第三章 3-2
「……どうして、こんなことに」
部屋を後にしたシュゼットの肩は震えていた。
「一体、何のために……」
「分かりません。……元より、考える意味など無いでしょう」
彼女の隣のロドリゲス神父は、怒りを露わに、横の壁に拳を強く叩きつけた。
「忌まわしい魔女どもの悪行の理由など、考えるだけ無駄というものです」
その瞳には、信仰の人、執行者としての、神の国の敵対者への激しい憎悪が漲っていた。
教会の門前に帰ってきたセリーヌは、全身己の血に塗れ、虫の息だった。路上、血の海の中に伏せり、うわ言のように助けを請う彼女の様子を見て驚いた市民たちが、彼女をそこまで運んできたのである。
セリーヌの全身はズタボロだった。辛うじて生きていたため、現在は奥の部屋のベッドに寝かされ、治療を受けているが、全身を覆う痛々しい傷痕は、見るに堪えないものだった。回復できたとして、以前のように歩けるかは分からない。
魔女の仕業とみて間違いなかった。それも恐らくは、昨晩この聖堂を訪れた、あの二人の魔女のどちらかだろう。容体と意識が安定すれば話が聞けるのだが、それはしばらく先のことになりそうだ。
「――神父様は、どちらの仕業だと思いますか」
回廊を歩く神父の後を、シュゼットが追う。
「件のネクロマンサーか。それとも、ヨルムンガンドでしょうか」
「ヨルムンガンドではないでしょう」
ロドリゲス神父は唸る。
「……いえ、或いは、『そうではないと思いたい』と言ったところでしょうか。奴はとりわけ用心深い性格の魔女です。我々に足取りを捕捉されるような大胆な行動など、ほとんど犯してきませんでした。このような無計画な襲撃は、我々の知る彼女の性格からあまりにもかけ離れています」
「……しかしお言葉ですが、それを言うなら、昨晩のこの教会への襲撃こそ……」
「ええ、その通り。故にこそ確証が持てないのです」
蛇術師、ヨルベスク=ヨルムンガンド。はじめにその活動が確認されているのは今から六十年前のサン=キリエル市、当時の街を裏で支配していた魔女結社サンドリーヌ・ファミリーの構成員として、高等血印術の研究を行っていた記録が存在する。しかし幾らかの経緯を経てこの魔女結社は教皇庁の手によって解体され、その後ヨルベスクの消息はしばらく途絶えることとなった。
三十年後、遂に討伐された大魔女オズルボォンの地下図書館より発見された、ヨルベスクが近年記し、オズルボォンに送ったとされる魔導書写本の存在によって、彼女の生存が確認される。魔導書内の記述から推測されるヨルベスクの性格は、世界への敵意を抱く悪辣なる破壊者ではなく、研究への妄執を抱く狂った芸術家。これは、教皇庁に存在が確認されてから数か月以内に討伐が完了していない、用心深い魔女の多くに共通している性質であると言えよう。
魔導書内の記述などの一次資料を信頼するならば、ヨルベスクは他の研究熱心な魔女の多くと異なり、専ら自らの使い魔たる蛇を用いた術式を考察しているため、わざわざ人体実験を行う必要がない。そして、教皇庁に余計な目を付けられるのを嫌い、人間には一切手を出していないという。本来ならば疑わしいところだが、これを裏付ける証拠として、ヨルベスクの手によるものとされる市民への魔女の襲撃は未だに報告が一件もない。教皇庁の公式見解として、ヨルベスクの危険度はあまり高いものではなかった。
人々に手を出さないことによって目立つことを避け、拠点を定期的に移しながら、静かに研究に没頭する――典型的な「隠者」タイプの魔女である。
だが、だからこそ昨夜、唐突に聖堂への襲撃をかけたことが、不自然でもあるわけだが。
「……尤も、可能性の話をするならば」
ロドリゲス神父が目を細める。
「あのネクロマンサーの方が、このような行動を起こすことが考えやすいとは言えるでしょう。しかしだからこそ私は警戒しているのです。昨夜の襲撃にしても、無秩序で無計画なようでいて、実のところは我々をおびき出すための陽動でした。そして我々は、まんまと引っかかってしまった」
「引っかかった、という言い方はよしてください。あの時人々を助けるためには、あれしかありませんでした。……神父は悪くありません」
「そういう問題ではないのです、シュゼット。理由は何であれ、我々が《聖骸》をもう少しで魔女の手に渡らせてしまうところだったことは事実。あのネクロマンサーは危険なのです。行動そのものは浅はかで向こう見ずなようでいて、妙なところに策を仕込んでいる。そしてその発見が遅れれば、大変なことになるのです。
恐らく奴の狙いは、今回の襲撃によって、我々の外への警戒を強めること。その間に再び防御の隙をついて侵入する算段でしょうが、同じ作戦に二度も嵌る我々ではありません。街中に潜む奴を狩りに出るとしても、それは可能な限りこちらの防衛を固めたうえでのこととします」
そう言って、ロドリゲス神父は言い放つ。
「恐らくは今夜こそが正念場。あの悪しきネクロマンサーと、その浅ましき野望を打ち取り、この街にあるべき平和を取り戻すのです」
「――神父様っ」
ロドリゲス神父と、シュゼットとが振り返ると、そこには息を切らした涙目のシスターが、喘ぎながら駆け込んでくるところだった。
「神父様!! セリーヌが……セリーヌがっ」
「――どうしたのですっ」
「それが……それがっ」
パニック状態のシスターが絶叫する。
「セリーヌが、どこにもいないんです!!」