第三章 3-8
「条件が……満たされていない……!? そんな――」
ブランカが、口を開く。
「そんな、ふざけたことを――!! だとしたら……だとしたら……」
その目に、涙が滲んだ。悲痛な声を漏らす。
「今まであたしは、一体なんのために、これだけのことをして来たっていうのよ……!!」
ブランカは骨ばった右腕を伸ばし、アスモデの胸倉に掴みかかろうとした。
――その瞬間。
ブランカの腕を、妙な違和感が襲った。
肘より先の感覚が消失する。ブランカの視線が下がり、そしてその先に捕らえた光景――
それは、鋭利な刃物によって完璧に両断されたかのような、己の右腕の切断面だった。
「……え?」
認識と同時に、痛みが爆発する。
ブランカが絶叫を上げ、悶えながら倒れ込んだ。それはまさに前代未聞の激痛だった。内側から腐り落ちる身体、自らの手で掻き出した内臓、今までに感じてきたどんな痛みよりもなお恐ろしく、なお執拗。地獄という形容が相応しい。右腕を侵食するようにして這い上ってくる――。
あれだけのことを越えてきたのだ。生半可な攻撃を苦痛に感じるブランカではない。まず自分が今更これだけ「痛がっている」ということ自体、ブランカには到底信じられなかった。だが事実、それでもなおこれだけ苦しいというのは、これは紛れもなく――
「……全く、なんてこった」
地に伏して悶えるブランカの横で、アスモデが苛立たし気に呟いた。
「早すぎる」
彼が睨みつけるその先、石畳の道の向こうから、一人の真っ赤な影法師が、ゆらりゆらりと近づいてくる。
真っ赤な靴。真っ赤な修道服。真っ赤な長髪。真っ赤な瞳。広げられた両腕、その手のひらには、まるで嘗て磔にでもされたかのような痛々しい傷痕が刻み込まれている。
故にこそ、人は彼女を、“聖痕”者と呼ぶ。
「――例の魔女ですわ、件の羽虫ですわ」
美しく澄み渡る、歌うような声。それはまるで聖歌を思わせる。
「嗚呼なんと怖ろしや、嗚呼なんと無様なりや」
「……逃げることを勧めるよ、僕のジェスター」
アスモデが目を細める。
「こんな結末、僕だって望んじゃあいない。」
ブランカが、痛みにえずきながら顔を上げた。その見上げた先には確かに、彼女の姿があった。
「――私の身は神の下僕にして神の人形。天にまします私たちの父よ。どうか私を――」
そうしてその女は、『生き血染めのマリア』は、一歩一歩を強く踏みしめ、紅い死神の如く、目の前の魔女へと近づいていく。両腕を背後にて交差させ、再び横へと広げると、そこに握られているのは二本の大振りの牛刀。両手の中のそれを、くるりくるりと回転させ、再び強く握ると、血走った瞳を見開いて、
「――存分に使い倒し下さいませ」
そう言ってのめり出し、片足で踏み出し、
紅蓮の迅雷の如く、迫りくる。