第一章 1-5
悲鳴が止んだのを確認し、扉の横の影から、満足げな表情のヨルベスクが現れた。実のところ彼女は、変わり身を行ったわけではない。至極単純な話、最初から最後まで、少女と会話し、少女と戦っていたのは、彼女が魔術で作り出した分身に過ぎなかったのである。ことにこの女は、余計な命のリスクを冒すことを許容できる性格ではなかった。
つまるところ、少女の命がけの戦いは、すべて徒労だったのだ。
「……思ったより不味いところまでいかれたな」
ヨルベスクが暗闇より一歩踏み出す。彼女の見つめる先には、蛇が幾重にも群がった、静かに横たわる血の海。嘗て少女だったものは、今や、人間としての原型すら留めてはいないだろう。
「亡者が相手では、丸飲みでは逆効果か。聊か面倒な相手ではあったが、今のうちに始末できたのは僥倖だな。……さて」
ヨルベスクは歩みだし、少女の残骸の様子を見ようと少し近寄り――
茫然として、立ち尽くした。
続けて、事態を理解し、思わず後ずさった。
そこには確かに、少女の血の海があり。蛇たちは確かに、彼女の肉を喰らっていた。
だが、そこに残されていたのは、酷い悪臭を放つ少女の臓腑だけである。
ただ一本の骨もない。これは残骸と呼べるものではない。
少女は、既に逃げ果せている。
それも、恐らくは――
「……捨てたのか」
信じられない、とヨルベスクは首を振った。
「己の、臓腑を……!」
餌として、蛇たちに与えるために。恐らくは自らの手によって腹から掻き出し、その場に捨てて逃げたのだ。窮した蜥蜴が、己の尾を切り捨てるかの如く。
全身に一度、強い負の魔力を通せば、蛇たちを一時的に振りほどく程度は何とかできるだろう。しかしそんなものはその場しのぎにすらなりはしない。即座に再び群がりくる蛇たちへの対処手段をこのような形で用意してくるとは、想像もしていなかった。
そこまでして少女は、生きることを望んだのか――。ヨルベスクの胸に、何とも形容しがたい、嫌悪感と愛情との混じった感情が沸き上がった。
推し量るまでもなく、現在の少女は、通常の人間の常識に照らし合わせれば、とても生きていられるような状況ではあるまい。だが相手は魔女であり、重ねて、元より死人も同然の躰だ。まだ生きているとしても、不思議ではない。
――待てよ。
そこでヨルベスクははっと我に返る。――なんと無駄な時間か。最早あの少女のことなど、後ででも構わないではないか。邪魔者がいなくなった今、己が今この場で《聖骸》を手にすることを邪魔できる者は誰もいないのだ。ヨルベスクは慌てて向き直り、聖堂の奥、二人の男の彫刻の元へと向かい――
「――そこまでだ、黒魔女っ」
背後から、何人もの男たちの足音が響き、ヨルベスクは苛立たし気に喚き声を上げた。黄金の瞳で睨みつける先には、本来この大聖堂に配属されている執行者の男たち。十字架や聖書、聖別された武器を手に、ヨルベスクを見据えている。
「貴様に勝ち目はない。降参せよ! 悪魔の手先め!」
「……っ……! 誰が……!」
ヨルベスクはくるりと身をひるがえし、奥の暗闇へと逃げ去って行った。追え、逃がすな、と男たちの声が響く。
「くそっ……!」
箒を取り出し、飛び立つ用意をしながら、ヨルベスクは歯を食いしばる。
「奴さえ……奴さえ……」
「「あいつさえいなければ……!」」
――べちゃり。ぼとぼと、ぼと。
血まみれの肉片が、路地裏の道へと転がり落ちる。
灰色の髪の少女は、壁に身体を引きずるようにして逃げていた。既に片足の感覚はなく、ほとんどの筋組織が喰らい尽くされた左手は動かない。腹の中身はごっそりと無くなっており、剥き出しの白いあばらの下には、ただの空洞がぽっかりと口を開けていた。
「……あいつさえいなければ、今頃も……っ……ちゃんと、一緒にいられたのに」
少女が、恨みの言葉を吐き出す。
「今度は、あたしの邪魔までするなんて……許せない……でも、大丈夫だから……待っててね、待っててね、……ちゃん……!」
暗闇の中を、少女は這い蹲っていく。
ひたすらに、同じ言葉を、壊れたように呟き続けながら。
「……ぇちゃん……ぇ……ちゃん……」
やがて前へ進む力すら、その華奢な体躯から失せたのか、血まみれの少女が、糸が切れた人形のように、石畳に崩れ落ちる。
暗雲が流れ行き、事も無げに月を飲み込む。
少女の割れた唇が囁く。
「……おねえちゃん」
ブランカの意識は、そこで途絶えた。
第一章の終わりまでお読みいただきありがとうございます。
こうして自分が書いたものを読んでいただけるのは本当に幸せなことです。ただ感謝です。
なお、直接的な物語の関連はありませんが、本作の世界観は過去作品『黒魔女 K』と同一のものです。
よろしければそちらも併せてお楽しみください。




