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セピア

作者: 伊東 聖子

 「珈琲を飲みましょうか。淹れてくるわ。」

 僕は、するするとこぼれ落ちていくシーツを見つめていた。

その先に、リエコの白い白い脚が遠ざかっていく。

リエコが歩くと絨毯がかすかに沈む。白く丸いかかとが、

則正しいリズムで柔らかな絨毯を踏みしめるのを、僕は心からきれいだと思って見つめていた。 


 夏の間、通っていた写真スクールでリエコに出会った。

僕はそのうち、絞りとか光りとかどうでもよくなり彼女に会うために三ヶ月通った。

リエコはスクールの講師をしている。 


 短いスクーリングが終わる頃、リエコの個展が開かれると知った。

最後の講義の後、数人の生徒がリエコの周囲で個展の話をしていた。 

僕は、受講期間中一度もリエコと話をしたことはないし、

個展に誘われるほど、熱心な生徒ではなかったこともわかってはいるのだが、

何故だか焦って、彼らのその会話の間に割って入ってしまった。


そして、みっともなく個展に行きたいと申し出る。

リエコとその生徒は見合って笑い、鞄からチラシを出しながら、

その個展が開かれるギャラリーについてごく簡潔に教えてくれた。


「花とか、景色なの。あとお菓子も少し撮ってるの。男性のあなたに楽しんでもらえるか、

ちょっと疑問だけど。意外と少女趣味なのよ。」

 フフフと笑うリエコ。


 僕はとにかく、一目惚れしてしまったリエコの個展に、どうしても行かなければならなかった。 


 明くる日曜日。最寄り駅を降りるとしばらく並木道が続く。

景色を撮っているとリエコが言ってから、緑や空が目に入るようになった。

今日の空はまるで絵の具のように均一な青。そそり立っているのはまだ青い銀杏の木だ。  

ギャラリーは駅から程よい距離にあった。


 建物に入ると珈琲と木の香りがする。採光窓から差し込む午後の光りがやわらかい。

僕はサングラスを外して、展示されたリエコの写真を眺める。


 写真は大きなサイズのものが数点と、オブジェとコラボレーションでディズプレイしてある

小さなものがいくつかあった。

リエコのサインが入ったポストカードを手にとって眺めていた時、ふわりと白い手が触れてきた。


「ありがとう。よかったら、これどうぞ。」 

 黒い素焼きのカップに熱い珈琲。ソーサーに小さなビスケットが乗っているものを、

リエコから手渡された。


「私が焼いたの。この写真のもそう。写真とお菓子作りが趣味だなんて、なんだかね。」

 リエコの生活が頭をよぎる。追い討ちをかけるように、

リエコは目線の先の男性を、僕に紹介した。


「夫よ。」

 優しげな、清潔感のある、よい人だ。僕はみるみる怯んでしまう。

清々しい笑顔でその人に軽く会釈され、僕はやっとの思いで会釈し返した。


「そしてこれは、彼が作ったのよ。」

 リエコの写真を囲むオブジェは、彫刻とガラス細工のようだった。


「へぇ・・・。」

 それしか言えなかった。


 微笑むリエコは、眩暈がしそうなほどきれいだ。白くて、小さな顔。

桜色をしたノースリーブのモヘアのセーターが似合う。白く細い腕は透き通るようで、

黒くつややかな髪をすっきりとまとめ、センスのいいガラス細工のピアスをしている。


 きっとその人が作ったのだろう。じゃなければ、そんなに似合うはずがない。

そうか・・・あきらめるか。 


 僕は酷くのどが渇いたので、珈琲を一口飲んでみた。それは濃くて、熱く、うまかった。 


 帰り際、リエコが小さな声で僕に言った。

「いつも、つまらない授業でごめんなさいね。今日は来て下さってありがとう。」

そう言って、きゅっと力を込めて僕の手を握る。


 いい香りがする。子ども扱いされているのか、好意と受け取っていいのかわからない距離だ。


 それでも、乗りかかった船を降りられる状況では既になかった。僕はできるだけ長く、

あなたと一緒にいられるように、何をすればいいだろうか。


 祈るような気持ちで、僕は意味深にリエコの目を覗き込む。

白い手を握り返し、心の中でリエコに話し掛ける。誘ったのはあなただ。


 女性を口説くのに、あまり時間を掛けた事はない。そして、失敗したことも、まだなかった。  


 翌週、スクールの講義が終わる時間を狙って、リエコを待った。

程なくスクールから出てきたリエコの前に立ち、心の中で繰り返した。

誘ったのはあなただ。そうだろう? 


 リエコは一瞬何か考えるような顔をして、それから観念したように無言で車に乗ってくれた。

ぼーっとしているのでシートベルトを締めてと言うと、ため息混じりに笑って言った。


「安全にさらうのね。」 


 車を走らせると、さらさらと雨が降り始め、その雨と一緒に、僕の中に芽生えた野蛮な気持ちが、

流れてしまいそうだった。本当はすぐにリエコを抱いてしまおうと思っていたのに。



「珈琲を飲みましょう。」

 リエコは、その先を右折して・・・とつぶやいた。本当は、まるで

相手にされていないのかもしれない。 


 小さな、センスのいい店だった。講義の後よく独りで来るのだと言う。

僕は、ソファーに深く沈みながら、窓を滴る雨のしずくへ目線をそらした。

熱い珈琲が運ばれてくると、リエコはカップを両手で包み込み、僕に差し出しながら言った。


「きれいね。」

 リエコも窓を滑り落ちていく雨のしずくをみあげている。


「私が写真を始めようと思ったのは、ちょうどこんな日だったの。雨が降っていたわ。」

 店内にはjazzが流れていた。あたたかなアルトサックスの音色が、雨の音によく合っていた。


 確かに、そこにあるセピア色の情景があまりに美しすぎて、ついに僕の計画は

雨音と一緒に消えてしまっていた。


 次第に、ひどく子どもじみた自分の行動が、恥ずかしく思えてくる。 


 数時間、黙って珈琲を飲み、時折、仕事は何をしているの?とか、どうして写真を?とか、

リエコの質問に答えた。

僕はまるで、ふてくされて泣いている子どものような気持ちで、自分の指先ばかりを見つめていた。 


 日が暮れると、出ましょうとリエコが伝票を持ってレジへ向かった。

僕は後ろから強引に伝票を奪い、支払いを済ませた。 


 車に戻った僕は、助手席のリエコのまるで陶器みたいな額に、軽く一度キスをした。


「僕なりの告白を…」

 それから改めて見つめ、いいか?と目だけで問い、リエコの目がゆっくり閉じるのを見ながら

深く唇を重ねた。  




 リエコから連絡があったのは、それから一ヶ月も後だった。

珈琲を飲んだお店で会いましょうという、シンプルなメール。

なんとなく自分からは連絡できずに、もうダメなんだと思っていた僕は内心、

人生が変わるような気持ちで、天を仰いだ。 


 店につくと、リエコは既に待っていて、濃いグリーンのシャツを着て、

物憂げにソファ席に沈んでいた。


 近づくと、責めるような目で僕を見上げ、強く手を握ってきた。

冷たい手だった。


「手が冷たいね。」

 華奢な白い手を握り返しながらそう言うと、緊張しているのだと言う。


「待つのは好きよ。でも、なんだかあなたを待つのは苦しいわ。こんなの初めてだわ。」 

 僕は、衝動的にリエコの手をとり店を出る。

今なら車でさらってどこへでも行ける。そんな気がした。 


 シティーホテルに部屋を取り、セックスをした。

こんな時間が一生続くんだと、本気で信じて何度も果てた。


 リエコの手を握ると、熱を帯びて温かく、僕に負けないくらいの力で握り返してくる。

華奢なネックレスには不揃いな真珠がいくつも光っていて、僕とリエコが揺れると、音もなく震えた。 


 疲れ果てて、小一時間眠ってしまった僕は、リエコの気配を背中に感じ、寝返りを打ったものの

何もできずに、ただ黙ってその白い背中を見つめていた。しみひとつない、艶やかな肌をしていた。


「いいの。してはいけないことなんて、何もないのよ。今はそう思いましょう。」

 僕は目を閉じて、リエコの言うとおりにした。 


 これから先、リエコとの間にある見えない壁や、時々否応なく感じる不倫の恋の後ろめたさを、

僕は見てみぬ振りをしながら、こうして続けていくのだろう。


 

そのうち、リエコの背中がしずかに時間を気にし始めた。 




 それから時々、僕はリエコに呼び出されるようになった。

そして、同じ店で珈琲を飲み、同じホテルでセックスをした。


 会うたびに、リエコの表情が、声の抑揚が気になってしまう。

気持ちは変わっていないか・・・一時の遊びのつもりではないのか・・・ 

僕は度々みっともなく、堰を切ったように、リエコに思いをぶつけてしまいそうになる。


 そして、すぐに何かを考えているリエコの横顔に、僕も何かを察知して押しとどまるしかなく、

できるだけ優しくリエコに触れる。


「僕は、あなたの事が本当に好きだ。」

 頭をよぎる不安を振り払うように、時々そう言った。


リエコはいつも、からだごと僕の方へ向けて、

「私もよ。」

 と笑った。 


 天気の良い土曜日には、昼から会いリエコの撮影に付き合った。 

リエコが撮るのは、海が見える景色とか、道端に咲いている花とか、時々スペシャルはお手製の焼き菓子付きで、それを公園のベンチに広げて、自然の光りで撮るという。  


 撮影後、リエコの焼き菓子をもっていつもの店に行き、店主に少し分けると、僕達も店内で食べることを許された。

その時、僕は初めてカウンターに座ったが、リエコは初めてではなかったようだ。

店主と親しげに話し、焼き菓子のレシピなんかを教えたりしている。


「彼は?恋人?」

 店主は一点の曇りもない笑顔で、僕とリエコを交互に見た。


「いいえ。生徒さんよ。」

 フフフとリエコが笑う。するとアハハと店主が声を上げ、すぐに、嘘よ、恋人なの。付き合ってるのよ。と、リエコ。


「知ってるよ。そうだと思ったよ。」

 と店主が言う。

そして、この店に飾ってある写真は、すべてリエコが撮ったものだと教えてくれた。

僕はそんなことより、少しでも早く店を出たかった。 


 リエコの冷たい手が、僕の膝の上に置かれる。店を出ましょうという合図だ。 


 車に戻り、僕は思い切ってリエコに聞く。


「あの人、あなたが結婚していることも知ってるんだろ?」

気をつけたつもりが、いざ声に出すと酷くとがってしまった。

リエコは少し驚いているようだった。


「知らないわ。あなたと一緒にいる時に、普段の生活を考えたことなんて一度もないわ。」

 嘘つきだ。夜七時になると、時間を気にしない振りをしているのを、僕は知っていた。


「今日はよしましょう。帰るわ。」

 リエコが切り替えの上手な人だということはわかっていた。僕はだめだという代わりに車を走らせて、ホテルへ向かった。 


 部屋に押し込んで、服を脱がせても、リエコは始終無表情で、声ひとつ立てずに僕に抱かれた。

僕が果てた後、リエコは言った。


「私は怒っているのよ。傷ついたわ。」

「僕も同じ気持ちですよ。あなたは、時間ばかり気にしているし。」

 リエコの表情がますます曇る。


「時間なんか気にしてないわ。気にし過ぎなのはあなたじゃないの?」 

 リエコにそう言われて、惨めな僕がやっとの思いでしぼり出した答えは・・・

「もう無理なんだよ。こんな関係。」

 本音を言い、少しホッとして、リエコを見つめると、驚いたことにリエコは泣いていた。


「こんな関係?あなたは本当に、本当に勝手だわ。」

 声をあげて、まるで小さな女の子のようにしゃくりあげている。


「僕はあなたと違って、器用に気持ち切り替えたりなんてできない。

でも、どうしようもないほど好きだよ。」

それはほとんど懇願だった。 


 リエコはクッションを投げつけてきた。次にリエコの鞄が飛んできて、履いていたスリッパが飛んできた。


「それが勝手だって言うの。」

 絶叫に近い声。リエコの言うとおりだった。


「こうなるとわかっていても、止められない感情ってあるでしょう?

私も同じよ。恋なんてだいたいそんなものだわ。でも、あなたを守るために言わないこともあるわ。

気持ちの切り替えなんて、そんなに簡単じゃないの。」

 リエコは顔を真っ赤にして、唇を震わせた。その姿に、僕のこわばった心がほろほろと溶けていく。


 僕はリエコの冷たい肩を抱き寄せて、温まるまで抱きしめながら、

とっくに九時を回っている時計に目をやり、長い間唇を重ねて、リエコを抱いた。


 リエコはさっきよりずっとやわらかく、素直で、愛らしかった。 


 さっきリエコの鞄から零れ落ちた携帯電話が、絨毯の上で二度ほど鳴る。 


 二人で果てた後、しばらくしてから僕は寝た振りをする。リエコは部屋の片隅で電話をかける。

電話の相手に向かって、夢中で撮影をしていて、携帯の繋がらない山奥まで来てしまったとか、

今日二十四時間営業のファミレスで珈琲を飲んで、朝タクシーで帰るとか・・・そういう内容の話をしていた。

時折クスクス笑っている。電話の相手はリエコを心から信じているのかもしれない。 




 夜が明けて、もう一度軽いセックスをする。

きっとこうやって溺れていくんだ。正常か異常かは問題じゃない。

僕達は出会ってしまったのだから、こうするより他に、もう方法はないのだろう。 


 リエコの声がする。 

「珈琲を飲みましょうか。淹れてくるわ。」 

大人の恋は、「好きです。付き合ってください。」から始まらないこともある。

そして、すでにステディな相手がいることもある。恋を何度か経験していくうちに、

きちんと無駄足を踏まずに、美味しいところだけ経験しようとするようになっていく気がして

なりません。

そして、よく知らないけど、ものすごくハンサムな男の人に誘われたからといって、

ついて行っても、必ずしも素敵な恋ができるとは限らないと、書きながら思いました(笑)

2月20日にこのセピアの続編「ダイニングテーブル」を投稿しました。併せて読んで頂けると

嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 想像の余地があり、楽しめるストーリーでした。 続編も読みたいと思います。
[一言] 読んでいると、ソフトフォーカスの中に映像が浮かんでくる感じがしました。 行間の使い方が効果的で参考になりました。
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