第2話 デク人形覚醒
◆2
翌日、いつものように起床して、身支度を整え、いつもの朝食の定番である半熟目玉焼きを一つ平らげ、俺は自宅を飛び出し、クロスバイクに跨り、予備校へ向かった。
昨晩の胸の焼け付くような熱さや苦痛は、若干感じるものの、そこまで気にすることはなかった。
公園の並木通りを颯爽と駆け抜ける。五月の心地よい風が火照った身体を癒してくれた。
そして、昨晩の住宅街。いつもと変わらない。昨日の出来事が嘘だったかのように思える。
昨日の男はやはり俺の妄想だったのか、錯覚だったのか。いや、それは断じてあり得ない。何故なら未だに胸の焼け付き感と痛みは和らいでいない。
とにかく、そんなことを気にしていてもはじまらない。受験生は勉強が第一だ。余計な心配ごとはご免こうむりたい。
橋を渡って国道を駆け抜け、小道を進んで、俺は定刻通りに予備校に着いた。
俺は一応、私立文系特進クラスだ。特待生でこの予備校に通っている。常に予備校の成績でもベスト10に入っているので、「鹿島コウ」といったら誰も知らない人はいないほどの有名人だ。だから色んな人に声をかけられるし、自分から声掛けても「君だれ?」みたいな反応はないので、会話相手には不自由してない。
「コウ、おはよー」
富永美咲が挨拶をしてきた。
彼女とは予備校が始まってからの友人で、一番の親友であり、よきライバルでもある。同じ私立文系特進クラスということもあって、よく予備校の自習室で一緒に肩を並べて勉強したりしている。
「ん~、コウ、少し顔色悪いんじゃないの?」
美咲は心配そうに俺の顔色を伺ってきた。
「ああ、心配ない。少し今日は睡眠不足なだけさ」
昨日の出来事なんて言えない俺はごまかした。
「昼休みに栄養剤でも飲めばバッチリさ」
「そか。ならよかった」
美咲は安堵の表情を浮かべながらそう呟いた。
「健康には気をつけなよ。無理しないでね」
本当に美咲は、いつも俺のことを気にかけてくれる。
美咲は、背は俺より少し低いくらいで、女子としては背の高いほうだ。髪の毛はセミロングでナチュラルブラウン。スクール系の服装を好んで着ていて、紺のハイソックスがお気に入りという可愛い系の女の子だ。
一重瞼なのに眼は比較的パッチリしていて、肌も白すぎず、健康的な色をしている。俺好みだ。この予備校にはいって、こんな好みの子と親しくなれたのはまさに天祐と言わざるを得ない。
ただ、とても社交的な子で、男子に非常に人気者だ。倍率は高い。だからあまり「期待」はせずに一緒の大学へでも行けたらいいなとは思っているくらいの感覚だ。
いつものように、英語の講師が黒板に板書をしてゆく。
それを書き留めてゆく。
講師が補足説明してゆくのを耳を澄ませて、テキストに書き写してゆく。
心臓の鼓動は安定している。
熱もだいぶ冷めてきていた。
元々風邪ではない。あの男に埋め込まれた宝石によるものだ。時間が経てば収まるだろう。
“お前の日常はたった今、終局を迎えたということだ”
あの男の言葉がまだ耳にこびりついていた。
あの「天使」のような翼を持った男は一体なんだったのか。あの赤い眼を思い出す。成す術のなかった自分の非力さを痛感した。
あれは絶対にこの世の存在ではない。考えられるとしたら俺の妄想、いや悲しいけれどもこれは現実だ。未だに心臓には違和感が残っている。
突然だった。
講師が一人、壇上で語る以外は静寂した教室で、俺は声を聞いてしまった。
“早く……”
(え?)
俺は思わず後ろを振り向いた。
誰も俺に語りかけた様子などない。
また聞こえた。
“早く……次元の扉を……”
まただ。俺は慌てて周囲を見渡した。もしかして昨夜のあの男が現れたのかも知れないと思った。しかし、その男はおろか、誰ひとり、俺に語りかけてきている者などいない。
“早く……早く……次元の扉を……我を……”
矢継ぎ早に聞こえてくる。
“早く……我を……”
気が変になりそうだ。「早く次元の扉から我を」と片言のように繰り返して聞こえてくるその声に、俺は恐怖を抱いた。
(幻聴なのか……?)
幻聴?ついに俺はおかしくなってしまったのか?
俺は表現しにくい恐怖感に苛まれた。だとしたのならば、あの男も俺が見た幻覚であり、俺は妄想に取りつかれてしまったというのか?
馬鹿な。確かに昨日の男は現実だ。そうだ。この心臓の違和感こそが現実であったという証明だ。妄想などありえない。
次第に俺の額には嫌な汗が垂れてきて、背中も濡れてきた。心臓の鼓動も激しくなり、体中から熱が込み上げてきた。
「ん?なんだ。鹿島」
英語の講師がこちらを一瞥して呟いた。
「ひどく具合が悪そうじゃないか。大丈夫か。無理せず今日のところは切り上げたほうが良いのではないか?受験は長丁場だ。皆も無理だけはするなよ」
講師が言い終えるとちょうど講義の終えるチャイムが教室に鳴り響いた。
「コウ、大丈夫?本当顔色が悪いわよ」
富永美咲が俺のもとへ駆け付けてきてそう呟いた。
「いや。なんでもないんだ……本当に……」
「なんでもないわけないのではなくて?顔色が真っ青よ?」
「今日は切り上げるよ。本当になんでもないんだ」
俺は荷物をまとめて逃げるように富永美咲の傍を離れた。
“早く……我を……”
未だ幻聴は聞こえてくる。
校舎を後にして、俺は駐輪場を目指し、自分のクロスバイクのチェーンは外し、それに跨り、家路を急いだ。
疲れているんだ。日々の勉強のせいだ。一日ゆっくり寝れば大丈夫だ。
家に辿り着き、俺は自分の部屋に引きこもり、寝巻きに着替えて、ヘッドフォンをセットしてベッドに入った。
音楽は、ワグナーの『ニーベルングの指輪』だ。
狂いそうな頭をクールダウンさせないといけない。
医者へは行きたくない。
今は受験が最優先だ。
俺は狂ってはいない。
いない。
断じて狂ってなどいないんだ。
自分にそう言い聞かせる。
やがて軽い睡魔がやってきた。幻聴の間隔が空いてゆき、次第に聞こえなくなっていった。どうやらこの幻聴は俺のメンタルな部分と直結しているようだ。講義中のように、精神を集中させ脳を活性化している時にあの幻聴は激しく聞こえてきた。でも今リラックスしているときには幻聴が嘘のように静まり返った。
そして俺は眠りについた。
「心地よき眠りからお目覚めかな。青年」
また幻聴か?俺はベッドから飛び起きると目の前にあの男が白い翼を軽く羽ばたかせながら宙に浮かんでいた
げ、幻覚か……
自分はついにおかしくなったのか?
俺は幻を見るかのように男をぼんやりと見つめた。
「夢でもみているかのような顔付きだな。残念ながらこれは現実なのだよ、青年」
「どこから入った?」
「窓からさ」
「ここはマンションの5階だぞ。鍵だって」
「察しろ。鍵などどうにでもなる」
どうやら俺の部屋の窓から侵入してきたようだ。
机の傍の窓が開いていた。内側からかけてあるハズの鍵をどうやって開いたのかは問わないことにした。なにせ宙を浮いているような存在だ。
「いいか、青年。貴様は俺のデク人形だ。貴重な『アウインの奇跡』を使って生み出されたのだからな。さっそく使役させてもらおう」
男は胡坐をかいた姿勢で宙に浮いていた。
「デク人形?アウインの奇跡?使役だと?」
「ある意味でお前は選ばれたのだよ。アウインの奇跡は貴様ら人間をデク人形とする貴重な宝石だ。分かりやすく言おう。貴様は俺のデク人形、すなわち、番兵と化したわけだ」
「バンヘイ?」
「そうだ。俺のテリトリーを犯す他の『エンジェル』どものデク人形と戦うのが貴様に科せられた制約だ」
「エンジェル?」
「ふふふ……お伽噺のエンジェルとはちょっと違うがな。人智を超えた存在であることには変わりはあるまい。貴様らデクにとってはどうでもいい。ただあるのは主従関係のみ」
そう言うとこの男は俺を窓の外へ連れ出そうと、俺の右手を掴んできた。
「ふざけるな!」
俺は右手を払いのけた。
「お前は俺が生み出した妄想だ。何が主従関係だ。もういい!俺は明日病院へ行く。それでお前のような妄想ともさようならだ!」
「諦めろ!」
男は一瞬目を瞑り、そして見開いた。
「ぐわぁぁぁ!!!」
脳髄に激しく響いてくる激痛だった。精神的にも肉体的にも激しい苦痛が全身、全神経を駆け巡った。
「夢でも幻でも戯言でもない!これは現実なのだ!我がデクよ!」
そして男は名乗った。
「俺の名はバレロック。『エンジェル』だ。貴様らデク人形を使役する者。貴様らデクは我が命に背けば今のような激しい苦痛に苛まれることとなる。これがデクに科せられた『アウインの制約』だ。以後忘れるな」
「あの時埋め込んだ石のせいか……」
「残念だが既にお前の心臓と同化している。現在の医学では摘出は不可能だよ」
男は透かし顔で呟いた。そして付け加える。
「しかし、案ずるな、青年。貴様には人間とはかけ離れた力が手に入ったのだから。アウインの奇跡の効果は伊達ではないのだよ」
男は再び俺の右手を手に取った。
「いくぞ、デクよ。感じるだろう?我がテリトリーを侵す輩の気配が」
「この感じ……嫌な感じだ……これが俺の敵というわけか?」
確かに何らかの気配を感じることができた。
「そうだ。貴様らデクは自らの敵を感知することもできる。我が防衛装置の一環でもあるのだよ」
「バレロックと言ったか」
「何かまだあるのか?」
「行くのはいいが、着替えさせてもらえないか?」
「いいだろう。ただし1分以内でだ」
黒いキャップを後ろに被り、全身黒、しかも夏も近いというのに長袖という装いで俺はバレロックと名乗る男の胸に捕まった。そしてバレロックは勢いよく窓から飛び出していった。
「空を飛んでいる……」
「ようこそ!これがエンジェルの世界だ!今日は特別サービスだ。本来デク如きを運んでやることもない。今後は一人だということを忘れるな!」
バレロックはニヤリと俺を一瞥して呟いた。
夜間飛行。大都市のネオンが眩いほどに煌めいている。少し雲かかった夜空には星たちが瞬いている。初夏の到来を感じる風が心地よく俺の頬を撫でていった。




