第1話 日常から外れた時
◇Ⅰ
日常は突如として崩壊した。
予備校帰り、俺はクロスバイク(注釈:自転車の種類)で颯爽と国道を走っていた。二十三時、深夜とはまだ呼べぬ時間帯だった。予備校を終え、有料自習室でその日の復習を終え、帰宅するところであった。いつもの生活パターンだ。まだ梅雨には早すぎる季節、5月下旬の夜の気温は清々しい。
橋を渡り、閑静な住宅街を進んでいった。いつもの通り道だった。比較的人通りは少ない道である。
遠くをクロスバイクのライトが照らした。人影があった。俺はその人影をよける様に進もうとした。しかし、その人影はよけようともせず、俺の進む道に立ちふさがった。
ぶつかる。俺は急ブレーキをかけた。クロスバイクの後輪が浮き、前のめりに転倒しそうになった。姿勢が元通りになると、俺はその人影を見つめた。
普通ではなかった。
ファンタジー小説に出てきそうな装いをしていた。赤いインナーで黒のマントのようなジャケット、そして眩いほどの貴金属が散りばめられたネックレス、そして手に持つのは漆黒の杖で見ようによっては斧のようにも見えた。その杖の先端は赤い宝石が煌めいていた。ズボンは黒。
どう表現していいかわからなかった。とにかく、RPGやファンタジーの世界そのままの服装だった。
男だった。髪の毛はシルバーで長い。眼は赤い。肌の色は褐色色だ。どうみてもどこの世界の人種でもないと一瞬で理解した。
そして男は言った。
「貴様に素質があるかどうか見極めてやろう」
男は懐から何やら取り出した。親指ほどの大きさの青い宝石のようなものだった。
(ヤバイ……逃げなければ!)
俺は本能的に悟った。コイツはマジでヤバイ。逃げなければ殺される。
男には殺気のようなものはない。ただ、ライオンがウサギを見つめるかのような視線だ。それだけで俺は戦慄を覚えた。
俺はクロスバイクを急旋回して逃げようと考える。
しかし、その男の視線を先に見てしまって、身動きが取れなくなってしまっている。蛇に睨まれたアマガエルの心境だ。いや、これは催眠だ。とにかく、俺は身体が硬直してしまった。
「吉と出るか凶と出るか、それは運次第だ、青年」
男は右手で摘まんだ宝石を俺の心臓へ向けた。そしてそのままその宝石を埋め込んでいく。
「……!!」
俺は声にならない叫びを上げた。
身体中が熱い。焼けるように熱い。全身に嫌な汗がかき出した。意識が遠のきそうだ。
俺はそのまま地面にうずくまり、胸に手を押さえて苦悶の表情を浮かべながら苦痛を味わう。
その様子を見て男は呟いた。
「まずは合格だ。おめでとう。死ななかったな」
「あんたは……一体なんなんだ……」
少し苦痛と熱さが和らいできて、なんとか俺は声を発することができた。
「貴様ら『デク人形』を使役する者」
男は言った。
「し、使役する者……?」
「我が糧となるか使役される者となるかは、貴様の運次第だ。また会おう」
男はそういうと背を向けた。そして思い出したかのようにこちらを振り返り一瞥して言った。
「お前の日常はたった今、終局を迎えたということだ」
そういうと男は背に白い翼を出し、すぐさま夜空へ飛び立っていった。
可憐に舞い上がり、優雅に飛び立つその姿。耽美なお伽噺に出てくるまさに天使の翼だった。
天使?
あの男の優雅な白い翼はいったいなんだったのだろうか。
俺はようやく胸が焼けるような熱さが和らぎ、呼吸の乱れも落ち着き、その場で呆然と立ち尽くしていた。あっという間の出来事で何がどうやらまだ漠然としていて理解できないでいた。事情がまったく掴めない。
けれども、「日常」ではないことは分かった。夢でも錯覚でもないことだけは。