第二章 2-2
群がる蠅の羽音で、ブランカは目を覚ました。全身が妙に重たく、違和感がある。軋む関節を鞭打ちながら、ゆっくりと半身を起こし、あたりを見回した。
貧民街の路地裏、狭苦しい道。腐乱しかけた死体がぽつぽつと捨てられている、ゴミ捨て場も同然の場所だった。汚物と腐敗の臭いが立ち込めている。ブランカは慣れていた。
時刻は朝方、狭い上空は春の澄み渡る青空だが、角度の関係か、太陽が差すのは横の壁の途中までに留まり、ブランカの座り込んでいる場所にまでは届かない。
「……生きてる……」
ブランカが頭を抱え、横の壁に寄りかかる。周りを飛び回る蠅が、髪や腕に止まるが、気にする様子はない。
――昨夜の記憶が、次々と蘇った。
「……ッ」
――血みどろの路地裏。逃げ惑う人々。大聖堂での戦い。彼女を嘲笑う毒蛇の魔女。両手に握られた自らの臓腑。意識も曖昧に、逃げ惑った道――
「……っていう、ことは」
骨ばった指で、自らのボロボロの服を捲った。中の内臓をほとんど掴み出して捨ててきたはずの腹は、どういうわけか元に戻っている。
否。完全に元通りとなったわけではない。
ブランカの腹のあちこちには、痛々しい縫い痕があった。彼女自身の服のように、皮膚が継ぎ接ぎになっているのだ。恐らくは、その中身も。
個所によって、皮膚の色合いは違うが、その中には半分腐りかけているとしか思えないような個所も存在した。どうやら奴は、死体を繋ぎ合わせて、自らの契約相手の傷を修復したらしい。通常の人間の場合、この程度の雑な処置ではまず助からないだろうが、魔女となれば話は別なのだろうとブランカは納得した。ましてや己はネクロマンサーであり、元より肉体は亡者に近い。心臓を潰され、頭を落とされても平気で歩き回るあの連中に、仮に自分の肉体が近づいているのだとしたら、臓腑を取り除いた程度では死なないのもある意味納得ができる。
首元や腕、足の損傷個所も、似たような方法で治されている。触ってみると、顔の一部にも縫い痕があった。肌質から言って、自分のものではない。元々半死人のような見た目だったが、こうなっては下手な亡者よりおぞましい外見だろう。
だが、生きている。
そして、それこそが重要だ。
「……あんたがやってくれたのね」
ブランカは、正面の虚空に囁いた。
「一応礼は言っておくわ。ありがとう、アスモデ」
「『ありがとう』だなんて。礼ならば要らないよ、僕のジェスター」
空間がねじ曲がり、その中から、貴族的な黒い礼装を着こなした少年が現れる。炎のように絶えず揺らめく黒い髪の後ろからは、湾曲した角が生えていた。閉じていた眼を開くと、その瞳は左右で赤と黄色、ヤギのように横に長い。
少年は悪魔である。
「契約者の君に、こんなところで死んで貰われては、僕にとって不都合だからね。少しばかり醜い傷になってしまったけれど、構わないかな」
「見た目のことで言えば――」
ブランカが自嘲的に笑う。
「あんたと契約してから、ずっとこんな調子じゃない。今更気にできないわ」
少女の外見は、あちこちの継ぎ接ぎの皮膚を抜きにしても、十分酷い有様だった。嘗ては鮮やかだった黒髪も、今は老いたかのように灰色に染まり、白濁の混ざったぎょろついた目の下は深く落ち窪んでいる。頬はこけ、身体は以前にも増して痩せさらばえ、皮と骨ばかりになり、何より肌全体がどこか灰色がかっているあたり、生きた人間のようには到底思えない。
「その様子から察するに、ヨルベスクと戦いになり、そして敗北したと言ったところかな」
アスモデの問いに、ブランカは頷き、
「うん。……認めたくないけど、完敗だった。ずっと、あいつの手のひらの上で踊らされてた」
ブランカは、拳をぎゅっと握りしめた。
「……ヨルベスクは、おねえちゃんの仇だ。あんな奴には、絶対に負けてられない」
「彼女もまた《エリエゼルの聖骸》を望んでいるというのなら、今後も衝突することはあるだろう。――今回はどうやら、彼女も失敗したみたいだけど……」
アスモデが地面にしゃがみ込み、一本の指を前に出した。その指先に蠅が止まる。と、蠅はたちまち、全身がぶくぶくと歪に膨らみ始めた。その全身にできた黒いあぶくが次々と弾けると、それぞれの中から新たなる蠅が湧き出し、飛び立っていく。
「でもこれは君にとって、ある意味僥倖なんじゃないか。そいつを殺しつつ、《聖骸》を手にすることだってできる。一石二鳥だ」
「……そもそもどうして、ヨルベスクは《聖骸》を求めてるの。あいつにも、生き返らせたい人がいるの?」
「さぁね。言わなかったっけ? あれの用途は、それだけとは限らないよ」
彼の指先で次々と増殖していく蠅を見つめながら、
「《聖骸》の用途は簡単に言えば、『超強力な魔力のブースター』だ。僅かに残されたかの救世主の権能の残骸、しかしそれは聖邪属性一切を問わず、あらゆる奇跡、あらゆる魔術の効果を最大限に高めるだけの力を未だに発揮し続けている。何故ならば神の権能は絶対にして万能であり、全ての神秘の原点にして原典だからだ。
炎を操る魔女が手にしたならば、大陸を焼き尽くす程の炎の嵐を作り出すことができるだろう。そして以前も話した通り、ネクロマンサーである君ならば、死者をただ動かすだけでなく、死者の完全蘇生を可能とする――。ヨルベスクが何を願うのかは分からない。けれど《聖骸》は、そういう代物だ。教義の関係で、教皇庁の連中には使うことが躊躇われるらしいが、魔女ならば話は別だろう。聖骸を追えば、君は必ずや姉に会うことが出来る」
「……与太話の類だって思うところだけど、ある意味ヨルベスクもそれを追ってるっていうのは、あんたの話してる内容が正しいっていう確認になるわ」
「信頼してくれないんだね、僕のこと。前から言ってるじゃないか、僕達には嘘はつけないって」
「悪魔の言うことをホイホイ信じるのは、馬鹿のすることよ。あんたのことを協力者だとは思うけど、信頼できるとは思わない」
冷たいなぁ、と肩をすくめるアスモデ。瞬きをすると、左右の赤と黄色の瞳が、一瞬のうちに色合いを逆転させた。今では左右で、黄色と赤だ。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
「それはそれとして、質問があるんだけど」
ブランカが、首元の縫い痕を指でガリガリとひっかきながら呟く。
「ねぇ、正直に言って、アスモデ。あたしがヨルベスクに勝てる見込みって、どれくらいのもの?」




