゃないかゆみでいつもボリボリ掻いていた。

 かさぶたが出来、無理にはがしたら、何と!真ん丸いいぼになっちまった!

 加山さんを、いぼいぼっていじめたのが返って来たような気がした。


 次も千葉駅前の喫茶店を選んだ。喫茶店なんて、いくらでもあると思った。

 ただそこは、常連客で嫌なオヤジがいてさ。

「スカート長いね」

だの

「化粧が濃いよ」

だの、うるさいっつーの!こういう人を女の腐った男って言うんだなと思った。

「甘ったれるのもいい加減にしろ、男だったら殴っている」

とも言ったし。

「あたしがいつ甘えました?」

と聞いたら

「生き方そのものが甘ったれてるんだよ!」

だって。誰もかばってくれないし。

「そんなにあたしを嫌いなら、ここに来なきゃいいじゃないですか」

と言ったら

「何だよ、儲けさしてやってんじゃん」

だって。儲かったなんて思わないよ。

 右手のいぼを気にしていつもバンドエイドを貼って隠していたら

「何でいつもそこに、ばんそこう貼ってるんだよ!」

とか余計な事言うし。どうしてもそうせざるを得ないからだっつーの!

 ある時バンドエイド貼るの忘れて仕事に行った時の事、利き手だし注文伝票を書くのに右手を出さない訳にいかない。

 気にしながら伝票書いていたら、さっと目をそらして見ない振りしてくれる人もいたけど(ああマリちゃんはいぼを隠すためにいつもバンドエイド貼ってるんだなと、気持ちを汲んでくれたんだろうね)、その人は目ざとく見つけてこう言った。

「何、そのブクブク。いぼ?いぼじゃん!いぼ!」

 ただでさえ気にしているのに、傷ついているのに。ああ加山さんもこんな気持ちだったんだなと、改めて悪かったと思ったよ。

 それからもその客、あたしの顔見るたびに

「よう!いぼ!」

ってせせら笑いながら言った。この人の手にいぼは出来ないんだろうなあ、と悔しかった。

「お前の欠点、全部言ってやる!」

とも言ったし。で、甘ったれだのいい加減だの、化粧が濃いの、手が荒れている上にいぼがあるだの、しつこく言ってさ。

「俺、あんた見てるとスゲー傷ついた過去あんじゃねえかって気がする」

とまで言いやがった。みんなもあたしを変な目で見るし。そんな事言って何になるんだよ。恥ばっかりかかせて、うるさいよ、もう。

 だったら

「あなたの長所全部言ってあげるね」

とか言って褒めてくれる方がずっとお互い気分も良いし、やる気も出るけどさ。

 パチンコの景品でもらったのか何か知らないけど、いかにも安そうなネックレスよこしてきて、そんな安物付けたら金属アレルギー起こしそうだし、付けたら付けたで何時にどこに来いとか言うんだろうし、着けなかったら

「ネックレス、どうしてしないの?」

って毎日来て、毎日聞くし。よく騒ぐねえ。

 うるさいからしまいに突っ返したわ!不満満タン!って顔してた。

 ある時、変な風が来るなと思ったら、その人が口を尖らせてあたしの耳をめがけてフーッ、フーッて息を吹きかけているし。

 変態か!そうすればあたしが急に変な気起こしてラブホでも行くとでも思ったのかね!

 その上急激に痩せたから何だろう、腹でも壊したかいな?と思えば

「君との来たるべき時に備えて15キロ痩せたよ」

だと!冗談じゃないよ!

 あたし、そのお客が嫌でそこを辞めた。

 一緒に働く人だけでなく、お客が耐えられない場合もあるって学んだ。


 次に面接したのは、クラシック音楽を流し続ける喫茶店だった。

 クラシック曲が流れてるって事は、みんな穏やかかなと思ったけどとんでもなくて、面接官が明らかに変なおばさんだった。

 顔の造作がどうって言うより、やってきた事とやられてきた事がそのまま表情に出てるってーか、なんてーか、酷い騙し方と騙され方をしてきましたって顔なんだよ。開口いちばんこうのたまうし。

「あなた、子どもをおろした事あるでしょ」

 …何言ってんの?このおばさん。頭おかしいんじゃねーの?って思った。

「ありません」

って答えたら

「じゃああなたのお母さんは?お母さんある筈よ」

と言う。って事は、あたしに水子のきょうだいがいるって事だし、父さんが妊娠した母さんに子どもをおろせと言う人だって事じゃん。

「ありません」

と答えたら

「じゃああなたのおばあちゃんは?おばあちゃんある筈よ」

と食い下がって来る。

「そこまでさかのぼったら分かりませんけど」

と答えたら、意気盛んに言う。

「それよ、それ!親子は一体だから」

だと。親子って…祖母と孫だろーが!それに祖母はおろしたなんて一言も言ってねーよ!

 面接に一切関係ないし、誰にでも当てはまる事をわざわざ言って、もしあたしに本当にそういう過去があったらドキッとするだろうから、その顔を見たかったんだろうし、それで自分を超能力者みたいに凄い人って思わせたかったんだろうし、それより何より、初対面でここまで侮辱するって事は、働こうもんならどんなにいじめられるか分かったもんじゃない。

 このおばさんこそ10回くらい子どもおろしたんじゃねーの?自分の不幸を人になすりつけるんじゃねーよ!こっちから蹴ったる、こんな変な所。

「働けません」

と言ってそのまま出て行った。

 世の中には色々なキチガイがいると学んだ。


 その日の帰り、電車内での事。

 隣の車両から中学生くらいの男の子が急に入って来た。

 …と思ったら、震える小声でこうのたまう。

「いちばん、タムラアキヒロ、歌います」

 そして調子っぱずれな歌をうたい始める。向こうの車両では、同じ制服を着た数人の男の子たちが嗤って見ている。歌っているタムラ君は、明らかにいじめられている。

 何とかしてやりたかったが、あたしもどうすればいいか分かんねーし、周囲の人も困惑しながら無視している。

 タムラアキヒロ君は、恥ずかしさのあまり、耳どころか首まで真っ赤になり、涙をポタポタこぼしながら去って行った。

 ああ、タムラ君。そんな悪い友達とは縁を切りなよ。


 さて、次に選んだ仕事はスナックだった。あたしもついに水商売かいなってドキドキした。

 なんてーか、母さんがあまりにも水商売やるようになる、なる、なるなるなるって言ったので、そうなったのかなって気もしたよ。人のせいにしちゃいけないけどね。

 だけど酔っぱらいのオヤジとチークダンス踊るのが嫌で、一日で辞めた。隣りに座ったら座ったで、嫌らしい手付きで太ももを何回も撫でるし。冗談じゃないよ!父さんみたい!

 水商売も楽じゃないと学んだ。


 次に選んだのはカウンターバーだった。カウンター越しだったので、お客に触れられる不快さがない。

 あたしは潔癖症までいくかどうか分からないけど、汚いのはとにかく嫌いだった。だが、アブラギッシュなオヤジが自分の飲みかけのグラスを

「飲め」

と差し出してくるのは耐えられなかったし、何を話せばいいか分かんないし困ったさ。

 お客ってだいたいおんなじ事しか聞いて来ないんだよね。

 名前聞く前に年幾つ?って聞いてくるの。で、18歳(ふたつ上に言ったさ)って言えば、昭和何年生まれ?干支は何?って根掘り葉掘り聞いてきて、本当の事言ってんのかどうかいちいち確かめようとするし、どこで生まれたのかって聞いてきて、福岡って言えば必ず九州の?って聞くし、そうって言えば、そこ何があるでしょ、何が名物だよね、とかさも知ってるって顔で聞くし、もううるさいよ。

 今どこに住んでるの?ってのも必ず聞いてくるしさ。答えたくないよ、成田までついて来られたら嫌だし。

 あとタレントの誰それに似てるね、とかさ。

 それだけならまだいいんだけど、中には

「俺の事好き?」

と真顔で聞いてくる客もいたし。…嫌いとも言えず、黙っちまったよ。そのお客さん、じいっとあたしの顔色見てた。よっぽどさびしくて不幸で愛情に飢えているんだろうねえ。妻子にも相手にされず、会社でも誰にも相手にされないんだろう。でも好きじゃねーものは好きじゃねーよ。何て答えればいいか本当に分からず、絶句するしかなかった。

 こっちが居たたまれなくて辞めたさ。

 水商売はれっきとした「接客業」だと学んだ。


 次に選んだのは、クラブだった。高級っぽくて緊張したよ。営業は夜中の2時までだけど、電車に間に合わないからあたしだけ11時半にあげてもらう特別待遇だった。その点はありがてーな、と思った。

 しかし、やはり客と何を話せばいいか分からなかった。

 …その店でこんな思い出がある。

 会社員風の男性客3人が来店し「席に着いた途端」に、そのうちのひとりがあたしに向かってこう声を荒げた。

「ねえ、あなた。お父さん何やってる人?」

 最初から怒り口調で、喧嘩腰だった。

「会社員です」

と答えたあたしに、その人は更に語気を強めて言った。

「どういう関係?」

「航空会社です」

 水割りを用意しながら答える。

 急に、その人の顔色が変わる。

「どこ?…」

「JELです」

 その人のこめかみに、サッと怒りが走る。

「うっそおお!じゃあその娘が何でこんな所にいるんだよ!」

 それは答えようがなかった。あたしは「聞かれたから本当の事を答えただけ」だった。

「絶対に信じない!」

と言いながら、その人はあたしを憎悪に満ちた目で睨みつけている。

 ああ、ここにもあたしを罵倒する人がいる。ここにも人の職業しか見ない、母さんみたいな人がいる。

 あたしは作った水割りを、3人の前にポンポンと置き、こう言った。

「お客さん、あたしの事、気に入らないみたいだから、ほかの子に代わりますね」

 そしてさっさと店長の所へ行き

「すいません、はずされちゃいました」

と言った。

 店長は不思議そうに言ったよ。

「え、どうして?」

「父親の職業を聞かれて、正直に言ったら嘘つき呼ばわりされて睨まれました」

って答えたら、

「お前のお父さんって何やってる人?」

と聞いてくる。

「会社員です」

「どういう関係?」

「航空会社」

「…どこ?」

「JELです」

「えーっ、そうなの?お前のお父さんってJELなの?」

 店長も、そのお客と同じ、信じられないって顔をしていた。

 あたしは思ったよ。ああ、この人もみんなと同じだ。もうめんどくさいから、今度から父親の職業聞かれたら、大工とか何とか言おうかなって。でもあたし、大工って、どんなんか全然知らないんだよな。大工を見下す気はないけど。

 本当の事を言えばいいってもんじゃないと学んだ。


 次は別のクラブを選んだ。クラブもいくらでもあると思った。今まで学んだ事を多少なりとも活かせればって気もしてた。

 その店ではこんな思い出がある。

 初めて付いたお客が、あたしをちらりと見て、気に入ったのか何だか知らないけど、したり顔でこう言った。

「俺はマサコの客だ。嘘だと思うなら支配人にでも誰にでも聞いてみればいい」

 誰も嘘だなんて言っていないし、思ってもいないのに、何このオヤジ、馬鹿じゃん?って思ったら更にこう言う。

「その俺をマサコから奪いたければ、店がはねた後、俺に付き合うがいい」

 …返事のしようがなかった。要はエッチをさせろ、という事なんだろう。

 だけど「落とした女」に金をかけて通うお客がいるとは思えないし、何の魅力もないオヤジだし、変な噂広がったら困るし、嫌なものは嫌だった。

 それにあたしは別にマサコさんからその人を奪いたいとも何とも思っていないし、口説くならもうちょっとマシな口説き方あるだろう。

「どうする、お前の心ひとつで俺はマサコからお前に乗り換えてやってもいいと思っているぞ。今日マサコは休みだし、チャンスだぞ」

 …どうするもこうするもなかろう。なんちゅう上から目線!電車じゃあるまいし「乗り換える」とは、なんちゅう言い草!チャンスともなんとも思わないよ、テメエみてえな何の魅力もないオヤジと寝たがる女なんていねーよ!!何て変なオヤジだろう、何てねじ曲がった人だろう、この人物凄く不幸な人なんじゃねーの?って思っていたら、駄目だと思ったのか何だか知らないけど、急に怒り出して

「あっち行け!」

と、まるで犬でも追っ払うかのように、シッシッてやりやがった。

 何がシッシッだよ!犬じゃねえよ!あんたにプライドあるように、こっちにだって少しはプライドあんだよ!

 ただ、昔、クラスの友達で体臭のきつい里中さんって子にしっしってやったのが返ってきたような気もした。

 すぐ離れたら、支配人を呼び、あたしを二度と付けるなだの、すぐ首にしろだのと、聞こえよがしに言っている。

 あーあー、そうかよ!こっちから辞めてやるよ!こんな不愉快な仕事!

 切り返す能力を身につけなくては、と学んだ。


 次も別のクラブを選んだ。だがそこではこんな思い出がある。

 付いた客が、自分の女房がいかにお嬢様育ちか、得々と自慢するんだよ。そんなお嬢様を妻に出来た自分こそ甲斐性があると言わんばかりにね。どこの大学出ているとか、親の職業が立派とか、難しい漢字読めるとか、反物巻けるとか。

 で、一応こっちも感心したような顔で聞いていたんだけど、急にあたしに向かってこう言いやがった。

「あなた、どこの大学出たの?」

「…大学は行っていませんけど」

って、答えた。高校も行っていませんと言おうもんならどんな目に遭わされるんだろうと思いつつ。

 そしたらその人さも馬鹿にしたように

「だろうね、だったらこんな所で働いている訳ないもんね」

だとよ。

 返事のしようがなくて黙っていたら、急にコースターの裏に何だか難しい漢字書いて

「これ、なんて読むか分かる?」

だって。読めねーよ。首を傾げたら

「だろうね。あなたどうせ高校もろくな所行かなかったんだろうしね」

だって。

 その通りだから答えようがなかった。

「あなた、反物巻ける?」

だって。

「巻けません」

と答えたら

「だろうね。そうだろうね」

だって。

 居たたまれなくなって

「もっと頭の良い子に代わりますね」

って言って席を離れた。

 そのお客さん凄い目で睨んでいたよ。

 知らないよ、もう。反物なんて巻けなくたって負けないよって駄洒落じゃないよ。漢字読めなくても感じが良ければいいんだよ、あれ?親父ギャグ。

 ママはママで

「あなた、頭、悪過ぎるのよ」

って言うし。

 その席って言うより、その店に居たたまれなくて一日で辞めた。

 無知ってこんなにつらいんだって学んだ。 


 あたし、自分は水商売って無理だと思った。

 母さんはホステスなんて誰でも出来る、馬鹿の代名詞みたいな職業と思い込んでいる。

 もうひとつ!母さんはホステス=売春って思っている!

 あほか!全然そんな事ないよ。接客技術も、話術も、気配りも必要だし、馬鹿話だけでなく、経済やら何やら、色々な事に精通していないと話題についていけないし、客の名前も勤め先の会社名も覚えなきゃだし、馬鹿には務まらないよ。

 売れているホステスって、毎日必ず新聞を隅から隅まで読んで、どんな客のどんな話題でも上手についてっていたし、1回付いたお客の名前も会社名も役職も前回どんな会話したかもばっちり頭に入っていたしね。

 あたしなんて、どのお客もみんな同じオヤジに見えて(ホント!)、名前も何も覚えらんなくて、いつも名前呼ばずにごまかしながら接客してた。ああ無理だって思いながら。

 給料だって、世間の人が思っているほど高くないしさ。時給は良くても、拘束時間が短いからあんまし稼げない。

 それに同じ時間働くにしても、昼間と夜じゃ、疲れ方が全然違うんだよ。

「楽して稼ぐ事を覚えたら、もう普通の仕事は出来ない」

とか説教たれてくるお客もいたけど、全然楽じゃないよ!むしろ苦労してるよ!胃に穴が開くほど気を遣うし、緊張だってするよ!

 馬鹿にするな!ちきしょおおお!!


 次に選んだのはレストランだった。

 メニューが多く、セットで何が付くだの、ソースは何を選ぶのと、覚える事が多くて久しぶりに脳をフル回転させたぜ。

 ランチタイムは戦争みたいになるし、重いものを運ぶから体はきついけど、ホステスやってお客と苦手な会話したり、嘘つき呼ばわりされて責め立てられるよりいいや、と頑張れた。

 そこはそんなに嫌じゃなかったよ。あたしゃ喜々として働いていた。給料日を待ちわびながらね。


 だが父さんは言った。

「お前、学校に戻る気はないか?」

 ある訳ねーだろ!

「退校になるぞ!退校に!」

 そうなりてーんだよ、分かってねーな。バカジジイ!

「誰のお陰で生活してる?誰のお陰でこの家に住める?」

とも言っていた。

 あははははははははは。さすがに

「誰のお陰で学校行ってる?」

とは言えなくなったね!

「それでも育ててもらった恩は残るんだから!」

とは言っていたけどね。

 いくつになっても「家族を養う」ってー覚悟は出来ないんだねえ。自分の稼いだ金を家族の為に使うのがとことん嫌で、見返りばっかり期待するんだねえ。

 母さんは、あたしに家事を頼まなくなった。ラッキー!ってなもんよ。頼まれたってやらないけど。

 だが、口を開けば嫌味を言った。

「あんた、あんまり顔がしわだらけでびっくりした!たばこ吸うからよ」

だの

「その店は、昼間は喫茶店でも、夜はスナックになるんでしょう?そうなんでしょう?」

だの。

「その店は夜の何時まで営業しているの?」

と聞くから

「10時まで」

と正直に答えれば

「ああ、バーね」

と、したり顔で言うし。

 まったく、ウルセーよ。バカババア!顔がしわだらけと言えば、あたしがたばこやめるとでも思ってんのかよ!鏡をよくよく見たけど、あたしゃしわなんかねーよ!お前と一緒にするな!

 ああ、バーね、なんて、そんなにあたしに水商売して欲しいのかよ!そうあって欲しくないならわざわざ言うなよ、聞かされるこっちの身になれよ。

 いつもいつも「そうなって欲しくない状態」に言葉を重ねるなよ。そうなったらどうすんだよ。

 だいたい夜の10時に閉まるバーなんて聞いた事ねーよ!水商売を売春と間違え続けてるし。あれはれっきとした接客業であって、客といちいち寝る訳じゃないんだよ。それをまるで分かっていないアホ面母さん。

 前にあたしの働いている喫茶店に来て、窓から中を覗き込んでキョロキョロ見回してやがった事あるし、夜は飲み屋になるのかどうか見たかったんだろうけど。   

 で、中にいたあたしと目が合うと、急に知らん顔して立ち去るし、ホントあほ!

「早く働いて好きな物好きなだけ買いなさい」

って言ったのだってどうせ忘れてるんだろうし。

 仮に思い出させてやっても

「誰が中卒で働けって言ったの?」

って憤然と切り返してくるんだろうしね。

 食事もわざとあたしの分だけ作ってくんねーし、あたしの使ったお皿だけ洗わねーし。

「あんたはいないものと思っているから」

だの

「あんたは小学生くらいで死んだものと思っているから」

だの、

「あんた、まさかと思うけど妊娠してるんじゃないでしょうね」

だの、もううんざりだよ。

 もーおー、黙っててくんねーかなー。

「あんた、新宿に行ってるんでしょう!」

とかほざくし。新宿?どこだよ、そこ。知らねーよ。行き方も何も。成田人のあたしにとって、当時千葉でさえ大都会、新宿なんて外国、まして銀座や六本木なんて宇宙だったよ。

 あはははははは!電車どう乗り継いで行きゃいいのか、知らんでー!!!

 姉ちゃんもあたしを相変わらず無視していた。まったく目を合わせないし。

 いじめられるのも嫌だったが、無視も同じくらい嫌だった。相変わらず自分に妹なんていないって言い張っているし。

 そうかよ!そうかよ!


 そして働き始めて2か月後、あたしの退学が正式決定した。


 母さんが普段の百倍のヒステリーを起こしてやがる。

「これで全部が無駄になった。全部が!」

 怒りながら泣いてやんの。

「あんたを生んだ事も!苦労して育てた事も!何もかも!」

 中卒は人間じゃないって事かいな。

「どうしてくれるのよ!いったいどうしてくれるのよ!」

 どうする気もなかった。ってか、どうしようもなかった。

 上級生のリンチが怖いから行けないんだ。「行かない」のではなく「行けない」のだ。そう言えなかった。母さんに早く向こうへ行って欲しいだけだった。

「あたしあんたなんかいらないっ!あんたが中卒ならいらないっ!中卒の娘なんていらないっ!いらない!いらない!いらない!!!」

 そうかよ、そうかよ、まだ言うのかよ。

「あんた、今度こそ本当におしまいよ!本当におしまいよ!中卒のあんたにどんな未来があるっていうのよ!もう何も出来ないし何やったって無駄よ!無駄無駄無駄!!あんたは小学生レベルの学力しかないんだからね!!」

 だったらなんだっつーんだよ、卑下しろってか?

 母さんはあたしが

「定時制なら行ってもいい」

って言ったのを突っぱねたよね?もしかして定時制なら続いたかも知れないじゃん。勉強も凄く後戻りしてスタートしてくれるっていうし、だったらついて行けたかも知れないじゃん。あとは通信制とか。

 全日制にしたって単願ではなくいくつか受けさしてくれてどこの学校がいいか選ばせてくれた訳じゃなかったし、何にせよいくつか選択肢を出してくれて、どれがいいか選ばせてくれた事なんていっぺんもないじゃん。

 自分の意志で選んだ道なら続けられる可能性はあるけど、いつもいつもこれしかない、一択、だからこうしろってヒステリックにわめいてさ。1から10まで命令して、思い通りにならなきゃ切れるし、あたしゃあんたの奴隷でも持ち物でも何でもないよ。自分で決めさせてくれよ!

 それに中退したらしたで、定時制か通信制高校に転入する事も出来た筈。大検受けるとか、そういう選択肢も何もなく、中退=おしまい、どうしようもないただの馬鹿って決めつけて、暴れ狂って、わめき散らして、もううるさいよ。本当におしまいなのあんただろ!

 とにかく早く黙ってくれよ、早く向こう行けよ。

「散々お金かけさせて!散々手間かけさせて!散々苦労させて!何の役にも立たない!あんたなんて死ねばいい!死ねばいい!死んでよ!本当に死んでよう!」

 どうかその口を閉じてくれ。

 本当に閉じてくれ。

 どうせ孤独。いずれにしても孤独。

 なら、放っておいて欲しかった。


 いづらい家を後にして、友達の家に行ったよ。

「定時制か通信制の高校に行こうかな」

って言ったら

「4年かかるよ。20歳になっちゃうよ」

って馬鹿馬鹿しいって感じで言われた。他の3人の友達も同感って顔で頷いている。

 けどさ、16歳のあたしが4年後に20歳になるの当たり前じゃん。要はどう4年過ごすかじゃん。同じ4年なら、何もせずにただダラダラ過ごすより、何かやりながら過ごした方が良いと思うんだけどなあ。

 あたし、間違っているかなあ。母さんもどうせ同じ事言うんだろうし、なんてーか、あたしを八方ふさがりの状態に追い込んでるの周りって気がするんだよなあ。

 あたし、おかしいかなあ。20歳まで生きていないんだろうから、どうでもいいのかなあ。

 あたしいつ死ぬんだろ。早く死にてーよ。

 帰りたくない家に、だらだら帰る。


 朝、出かける前にシャワーを浴びた。

 体を拭き、洋服を着てから湿気を逃がそうと、浴室の窓を開けて自分の部屋へ上がった。

 3分もしないうちに、ノックなしにいきなりドアがバン!と開き、激高した母さんが立っている。

「あんた!風呂場の窓が全開だったわよ!!そんなに自分の裸を人に見せたいの?そんなに見せたいの?頭おかしいんじゃないの?このストリッパー女っ」

 服を着てから開けたよ、そう言う気力を一気に奪われた。

 何で、窓全開でシャワー浴びたって決め付ける訳?開けたまま浴びたのか、服を着てから開けたのか、それくらい確認してから怒ってくれよ。そんなにあたしをストリッパーにしたい訳?色眼鏡でしか見られない訳?ああ、うぜーよ!もう何もいう気がしなかった。

 赤鬼より真っ赤な顔の母さんが怒鳴り散らす。

「出てってよ、さっさと出てってよ。あんたみたいな汚らしい娼婦を家に置いておくだけで恥ずかしくてしょうがない。早く死んでよ。ほらほら!死んでよ死んでよ!言っておくけどこれは冗談でも脅しでもなく本気よ。あたしは本気であんたを憎んでいるのよっ」

 毎度のパターンで、言っているうちに興奮してきた母さんが、顔をくしゃくしゃにしながらあたしをスリッパでひっぱたく。

「やめてよう!やめてよう!!裸を見せたり、男の子とセックスしたり、そういう事するの、もうやめてよう!そんな事するなら死んでよう!!ほらあ!ほらあ!死んでよおおお!」

 スリッパを投げ、そこにあったドロップの缶を投げ、ヒステリックにドアが閉められる。

「あんたは死んだものと思っているからね!」

 毎度おなじみのセリフも飛んで来る。

 ああ、やっと今日の修羅場が終わった。ある意味ほっとしながら、そして心底嫌な気持ちになりながら化粧を始める。

 娼婦とか死んでくれとか、実の娘によくそんな事を言えるね。何度目かもう分からんが。


 翌日の修羅場もきちんと仕掛けられていた。

 風邪気味で病院へ行くつもりで保険証を探していたあたしの後ろ姿に、母さんの罵声が飛んできた。

「保険証ならないよ。あんたに保険証は貸さない!」

「は?何でよ?」

と振り返ったあたしに、母さんは得意満面で言い放った。

「あんたに保険証貸すと、産婦人科に行って中絶手術する。それが父さんの職場に知られたら出世に響く、とんでもない事になる。だから絶対に貸さない!」

 そいつぁー物理的に困るぜ。苦手な反論をしたよ。

「そんな訳ないじゃん、医者がわざわざそんな事言う訳ないじゃん」

「言うに決まっている!絶対に言うに決まっている!!」

「じゃあ風邪引いたり怪我したらどうすればいいのよ!」

「知らないわよ、そんなの。自分で何とかすればいいじゃない!あたしはあんたからこの家を守るんだから!」

「おお、素晴らしいね。そうしなよ。誰より家を引っ掻き回しているのあんただよ!」

「どうして?あたしに何のミスがあるのよ!あたしは万にひとつも間違った事は言っていないし、していないわ!断言するわよ!」

 母さんは本気でそう思っているらしかった。自分は絶対に間違っていないと。

「あんた、まさかと思うけど妊娠してるんじゃないんでしょうね!」

「またそれ?いい加減にしたら?嫌らしい、馬鹿じゃないの?」

「当たり前じゃない、親にそんな心配させる娘がどこにいるのよ。あんたが悪いんじゃない。あちこちでセックスしているあんたが悪いんじゃない。悔しかったらまっとうな道を歩いたらどうよ」

「悔しがっているのはあんたでしょ。まっとうじゃないのもあんたでしょ。大体妊娠しても中絶できないなら産むしかないじゃん。そんなにあたしに妊娠してもらいたいの?あんたの言う事なす事めちゃくちゃだよ!」

 そう怒鳴ってやったら、また得意満面で言い返してきやがった。

「じゃあセックスしなきゃいいじゃない!そうすれば妊娠の心配もこっちだってしなくていいんだから。ふふっ、まあ、あんたは小さい頃から、手のしわが多かったからね。この子は苦労する人生を送るだろうとは思っていたわよ」

 この言葉に、ブチ切れたよ。おーおー、ブチ切れたさ。また人の神経を逆なでしやがって!

 あたしの手が荒れているのは、あんたに代わって家事をし続けたからだろーが!「なになにして」と言い続けるあんたの要望に応えてやったからだろーが!

 頭の中で闘いのゴングが鳴り響く。

 母さんを「黙らせる為に」思い切り突き飛ばしてやった。力いっぱい蹴ってやった(この時、わめき続ける母さんを黙らせる為に殴っていた父さんの気持ちがよく分かった)。

 わざとらしく顔をしかめ、両手を前に伸ばし、必要以上に後ろに吹き飛んでいく母さん。

「あたしはこんなにか弱いのよ」ってパフォーマンスだ。

 もっとムカついた。だから滅茶苦茶に蹴りのめしてやった。壁に頭を打ちつけ、悔し泣きしながら亀みたいに丸くなっている、みっともない母親!

 あたしは家を飛び出し、あてもなく走りながら誰か殺してくれないかと本気で思った。

 そう、飛び出したってどこにも行く所なんかないんだから!


 世の中には何とかなるものとならないものとある。

 保険証を貸さないなら貸さないで、「国民健康保険証」の存在を教えてくれればいいものを、母さんはそれさえ教えてくれなかった。何も知らないあたしはそれ以降、風邪を引いてもどこを怪我しても実費で病院へ行っていた。そうするしかないと思っていたから。

「だってあんた、お金持っているんでしょう。働いているんだから」

それが母さんの言い分だった。

「あんた、あたしの言う事全然聞かないし、困らせるから。あたしもあんたの言う事聞かない。あたしもあんたが困る事する」

だの

「あんたは死んだものと思っているからね!」

だの

「あんたがあたしの言う事聞かなかったらそのたびに、あんたの物をひとつずつ取り上げていく。しまいに何もないようにする」

というセリフももう何回も聞いたよ。

 自分の言った言葉くらい、覚えてろっつーの。どうせ前に何回も言ってるって事さえ忘れてんだろ!

 何回あたしを殺せば気が済むんだよ!

 無知なあたしに国民健康保険の手続きの仕方を教えてくれたのは、病院の看護婦さんだった。

 あたしも無知だったけど、母さんも無知で世間知らずでおまけに忘れっぽかった。

 医者にも看護婦にも「守秘義務」ってーものがあって、あんたんとこの娘が中絶しましたよ、なんて職場に知らせる訳ないって事も知らなかった。

 もうひとつ、妊娠は「保険適用外」って事も。

 二人も子ども生んだくせに!!


 母さんは常に「最悪のシナリオ」を抱えていた。

「最悪の事態に備えているのよ」

って言うけど。言えば言う程本当にそういう状態を「引き寄せる」よ!バカだねえ!!

 あたしが妊娠し、誰の子か分からないのを勝手に産む。その子を自分に押し付け、遊びまわる。

 また誰の子か分からないのを孕み、産み、自分に押し付ける。この家に訳の分からない子どもばかりがウヨウヨ増える。

 そのうち覚せい剤に手を出す。犯罪を犯す。自分たちが犯罪者の家族として、マスコミにさらされる。

 週刊誌にもバンバン出る。やくざの情婦になり、そいつに家も財産もすべて乗っ取られる。真顔でそう言い続けていた。

「あんたは一般社会ではバカで役立たずだけど、やくざから見たらいいカモだからいいようにやられんのよ。あんたくらいいいカモいないよ!」

だってさ。

 そうなって欲しいの?そうしなきゃいけないの?

 そうなって欲しくないなら、言わなきゃいいじゃん!

 母さん、気は確かなのかな?この人の方がよっぽどおかしくて、よっぽど狂ってるんじゃないのかな?

 本当に「キチガイ病院」に行くべきなのは母さんじゃないの?

「犯罪やる前に死んでよ!早く死んでよ!」

だってさ。

 誰が犯罪やるって言ったんだよ。てめえの発言こそ犯罪だろ!

 そうかと思えば

「近所には、あんたは中学浪人って言ってあるから」

だってさ。

 相変わらずきちんとものを考えないババアだねえ。中学浪人なんて聞いた事ねーよ。来年どうすんだよ、バーカ!

 いつもあたしに言っているように近所にも言えばいいじゃん。

「次女は死んだものと思っています」

って。相手はどんな顔するんだろうね!

 まあ来年あたしは生きていないんだろうから、あんたの言う通り死んでいるんだろうからいいんだろうけどね!


 言っとくけどね、あたしは「この程度」で済んで良かったと思っているよ。

 だって小さい頃、あんたに父さんと母さんどっちが好き?としつこく聞かれ、耐えられずに幽体離脱しちまった時、もうひとりの自分を見て、あたしこう思ったんだ。

「ああ、酷い目に遭っているのはあたしじゃない。あの子だ」

ってね。

 もっと進んだら多重人格者になっちまったかも知れない。その別人格が、それこそ犯罪やったかも知れねーよ!

 ましだと思ってくれよ!


 あたしは人間扱いされずに育った。

 まるで吠えるたびに電流が流れる首輪をされた犬のようだった。吠えるたびに電流という罰を与えられる方が、どんな気持ちになるか、飼い主にどんな不信感を持つか、憎しみを募らせるか、考えもしないんだろう。

 そしてそんな事をされ続けた犬は、例え首輪を外されても二度と吠えなくなる。吠えたら罰を与えられると学習しているからだ。

「さあ、吠えなくなれ」とばかりに、親はどんどん罰を増やしていった。首輪ばかりか、足輪も腕輪も胴輪も、全身に電流をあてがった。

「あんたが悪いのよ、吠えるから」

「これに懲りて二度とやるな」

それが親の言い分だった。

 だが、こっちは「用があるから」もしくは「伝えたいから」もっと言えば「人間だから」吠えていた訳だ。

 親はあたしを本当に人間扱いしてなかった。


 ただね、これだけは分かって欲しい。

 恨みたくて自分の親を恨む奴はいないんだよ。

 子どもってーのは、ぎりぎり親を憎めない生き物なんだよ。

 親の愛情がなければ生きられないんだよ。

 あんたらは死ねとばかりにあたしを「まったく愛情のない状態」にしやがった。

 小さい頃から生きている事さえ否定され、行く当てもないのに出て行けと罵倒され、些細な事で殴打され、責め立てられ、これでもかとばかりに粗末にされ、メシは抜かれ、交換条件ばかり出され、脅され、その積もり積もった怒りがとうとう爆発しちまったんだよ。出来ない我慢をし続けた結果がこれなんだよ!

 天皇陛下じゃないけど、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ結果がこの姿なんだよ!誰も分かってくれないし、あんたたちはあたしをいじめるだけいじめておいて、いじめる方は悪くなくて、そのいじめに耐えられない方が悪いような事言うし、冗談じゃないよ!

 本当の加害者はどっち?

 それのどこが「躾」なの?

 どこが「愛の鞭」なの?

 本当の被害者はどっち?

 子どもは育てた通りに育つんだよ!


 あたしは家でいちばん小さく弱い存在だった。

 それを良い事に、父さんも母さんも姉ちゃんも、あたしを滅茶苦茶にいじめた。あたしをかばってくれる人はいなかった。あたしの話を信じてくれる人も、マチコ以外はいなかった。そのマチコを母さんは遠ざけたしね。

 あたしだけが悪いのかな?父さんや母さんや姉ちゃん、そしてあたしを見殺しにした人たちも悪いんじゃないのかな?

 小さい頃は憎めなかった親が、憎かった。憎くて、憎くて、ああ憎くて、八つ裂きにしてやりたかった。

 小さく弱かったあたしをよくもあんなにいじめてくれたね!よくもそこまでやってくれたね!その頃の自分を擁護し、仇を取るような気持ちだった。

 そしていつもいつも、心の奥底でこう思っていた。「あたしはきちんとした扱いを受ける価値のある人間じゃないのかな?」ってね。

 …誰も分かってくれなかったけど。


 何故この人はそんな事をするのだろう、と周囲が不思議がる事でも、理解できずとも、当人にはきちんと理由がある。

 それは「そうしたかったから」あるいは「どうしてもそうせざるを得なかったから」だ。そしてほとんどの場合「どうしてもそうせざるを得ない」からそうしているのだ。

 あたしも、マチコも、ぐれているみんなも、どうしても、どうしても、ああ、どうしても、そうせざるを得なかった。

 当時、子どもの非行は100%本人が悪くておかしい、とされていた。みんながみんな、こう言った。

「あなたが悪いの!あなたがおかしいの!あなたの親は正しいの!」

 そう、あたしの抱える孤独、憂い、事情を分かってくれる人はいなかった。


 母さんがほざく。

「あんた、沖本って名乗らないで。あたしはあんたを沖本家の一員として認めてないから」

 黙って頷く。ああ、あたしはますますユウレイだ。名前さえ名乗れないんだから。アルバイト先に出す履歴書に、沖本、とさえもう書けない。


 翌日、母さんが聞く。

「名前、何にしたの?」

 あたしは短く答える。

「相川」

 それは母さんの旧姓だ。

「やめてよ、相川なんて、冗談じゃないわよ!汚らわしい!」

 相川も駄目なのか。疎外感は尽きなかった。


 翌日、また母さんが聞く。

「名前、何にしたの?」

 あたしは短く答える。

「水原」

 母さんがせせら笑う。

「は?水原?かっこいい名前にしたね。馬鹿丸出し!」

 …何だよ、沖本も相川も駄目なら、何て名乗ればいいんだよ。


 だが、あたしのアルバイト先から電話がかかってくる時に、毎回混乱する。うちは沖本なのか?水原なのか?

 あたしが電話に出た時はまだ何とかなるが、あとの3人が受話器を取った時は、かけてきた人も混乱していた。

「水原さんのお宅じゃないんですか?」

だって。そりゃそう聞くよね。

 慌てて

「ああ、お待ちください」

と答え、階段の下から上に向かって

「マリーっ!電話!」

と叫ぶ母さん。

 あんたが撒いた種なんだよー。自分で刈り取ってねー!!

 せめて名前くらい使わせてほしかった。


 ある時、母さんが何だか機嫌良さそうだったので(また展示会で母さんの作品がいちばん評判が良くて、完売して、みんなに褒められたのか何だか知らないけど)思い切って話しかけた。

「この前、シャワーの後、服を着てから窓開けたんだけど」

 母さんは言った。

「でも、そう思うじゃない」

 何が「でも」だよ。ああ違ったのね、勘違いして怒ってごめんね、くらい言えねーのかよ!

 あーもー、言わなきゃ良かった。せっかく歩み寄ってやったのによ!ばかばかしい!!!

 もう何も言わない!!!


 そうそう、初めてのアルバイト先で常連客だった人と付き合うようになっていた。あたしにとって初めての正式な(はて?)彼氏。6歳上で、親が経営する寿司屋の手伝いをしている人だった。

 ただ、きちんと従業員として働いているのではなく、気が向いた時や忙しい時だけ手伝っている道楽ぶりだったよ。自由出勤ってやつ?継ぐ気もなかったみたいだし。良い身分だねえ。だから暇みたいで、毎日店にコーヒー飲みに来ていた。

 あたしを好きだ好きだと連発し、あたしと付き合えるならどんなことでもすると言った。

 …だったら可愛がってくれるかな?と思っちまったよ。ただ、矛盾する所も多々あった。

「若すぎるんだよ。せめて18だったら付き合った」

と、付き合おうと約束なんてしていないのに言っているし。

「自分が27の時に21の嫁さんがいるなんて」

とも言った。って事は、結婚も考えてくれているって事かいな?と、ちょっとは嬉しかったしね。

 正直言ってあたしはその人をそんなに好きじゃなかったけど、せっかく言い寄ってくれるんだから「据え膳食っとくか」って気がした。6歳も年上で大人に見えたし、親は愛してくれない代わりに神様はこの人を与えてくれたのかな、とさえ思った。

 だがその人は初めてキスした時、妙にしつこかった。

「もう1回、もう1回」

とまたキスされた。顔が離れるとまた

「もう1回、もう1回」

とまたキスする。それを何回も何回も繰り返した。それこそ10回くらい繰り返した。なんてしつこいんだ。

 そして翌日、その人はアルバイト先のみんなの前でこう言った。

「ねえ、イーってやってみて。昨日歯が全然なかった気がする」

 ほかのみんなもあたしの口元に注目する。

 あたしは歯並びが悪いのをじゅうぶん気にしていて、いつもあまり口を開けないようにして喋っているくらいだ。それなのにみんなの前でそんな事言うなんて。ましてや、キスした事がみんなに分かってしまうってーのに。

 その人はあたしの口元を見ながらまだ言う。

「ねえ、イーッてやってみて」

「歯が全然なかったら、さしすせそ、も、たちつてと、も言えない筈じゃん。あたしは、さ行も、た行も、きちんと言えるんだから、歯があるって事じゃん」

 苦手な反論したが、それでもその人はあたしの口元を見ながら何回もしつこく言った。

「ねえ、イーッてやってみて」

 嫌なものは嫌だ。首を横に振る。

「ねえ、イーッてやってみてよう」

 夕べも今も、なんてしつこいんだ。絶対にやらなかった。

 そう言えば付き合う前にその人がこんな事を言っていた。

「20歳過ぎの処女なんて飲み開きのコーラだよ」

「何それ?」

と聞いたら得意そうにこう言った。

「気が抜けてる」

 だがその人は、後日にやにやしながらこう言った。

「面白い話聞かせてやろうか?」

 どうせ面白くないんだろうと思いつつ頷く。

「俺、キスしたのお前が初めてなんだよ」

 面白くねーよ、22歳にもなって、気持ちわりーよ。ああ、だからあんなにしつこかったんだ。もう1回、もう1回って。

「マリはキスするの初めてじゃないんでしょ?」

って言うから正直に

「初めてじゃないよ」

って言ったら

「でも、処女でしょ」

って言う。自分に経験ないからって相手にも同じもの求めんじゃねえよ!って思いながら

「違うよ」

って言っても

「でも、処女でしょ」

って何回も言う。

「だって俺の友達が言ってたもん。あれはヤッタ顔じゃないって。だから処女でしょ」

だと!顔でやるんじゃねえよ!体でやるんだよ!どあほ!もうしつこいよ!うるさいよ!気持ちわりいよ!

ハタチ過ぎの童貞なんて、飲み開きのコーラだろ!!

 …別の日、その人は言った。

「君にひとつの課題を与える」

 は?って顔をしたあたしに、得意気にその人は言った。

「たばこをやめる事。出来ない場合は別れる!」

「バカバカしい!自分だって吸うくせに!」

 苦手な反論をすると、もっと得意満面で言い放った。

「俺は成人しているから。君は未成年!それに俺は吸い始めたの20歳過ぎてからだもん」

だと、何が「だもん」だよ。可愛ぶるな、あほ。

 もうひとつ、その人の揺るぎない主張があった。

「女は子どもを生むから」

「あたし子どもなんか生まない。一生、生まない」

と言ってやった。

「俺の子も生まない気?」

と聞くので大きく頷いて言った。

「結婚なんかしない!」

 結婚なんてしないよ!

 子どもだって一生産まないよ!

 結婚して、子ども生んで、不幸になった人たちを見て育ったからね。子どもだって一生生まないよ!生んだ子をいじめたくないしね!

 自分の子なら可愛いよ、ってみんな言うけど、全然そんな事ないよ!現にうちの親は二人とも、実の娘であるあたしを滅茶苦茶にいじめたよ!本当だよ!事例ならいくらでもあるよ!

 その人は未成年だからという理由で煙草を禁じておきながら、あたしを平気で酒場へ連れて行ってどんどん酒を飲ませたし、ポルノ映画もどんどん見に行くし、ラブホテルも当然のように行った。

「怖くないから、怖くないから」

と言ってどんどんあたしの体を触る。誰も怖がっちゃいないよ!汚い手で触られるのが嫌なんだよ!石鹸できれいに洗って清潔なタオルで拭いてからにしてくれよ!!

「お前は全然俺の言う事を聞かないな。煙草やめろって言ってもやめないし、何の楽しみもないのは可哀想だから、じゃあお酒は飲んでもいいって事にしてやったのに酒は飲みたくないって言うし、映画も嫌だと言うし!」

だと!どアホ!

 ただ自分が酒好きで付き合わせたいだけだろうが!ホステス代わりに!!未成年だから煙草吸うなと言うなら、同じ理由で酒も禁じるべきだし、18禁映画もホテルも行くべきじゃないだろう!

 あたしの前で平気で煙草吸って、副流煙どんどん吸わすし!屁理屈を極めるな!

 ポルノ映画なんて最初興味本位で見たけど、1回で飽きたよ!見たかねーよ!普通の映画ならまだしも、もう見たかねーんだよ!!

 酒だってまずいし、飲みたかねーよ!自分の好み押し付けんじゃねーよ!!

 たばこやめられないなら別れる、上等だよ!

「じゃあ別れよう。あたしあなたよりたばこの方が好きだから!」

と言ったあたしにその人は慌てて言った。

「次のデート、いつにする?」

 そしてその人は、あたしが何か言うたびにそれをいちいち覚えていて、なになにって言ったじゃない、と蒸し返す人だった。母さんそっくり!

「映画観るって言ったじゃない」

とか

「ホテル行くって言ったじゃない」

とかね。仕方なく頷いただけじゃん。

「全然言う事聞かない」

って怒っているから

「正しいと思わないから聞かないんじゃん」

って苦手ながら反論したら絶句してやんの。

 苗字を聞かれ

「水原」

と答えると、わざわざ電話帳で調べて

「ないよ!嘘言ってんじゃん」

とあたしを責めるし。確かめるなんて、いやったらしいじゃん!

 本名は言えないから言わないんだよ!親にうちの一員と認めないだの、沖本家の恥とか、言われているからね。本名を名乗れない奴だっているんだよ!

「またポケられた」

だって。そういうの「ポケる」って言うんだ。あーそー。ボケる、じゃないのね。あはははははははは。いっそボケてあたしを忘れろよ!

 しかもその人は、あたしがアルバイトを変わるたびに毎回新しい店に偵察に来る人だった。

 それも初日の朝に!にやにやしながら!!

 そして必ずこう言った。

「どう?」

 何がどう?だよ!答えようがねえよ!母さんみたい。

「知っている人?」

と新しい所の先輩に聞かれるし、見張られているみたいで嫌だった。

「来ないでよ」

って何回言っても来るし。

「ちゃんとやっているかなと思って」

だと。オマエの紹介でこの店に入った訳じゃねえし、あたしゃあんたの所有物じゃねえよ!しかも変に新しい店のみんなに馴れ馴れしくして、あたしの仕事ぶりはどう?とか聞くし、店の電話番号なんて教えていないのに、番号案内の104で勝手に調べて電話もどんどんかけてきて、

「どう?」

って聞くし、元々あんまり好きじゃないのにそんな事されて、どんどん嫌になった。

「やましい事がないならどこで働いているか言える筈。そこに行っても電話してもいい筈」

それがその人の言い分だった。

 やましかないけど迷惑なの!

 更にその人は、親に買ってもらったソアラってー車を得意気に乗り回していた。助手席に乗せてくれたはいいが、ある時降りようとした瞬間、強風に煽られてドアをガードレールにしたたかにぶつけちまった。勿論わざとじゃないし、すぐに謝った。

 だがその人は間髪入れずに大声で怒鳴った。

「この車、360万もしたんだぞ!」

 そして車を降り、ドアに傷がついていないか丹念に見ていた。あたしの心配は一切せず、車の心配ばかりしていた。親の金で買ってもらった車だろ!と言いたいのをぐっと堪える。

 それにその人、変な角度から自慢してくるし。

「夕べマリちゃんからうちに電話あった時に最初にユキオが出て、その後俺に代わったでしょう?俺の親が、ユキオの友達とお前があんまり関わらない方がいいんじゃないのかって言っていた」

と、満足げな顔で言う。

 ユキオ君というのは、その人の親が経営する寿司屋に住み込みで働いてる、あたしと同い年の見習いさんの事だ。

 …何が言いたいのかよく分からない。

「だから?何が言いたいの?」

と聞いても

「ん、そうやって言うから」

と満足気な顔をやめない。要するに、自分の親は、ユキオなんかより俺が可愛いんだぜ、俺を愛しているんだぜ、と言いたい訳だ。

 中卒のユキオ君は悪い子で、ユキオ君の友達とおぼしきあたしも不良だから、良い子の俺が悪い影響受けないようにして欲しいと、俺の親は俺の心配だけをしている、と言いたいんだろう。自慢しちゃって、大人げないねえ、22のくせに。

 おまけにユキオ君をむやみにこき使い、気分次第でこれでもかとばかりにいじめ、円形脱毛症になるほど虐げていた。ユキオ君、可哀想に、どんどん髪が抜けて禿げていくの。

 その人、いじめをやめるどころか

「ユキオの奴、禿げてやんの。その禿げがどんどん大きくなりやんの、ハハハハハ」

ってせせら笑っているし。

 我慢しているユキオ君の気持ち分からないんだろうねえ。

「ユキオが死にたいって言うから首絞めてやった。そしたら死ぬじゃないかだってハハハ」

とも言ってた。

 死にたいくらいお前のいじめが嫌なんだろうに。

 その上その人はあたしに毎月の給料の額を聞き、

「8万円くらい」

と正直に答えたあたしにこう言った。

「俺より良い給料もらってんな。これからデート費用は全部そっちが持ってよ」

と言いやがった。冗談じゃないよ!こっぴどく振ってやった。もううんざりだ。こんな彼氏ならいらない。

 何回振ってもまだしつこく付いてくるし。

「何でそんなにしつこいの?」

って聞いたら

「それだけ好きって事じゃん」

だって。本当に好きだったら相手の嫌がる事しねーだろ!つきまとっておいて

「俺にこんなに愛されてて嬉しいでしょ」

だと!全然嬉しかねーよ!そんなん愛情じゃないよ、ただ意地になってるだけだよ!

 何回も電話かけてきて

「昨日の別れ話、あれキャンセルだから!」

だの

「君の行く先々に押し掛ける俺を嫌っていた実績を考えれば仕方ないかも知れない。でも、俺はまだ君が好きだから付き合いたい」

だの(実績ってそういう時に使う言葉じゃねーよ!)

「俺は一度でも付き合った女には最後まで責任持つ。別れたからハイさようなら、なんてそんな事しない!だからこれからもお前と会うしホテルも行く!」

だの、アタマ狂ってんじゃないの?って言いたくなるような事を次々に言う。

 仮にこの人と結婚しても、子どもを生んでも、同じ事を言いそうな気がした。

「この結婚、キャンセルだから!」

とか

「この子が生まれた事、キャンセルだから!」

って。

 その人はしまいにこうのたまった。

「俺はあの時、初めてだったから責任とって結婚してよ」

 は?いまどき女だってそんな事言わねーよ。バーカ!

「親が喫茶店開業するんだ。俺、任されるんだよ。雇ってやるからお前コーヒー作れよ」

とも言った。誰も雇って欲しいなんて思わねーよ!

「俺、音楽とデザインの勉強の為に来月からアメリカに行く事になってるんだ。その前に会ってよ、会ってよ、会ってよ、会ってよう、ねえ、会ってようううう」

とミエミエの嘘もこくし、どこまで付きまとうんだ!

 この人は今でいうストーカーで、後年、あたしが通うだろうと思った美容学校の夜間部に、自分も生徒として通学するというキチガイ沙汰をやった。気が向いた時だけ親の店を手伝う、つまり無職に近い状態だから、暇だからこそ出来た事だろう。親が喫茶店を開業するというのも嘘だったのだろうし、学費も親に出させたのだろう。

 美容学校卒業後に受けた国家試験会場で姿を見かけ、一瞬で分かった。勿論さっと隠れて見つからないようにした。

 免疫のない人と付き合うものではないと学んだ。


 次に付き合ったのは、その次のアルバイト先で一緒だった人だった。 

 前に人にしつこくされて困っているあたしを心配してくれた。前の人が変過ぎたから、その人はまともそうに見えたよ。ホールのチーフやっていたし。

 だがその人は初めてのデートに大幅に遅刻して来た。20分以上待たされ、もういい加減帰ろうかと思い、駅にある伝言板(当時は携帯電話などなく、風呂の蓋くらいのサイズの黒板が、どこの駅にもあった)に「もう帰るよ、マリ」と書いて立ち去ろうとした。

 そこには「遅いぞスージー」だの、「先に行くぞライデン」とも書いてあった。ロックバンドやっている人たちのステージ名なんだろうねえ、何がライデンだよ、と思ったさ。

 そこへやっと現れたその人は、何を言うかと思えばこう言い訳した。

「俺、お前が時間通り来ると思ってなかったんだよ、偉いじゃん、感心したよ」

 あほ!初デートで遅れておいて言えたセリフか!

 何回もデートしてあたしが毎回遅刻するから、とか言うならまだしも、1回目のデートであたしが時間にルーズだと勝手に決めつけて、遅れてきてごめんの一言もなく、そんな言葉でごまかすな!

 しかもお腹が空いていると言うあたしに、なんやかやと理由を付けて食事をさせてくれなかった。

「この店はたいした料理出さないから」

だの

「ここはコックが代わってから味が落ちた」

だのと言って。

 やっと入った店で料理を選ぶにしても、ああだこうだと通ぶってるし。ようやく運ばれてきた料理を食べようとすれば

「待て」

と言って鞄の中からなにやら怪しげなスプレーを取り出し、その料理に水をシュッシュッとかける。

「何すんのよ、汚い。断りもなく勝手な事しないでよ」

と言えば

「この水は魔法の水なんだ。毒を消してくれるからイイんだよ」

とのたまう。何の水だ!何の宗教入っとんのや!

 デザートにパフェを注文すれば、自分のパフェの生クリームを食べきれないとばかりに、勝手にあたしのパフェの上にドカドカ乗せるし。

「何で断りもなくそう言う事するのよ。スプレーしていい?とか生クリーム乗せていい?とかちゃんと聞いてよ」

と言ってもヘラヘラするばかり。余計イライラした。

 そしてその人は、手持ちのたばこがなくなるとごねる人だった。気が利く女だと思われたくて、その人がお気に入りの銘柄のたばこ、マルボロってのを密かに買っておき、なくなった途端にハイと差し出したんだよ。その時は勿論喜んでくれたよ。

 だがその人は、あたしが差し出したマルボロも、あっという間に吸い終えてこう言った。

「ねえ、第二のマルボロないの?」

 あたしゃ自販機じゃないよ!

 しかもその人は、あたしが店でほかの人にいじめられているのを見て見ぬ振りをした。

「だって俺の立場で向こうの悪口言う訳にいかないじゃん」

それがその人の言い分だった。

 更にその人は綺麗事を言う人だった。

「5年かけて得た信用を一度失うと、取り戻すのに10年かかるんだ」

だの

「仕事だけはちゃんとやりなよ、仕事だけは。俺もこれからはそんなに助けてやれないし」

とかね。

 お前のやってる事はなんなんだよ!困っててもたいして助けてくれてないしね!

 その上その人はお母さんの話をよくする人だった。

「昨日、お母さんがボクの事をよく我慢したねって褒めてくれた」

とか

「お母さんがマリちゃんと付き合うのやめなさいって言うの」

とか

「お母さん、若い頃すごく美人だったの」

とかね。ハタチのオトコの言う事か!

「お母さんに反対されてるなら別れようか?」

と聞けば

「でも、俺はお母さんの反対を押し切ってまで、マリちゃんと付き合ってあげてるよ」

だと。何が「あげてる」だよ。全然有り難くねえよ!

 しかもその人は、当時浦安に出来たばかりのディズニーランドに行きたいというあたしに

「今月中には行こうと思う」

だの

「今年中には行こうと思う」

と言いつつ、決して連れて行ってくれない人だった。そんなに遠くないし、そんなに忙しくもないのに…。

 その上その人は、喫茶店やレストランに入っても一発でメニューや席を決められない人だった。この席、と決めても

「やっぱりあっちがいい」

と言い出し、店員に頼んで替わる。

「はい、お引越し、お引越し」

とか言いながら新しい席に替わる。そしてしばらくすると

「やっぱりあの窓際の席がいい!」

と言い出し、また

「はい、お引越し、お引越し」

と席を替わる。店員も呆れていたよ。あたしも嫌だった。じっと我慢して付き合ったけどさ。

 メニューも、最初に

「アイスコーヒー」

と注文しても

「作っちゃった?やっぱりアプリコットジュースがいい!」

とか言うし。しかもその直後に

「作っちゃった?やっぱりアイスココア!」

とも言っていた。この人と例え結婚しても、妊娠しても同じ事を言うような気がした。

「やっぱりあっちの女の子がいい!」

とか

「子ども出来ちゃった?やっぱり子どもいない方がいい!」

とか

「はい、離婚、離婚」

とかね。しかもその人は、あたしの神経を毎度毎度逆撫でする人だった。あたしがコンビニエンスストアで何か買うとこう言った。

「コンビニエンスストアがいちばん高くつくね!」

 …うるさいねえ。だったら

「コンビニエンスストアで買い物すると高くつくから、ディスカウントショップで買えば?車で連れて行ってあげようか?」

等、プラスの言い方をしてくれてもいいのに。

 もうひとつ、あたしはコーヒーや紅茶、緑茶といったカフェイン飲料と炭酸飲料が体質的に飲めなかった。酒も決して好きじゃなかったしね。まずいから!

 喫茶店や自販機で飲み物を選ぶ時、必ず野菜や果物のジュースか牛乳を飲んでいた。腹を壊しちまうからしょうがないっつーのに、その人はそれも否定した。

「喉乾いた」

と本当に喉カラカラのあたしに

「どれ?」

と自販機を前に聞くから、飲めるものを選び

「オレンジジュース」

と言えば

「甘いの飲むとまた乾くよ」

と否定する。だから飲むなってか?

「もういい!」

 あたしは自分でお金を入れてオレンジジュースを買って飲んだ。

「だから、甘いの飲むとまた乾くよ」

と壊れたテープレコーダーよろしく言うから、言い返してやった。

「また乾いたらまた飲めばいいじゃん!10本でも、50本でも!!」

 別の時、トマトジュースを選んだあたしにその人はこう言った。

「トマトジュースじゃ乾き癒えないよ」

 だから飲むなってーのか?カフェイン飲料と炭酸は飲めねーって前に説明したじゃん!忘れたか!ドアホ!

 更にその人はあたしの気持ちをまったく考えず、自分がエッチしたければあたしが生理中だから嫌だと言っても押し倒す人だった。

 今と違い「性的合意」なんて言葉もなかったけど…。

「俺は相手の気持ちを考えるんだ」

って言っていたくせに。口ばっかり、こんな奴嫌いだ。靴下の穴縫えとか、ボタン付けろとか、どんどん用事言いつけるし、有難うの一言もないし、もう嫌だ。

 何だか機嫌良さげに電話を掛けてきて他愛もない事をべらべら話すから、話し合いを試みようと勇気を出してこう言った。

「ねえ、あたし、もうあんまり便利に使われてあげられないわ…」

 その途端、不機嫌になり

「もう切る」

とガチャ切りされた。

 ああ、話し合ってもくれないのか、とさびしい気持ちでいっぱいになる。

 後日その人はまた電話を掛けてきてこう言った。

「俺あの時良い気分だったんだ。楽しい気分だったの。お前にぶち壊されたんだ。謝ってくれよ。さあ、謝れよ。早く」

 …絶句したよ。あたしの良い気分、楽しい気分を年がら年中ぶち壊しておいて言えたセリフかいな。

 決して謝らなかったらまたガチャ切りするし。

 なんて勝手な人だろう。そう思っていたらその人が、あたしのいない所で自分の仲間に

「マリ?あいつたいした女じゃねえよ。最初いい女と思ったけど。本当にたいした女じゃねえよ。だって俺なんかと付き合ってんだもん」

と平気で言っていたというのを聞いた。

 しかも

「マリを誘ってみろよ。洗剤みたいに落ちるかどうか。落ちたらくれてやるよ」

とも言ったそうだ。そんな事わざわざあたしに教えてくる人も酷いと思うけど。

「知らなきゃ可哀想だから」

だと。知れば可哀想じゃなくなるのかよ!

 その人も、その人の友達も、どっちも耐えられなくて離れた。

 綺麗事を言う人ほど心は汚れていると学んだ。


 次に付き合ったのは、別のアルバイト先の先輩だった。その人も、いちばん最初に付き合った人に付きまとわれて困っているあたしを心配してくれたよ。

「俺が守ってやるよ。マリは保護してやらなきゃいけないタイプなんだな」

 保護してくれるの?それこそあたしが求めていたものだよ。信じようと思った。

 だがその人は、初めてのデートで分かれ際にこう言った。

「ほっぺた空いてる?」

 何の事か分からず

「え?ほっぺた?」

と聞き返したら、断りもなく頬にキスしやがった。

「おやすみ」

と離れていくその人。

 それであたしが痺れるとでも思ったのかね!バカか!

 別の時は、塗ったばかりの口紅が取れるから嫌だと言うあたしに無理矢理キスしておきながら

「べったり付いちゃった」

って嫌そうに何度も口を拭いているし。なら最初からしなきゃいいじゃん!

 その上その人は、あたしがアルバイト先に提出した履歴書を勝手に見てこう言った。

「得意な学科、数学だって?すごいじゃん」

 …あたしはその人の履歴書を勝手に見て、書いてある事についてどうこう言わないのに。

 その上あたしが卒業した中学にわざわざ行き、あたしの友達に勝手に会うという信じられない事もしたし、あたしの手帳まで勝手に見て、あたしの友達に勝手に電話して昔はどうだったの?等、何人にも連絡して聞きまわった。

「昔っから見栄っ張りだったんだって?ケッケッケッケッ」

と、さも馬鹿にしたように笑うし。

「いい加減にしてよ、今度やったら別れるよ」

と言ったあたしにその人は平気でこう言った。

「まあ、なんだかんだ言って、お前は俺に惚れているんだからなあ」

 それで済ます気か!どあほ!

 しかもその人は、エッチの時に

「リードして、リードして」

と言うばかりで手ひとつ動かさず、マグロみたいに寝そべっていた。1回で嫌になったよ。

 その上その人は、映画を観ようとチケットを買った途端にこう言った。

「俺の兄貴が言っていた。映画観るほどつまらないデート法ないって」

 …これから映画を観るってーのに何でそんな事言うんだろう。

「だって、2時間黙って前向いて、つまんないじゃん」

 あたしが自分に「つまらない思いをさせた」って事なんだろう。

 更にその人は、映画の帰りにこう言った。

「ねえ、100円だけパチンコやっていい?」

 あたしといるよりパチンコの方が楽しいって事だろう。100円のパチンコに負けた訳だ。100円じゃ済まなかったしね。

 ましてそのパチンコ屋で、他の客に絡まれて困っているあたしを置いて逃げやがった。助けてくれたのはそこの店員さんだった。保護すると言ったのは、ただの口説き文句だったのだ。

「俺が変に手助けしたら、マリはハプニングに対応できなくなるだろう?」

だと!屁理屈こくな!ただ怖かったから自分だけ逃げたくせに!二度と会わなかった。

 保護する、と言う人ほど保護してくれないと学んだ。


 次に付き合ったのは、助けてくれたパチンコ屋の店員だった。

「俺ならマリを守れる」

と言ってくれた。現に助けてくれた事があるし、信じてもいいんだろうと思った。

 スカートのしわを気にしているあたしにアイロンを買ってくれたし。勿論嬉しかったよ。

 だがその人は会うたびにアイロンをかける仕草をしながら言った。

「これ、使ってる?」

 もう、うるさいよ。恩着せがましい。

 そしてその人は、「きちんとものを言わない人」だった。

 喫茶店で向かい合って話をしている最中に、急に顔をしかめて自分の肩を叩いて見せる。何の事か分からず、きょとんとするあたしにもう1回自分の肩を叩いて見せた。

 …何が言いたいのかさっぱり分からない。ポカンとしていると、自分の肩をやけになってバンバン叩き続ける。

「なあに?これなあに?」

とあたしも自分の右肩を叩きながら聞いた。

「違う!こっち!!」

と切れそうになりながら、さも嫌そうに顔をしかめながら反対の肩を叩いている。

「なあに?帰れって事?」

 訳が分からない。

「違う!だから!!!」

と、その人はひどい顔で肩を叩き続ける。

 …結局、下着の紐が肩から見えているよ、と言いたいのだった。

 だったら

「紐が見えているよ」

とか何とか、はっきり言ってくれればいいのに。それか手を伸ばして、すっと直してくれるとか…。肩をバンバン叩いて見せたって分からないし、みっともないのはあんただよって思った。

 更にその人は「相手の立場に立つ」って事が出来ない人だった。電話をかけてきて、雑誌に載っていた店に行きたいと言うから

「場所は?」

と聞けば

「雑誌に地図載ってるよ」

と言う。

「何て言う雑誌?その雑誌の何ページに地図があるの?」

と聞いても

「名前忘れた。ほら、本屋にあるからさ。黄色い表紙。その雑誌をパラパラってやったら出てくるよ」

だと。あほ!

「その説明じゃ分からないよ。何て言う雑誌の何て言う名前の店で何ページ目の右上、とかそういう説明してよ」

と言っても

「だから表紙の黄色い雑誌、パラパラってやれば載ってる」

と自分にしか分からない事を言う。何がパラパラだ!一緒にいてイライラするぜ!

 仕事先の人間関係について話を聞いて欲しかったんだけど、何言っても黙ってるし。解決策求めているのにさ。

 その上その人は初めてエッチをした直後にこう言った。

「これをなかった事にして欲しい」

 …なんのこっちゃ。さびしさを堪えながらひとりで帰ったよ。

 だがその人は翌日電話をかけてきて

「本気になっちゃったからもう1回付き合って。付き合ってくれるなら今から千葉駅まで来て」

と、のたまった。

 付き合いたくないなら行かなくていいんだろう、と放っておいたら何回も何回も電話をかけてきて

「来てよ!来てよううう!!どうして来てくれないのおおおおおおお!!!」

と絶叫しているし。

 勿論絶対に行かなかった。なんちゅう大人げなさ!なんちゅう男らしくなさ!と呆れた。23歳のくせに。

 そしてその人はどういう思考回路になっているのか知らないけど、家を出たがっているあたしの事情もよく理解せず、ただ出るな出るなと言い、女友達と一緒に暮らすと言ったあたしにこんな屁理屈をこねた。

「女同士で暮らしたら、その友達の彼氏とエッチな関係になっちゃうんだよ。そうなっちゃうんだよ、そうなっちゃうんだよ、そうなっちゃうんだよ、そうなっちゃうんだよおお」

 は?なんだそりゃ。って事は、あんたがあたしの女友達に手を出すって事じゃん。もうその屁理屈も、嫉妬に狂った発言も聞きたくないよ!けなし文句も多いし。

「褒めたら自信持つだろ、自分をいい女と思って他の男に向かうだろ。だったら毎日けなしてけなして一切の自信を無くさせればいいだろ。俺と居るしかなくなるし」

と、父さんみたいな事を言う。けなされる方がずっと嫌だよ。とことん嫌になって離れた。

 性別が男なら、男らしいとは限らない、中身は女みたいな男もいると学んだ。


 次に出会ったのは、テレビ局で働きながらひとり暮らしをしている人だった。

「一緒に暮らそう」

 初めて会った日にそう言われた。

 親に毎日出て行けと言われている身、この人のアパートに逃げ込めばいいのかな、と思った。

 だがその人は言った。

「俺、アシスタントディレクターなんだ。激務の上に給料安いんだよ。つまり徹底的に金も無ければ時間も無いの。マリちゃんが家賃や光熱費を払って。家事も全部やって。それなら一緒に暮らしてもいいよ。ずっとずうっと支払いと家事をしてくれるなら結婚もしてあげるよ。マリちゃん得意な料理ってなあに?毎月の給料は幾ら?」

 どあほ!ヒモなんかいらねーよ!!!

 付き合う前に蹴った。

 女のヒモになりたがる男など相手にしないと学んだ。


 次に付き合ったのは、友達の同棲している彼氏だった。勿論内緒で付き合った。

 だが「不倫をしている状態」に酔いしれているその人が嫌だった。

 だって彼女とあたしの両方に「同じ香水」をプレゼントしたり(移り香でバレるのが怖かったんだろうねえ。だからわざと違う香水付けてやったさ!あははははは!!!)、食事しようと入ったレストランでお茶しか飲まないし。

「どうして食べないの?」

と聞けば

「家で食べなきゃまずいだろ」

だって。しらけるぜ。

 そして彼女とその人と3人で会うとわざとらしく

「久しぶりだなあ、こいつ久しぶりだなあ」

を連発する。それも彼女に背を向けて、あたしにパチパチウインクしながら。話を合わせろって事だろう。めんどくせー奴だ!後で文句を言ったら

「昨日はどうも、って言えってか?」

って言うし。

 普通に

「いらっしゃい」

とか

「こんにちは」

って言えば良いんだよ。アホ!オマエなんかいらねえよ!

 彼女がトイレに立った隙にあたしの耳元に口を寄せて

「愛しているよ」

とのたまう。

 そして普通の声で

「忘れんなよ」

だって。忘れてーよ。全然嬉しくないし。それでうまく世渡りしてるつもりか!母さんみたい。

 しかもその人は、あたしに「笑顔で我慢しろ」と要求してくる人だった。

「お前が俺のわがままをニコニコして我慢する女になれば、もっと愛してやるし一緒にいてやる」

だと!そんな都合のいい話があるか!!

 待ち合わせしてあたしの姿を見ると、必ず手をパンパン叩いて呼ぶし。犬じゃないよ!名前くらい呼べってーの!!

「彼女にあたしとの事がバレたらどうするの?」

と聞いたあたしに笑顔爛漫でこう言い放った。

「任せて、俺嘘うまいから。俺嘘うまいから。俺の嘘にみんな騙されるから」

 ああこの人、彼女とあたしの両方に嘘ばっかりつくんだろうなあ。嘘うまくも何ともないよ。むしろ下手だよ。

「床屋が混んでいたって言う」

だの

「昔の彼女が今の彼氏に暴力振るわれているらしくて、相談に乗っていたって言う」

だの

「昨日急に鼻血が止まらなくなってさあ。謎の病気だよ」

だの、彼女との約束を破るたび、あたしとの約束を破るたび、変な嘘を、極めて下手な嘘をこき続ける。口遍に虚しいって書いて嘘って読むんだよ。虚しくないのかい?

「子どもの頃、毎日芸能プロダクションにスカウトされた。親が断ってくれた。断らなければ俺も今頃スターだったんだけどなあ」

だの

「ある人がまだ高校生だった俺の前に2000万円の札束を並べて、これで会社を作って下さいと頭を下げた」

とか、おかしな作り話ばっかりするし。

「俺その時の事、今でもはっきり覚えている」

って嘘の上塗りしているし!

 その上その人は電話魔で1日に何回も電話してくる人だった。

「今、彼女が風呂に入っているから」

だの

「さっき切り方が悪かったから」

だの

「声が聞きたくて…」

だの。我慢していたけど、段々嫌になった。

 アルバイト先にまで電話してくるし。

「別に用って訳じゃないけど」

だと。あたしが水商売をしているのが気に入らず、「自分を常に忘れないでくれ」と言いたい訳だ。

 店が終わる時間に待ち伏せまでしているし。

「いつからいたの?」

と聞けば

「1時間くらい前から。もしかして店が暇で、早く上げてもらえるかもしれないと思って」

と、同情して欲しそうにのたまう。わざとらしい!居たのは3分前からだろ!嘘つき嘘つきバレバレの嘘つき!こうして夜出歩いているのも、彼女に聞かれたら

「急に散歩したくなって」

とか変な下手な嘘をこくんだろうなあ。

 駅までただ歩いて分かれる時もあったが、居酒屋に連れて行かれる事も多かった。

 店員に注文を聞かれ

「何か栄養のあるものを」

とか言っているし。食い物ってーのはどれでもそれなりの栄養あんだよ!あほ!!俺はお前の体を気遣ってやっているんだって言わんばかり。

 それでいて自分のせいで終電を逃したあたしをタクシーに乗せ

「じゃあお願いします」

と運転手に向かって言ってやがる。さも「俺は送った」って顔して。タクシー代くれないくせに!

 その人といるとタクシー代がばかにならず、大変だった。何回かそれが続いた後、その人が待ち伏せしている場所を避け、わざわざ遠回りしてまで駅に向かった。電車賃の方がずっと安いしね!

「そんなに俺を避けるなら、わざわざ送る必要はないのだろうか」

だと!ねえよ!ねえよ!誰が送れと言ったんだ!貴様が勝手に待ち伏せして勝手に駅まで付きまとっているだけだろ!

 話題と言えば、誰と誰が付き合う事になったんだって、とか、誰と誰がポシャったんだって、とか人の噂ばっかり。ワイドショーの解説員か!

「マリ、今日店を休んで俺と付き合え。日当払うから」

と言って何度も店を休ませ、ただの一度も日当を払ってくれなかったし。こっちが黙っているのをいい事に、あんたと居ても、稼ぎ損ねるばかりでなんにも良い事ねえよ!

 しかもその人は「嘘泣き」する人だった。虚しくねえのか!!うんざりして

「もう別れよう」

と言ったあたしにすがって嘘泣きをし続けた。

「やめてよ」

と、もっとうんざりしながら言ったら

「だってマリちゃんが僕の言う事聞いてくれないんだもん」

だと。正しいと思わねーから聞かねーんだよ!頭使え!

「マリちゃん、僕はね、すごく良い子なんだよ。だって高校生の時、親に授業料をもらうのに済みませんって言ってたんだもん。普通、授業料出してもらうなんて当たり前でしょ?なのに僕は親に済みませんって言い続けたんだよ」

とも言っていた。あほ!

 本当に良い子ってーのはそういう事を黙っているんだよ!わざわざ言って聞かすなんて、良い子でもなんでもないんだよ!ただの自慢なんだよ!!

 それに高校生の時に2000万の札束で会社を作ってくれと頭を下げた人の話はどうなったんや!嘘つき!自分のついた嘘を忘れるドアホ!

 その場で捨ててやった。21歳のくせに

「親に育ててもらったのは19年。最初の2年、里子に出されてた」

とかバレバレの嘘こいて同情して欲しそうにしているし。本当に2歳まで里子に出されていたとして、その頃の記憶があるのか!大嘘つき!

 何回振っても振られたって認識出来ないみたいでしつこく電話をかけ続けてきて、泣き落そうとするし。てめえ認知症か!

「もういい加減にしてよ。あんたなんかいらない!」

と言ったら

「では、捨てられてしまったと解釈するしかないのだろうか」

だと!とっくにオマエなんか捨ててんだよ!解釈も何もあるか!脳みそねえのか!!受話器が壊れんばかりに叩き切った。

 嘘つきほど嘘が下手だと学んだ。


 次に付き合ったのは別の友達が同棲している人だった。前の人の事があるし、3人で会うのは避けた。また嫌な思いするのはまっぴらだったしね。

 だがその人はあたしに髪型を変えろだの、化粧や服装を変えろだの、言葉使いを変えろのとうるさかった。

「支えてよ」

と言えば

「重い!」

と突き放すし、それでも愛して欲しくて

「好きだよ」

と言えば

「好きよ、でしょ」

と言うし、

「そうだよ」

と言えば

「そうよ、でしょ」

と言うし、

「いいじゃん」

と言えば

「いいじゃんか、でしょ」

だの、本当にいちいちうるさいし、鬱陶しかった。

 何も言えないと思い黙り込むと

「何黙ってんだよ、何か喋れよ」

と言うし。それでいて何か無理に話題を探して喋っても

「それはお前が相手の気持ち考えないからだろう。相手の立場で考えろよ」

だの

「それはお前の知識が足りないからだろう。もっと勉強しろよ」

だの、否定ばっかりするし。

 何も言えないと黙ると

「何黙ってんだよ、何か喋れよ」

とのたまう。で、また何か喋るとまた否定された。母さんみたいな人がまた現れた!

 化粧や髪型を変えろと言われるのも不愉快だったが、言葉遣いを毎回直されるのも、何か喋れと言われるのも、本当に腹立たしかった。オマエはどうなんだよ!こっちはその人の髪型や服装に注文つけないし、言葉遣いを直しもしないのに!

 その上その人はどうやら生活費を彼女に出してもらっているらしかった。それは何となく分かった。向こうはあたしが分かっていないと思っていたみたいだけど。

 段々本気になり、彼女と別れてあたしと暮らすと言い出したその人が疎ましくなった。

「別れなくていいよ」

そう言ったが

「お前だってこんな状態、嫌だろう。彼女とは、はっきり別れてお前だけの俺になる」

と自己陶酔しながら言う。片方の目だけから涙を落とすっつー、女優並みの技を繰り出してくるし。

 いいよ、彼女と別れなくて。別れてあたしのお金をあてにするようになったらそっちのほうが困るんだよ、と言いたいのをぐっと堪える。

 …ほどなくその人は二股している方がいいやと思ったらしく、彼女とあたしの間を行ったり来たりする事に陶酔し始めた。

 彼女がいない時に限りあたしを部屋に入れ、いつ彼女が帰ってくるかとビクビクしながらあたしとエッチをする。ホテル代がかからないからだろうねえ。薄給なんだろうねえ。気の毒に。

 そしてその人は理解力がない人だった。

「電車の中からあなたの住むマンション見えるよ。いつも見ながら通っているよ」

と言った所、自分も見たいと言い出した。

 一緒に電車に乗り、車窓からその人のマンションを指しながら言った。

「ほら、あれだよ」

「ええ…?あんな風に見えるうううう?」

 その人は全然違う方向を見て顔をしかめている。

「どこ見てんの?あっちだよ、もっと右、ああもう見えなくなった」

と言ったら、その人はキョロキョロしながら混乱している。ああ、一緒にいてイライラする人だ、と思ったよ。

 …そう言えばその人の事を、彼女がこんな風に言っていた。

「彼はね、お鍋作っても、あたしが取って、むいて、食べさせてあげないと絶対に食べないのよ」

 ある時、その人が鍋を食べたいと言うから飲食店に入り、よせ鍋を注文した。

 運ばれてきた鍋をその人は決して食べようとしない。

「どうして食べないの?」

と聞いたが

「ん、いい」

と言うばかりで、決して箸をつけようとしない。

 あたしに取ってむいて食べさせて欲しいんだなというのは分かったが、彼女と同じ事をしたくなかった。

 そう、その人はあたしを「試した」のだ。母さんみたいに。

 取ってむいて食べさせてくれたらあたしを選ぶ、とか何とか思っていたんだろう。だがそうしないあたしはその人の「試験」に落ちた訳だ。受かりたかねーよ。子どもじゃないだからさ、自分で取ってむいて自分で食べなよ、と言いたいのをぐっと堪える。

 その人はとうとう最後まで鍋に手を付けなかった。しらけきって店を出る。その人も、空腹やら不満やらでゲッソリしながら黙って店を出る。この人との別れも近いな、と思った。

 家に戻り、わざわざあたしの前で彼女の勤め先に電話して、これ聞こえよがしに優しく話しかけちゃっているし。ホント、しらけるぜ。電話を切ってから

「何だよ、なんか文句あんのかよ」

だって。なーんにも文句ないよー。ただ、あたしが他にオトコ作っても文句言わないでね。あははははは。

 あたしは心の中で毒づいた。それでいてその人はこう言った。

「お前、オトコ作るなよ」

 勝手だねー。自分は女いるくせに!何かと言えば

「でも恋しているのはマリだよ」

って言い訳するし。だから?感謝しろってか?それに愛しているのは彼女だって事だしね。

 別れる時に揉めたくなかったからさ。あたしは何回もその人に言ったよ。

「あたしはあなたに何も望まないし、絶対に迷惑をかけないわ」

 言うたびにその人はニヤリと笑いそうになり、それを必死に堪えていた。心の中でシメシメと思っているのはミエミエだ。

 そしてその人は偉そうに口先だけでこう反論してきた。

「何も望まない奴が恋愛なんてするはずない」

「違う、あたしそういう事、言いたいんじゃない」

「じゃあ、どう言う事を言いたいんだよ」

「分からない?それはあなたが自己中心的にものを考えているから分からないんだよ。あたしの立場で考えてみな。一発で分かるよ」

「何だよ、はっきり言えよ」

「はっきり言ってんじゃん。あたしはあなたに何も望まないし、絶対に迷惑をかけない。だから何だと思う?」

 一瞬の笑いをかみ殺しながらその人は苛立った口調で言った。

「さあな」

「だからあたしを捨てないで、ではないよ」

と言ってやったら、その人はさも意外そうな顔で向き直った。

「どういう事だよ!」

「だからあなたもそうしてね。あたしに何も望まないでね、絶対にあたしに迷惑をかけて来ないでね!髪型や化粧や服装、言葉遣いを変えろとも言わないでね!鍋を取ってむいて食べさせてくれとも望まないでね!きれいさっぱり別れてね!引きずらないでね!」

 次の瞬間、ブチ切れたその人はあたしを滅茶苦茶に殴った。あたしが自分に捨てられたくない一心で、何も望まないだの迷惑をかけないだのと言っていると思っていたのに、裏切られたと思ったようだった。

 こんな男いらない!こっちも椅子で応戦し、部屋を滅茶苦茶に荒らした挙句にひとりでさっさと帰ってやった。

 彼女が帰って来てからこの割れたガラス窓やら飛び散った食器をどう言い訳するんだろうねえ、と思いながら。勿論、それきりだった。

 自己中心的な男も、依頼心の強い男も、相手にするものじゃないと学んだ。


 次に付き合った人は最初こう言ってくれた。

「毎日会いたい。毎日顔を見たい」

 親にあんたの顔を見たくないと言われ続けた身、そこは嬉しかった。

 だがその人は、前の彼女の話ばかりする人だった。仕事の帰りに津田沼駅の近くで働いているその彼女に会いに行ったら、冷たくされたとか言ってあたしの前で落ち込んでやんの。

「だって乗った電車が津田沼行きだったんだもん」

それがその人の言い分だった。呆れていたらこう言い放った。

「じゃあ調べてみろよ。本当に津田沼行きだったんだから!」

 そういう問題じゃねえよ。そのあと千葉行きの電車に乗り換えればいい話だろ!

 その上その人は、当時ホステスのアルバイトをしていたあたしに日当がいくらか聞き、

「5000円」

と正直に答えたあたしに

「へえ、俺の前の彼女もホステスやってたけど日当1万5000円だったよ」

と平気で言い、あたしを馬鹿にした。

「3分の1か!」

とかね。

 こっちはその人の給料の額なんて聞かないし、他の人と比べて馬鹿にしたりしないのに!

「前の彼女、料理うまかった」

とか言って、あたしの料理を食べないし。

「だってあたし、その人じゃないもん」

と苦手な反論をしても

「前の彼女やってくれた。よく出来た。だからお前もそうして。前の彼女みたいにやって」

だと!

「前の彼女とあたしの区別つけてよ」

と言ったら、子どもみたいに口をぶーっと尖らせて

「でも、前の彼女の方が良かった」

と、まだ言う。何が「でも」だよ!

 一度そうめんを茹でようとした時、

「砂糖入れないでね」

とのたまう。そうめんに砂糖なんて聞いた事ねーよ!

「どうしてそんな事言うの?」

と聞けば

「前の彼女が砂糖入れてそうめん茹でる奴だったから」

と言う。

「じゃあその人に言えばいいじゃない。何であたしに言うの?相手を間違えてるよ」

と言ったけど

「でも、砂糖入れられたら嫌だから」

と口を尖らせて言う。あほか!頭直せ、この脳みそ縮み野郎!前の彼女は料理がうまかったと言った同じ口で何言うとんのや!ぼんくら!

 待ち合わせしたらしたで、会った途端に

「ああそう言えば、前の彼女と会うのもだいたいこのくらいの時間だったんだよ」

と聞きもしないのに自分から言うし、しかもさっさと背を向けて歩いていくし!

 そんな事聞かされたこっちが、どんな気持ちで後から付いて行くかなんて考えもしないんだろうなあ。この人はこういう目に遭わないんだろうなあ。

 しかもその人は避妊をしてくれない人だった。

「生の方が気持ちいい!!」

だと!

「あたしが妊娠したらどうする?」

と試しに聞いたら

「なんだかんだ言っておろす事になるんだろうなあ」

だって。

 お互い独身で、お互い働いているから結婚できない訳じゃないのに…。

 もしあたしが妊娠しても、この人は本当になんだかんだ綺麗事を並べつつ、あたしに中絶手術をさせるんだろうと思うとたまらなかった。

 友達の彼女の事を

「あいつの彼女、雑誌のモデルだって!」

ってさも羨ましそうに言っているし。

 常に誰かと比較される方がどんなに嫌な思いするか、分からないんだろう。前の彼女だの、友達の彼女だの、いつまでも比べられるんだろう。

 その上その人はあたしに向かって

「はまっちゃいねえよ。俺はお前なんかにはまっちゃいねえよ」

と連発する人だった。

 要するにあたしなんか全然好きじゃないけど付き合ってやっている、前の彼女が忘れられないけど、あたしで我慢してやっているって事だろう。

 しかもその人は、仲間の就職祝いのパーティーを盛大にやるからお前も来いと呼んでおいて、いざその席で大勢の仲間の前であたしを指さしながらこう言った。

「こいつはね、なまじっか美人だから男にモテないんだよ!だから俺が仕方なく相手にしてやってるんだ!ハッハッハッハッハッハッハ!」

と、大声で笑っている。仲間のみんなはびっくりして、誰も笑っていなかった。あたしが他の男の人と仲良く喋っていたのが気に入らなかったのか何だか知らないけど酷いよ!

 更にその人は、就職が決まった人(その集まりの主役さん)の彼女にこれみよがしに優しくしていた。

「君は良い大学に行って賢くていいねえ」

 あたしは中卒だから馬鹿だと言いたいのか?

 人間扱いされていない気がして居たたまれず、黙って帰った。みんなの憐れむ眼差しに耐えられなかったし。

 過去にとらわれ過ぎている人も、罵倒してくる人も、相手にするものじゃないと学んだ。


 次に会った人は1回キスしただけで

「ドツボにはまった。ドツボにはまった」

と言ってくれた。

 前の人に「はまっちゃいない」と言われ続けた身、そこは嬉しかった。

 だがその人は、親がひどすぎるから家を出たいと言うあたしの話を否定した。

「お前の親は正しいんだよ。お前がおかしいんだよ」

と真っ向から反論してくる。

「凄い暴力振るうし、出ていけ、そればっかり言うよ」

と言ったが、信じられないって顔して

「それはお前がなんか悪い事したからだろう」

と否定する。

「お父さんはお酒飲んで暴れるの?」

だの

「血は繋がっていないの?オマエ、ままっ子なの?」

とかね。

 父さんは酒なんか飲まなくても暴れるっていうか、抑えきれずにって感じで暴力振るうし、血は繋がっているよ。ものすごーく嫌らしいし。

 ああ、この人もあたしを理解してくれない人だ。うんざりして言う。

「あなたには分からないよ。あなたは愛されて育ったんでしょう?あたしは疎まれて育ったの」

 その人は間髪入れずに反論してくる。

「自分でそう思っているだけだよ!」

「飯抜きなんてしょっちゅうだったし、体罰も毎日だったよ」

と、苦手な反論をしても

「そりゃあ、たまーにそう言う事あったかも知れないけど、毎日ではなかった筈だよ。お前がそれをあまりにも強烈に覚えていて、毎日だったって思い込んでるだけだと思うよ」

 あーもう、説明するのめんどくせー。もう黙るしか、あきらめるしかなかった。

 特にやりたい事もなく、アルバイトをしょっちゅう変わりながら

「俺は40歳くらいになったら、さあこれから何しようかなって考えるつもりだよ」

とも言ってたし。それじゃおせーっつーの!

 しかもその人は、母さんみたいに脅したり、交換条件を出してくる人だった。

「マリ、家を出ないんだったら、この後この前行った居酒屋に来て」

 家を出ないなら来い、という事は、家を出るなら行かなくていいんだろうと思い、行かなかった。その人はあきらめきれず、何回も何回も電話をかけてきて

「来てよおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

と絶叫した。誰が行くかよ、自分の言った事に責任持てってーの!居酒屋には他にもたくさん人がいるだろう。自ら恥かいちゃって、嫌じゃないのかい?

 結局来ないあたしへの当てつけか何だか知らないけど、その店の階段から飛び降りて足を打撲して、それさえあたしのせいだと言うし。何でも人のせい。父さんみたい。

「家を出るなら別れる」

と脅すから、

「じゃあ別れよう」

と言えばキレるし、泣きつくし、何か気に入らない事があれば、何時間でもあたしと口をきかなくなるし、手を焼いたぜ。

 勇気を出して

「そういうの、やめてよ」

と言うとこんな答えが返って来た。

「お嬢ちゃん、おいくつ」

 …絶句した。あたしより5つも年上のくせに。

「お嬢ちゃん、おいくつ」

 何回も何回も言う。しかも毎回舌打ちしながら。

 その舌打ちは「呆れているよ」という事だったし、「お嬢ちゃん、おいくつ」というのは「黙れ」という事だった。

 黙り込むとその人は笑いながらこう言った。

「ハハハハハハハハ。ヤンキー女が!」

 黙らないと怒鳴られた。

「おじょうちゃん!おいくつ!!」

 この人、どうしてあたしといるのかなあ、そんなにあたしが嫌いなら一緒にいなきゃいいのに。

「おっじょうっちゃんっ!おっいっくっつ!!!!」

 一字一句、区切って言う事もあったし

「おじょーちゃん、おいくつー、おじょーちゃん、おいくつー」

と変な節をつけて歌う事もあった。お嬢ちゃんおいくつ、以外の事を言うボキャブラリーがないんだねえ。呆れて黙るしかなかった。

「もうぐれてる年じゃないでしょ!」

とかね。

 しかもその人は、デートの約束を平気でドタキャンする人だった。

「どうして?」

と聞くと

「選挙だから」

と答えにならない答えが返ってくる。

「どうして選挙だと会わないの?」

と聞いても

「だから、選挙だから」

としか言わない。

 要するに、あたしとはいつでも会える、多少の事をしてもあたしが自分から離れて行かないとたかをくくっているのだった。

 馬鹿にするな! 都合が悪くなると電話でも黙りこくるし。電話で黙られるとイライラするんだよね。

「聞いてる?」

と聞けば

「マリが喋るのを待っていた」

ってあたしのせいみたいに言うし。デートの約束をして待ち合わせ場所に現れた途端に

「兄貴と飲みに行く約束入っちゃった!」

と言って平気でそれを優先するし、ああしろ、こうしろ、言う事聞け、聞かないなら別れるって毎回交換条件付けて、脅して、他にする事あんだろ!それでいて

「じゃあ別れよう」

と言うと慌てて

「嘘、嘘だよ、うーそー!!」

って半泣きで言うし。

 それが何回か続いた後

「何か、段々腐れ縁って感じになってきたね」

と言うから

「どうして?」

と聞けば

「だって何回別れても元に戻るから」

とのたまう。

「そっちが別れたくないって泣きついてくるんじゃん」

と言えば

「そうだけど」

と口ごもる。

「腐れ縁なんて、そこまで言うならもう今度こそ別れよう」

と、冷たい背中を向けて去ってやった。その後何回も電話してきたが、毎度叩き切り、絶対相手にしなかった。

 変に安心してたかをくくる男も、脅す男も相手にするものじゃないと学んだ。


 次に付き合った人は、毎回あたしをホテルへ誘う人だった。前の彼女とは「義務」でエッチをしていたと豪語していた。

「君のファンだ」

と熱心に口説いてくれたので、可愛がってくれるかなと思った。

 愛されずに育った身、どんな愛でも無いよりは良いような気がした。

 だが何回目かのエッチの時、その人は急に枕をべろりと舐めた。

 ドキリとした。

 その後もシーツやらなんやら、色々なものをべろべろ舐めていた。

 あたしの体が汚くて、あたしとエッチをするのが嫌で、枕やシーツで舌を拭いているのだった。あたしの目の前で何回もやっているんだから、分からない筈がない。でもその人はあたしが気付いていないと思っているらしかった。何回も何回も枕やシーツを舐めているその人。あたしから目をそらしながら、あたしから顔を背けながら。

 それこそ「舐めんじゃねえよ」だった。

 ああこの人、あたしとも義務でエッチするようになったんだ…。だったら最初からホテルなんかに誘わなきゃいいのに…。決して「あたしのファンではない」人だった。

 しかもその人は、せめて会話を楽しみたいと、エッチの後色々話しかけるあたしの話を無視する人だった。

「あたしのどこが好き?」

 勇気を振り絞り、震える声で聞いても答えてくれないし(この時、幼い頃父さんと母さんに、マリ可愛い?と聞き続けた事を思い出していた。小さい頃も、大きくなってからも、あたしは惨めだった)。

 要はどこも好きじゃないって事だろう。いつも何か別の事を考えて、他の人の事を考えていて、心ここにあらずだし。

 義務のエッチも耐えられなかったが、何を言っても無視されるのも、あたしときちんと向き合ってくれず他の事を考えていられるのも、本当につらかった。はけ口としか見てもらえないなんて、酷いよ。

「もう会うのよそう」

と言ったらこんな答えが返って来た。

「俺あなたに対して、捨て猫拾って餌やるような気持ちだったんだ」

 …あたしゃ猫じゃねーよ!人間だよ!人間扱いしてくれてねーよ!

 無い方が良い愛もあると学んだ。


 次に付き合った人もすぐにエッチな関係になる事を望んだ。

 だが前の人との心の傷が癒えていないし、簡単にそうなりたくなかった。

 そう、あたしは「エッチにより傷ついた」のだったから。なかなか「そうなりたがらない」あたしにその人は焦れていた。だがあたしはあたしを大事にして欲しかったから、決して密室には行かなかった。

 映画(勿論普通の恋愛映画。ポルノ映画は嫌だ!)を見て、食事をして、普通のデートを楽しみたかった。そして何より、会話を楽しみたかった。前の人とは会話が成り立たなかったし…。

 仕事先の人間関係に悩むあたしの話を聞いて欲しかったんだけど、その人はこう言った。

「君は君で税金を払っている身だ。まして俺が使っている部下という訳でもない。つまりその問題は俺の管轄外だ」

 …絶句したよ。突き放されたと思った。税金とか管轄とか…。

 もう何も言えない。悲しく口を閉じるあたし。

「黙ってるなら帰ろうよ」

 その人が言う。頷くしかない。

「じゃあね」

と改札前でその人に背を向け、試しにすぐ振り向いてみた。どんな顔で見送るか、見てみたかったんだよ。

 …と、そこで実際凍り付く事になる。

 その人は、まるで鬼のような形相で思い切り舌を出しながら、あたしに向かって中指を立てていたのだ。

 びっくりして固まっちまう。その人もまさかあたしが一瞬後に振り返ると思っていなかったんだろう。お互い茫然とする。

 すううう…、とその人の舌がひっこみ、中指も下がる。どうしていいか分からず、お互い固まったままだ。

 …気まずそうに、その人は背中を向けて走り去っていった。恐ろしいものを見たあたしもその場から逃げた。

 こういう人を性格異常者っていうんだと学んだ。


 次の人は、初めて会った時にこう言ってくれた。

「君は箱に入れて、たいせつに取っておきたいような綺麗な女の子だ」

 勿論嬉しかったよ。

「君が20歳になって気持ちが変わらなかったら結婚しよう」

とも言ってくれたしね(未成年の頃って、むやみにプロポーズされた気がする)。笑顔で頷いたよ。

 16歳にして婚約したぜ!って安心した。最初、大盤振る舞いしてくれたし。

 だが段々ケチになり、しまいにデートの場所はその人のコキタナイアパートの一室に限定された。金がかからないからだろうねえ。

「マリは安上がりでいいね!前の彼女、この部屋嫌がっていたから、ホテル代も飲み食い代も馬鹿にならなかった。本当にマリは安上がりでいいね!!」

とか平気で言うし。人ってここまで変わっちゃうのかと悲しかった。

 親に無理やり家事をさせられ続けた身、家事を押し付けられるのはごめんだった。一切財布を出さない上、食事の支度や後片付け、掃除や洗濯をあたしにさせたがるその人が嫌だった。

 あたしが自分の為に、掃除だ洗濯だ料理だ後片付けだと忙しくバタバタ働いているのに、寝転んでテレビ見てるしね!タダで使える家政婦かいな?さぞかし便利だろうね!母さんみたい。

 しかも!あたしを呼び止めてうちわで扇げと命令して

「王様気分~!」

とか歌っているし。飛び蹴りしたろか!

 その人は本当に何をしてやっても喜ばず、文句ばかり言う人だった。焼き肉をしても

「この焼き肉のたれは好きじゃないので別のにして」

と言う。別のたれを買ってきても

「これも好きじゃないから別のにして」

とのたまう。冷蔵庫の中に、使いかけの焼き肉のたればかりゴロゴロ溜まっていく。

 ついに、一緒に買い物に行き

「どれ?選んで」

と焼き肉のたれのコーナーで本人に選ばせたら、すっと進み、あたしが思いもよらないたれを選んだ。ああこの人とあたしは味覚が違う、と思った。

「焼酎のお湯割りを一杯だけでいいから作って」

と言うから作ってやったらすぐ飲み終えて

「もう一杯だけ」

と言う。仕方なく作ってやったら

「あと一杯だけ」

と言う。さっきもそう言っただろ!と言いたいのをぐっと堪えて作ってやれば

「もう一杯だけ」

とのたまう。それを12回くらい繰り返した。きりがなくてイライラしたぜ。普通に、おかわりって言えばいいものを。もう一杯だけで終わるのかと思うじゃん!ムカつくぜ。

 その上家事に疲れ果て、横になろうとするとすかさずエッチを試みて来るし。疲れてんだからそんな事したかねーよ。エッチすれば疲れが取れるとでも思ってんのか?ドアホ!

 そしてその人は「説明が出来ない」人だった。父さんみたい。食事に関しては

「普通のものを普通に用意してくれればもうそれでいいから」

だと!ふざけるな!

「それじゃ分からないよ。どんなものが食べたいのか言ってよ」

と言っても

「だから普通のものが食べたい、普通のもの!」

と言うばかり。さっぱりわかんねーよ!

「何を指して普通のものって言っているの?」

と聞けば

「普通のものを指して普通のものって言ってる」

と答えにならない答えが返ってくる。

「だからどんなんよ!」

と切り返しても

「だから普通のものは、普通のもの」

と言うばかり。

「材料は?」

と聞けば

「普通の材料」

と、やっぱり答えになっていない。

「これ、変な材料?」

とあたしが作った料理を指しながら聞くと黙っちゃう。

「どんな色?どんな匂い?どんな形?」

と聞けば

「普通の色、普通の匂い、普通の形」

と、ますます答えになっていない。

「だからどんなんよ!ちゃんと説明してよ!その通りやってあげるから」

と言ったら

「だから普通のもの!普通のもの!ふっっっつーーーーーーのもの!!!」

と苛立ちながら言う。

 お互い意志の疎通が図れず、気が狂いそうだった。

「分かるように言って」

と言うと目と口を大きく開けて

「ふつうの、ものが、たべたい」

と一字一句はっきりと言ってみせる。

「あたしは耳の遠いぼけ老人じゃないの!内容が分からないの」

と言えば

「普通の内容」

と返してくるし、それで分かる奴いねえっつーの!!

「漠然とし過ぎていて分からない。具体的にどんなもの?」

と聞けば、混乱しながら

「具体的に、普通のもの」

だと!

 何作ってやってもさもまずそうに一口だけ食べてから、これ見よがしに三角コーナーに捨てに行くし(おかげであたしゃ、大人になっても三角コーナーが嫌いだ!)。

 一度なんて、カレーを作り、付け合わせのサラダをテーブルに出した途端に

「サラダでご飯食べろって事?」

って突っかかってくるし。誰がサラダおかずに白米食えっつったんだよ!そうしたきゃしろよ!あほ!!

 その後カレー出したらおとなしく食べ始めたけどさ。面倒みきれねーよ。

 掃除洗濯に関しても

「普通の事を普通にやってくれれば、もうそれでいいから」

だと!ふざけるな!自分は何もせず口ばっかり!しかも靴下から下着からシャツから全部裏返しに脱ぐし!

「いちいち表返すの大変だから裏返しに脱ぐのやめてよ」

と言っても、にやにやするばかりで全然改めてくれないし。家事労働がどんなに大変か、分かってんのか!!

「チャッチャッチャて、やってってくれれば、もうそれでいいから」

だと!何がチャッチャッチャッだ!それじゃ説明になってねーだろ!場所の説明も、勿論出来ない。

「近くに薬局ある?」

と聞いたあたしに

「そこ」

と、あらぬ方向を指さして言う。

「このアパート出て左へ行って、最初の角を右へ、細い坂を上がって信号を渡って、とかそういう説明してよ」

と言っても

「だから、そこ」

と相変わらずきょとんとしながら、あらぬ方を指さしているばかり。自分にしか分からないものの言い方しか出来ない。

 その人が何か言うたびに、よく分からない要求をしてくるたびにイライラした。

 しかもその人とあたしは趣味も考え方も何もかも違っていて、一緒にいてもほんの少しも楽しくなかった。同じテレビを見ていても笑う所が違ったしさ。

 食事を用意してちゃぶ台に並べ

「食べよう」

と言ったけど、あたしに何かを「目で訴える」ばかりで食べないんだよ。腹が減ったっつーから作ってやったのに。

「早く食べなよ」

と言ったら、何と!手づかみで食べだした。そこでようやく箸を出すのをあたしが忘れていたって事に気付いたけど、呆れたよ。

「箸ちょうだい」

そのたった一言が言えないし、言わない、自分で箸を取りに行く事さえ出来ない。100%面倒見なきゃいけないなんて、疲れるぜ。

 仕方なく箸を取りに行き呆れながら渡したら、ご飯粒の付いた手で黙って受け取り、続きを食べていた。熱い味噌汁にも手を突っ込む気だったのかねえ。

 食事する時も新聞ばかり読んで、あたしと一言も口きかないし。黙って食べるご飯は味気なかったしさびしかった。

 この人と例え結婚しても、こういうさびしい生活になるんだろうなあと思ったら付き合い続ける気にはならなかった。

 その上その人は聞き間違いと被害妄想がひどく、話にならない人だった。一緒にテレビを見て、がん保険のコマーシャルが流れた時の事。

「がんになった人がね、死ぬときに千年も万年も生きたいわって言って死んだんだって」

と何の悪気もなく言ったあたしに急に激高した。

「おきれいだな、お前はおきれいだな。千年も万年も生きたいだと?がんになった奴がそんな事言うか、そんな事言うもんか」

と、あたしの胸ぐらをつかんで迫ってくる。

「何て聞こえたの?あたしは何の悪気もないよ」

と言ったが

「俺の知っている35の奴ががんになったんだ。お前に分かるか?がんってどんな病気か」

とひとりで興奮している。この人、母さんみたい。勝手に勘違いして勝手に荒れ狂うんだから。

「お前に分かるか?18の女の子が抗がん剤の影響で髪がすっかり抜け、苦しむ姿を。見舞いに行っても呻き声しか聞こえない。お前に分かるか?」

だと。作り話もいい所だろう。何良い人ぶってんの?このぼんくら、頭直せよ。俺の知っている35の奴が、いつの間に18の女の子になったのか知らないけど。

 あたしを勝手に悪者にして、自分が良い人ぶって、悪者のあたしを正してやっている正義の味方のつもりなんだろう。1時間も2時間も説教たれてくるし、暴力振るうしもう嫌だ。

 それでいて暴れた後

「マリ、ごめんな。二度とやらない」

って泣いて謝るし。そうかと思えば

「お前は散々酷い目に遭ってきたんだろう、だったら俺を有り難く思え!もっと幸せがって、俺に精一杯尽くせ!」

とのたまうし。全然有り難くないし、ちっとも幸せじゃないよ。むしろ不幸だよ。

「別れよう」

 耐えられなくてそう言ったら、こんな答えが返って来た。

「俺、本当はね、マリちゃんとは友達でいたかったの」

 だったら最初からそうすりゃ良かったろ!今更そんな事言ってもしょうがねえだろ!あんたなんかいらねえよ!

 勘違いする人を相手にしてはならないと学んだ。


 次に出会ったのは50歳くらいのおじさんだった。

「マリちゃんって、時々ふっとさびしそうな顔するんだね」

って言われた。そうかなあ。無意識にそう言う顔してるのかなあ。確かにさびしいけどさ。

 そのおじさんは食事やお茶を一緒にするだけで、奢ってくれる上に毎回1万円もお小遣いをくれた。

 何となく、天涯孤独で病気らしいという事は分かったが、心の中でそれがあたしとどういう関係あるんだよ、とも思っていた。

 会うたびに顔色がスゲー悪くなっていくし痩せていくので、もしかして病気が進行しちまっているのかとも思ったが、3万円くれるようになったので、まあいいやくらいに思っていた。

 おじさんだし、恋愛の対象にはならなかった。向こうもそうだろうとタカをくくっていたら、ある時分かれ際にこう言われた。

「マリちゃん、今日、女になれよ」

 …エッチをさせろという事だろうというのは分かったが、おじさんだし、不細工だし、全然好きじゃないし、気持ち悪いし、とにかく嫌だった。

 びっくりしてはいかん、と思いながらびっくりしていたら、必死になってこう言う。

「ちゃんとしてあげるから。ちゃんとしてあげるから」

 お金をたくさん渡す、財産を全部くれるという事なんだろうというのも分かったし、もうひとつ、あたしが自分を全然好きじゃないのも分かっている、それでも、と言いたいのも分かった。だが嫌なものは嫌だった。

「ごめん」

そう言ってちょうど来たタクシーに手を上げ、ひとりで乗った。一刻も早くそこを離れたい一心だった。捕まって無理やりホテルに連れて行かれるのは死んでも嫌だからね。

 立ちすくむおじさんが、茫然としながら手を振っている。追いすがりたいのを懸命に堪えているのが分かる。

 悪いな、と思いながら手を振った。タクシーは遠ざかる。おじさんが追いかけて来ない事に心底ほっとする。タクシー代は痛いけど、好きでもないおっさんとエッチするよりなんぼかましだった。

 それきり、逃げたよ。

 …しばらくしてから、人づてにその人が死んだと聞いた。末期癌だったそうだ。そして本当に天涯孤独だったのだ。

「あんたが冷たくするから」

と言われたが、やっぱりおじさんの相手はどうしても嫌だった。そのおじさんとしたら、あの世にお金を持って行けないし、財産なんかあたしにくれてやるから、看取ってくれ、孤独死だけは嫌だから、面倒を見てくれという気持ちだったんだろう。悪かったな。

 あたしがその人から学んだ事は…何だろう…?


 あたしは思ったよ。誰かあたしを愛してくれないかなって。

 だけど寄ってくるのは変な男ばかりだった。そしてどの人の事も、あんまり好きじゃなかった。

 誰かに愛して欲しかったんだけど。このままのあたしを無条件に愛して欲しかった。でも親も男も誰も、このままのあたしを愛してはくれなかった。

 誰かに支えて欲しいけど、相手にされないか、条件付きか、重いと突き放されるか、嘘つき呼ばわりか、いじめられるか、望まない事ばかりだしね。

 何の為に生まれてきたか、生きているのか、それさえ分からないよ。自信も自己肯定感も、何もないよ。さびしいからって誰かを相手にしても、愛情がなければもっとさびしくなるしね。どうすりゃいいんだろうね。

 ため息ばかりつく親を見て育ったけど、気が付いたらあたしもため息ばかりつくようになっていた。

 親は小さい頃からあたしの未来を悲観し続けていたけど、あたしも自分の未来を悲観せずにいらんないよ。本当にどうすりゃいいのか、どうすれば愛されるのか分かんないよ。愛し方も愛され方も、生き方も、どうして生まれたかも、なんにも分かんないよ。

 仕事だってこのままどんどん変わり続けていいとは思っていないよ。けど何をすればいいのか、自分に何が出来るのか、分からないんだよ。だからウエイトレスかホステス続けていくしかないんだよ。

 しょっちゅう転職するのはきついし、いい加減ひとところに落ち着きたいけど、何故かいつも辞めざるを得ない状況になっちまうしね。

 信じてくれる人も応援してくれる人もいないし、まわりに助けを求める事も、相談する事も出来ないし、本当にどうしたらいいんだろうね。どこにも居場所なんかないしさ。出口の見えないトンネルの中をずーっと歩いているような気持ちだよ。

 神様はどうしてあたしにこんな過酷な人生与えたんだろうな。

 …たまんねえよ。


 ある時、付き合ってもいいかなって思う人に電話番号を教えた。その人は翌日、目をまん丸くしてあたしにこう言った。

「夕べ、マリちゃんの家に電話したらお父さんが出て、おたく、うちの娘とどういう関係ですか?って聞かれたよ」

 絶句したぜ。

 昨夜、あたしが帰った時に、父さんはまるで「珍獣を見るような目」であたしを見ていた。あたしゃ珍獣じゃねえっつーの!男から電話があったからだったんだ。電話があった事さえ言わなかったしね。

 あーもー、父さんと母さんは

「お前さえいなければ」

って言うけど、あたしは「この親さえいなければ」って思っているよ。


 また別の時、女友達と遊んでいるうちにその子が最終電車を逃した。

「マリちゃんちに泊めてよ」

そう言われ、見捨てる訳にもいかずに家に電話した。

「友達が電車逃したからうちに泊めてもいい?」

そう律儀に聞いたあたしに母さんが激高する。

「最終電車なくなるまで遊んでいるのが悪いんじゃない!」

 苦手な反論をする。

「逃したものはもうしょうがないじゃん。2時間くらい歩かなきゃいけなくなるんだよ」

 母さんが居丈高に言う。

「歩きゃいいじゃない」

 もう言っても無駄だ。黙って電話を切る。

 母さんは夫選びを失敗しただの、気の合わない夫とやっていくのは嫌だのと、散々言った。

 その時にあたしは決して

「よく考えずに結婚するのが悪いんじゃない」

だの

「やっていけばいいじゃない」

とは言わなかった。やってしまった事はもう仕方ない。大事なのはこれからだ、とかそういう考え方を母さんは一切してくれなかった。

 自分は結婚の被害者、可哀想な自分に同情して言う事を聞け。電車逃した友達が悪い、本人が加害者、2時間歩けって、…なんだかなあ。

 結局朝まで喫茶店でその子とくっちゃべって過ごしたよ。本当はこの子、わざと電車逃したのかな?この子も家に帰りたくなかっただけなのかな、って気もした。


 その頃、うちには不審な電話が何度もかかってくるようになっていた。あたしが出ると、知らない男の声で

「沖本マリさんですか?」

と聞く。

「そうです」

と答えると

「大村マチコって知っていますか?」

と言う。

「はい」

と答えると

「最近、大村マチコと会いましたか?」

とのたまう。…何だ、こいつって思った。

「誰ですか?」

と聞くと

「シミズです」

って言う。

「だから誰?」

って聞けばまた

「シミズです」

ってハンコで押したみたいに言う。

 絶句していると

「大村マチコと会ったのはいつですか?」

と聞いてきやがる。

「どうしてそんな事聞いてくるんですか?」

と聞いても

「だから最近会ったのいつですか?」

と馬鹿のひとつ覚えよろしく聞いてくる。

 …恐ろしくなって切ったよ。何か、マチコがとてつもなく恐ろしい事態に巻き込まれている気がした。

 何回もかかって来たけど、下手な事を言おうもんならマチコが酷い事されそうで、切るしかなかった。


 また、別の時に以前アルバイトしていた店で一緒だったチアキさんから電話があった。

「元気?」

だって。…はて?意地悪したくせに!何の用じゃい?

「元気ですよ」

と答えると

「うん、久しぶりに声聞きたくてさ」

ともじもじのたまう。何だか歯切れが悪いなあって思っていると、何とこう言い出した。

「ねえ、マリちゃん今いくら持ってる?」

 びっくりして

「どうして?」

と聞くと

「しばらく…貸しといてくれない?」

だって。ガーン!

「無い」

と言うと

「もらったばっかじゃん」

と言う。そう言えば今日は26日。昨日給料日だったって分かっていて電話して来たの?

「無い」

と言っても

「頼むよ」

と、恥ずかしさを堪えたように言う。

「無い」

と突っぱねても

「今一緒にいる男が働かねーであたしの金使っちったんだよ」

だと!そうじゃなくてチアキさんが優しい女と思われたくて、自分のお金を差し出したんだろ!その人から回収すればいいだろーが。どうしてあたしから借りようとすんだよ!

 苦手な反論を飲み込みもう一度言った。

「無い」

 そしたら不機嫌丸出しで

「分かったよ。もう頼まねえよ」

だって。

「もう電話しないで」

と切ったわ。

 あーあー、チアキさんたら変な男に引っかかっちゃって、さっさと断ち切ればいいのに断ち切れないんだろうなあ。アホだねえ。


 またしばらくして、サトコさんから電話が来た。サトコさんもあたしに意地悪したけどね!

「マリちゃん、良い話があるの。絶対儲かる話」

と、興奮してベラベラ話してくる。一応話聞いてやったけど、聞けば聞くほど怪しいってか、変な感じがした。当時、組織販売とかねずみ講って知らなかったんだけどさ。

「今サトコさんが言ったような事を、あたしも誰かに言う事になるんでしょう?」

と聞いたら

「そう。マリちゃんが1カ月に二人ずつ友達を紹介して、更にその友達が二人ずつ紹介すれば、それだけで毎月15万ずつ入って来るようになるよ。良い話でしょ?」

だと!

「え…。なんか話がうま過ぎない?怪しい感じするよ」

と言った所

「勿論最初に50万くらい払うんだけどね。でもすぐにモト取れるからいいじゃん」

とのたまう。50万!そんな大金ないし、あればアパート借りてらあ!

「そんな話、誰にすればいいの?友達から変って思われたらどうするの?」

と言ったら、急に素に戻り

「うん、だから大事な友達に言えないの」

だって!おーおー、サトコったらすぐボロ出しちゃって!

「じゃあサトコさんにとってあたしは大事じゃない、どうでも良い友達って事になるよね」

と苦手な反論をしたら

「そんな事…ないけど」

だってさ。たった今、大事な友達に言えないと言った口で何いうとんのや!嫌になって切ったさ。

 まったく、どいつもこいつも!あたしを大事にしてくれないんだねえ。


 チアキさんとサトコさんはともかく、マチコは心配だった。だがあたしはテメエの心配もしなくてはならなかった。家族のひでー仕打ちは続いていたしね。

 あたし宛の電話は一切取り次いでもらえなくなっていたしね。

「あんたはあたしを困らせてばかりいるから、あたしもあんたの困る事する!」

っておなじみのセリフが飛んでくるばかりだ。

 アルバイト先のシフトの変更等、何か用事の時でも、親は決して電話を取り次いでくれなくなった。 

 電話だけは、取り次いで欲しい。電話だけは…。

 ずっとそう思っていた。ずっと困っていた。


 家の電話が鳴る。

 あたしは母さんを押しのけ、すばやく奪うように受話器を取った。かけてきたのは父さんだった。

「母さんいる?」

「いねえよ!」

と叩き切ってやった。慌てる母さん。

「誰だった?」

と聞くが、あたしは答えない。すぐまた電話が鳴る。受話器を取ろうとする母さんを力づくで押しのけ、強引に奪う。

「母さんいる?」

 父さんの焦った声。

「いねえよ!」

 また叩き切ってやった。

「誰だった?」

 もっと慌てる母さん。答えずに怒鳴ってやった。

「電話を切られるってこういう事なんだよ!」

 あたしは外へ飛び出しながらこう思ったよ。

 電話の相手が父さんで良かったと思え!


 あたしはこれで、電話を切られるのがどんなに困るか分ったろうから、あたしにかかってきた電話を取り次ぐようになって欲しかった。そう言いたかったんだ。相手が父さんだからこそ、そういう対応したしね。

 だが、これが「決定打」になっちまったようだった。

 父さんと母さんは、その電話がたまたま父さんで良かったけど、ほかの人だったら困る。ましてや父さんの会社の上司や造花教室関係の人だったら、仕事に差し支える。

 もう限界だ。マリを施設に入れよう、という結論に達しちまったようだった。

 あたしに気付かれないよう、母さんは密かに施設選びを始めた。

 最初、父さんの言う通り、「精神病院への強制入院」をさせようとしたらしかった。だが、少年院と精神病院は、「調べられたら分かる」らしかった。そこでやはり施設にしようという事になったらしい。誰が調べるんだろうねえ。

「戸沢学園」も候補に挙がっていたらしい。だが、何人も死者が出ているから、という理由で見送られたらしい。へえ、一応あたしを生かしておきたいと思ったんだねえ。

 次に母さんの目に留まったのが「光の園」だった。母さんはわざわざ静岡まで足を運び、相談に来たらしい。そこでクミコと会い、話をしたそうだ。

 後々クミコはあたしが入園して来た時に

「ああ、あの時の人の娘だ」

とすぐ分かったと言っていた。

 クミコは母さんに

「どう?」

と聞かれ、答えようがなく黙ってしまったそうだ。

 娘を更生施設に入れるのに「どう」も「こう」もなかろう。ただ母さんなりに「ましな所」へ入れようとしてくれていたらしい。

 あたしが知らぬ間に、着々と準備は進められた。


 もうひとつ、当時の流行のひとつに「積み木落とし」というものがあった。有名な俳優が、非行に走った娘を妻と共に立ち直らせた日々を本にして、それが大ベストセラーになっていたのだ。映画化、ドラマ化もされ、積み木落としはその年のブームだった。

 その不良娘をあたしと重ね合わせたのか、本に影響されたのか知らないけど、単純な母さんはすっかり感化されちまった。門限を10時と決めたり、必要最低限の事しか言わないようにしたり(それまで干渉し過ぎたんだよ!)、積み木落としをなぞるようにしていた。

 そうすれば近い将来あたしを立ち直す事が出来て、またご満悦って顔するつもりだったんだろうねえ。

 だがオチがある!

 積み木落としの娘は施設に放り込まれていないぞ!!!


 ある朝、母さんは仕事に行こうとするあたしにこう言った。

「マリ、今日はまっすぐ帰ってきなさい。今日だけは」

 今日、ちゃんと帰ってきたら、施設行きは勘弁してやる、そう言いたかったんだろう。だがあたしは無断外泊した。それも「致命傷」になったようだ。


 そして「その日」は来た。

 真夜中、何も知らないあたしは新しい男とのんきに酒を飲み、気持ちよく酔い、のんきに帰宅した。

 そして、光の園の幹部たちに拉致された。


 光の園を含む、あらゆる更生施設には法律も本人の意思もない。訳が分からないのは本人だけで、ほかの人は分かっている。腑に落ちていないのは本人だけで、周囲は腑に落ちている。


 ただ、今、

 たった、今、

 鉄格子の中にいる、この瞬間、

 あたしはシャバにいた時以上にさびしいんだよ。


 父さんに、母さんに、姉ちゃんに、時々優しくしてもらった記憶が鮮やかに蘇り、

 身を切り刻まれるような思いに浸るんだよ。

 おむつを替えてもらっている時の光景(あたしはそれを覚えている)。

 その時の母さんの忙し気な表情。

 家族で手をつなぎ出かけた事。

 父さんに抱っこされてイルカを見た事。

 知らない人に会い、母さんのスカートの陰にさっと隠れた事。

 みんなでパンダを見に上野動物園へ行った事。

 七五三のお祝いをしてくれた事。

 名作と呼ばれる映画を観に映画館へ連れて行ってくれた事。

 何度も海外旅行へ連れて行ってくれた事。

 そこで宮殿や、芸術品、有名な画家の作品を観せてくれた事。

 「本物」をたくさん観せてくれた事。

 4人でバースデーケーキを囲み、笑顔で過ごした事。

 こたつに入り、トランプや人生ゲームを楽しんだ事。

 クリスマスに、サンタさんからだとプレゼントを用意してくれた事。

 名前をちゃん付けで呼んでもらった事。

 父さんの膝の上で一緒にテレビを見た事。

 母さんとおはぎやマドレーヌを一緒に作った事。

 頭を撫でてもらった事。

 笑いかけてくれた事。

 歌を歌いながら母さんの周りをスキップして、何周でも何周でも回った事。


 涙があふれて止まらない。

 あんな日もあったのに。


 幼い頃、父さんと母さんはあたしのすべてだった。

 親は世界と一緒だった。

 親に否定される事、無視される事、ないがしろにされる事、暴力を振るわれる事、締め出される事、いじめられる事は、世界に否定され、無視され、ないがしろにされ、暴力を振るわれ、締め出され、いじめられる事と同じだった。

 苦しんでいるあたしを助けてくれる人は、誰もいなかった。当の親でさえ、虐待しているという認識はなかったんだろう。

 あたしは親に疎まれていると感じることは多々あったが、愛されていると感じた事はほとんどなかった。


 人は例え、貧しくても家族の仲が良い、とか、その仕事は大変だけど給料も良いしやりがいもある、とか、ひとつ失ったけど、ひとつ得た、とか、厳しくても根底に愛情がある、等々、バランスが取れている状態なら何とか頑張れる。

 だがあたしの生まれ育った家庭は、いかんせんバランスが悪過ぎ、まったく愛情がなかった。何にどう救いを求めていいのか、どうしても分からなかった。

 あたしにできたのは「荒れ狂う事でバランスを取る」事だけだった。派手な格好をしたり、何かやらかす事で、誰か助けてくれとサインを出す事だけだった。

 あたしは本来安らげるはずの家で、家族である父さんからも、母さんからも、姉ちゃんからも、滅茶苦茶にいじめられた。

 家の中でいちばん小さくて弱い存在だったあたしを、家族は滅茶苦茶にいじめた。

 それはどうなの?ねえ、どうなの?それは間違っていなくて、苦し紛れに道を踏み外したあたしが悪いの?

 あたしはずっと、ずっと、ずうっと、早く大人になりたかった。早く大人になって、早く働いて、早くアパートを借りて、早くひとり暮らしをしたかった。

 この家を、この家族を、捨てたくてたまらなかった。もう誰からも、暴力や暴言を受けなくて済むようになりたかった。誰からもいじめられないように、どこかへ逃げたくてたまらなかった。

 そう思わざるを得ない家庭環境を与えたのは誰?

 本当の加害者はどっち?

 そして本当の被害者は誰?

 答えてよ!


 それに、光の園に入れる以外にも道はあった筈。

 学校は定時制や通信制ならもしかして続いたかも知れない。無理矢理全日制に入れておいて、耐えられなくて中退したあたしが100%悪くて加害者、自分らはれっきとした被害者と言い切った父さんと母さん。

 そんなにあたしを追い出したければ、どこかにアパートを借りてそこに住めという追い出し方もあった筈だし、寮のある職場を見つけて追い出すとか、本当に死んだものと諦めて黙るとか、いかようにもやりようはあった筈。

 光の園へ入れるには、まず保証金を50万円支払い、毎月養育費という名目で10万円ずつ払う。その金を別の事に使う事も出来た筈。それこそアパート借りるとか。

 更生施設へ入れるしかない、一択のみ!他の選択肢は一切ない!頭に思い浮かばないなんて、そうするしかなかったなんてあまりにも極端じゃん!

 監禁なんて、たいていの人がいちばん嫌がる事だしね。父さんと母さんはこういう目に遭わないんだろうけど。

 まあ極端なのも今に始まったこっちゃないけどね。福岡のばあちゃんの家から着物を送って来た時も、家にあった桐の箪笥に入りきらないからって

「新しく桐の箪笥買っても置く場所ないしねえ、着物を段ボールに入れて置いたら虫が付くしねえ。どうしたもんかねえ」

とか言っていたし。桐の箪笥か段ボールどっちかしか頭に浮かばないってアホだろ!プラスチックの衣装ケース買って押し入れにしまえばいいだろ!防虫剤を山ほど入れて!!!

 料理の味付けだって、まったく何の味もしないか、滅茶苦茶濃いかどっちかだったし、米だって炊飯器使って炊いてるっつーのに、ごわごわか、べちゃべちゃどっちかだし、魚焼いても生焼けか、真っ黒こげかどっちかで、食えたもんじゃなかったし、あたしに対しても、無視したり放置し過ぎるかと思えば干渉し過ぎるし、ちょうどいいって所がなかった。あたしはちょうどよくして欲しかった。ちょうどよく! 

 毎日、毎時間、毎分、毎秒、あまりに極端で、振り回されるあたしの気持ちを一切考えてくれない、それがうちの親だった。


 光の園に来て、はや一カ月が経とうとしていた。

 あたしは次第にそこに慣れ始め、少女たちとも友達になっていった。臭い飯にも慣れ、うまいとさえ思うようになっていた。

 しかしさびしさに慣れる事は出来なかった。この張り裂けそうな孤独感を、何でどうまぎらわせれば良いのか、思案に暮れていた。それこそバランスの取り方が分からなかった。

 食欲はない、眠れない、考えても堂々巡りになる事ばかり考え続ける。すべてに無気力であり続ける。あたしはまさに病人になりつつあった。

 そしてもう、これ以上痩せられない、というほど痩せ細ったある日、突然爆発的な食欲があたしを襲った。

 あたしは食べた。漬物ひとつ、米粒ひとつ、お茶ひとしずく、何ひとつ残す事なく猛烈に胃に送り込んだ。

 …と言ってもそれほど量が多い訳ではない。どうしても食べ足りなかった。食事の後すぐに空腹を感じ、みんなで食べ物の話ばかりに明け暮れていた。

「あげパンが食べたい」

 誰かが言えば、すかさず誰かが応じた。

「食べたか」

「ハンバーグ食べたい」

「食べてー」

「何か、何でもいいから食べたい」

「食いだぇ」

 こんな調子だった。

 あたしたちは飢えに飢えていた。

 満たされぬ胃に、満たされぬ心に。

 あの頃なら本当にどんなものでも喜んで食べただろう。

 何でもいいから、どんな料理でもいいから、

 腹を満たしたくて、心を満たしたくて、

 食べたくて、食べたくて、食べたくて、

 ああ、食べたくて、もう、たまらなかった。


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