黄昏カゲロウ
オレンジ色に染まりゆく空を、煩いくらいの蝉の声が埋め尽くした。
とある木造の旧校舎の中、教室の一つ。
都市伝説や妖怪として一世を風靡した者達が集い、持ち寄りのお菓子やジュースで思い思いに過ごしていた。賑やかに遊んでいるグループもあれば、一人静かにくつろいでいる者もいる。
これは、言ってみれば同窓会のようなものだろうか。
教室内は、本来ならばクーラーが無ければ生きられない程の温度であるはずが、窓を開けるだけでいくらかは涼しくなっている。平成の最後にして最高の気温を記録しているはずが、まるで平成初期のようである。集まった諸々が妖怪の類ばかりだからだろうか。
開け放たれた窓からは時折、そよそよと風が入る。それにつられるようにして、どこからか来た蜉蝣が、開いた窓に揺らめく陽炎をくぐる。蜉蝣は少しの間、教室を旋回したり羽を休めたりすると、ふと思い立ったように廊下へと抜けていった。
教室の前半分程に並べられた机の内、一番前の、真ん中よりも廊下側の席。
今しがた机から去っていった蜉蝣を目で追いながら、幼い少女は冷たくて甘い山を崩した。
これからの夏を謳歌するまでも無く、その肌は日に焼けていた。短い黒髪にタンクトップとハーフパンツは涼しげで、それでも感じる暑さから逃れるように、少女は目の前にあるかき氷をしゃくしゃくと食べる。
傍らに置かれた麦茶が、かろん、と透き通った音を立てて氷を揺らす。それを聞きながら、少女は廊下側の隣にいる彼の者に話しかけた。
「センセ。もう平成終わるんだって。平成最後の夏休みだね」
少女よりも背が高く真っ黒な姿の彼の者からは、表情は窺えない。しかしながらも、センセ、と呼ばれると相応の態度で応えた。
「そうだな。宿題はもう終わったか?」
「今それ言う?」
「大事なことだぞ。まあ、まだだろうけどな」
「まだ始まったばかりだから。大丈夫大丈夫」
しゃくしゃくと、かき氷を食べる音が木霊する。センセも少女に合わせて動き、冷たくて甘い山は崩れていく。
少女の隣に座る口裂け女は、麦茶を飲みながらスマホを弄っていた。おそらくゲームでもしているのだろう。
少女は初めて会った、挨拶程度に少しだけ話したその相手に、再び話し掛けた。
「そういえば口裂け女って、マスクを付けて赤いコート着て、『あたしキレイ?』とか言って中を見せるんでしょ?」
「マスクの下をね。露出狂みたいに言わないでね」
「はぁい。あと、べっこう飴好きなんでしょ?」
そう言いながら、少女は机の横に掛けていた鞄をごそごそと漁った。口裂け女はその様子を見ながら、片手にスマホを持ちつつも反対の手で頬杖を突く。
「ええ、好きよ。くれるの?」
「まあここにあるのはハッカ飴なんだけどね」
少女は取り出したドロップの缶を振って、カラカラと鳴る残り少ない中身を確認した。
「なんで上げて落としたの? 今のクダリいる?」
「飴は飴だから……。いる?」
「食べられないの?」
「苦手。センセも食べてくれないし」
「俺も食べられないんだよ。わかるだろ?」
少女の奥から、センセが続いた。
二人の言い分に、口裂け女は呆れたように溜め息を吐いた。
「……はぁ、しょうがない。貸して。食べてあげるから」
「ありがとう」
「悪いな」
「ホントにね」
口裂け女はドロップの缶を渡されると、さっそく一つ、口に放り込んだ。
教室は後ろの方が賑やかだった。
輪になった狐達は焼いた油揚げをツマミに酒盛りをし、それに背を向ける形でおっさんヅラの人面犬は「昔は良かった」などと語り、それを胴体が千切れて上半身だけになっている女子高生のてけてけが、辛抱強く相槌を入れながら聞いている。
後方のドア近く。おかっぱ頭に白いブラウスと赤いスカートの幼い少女、花子さんが教室に入ろうとして、反対方向から笑いながら走ってきた二人とすれ違う。一度教室に入りながらもドアから廊下に身を乗り出すと、廊下の先にいる相手を注意した。
「ちょっと男子―! 廊下を走らないの!」
階段近くで振り向いた相手、人体模型と骨格標本は花子さんを見るなり、息を合わせたように揃って口を開く。
「「うっせーババア!」」
「上っ等よこのガキャ待ってろ!」
先程自分が言ったことを反故にして、花子さんはドアを軸に自身をドリフトさせると、走って二人を追った。
「やっべ逃げるぞ!」
「おうよ!」
バタタタタ、と慌てて階段を駆け下りる音が教室にまで聞こえてくる。
ドア近くの机に乗っていた、手の平サイズのタンポポの綿毛のような妖怪、ケサランパサランはのんびりと白粉を食べていたが、ドリフトの風圧で軽くふわり、宙に浮いた。同じ机でケサランパサランにそろそろぽふぽふとちょっかいをかけていた三毛の猫又は、舞い上がった白粉にくしゃみをする。
「ふ。子供ね……」
窓際の席では座敷童がココアシガレットを煙草のように持ち、やれやれと首を振った。おもむろに少しぎこちなく脚を組み替えるが、着物の上からはわかりづらかった。
そんな中。今度は口裂け女のスマホに着信が入った。
聞き慣れたメロディーに口裂け女は相手を確認すると、心当たりのある『非通知』の文字に「またか……」と呆れた様子で溜め息を吐く。そして、タップ。
「はいもしー?」
電話に出れば、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「もしもし。私、メリーさん」
「で?」
「ここどこぉ……」
予想していたその言葉に、口裂け女は空いている片手で目を覆い、天を仰いだ。
「やっぱりか……。……何が見える? 看板とか」
「ええと……」
少し言葉を交わして。電話を切る。次いで、口裂け女は隣の二人を見もせずに、片手を挙げて「ちょっとゴメン」のポーズをとった。
「迎えに行ってくる。ダッシュで」
「いってら」
「いってらっしゃーい」
そう言ったセンセと少女に「うす」と返し、口裂け女は教室のドアでドリフトして走り去っていく。瞬く間に姿を消したのは、さすがといったところだろう。口裂け女は足が速いのである。
少しして。息を切らせて戻ってきた彼女の片手には、古びた西洋人形、もといメリーさんが抱えられていた。
「私、メリーさん。今、旧校舎にいるの」
「アタシが連れて来たんだよ!」
一喝。
そして口裂け女は、自分の隣の机にメリーさんを座らせた。少女が新しく入れてくれた麦茶を手に取ると、もう片方の手を腰に当て、くっと一気飲みする。続いて、氷だけになったコップを、だんっ、と力強く自分の机に置いた。
氷がその山を崩しながら、賑やかに透き通った音を立てた。
「お疲れ様」
「良い飲みっぷりで」
労う少女の後に、センセが茶化すように続いた。
「どーも……ッ!」
口裂け女は息を整えながら、再び席に着いた。
いつの間にか真っ赤になった空には、大きな入道雲が焦げついていた。静かになってきたはずの蝉の声が、やけに鮮明に聞こえる。
「……そろそろか……」
しみじみと、センセは呟いた。次いで、皆に聞こえるように、声を大きくして指示をする。
「よしじゃあ机戻せ―。自分の席に着け―。最後の出席を取るぞー」
教室中から廊下から、はーい、と返事が聞こえてくる。
隣の教室に移しておいた机を持ってきて並べるのにはそう時間は掛からず、すぐに全員、席に着いた。
「…………こうして見ると、ウチの区域は結構色々いたよなぁ……」
センセは教壇で教室中を見渡すと、溜め息を一つ。そして、教壇の上にある出席簿を開いた。
一人一人、確認するように順に名前が呼ばれていく。
一言一言、証明するように順に声が挙がっていく。
――――そして。出席簿は閉じられた。
「以上。全員いるな。皆よく集まった」
「……? センセ、待って。私呼ばれてない」
首を傾げてから、少女は手を挙げて抗議した。
センセはなんともない様子で、少女に振り向いた。
「ああ、それはそうだろう。だって君は――――――君だけは、ただの人間だ」
黒板に映った少女の影が、そう言った。
少女の足元から伸びた影が、地面を伝って壁へ、黒板へ。長く長く、次第に伸びていった影は、いつものように、ひとりでに動いていた。
「俺達は人外で、普通は人に見えなくて、だから存在を信じてもらえなくて、そして平成に置いていかれる。君は平成の先へも進んでいくから、置いていかれるための出席は取れないんだよ。ここでお別れだ」
「聞いてない」
センセの言葉に、少女は不機嫌そうに言った。
「言ってないからな。言ったらだだこねるだろ」
「だだじゃない。ねぇなんで平成に残るの? 残るってことは次の年号の頃にはいないってことでしょ? ずっといればいいじゃない」
「このままいても、どうせ俺達は存在できなくなるからな。俺達が俺達でいられる内に、いられる場所を保持しておかねーと。そもそも俺達の多くは人の噂から生まれたヤツが多くて、だからこそその噂が信じられなくなったり変わったりすると、元々の俺達も消えたり変わったりしてしまう。ほら、例えば神社とかにいる神様は人々の信仰で成り立っているとかいう話、聞いたことあるだろ? アレと同じようなものだ」
「また噂を広め直せば?」
「無理だ。今は昔とは違って科学がかなり進歩したから、大抵のことは理屈を付けて証明される。それに、疑問に思っても不安に思っても、いつでも遠くの人と集団で話し合える環境がある。これらの条件が、噂の信憑性を殺してしまうんだ。空想を許されず、やれ理論だやれ証拠だ、科学というたった一つの視点に雁字搦めに固められた世の中は、俺達には生きづらい。だが、真実も現実も実に曖昧で、だからこそ、そういう輩は理由を付けて明確にしたいんだろう。……それが本当かはさておきな。……噂はそうやって塗り替えられていく。本物は偽物となり、新しく作られた偽物が本物とされる。嗚呼、君には少し難しかったか? そうだな……つまりは、俺達の『成り代わり』が台頭するようになるってことだ」
「じゃあ、もしその成り代わりをセンセ達って言われたら、別のセンセ達ってことになるの?」
「少なくとも、今ここにいる俺達ではないな」
「……理不尽」
「まあ、時代の流れってヤツだ。この先では、俺達みたいな噂は否定しかされないだろう。もし、この先も俺達と関わっていたいなら……自分も噂になるしかない。俺達と同じく平成までに生まれた噂になって、俺達が残る平成の産物になるしかない」
その言葉に、少女は少し困惑した様子で、瞳を揺るがせた。
「……私も、噂に……? そうすれば、みんなとずっといれる……?」
それは不安からか、それとも、期待の表れか。どちらにしろ、迷いはあった。
自分が本当に望んでいる選択がどちらかは、すでにわかっていた。それでも、自分で決めるのには後押しが欲しかった。
「君は選べばいい。平成の先を生きるか、平成にとどまるか」
「……センセ、」
「これは、君が決めることだ。決めなければならないことだ」
自由に、自分の思うように。そう突きつけられた偏りのない選択には、後押しなんてものも無く。
少女は自らが望んでいる選択で、閉ざされた脳内を占めた。
じーわ、じーわ。
蝉の声が、意識を蝕む。じっとりとした汗が、嫌に鮮明に感じる。
「……わた、しは……」
少女はふと、窓の外に目を向けた。
空はまだ、赤い。
辺りの景色を呑みこむように、一面、ただ一色。
吸い込まれるように、鮮やかに透き通って――――――
真っ黒な羽ばたき。
細い羽を伸ばして、黒い影を落として。
カゲロウは飛んだ。