第一章 1-2
華奢な肉体は風に煽られながら、そのまま真っ逆さまへと落ちていく。しかしその途中、風が転換し、少女は真横へと転がし出される。ほんの一刹那、彼女の周りの空間に形を取った半透明の腕を、頭蓋を、果たしてその目で視た者はいただろうか。少女は自らの身を丸め、目当ての衝撃へと備えた。
大聖堂の正面を飾る円形のステンドグラスが粉砕され、少女は大聖堂の内側、広大な空間へと放物上に投げ出された。明かりはなく、左右のステンドグラスから差し込む月光のみ。壁にも天井にも、聖書の様々な個所を模した彫刻が彫り込まれ、侵入者に構うことなく、淡く青白く、虚空を見つめている。
少女は、しばらくの距離を自由落下していく。やがて大理石の床が迫るにつれ、再び彼女の周りに幾つもの半透明の白骨の腕が現れ、彼女の着地点を囲んだ。地面に降り立つと同時に彼女を受け止め、その役目を終えて白霧のように広がって消える。少女は、喉に空気が漏れる穴でも開いているかのような、ひゅうと虚ろな深呼吸を行うと、よろけるように、一歩前へと進み出た。
一歩、前へ。また、一歩前へ。少女にとっては、その動きすら苦痛のようだった。まるで老婆のようにぎこちなく、ふらついた足取りで、時折咳き込み、或いは崩れ落ちそうにすらなりながら、それでも着実に、前へと進む。どこか白みがかった目で、その先、聖堂の最奥部の台座の上に立つ、二躯の彫像を見据えて。
彫像は、二人の男を描いていた。
片方の者、髭を蓄えた男は、前の男に手を差し出し、優しく微笑みかけていた。
もう一人の男は、己が納められていた棺の中から半身を出し、再び起き上がるため、その目の前の男に向けて手を伸ばさんとしていた。
二人目の男のもう片手の元には、下から見えるか見えないかという位置に、小さな木箱が置かれている。一見何の変哲もない木箱であるが、この木箱こそが――否、厳密に言うならば、その中身こそが――サン=ダヴィーデ聖堂が、そしてこの街がこれほどまでに栄えた理由とまで言われている理由に他ならなかった。
救世の発露。奇跡の残滓。手にしたならば、それはあの書物に書かれた通りのことを成し、あの奇跡を再現するに至るだろう。
少女が、彫像に向けて、更に一歩踏み出す。
――その瞬間、彼女の背後にて、眩い閃光が弾けた。
振り返るに先んじて、少女は横へ飛び出す。直後、一瞬前まで彼女が立っていた場所を目掛けて電撃の奔流が迸り、虚空を焼いて一直線、奥の壁へと衝突した。火花が散り、大理石の破片が舞う。電撃は壁の表面をズタズタに引き裂きながらあたりへと弾け飛んでいき、やがてその爪痕のみを残して消えた。
少女はふらつきながら立ち上がり、自らに奇襲を仕掛けた襲撃者を見据えた。その目に姿を捉えた瞬間、その表情を憎悪に彩らせ、獣が威嚇するかのように唸りをあげる。
正面扉の前に立っていたのは、幾重もの黒いヴェールにその身を包んだ、一人の長身の女だった。大粒のエメラルドをあしらった首飾り。異様なまでの長さに伸ばされた黒い爪。露わになった首元の白い肌、その一部に張り付いているのは紛れもなく爬虫類を思わせる深緑の鱗。薄い唇が、それ以上に薄い笑みを浮かべている。ただそこにいるだけで、妙な粘性の冷気を放つ、まるで蛇のような女。
「……どうして、あんたがここに……」
少女が唸る。擦り減り、掠れ切った彼女の声は、墓所の風を思わせる。
「……ヨルベスク=ヨルムンガンド……!」
「如何にもだ、ネクロマンサー。知っているのだな――私の名を」
顔を上げたその女の瞳は蛇の如く縦に長く、黄金の輝きを暗闇に穿つ。鱗の表面のような潤いを湛えた、滑らかに冷えた声色である。
「外部の騒ぎは、貴様の差し金だな。誰だかは知らんが、貴様のお陰で潜入の手間が省けた。まずは同じ魔女として礼でも言っておこうか。『ありがとう』。そして『さようなら』だ」
ヨルベスクと呼ばれた魔女が、片手を横にかざす。彼女の足元の床に緑の靄が立ち込め始め、森林の底の土のにおいが、徐々に広がっていく。
「貴様がここにいる目的は明白だ。そしてその目的は私も同じだ。貴様の手に渡すわけには行かない」
黄金の目を細め、
「――《エリエゼルの聖骸》は私が頂く」




