第三章 3-7
これまでの全てを、思い出す。
裏路地の月明かりの中、魂の契約を結んだあの日。あれ以来ブランカは、人間であることを捨てた。自らの手によって罪なき人を殺め、亡者として蘇らせ、命令を与えて操った。全ては、己の一つの目的のためだけに。その道の行く手を阻むもの、その先に進むために必要なもの、全てを壊し、全てを利用することを、彼女は自らの意思で選んだ。
無様に許しを請う男を亡者の餌とし、その男をまた亡者とした。子どもを庇って殺された母親に、己の子どもを食い殺させたこともある。そして今度は、何の罪もない、否、それどころか、本当にただただ善意だけに溢れていた少女までをも、不条理に、理不尽に、その手にかけた。血みどろの記憶、鬼畜の所業。嗚呼、なんと悪辣、なんと忌まわしい。
けれど、その全てのどす黒い邪悪をも、遥かに上回り塗り潰すものがあった。人が笑えど、人が怒れど。確かに、それはあった。
無邪気に微笑む姉。困ったように微笑む姉。からかうように微笑む姉。優しく、微笑みかける姉。
おねえちゃんの、記憶。ささやかながらも楽しかった、あの日々の思い出。
人は魔女を悪だという。確かにその通りだ。否定はしない。目的のためならば、幾ら人が死のうと構わない、他人の幸せを幾ら踏みにじろうと気にしない、こんな自分のことを、決して善人だとは思わない。
――けれど、そうでもしないと、あたしは生きていけないのだ。
この世界は途方もなく過酷で、これ以上ない程残酷で、赤の他人による救いなど、まして神の手による救済など、幾ら手をこまねいていても訪れはしない。幸せを掴み取ることができるのは、自分でその血路を切り開いた者のみ、その罪を背負う覚悟を抱いた者のみだ。他人の糧となって死んでいくのはもうごめんだ。そのために、自分が仮に、他の命を踏みにじる側に回らざるを得ないとしても――それはもう、割り切って然るべきことだと思う。
なればこそ、契約を結んだ。なればこそ、ここまで戦った。己の命も、他人の命も、何もかも犠牲にして捨て去ったその果てにこそ、おねえちゃんは待っている。いつもの笑顔で待っている。
――光が晴れた。視界が晴れた。
そうして、そこには――。
「おねえちゃん――」
――ブランカは、瞬きをした。
誰も、いない。
何も、起きていない。
ただただ沈黙のみが流れている。《聖骸》は、奇跡など起こさなかった。
姉は、影も形もない。
「え……?」
ブランカは、茫然と呟いた。
「なんで……何も起きないの……」
ブランカは、虚空を振り向いた。
「アスモデ……!!」
そこにははた目には、誰もいない。だがブランカは、その空間に向けて憎悪の言霊を放つ。彼女には視えていた。そして、分かっていた。
「これ、本物よね!? 贋物とか……すり替えられたり、してないわよね!? そうでなきゃあ……そうでなきゃあ……」
その目に純粋なる殺意が宿る。
「あなたが、嘘をついてたってことに……!!」
「残念ながらそれは本物だよ、僕のジェスター」
契約相手のあまりの感情の奔流にまずいものを感じたのか、ブランカの目の前の空間が強引にこじ開けられ、その中からアスモデが現れた。
「紛れもなく《エリエゼルの聖骸》だ」
「だとしたらなんで……!」
「条件が満たされていない」
当然のことであるかのように、淡々とした口調だった。
「君の願いは、叶えられないみたいだね。……少なくともそれが、《エリエゼルの聖骸》が下した結論だ」