序章
はじまります。
魔女が燃えている。
姉妹は、それを見つめていた。
市の中央広場、サン=ダヴィーデ聖堂の前に用意された処刑場の周りには、忌まわしき魔女の死にざまを一目見ようと、夜にも拘わらず、ごった返すほどの人だかりが集まっていた。鎧を着こんだ兵士たちに囲まれ、積まれた焚火の中の十字架に括り付けられて煌煌と燃え盛る魔女、その様子を、子供から老人まで、皆一様に食い入って見つめていた。教皇庁の命によっておおよその演劇や娯楽の類が禁じられていたこの街において、これはいわば極上の見世物である。愉悦に歪んだ人々の顔を、暗闇の中、踊る炎が赤赤と照らし出していた。
魔女には未だ意識があった。身をよじり、助けを請い、苦悶の悲鳴をあげる彼女を、人々は嘲笑い、口々に罵倒し、石を投げた。魔女はまだ若く、そして美しかった。そのきめ細やかな、しかし拷問の痕を受けて切り傷や痣だらけになった肌が爛れ、焼け焦げる様子を見て、男たちはせせら笑い、愉しんだ。
そして姉妹は、そのただ中にいた。細く、青白い手を、互いに強く握りあって。
ブランカは声も出なかった。今にもその場に崩れ落ちんとする彼女を支える、横に立つ姉のアデリアは、きつく唇を結び、黙っていた。膝の震えを抑え、隠すのに必死だった。
「――おねぇちゃん――」
ブランカが、やっとの思いで、弱弱しく呻いた。思わず、一歩、後ずさった。
「……いやだよ、あたし。こんな――こんな――」
「……分かってるわ」
アデリアの声は引き攣っていた。
「分かってるわ、ブランカ。大丈夫だから。……大丈夫だから」
ブランカは、アデリアの瞳を見つめた。アデリアは、ブランカを見つめ返した。やがてアデリアは、意を決したように目を閉じて、深く深呼吸をし、そして再びブランカに向き直ると、
「……手を、出して」
ブランカには、姉の意図していることは分からなかった。が、彼女に任せれば、きっとこの状況をどうにかしてくれるに違いない。ブランカはこくりと頷いた。震えるもう片手を、差し出した。その上に、アデリアの手がそっと重なる。
何か、冷たく、重たいものが、ブランカの手の中に握られた。ほどなくして、アデリアの手が離れた。
視線を下に移し、ブランカは絶句した。
ブランカが握っていたのは、大粒の尖った石だった。
「――おねえちゃんっ」
ブランカは思わず声を上げ、忌まわしいものを払いのけるかのように石を落とそうとした。その手にアデリアは乱暴に掴みかかり、動きを抑え、
「駄目っ」
ブランカの目の奥を、アデリアが強く睨みつける。それまでブランカが一度も見たことのない、姉の表情だった。
「――私たちは、こうしないと生きていけないのっ」
アデリアが、小声でささやいた。
「お願いブランカ、私の言うことを聞いて。いい子だから。こうすることは、何にも間違ってないから」
「おねえちゃん――」
「いいから見てて」
姉は、繋いでいた手を振りほどいた。足元に落ちていた別の石を握りこみ、魔女に向けて精一杯投げた。石は魔女の額に命中した。血が飛び散り、魔女が悲鳴をあげる。人々がはやし立て、ひどく下品な笑い声が上がった。
姉が、ブランカを向き直り、その目を見据えた。ブランカは首を振り、一歩後ずさった。そんなこと、自分にできるわけがない。そんなことを、何故姉は自分にやらせるのか、まるで理解が出来なかった。
「――これが件の姉妹か」
その時、ブランカの背後から、男たちの声が聞こえた。
「本当はこいつらも容疑がかかってたんだろう。どうして取り消されたんだ」
「知らねぇが、餓鬼だからって甘すぎるよなぁ。父親だって本当はよ、前の旦那じゃなくて、悪魔だったんじゃねぇのか」
「十分あり得る話だな。見ろよコイツ、魔女だってのに、母親のこと見て泣いてやがる」
「――ブランカっ」
姉がブランカの肩を握って、悲痛な声で呼びかけた。
「――早く! ブランカっ!」
「――おねえ――ちゃん――」
ブランカには、何もわからなかった。ただただ恐怖だけがあった。姉の言うとおりにしなければ自分は死ぬのだという確信だけが、彼女をその時突き動かした。
ぼろの袖で、涙をぬぐった。黒い真珠のような瞳に、怯えた決意を宿した。
そうしてブランカは、炎に焙られ、悲痛な絶叫をあげ、地獄の苦しみの中で死にゆく己の母親に向けて、石を投げた。
魔女という存在について七歳のブランカが知る内容は、それほど多くはなかった。元より城塞都市ミュリエンにおいて大規模な魔女事件の数は数か月に一回程度であり、またその殆どは聖堂配属の執行部隊によって発生直後に鎮圧されるため、日常の中で魔女について考える機会もさほど無かったのだ。教皇庁の守りが薄い農村部では襲撃が頻発し、直接的な民の殺害に加え、冷害や干ばつ、イナゴの発生による食糧難など、より深刻な問題と化しているらしいが、それも人づてに聞いた程度のぼんやりとした話であり、実感が乏しいというのもそうだが、それ以前にブランカの理解力では半分以上の内容がよく分かっていなかった。
ブランカが知っているのは、魔女は悪いことをする、悪い連中なんだということ、ただそれだけであった。
故に未だ、信じられずにいる。
彼女と姉とを慈しみ、優しく抱きしめ、愛してくれた母親が、そのようなおぞましい存在だったなどと。
「――魔女っていうのはね。悪魔と契約をして、魔法を使えるようになった人のことを言うのよ」
質問を受けた姉は、ブランカにそう教えてくれた。ミュリエンの中央通りの商店の二階、二人は窓辺のテーブルに座って、食事をとっていた。
なんとか恵んで貰えたパンの端に、水同然の薄いスープ。以前の生活からは考えられないような質素極まりない食事だったが、財産が教会によって没収された現在、二人の力ではこれが限界だった。住み慣れたはずの我が家からは、家事の音が消え、調理中の母親の鼻歌もどこからも聞こえず、温かなシチューの匂いですら、一生あの台所から流れてくることは無いのだと思うと、最早姉妹にとって此処は冷たい幽霊屋敷も同然だった。冬場だったが、暖炉に火はなかった。姉妹のどちらも、それについて意見を言うことは無かったが、口で語らずとも共通する認識として、火を見る気分にはなれなかったのである。
夫を病魔で亡くした後、家業を引き継ぎ、四苦八苦しながらも、姉妹の前でだけは笑顔を絶やさず、家族を必死に支えてきた母。彼女がいなくなった今、姉妹は生きる術の全てを失った。
この家も、明日には退去させられる。そうなれば以降は、浮浪者同然の生活を余儀なくされるだろう。魔女の家族の生活に保障などされないし、周りの住民から助けの手が差し伸べられることもない。
「――ねぇ、おねえちゃん。『けいやく』って、なぁに」
「あぁ、そうね。……『契約』っていうのは、『おやくそく』のことよ」
姉はそう笑って、ぼろ屑のようなパンを口に運んだ。
「悪魔と約束をして、それで悪魔の力を手に入れるの。そうして、それを使って、人を襲ったり、畑を枯らしたり、悪いことをたくさんするのよ。それが魔女」
そう語る彼女の顔は、ブランカに笑いかけているように見えた。けれどその目の端には、一粒の涙が浮かんでいた。
三歳年上の姉は、博識だった。ブランカが知らないような単語も幾らでも知っているし、ブランカが聞いたことのない知識も、幾らでも教えてくれる。家業についても母親から若干教わっており、本来ならばそのまま、仕事も引き継げたかもしれない。尤も実際には、財産の没収措置に、仕事の必要な道具一式も含まれていたため、それは適わぬ夢なのだが。
「……おねえちゃん」
ブランカは、冷たいスープから口を離した。しばしの、沈黙ののち――
「おかあさんも、わるいことしたの?」
「……」
姉は、顔を手で覆った。肩が小刻みに震えている。ブランカはどうすれば良いのか分からなかった。
「……おねえちゃん――」
「したわ」
姉の声は、うわずっていた。
「たくさん、悪いことしてたんだって。……数えきれないくらい、たくさん」
「……」
ブランカは、黙り込んでいた。聞きたいことは山ほどあった。山ほどあったけれど、どれを聞けばいいのか一向に分からず、またそもそも聞いていいのかもわからなかった。
せめて、一つだけ。
どうしても答えを知りたかった問いが、一つ。
「どうして、おかあさんは」
ブランカは、独り言のように呟いた。
「まじょになんて、なったのかな」
「……」
姉は泣いていた。顔を両手に埋めたまま、首を振った。
姉が、ブランカの問いに答えないというのは、それが最初で最後のことだった。
あの時、姉は答えなかった。
答えることが、できなかったのだろう。
分かる筈もない。たった十歳の少女が、何故己の母親が地獄へと続く道に堕ちたのかと聞かれて、そんなこと、最初から分かる筈が。
当時のブランカにとって、姉は賢く、頼れる存在だった。無論、今のブランカにとっても、彼女はそのような存在であり続けている。
しかし、あれから七年、数えて十四となった今、ブランカは当時の姉の年齢を優に越し、当時の姉にも分からないことがあったのだという事実を、多少の抵抗を持ちつつも、受け入れることができるようになっていた。
そして今やっとブランカは、あの時の問いの答えを、己のうちに見つけることができた。
――やっと分かったよ、おねえちゃん。
サン=ダヴィーデ聖堂から中央通りを抜け、迷宮のように複雑に曲がりくねる貧民地区の道を巡りきった果ての果て、暗黒街のはずれもはずれ、裏路地の行き止まりの闇の中。白銀の月明りに照らされて、揺れる黒髪の少女が一人。ぼろを纏い、痩せさらばえてこそいるが、その深い瞳に宿る漆黒の意志は揺るがない。
――あの時、お母さんが魔女になったのは――
否。一人ではない。少女の眼前、彼女の影が持ち上がり、歪曲し、内側から裂けるようにして真の貌を現した。自らを呼んだ者の姿を見て笑みを浮かべながら、路上へと一歩踏み出したそれを、少女は強く睨みつける。不退転の決意に、唇を固く結んで。
少女は呼吸を整え、逸る動悸を抑えた。そして潤った唇をゆっくりと開き、誓いの言葉、破滅の言霊、世にいう堕落の盟約を口にした。
おろかであっても構わない。無様だと嗤われても良い。だが決して、何があろうとも、これが、この気持ちが、間違いでなどあるものか。間違いであってたまるものか!
仮にこれが間違っているというのなら――
そんな世界こそが、間違っているのだ。
「あたしは――」
――愛する人と、生きるためだよ。
「契約を、承諾する」
はじまりました。
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