第四章 4-2
目の前に広がった光景は、人々が盛んに笑い、語り合い、歌って踊っている、活気に湧く市場。その上空に突如として、幽鬼の如き魔女が現れると同時に、あちこちから人々の悲鳴が上がった。逃げ惑い、右往左往する人々の群れ。背後のマリアが、何か聖書の一節らしきものを甲高く叫んだ。ラテン語を知らないブランカには、聞き取れなかったが。
それと同時に、牛刀が放られ、ブランカに向けて宙を貫く。反射的に避けたブランカだったが、その拍子にバランスを崩し転倒、足元の死霊の塊から足を滑らせて、小さな悲鳴と共にリンゴの山の中に落下した。全身を覆う瘴気の影響で、周りのリンゴが瞬時に腐り果てる。その上に覆いかぶさるマリアの影。それと同時にブランカが、横に飛び出して避ける。一瞬前まで彼女がいた場所にマリアが覆いかぶさり、儀礼の施されたナイフがリンゴの山に突き刺さる。彼女が、蜘蛛のような動きでそこから飛び跳ねると、ナイフに籠っていた奇跡の力の影響で、腐っていたリンゴが次々と新鮮さと艶を取り戻す。
――ブランカが宙を駆ける。上空へと飛び上がり、屋根に飛び乗る。指先から踊る瘴気を溢れさせ、足元の屋根にぶちまけた。瘴気の奔流が、同時に彼女を追って屋根に上がったばかりのマリアの足元へと、屋根瓦を崩れさせながら駆け巡る――も、マリアが短い祈りを唱えると、その全身を覆わんとしていた瘴気が掻き消され、ものの見事に晴れた。恍惚とした笑みを浮かべて、そのままこちらへと向かってくる。
――やっぱり、攻撃は通らない。
つまるところ、勝ち目など無い。しかし既に手は打ってあった。ブランカは数歩後ずさりし、屋根から踏み外し、己の後ろへと身を投げた。
――と同時に、ブランカの全身を、巨大な死霊の塊が受け止め、上空へと誘った。翼を備えたその形状は、まるで鳥を思わせる。足や腕、肋骨、頭蓋骨――複雑に絡み合った、半透明な死霊の集合体。構築するのは一瞬というわけにはいかない。通らないと分かっていた攻撃は、その猶予を作るための時間調達である。
屋根の上に取り残され、上空を見上げるマリア。その視線の先、どんどん空へ向けて加速して逃げていくブランカ。息を切らし、右腕の根元の傷口を抑えながら、遥か下へと目をやった。既に、目下の建物の屋根の、ゆうに数倍の高さにまで至っている。
「追って、来ない……?」
――流石の聖痕者も、ヒトはヒト。空を飛ぶことは出来ないということか。
そう思った矢先、頭の中にアスモデの声が響いた。
《――何を悠長にしてるんだ、僕のジェスター。殺されてもいいのかい?》
「えっ――」
と、屋根の上に立っていたマリアの背中から、眩く赤い光が溢れだした。彼女の背後に展開されたのは、左右三枚ずつ、計六枚の天使の翼。いずれも血塗られたように紅い。一気に飛び上がり、瞬く間に距離を詰めてくる。ブランカの顔が青ざめた。
「……馬鹿か、あたしは……!」
元より魔女は、空を飛んで逃げるもの。魔女を狩る者たちの最上位に位置する聖痕者が、それへの対策を怠っている道理などある筈が無かった。
一瞬の気の緩みによるものか。認識が、あまりにも甘すぎた。
身を翻し、ブランカは前を向き直った。霊体の塊にありったけの瘴気を注入し、声を張り上げる――
「――――進め!!」
空を滑り、加速する幽体の翼。その背後に、一筋の赤い流星の如く、マリアが迫ってくる。




