あかつきの冬 中
*
「…て、ことがあったんだよ」
閉店後、恒例となった夜食会で、今日はカゲツ自ら作ってくれたハスネの包揚げをつまみつつ、ランチェスが嘆いた。
「いいじゃないか、美人と二人で楽しくおしゃべりしながら夜の散歩ができるんだろ?俺には自慢にしか聞こえんなぁ」
「馬鹿言うな。おしゃべりったって、結局内容はほとんどお勉強だよ。毎日カゲツにこき使われて疲れてるって言うのに、そのうえ教師の真似事までしなきゃならないなんて、やってられないよ。人に何か教えるの、苦手なのに…」
まぁまぁ、がんばれ、とカゲツが無責任な励ましをくれる。
勢いよく口に放り込んだハスネの包み揚げはまだ熱くて、ランチェスはちょっと涙目になった。
カゲツが、そうだ!と肉厚の手を叩いた。
「それより!明日、南東大広場でジンク芸団の一般公演があるって知ってるか?」
「ジンク芸団?」
「あ、そうか、ランは4年前にはもうこの島からいなくなってたんだっけ。ジンク芸団ってのは、ちょうど4年前から活動してる、歌ったり踊ったりなんでもありの芸能集団だよ。音楽にのせて魅せる剣舞や棒術が有名なんだけど、聞いたことない?」
「ない」
「えー、もったいない!見るべき見るべき!…よし決めた。明日の南東広場での公演販売、ランに任せる!」
「公演販売?」
「そう。露店売りだよ。大勢の人が詰めかけるから、立ったまま食べられるちょっとした料理を売る屋台を出すのが毎年恒例になっているんだ」
「えーと、普段だって目が回るほど忙しいのに、オウカ亭をほっぽりだして、屋台の方に人を回しちゃって、大丈夫?」
「いや、公演の日のオウカ亭はあまり客が来ないんだ。屋台を出した方がよほど儲かる。人員は必要なところに割く。当たり前のことさ」
太い腕を組み、一人で勝手にうなずいて、カゲツは言い放った。
「ラン、お前を明日、オウカ亭公演販売出張店の販売責任者に任命する!!」
「お?おー、まかしとけー!」
よくわからないが、流されるままに、拳を突き上げたランチェスであった。
次の日。
弐区のほぼ中央に位置する南東大広場を縁どるように、移動式の天幕が所狭しと並んでいた。
色とりどりの布で組まれた天幕が、夕日に照らされて鮮やかだ。
天幕では様々な食べ物と飲み物が売られている。すでに酒が回っている大人もいて、あたりは祭に浮かれる非日常な空気に包まれていた。
ジンク芸団は、宣伝と社会貢献の意味を込めて、一年に一回、地域の人向けに無償で公演を行っているのだという。
普段は見ることのできない超絶技巧を見られるとあって、広場は大勢の人で埋め尽くされていた。
(まるで縮小版祭礼だ)
出張版オウカ亭は、ここでも相変わらずの人気ぶりを発揮していた。
「蒸し饅二つ、ザーキー果汁一杯、くださいな」
女の子が満面の笑みを浮かべて、小銭を注文台に置いた。背後では母親がにこにことそれを見守っている。
ランチェスは、ほかほかに蒸してあった肉饅頭を、香り高い大きな青葉で包んで、女の子に手渡した。
隣では同じくオウカ亭の店員で若干15歳の少年・ワグが巨大な樽に入ったザーキー果汁を素焼きの器に掬い入れて、母親に手渡した。
親子を見送って、ワグがふーと息をはいた。
「あぁ、すごい売れ行きっスね。公演が始まる頃には売り切れちゃうかも」
「そうなったら、俺たちも公演を楽しもう」
「やった!俺、ジンク芸団の公演見るの、初めてなんすよね!」
(ま、さすがに公演開始前までに売り切れることはないだろうけど)
張りきったカゲツのおかげで、蒸し器の中には朝仕込んだ饅頭がまだまだたんまり残っている。公演中も頑張って売り歩いて、それで完売できるかどうかという所だろう。
露店売りをしていると、サクレを売っていた時の、大変だが充実していた時間が思い出された。
(俺、菓子屋になるつもりでこの島に戻ってきたのにな、何してるんだろう)
またいつか、サクレを売る露店を出したい。そのために今饅頭売りの露店を出しているのだと思うとなんだか遠回りしている気がして少し複雑な気分だ。
(…ま、落ち込むのはあとあと!今はこの饅頭を売り切ることに集中しよう。目の前のことに全力で取り組んでりゃ、きっと道は開けるさ)
頬を叩いて気合を入れなおすと、ランチェスは売り込みのために声を張り上げた。
「オウカ亭の肉饅頭ですー!できたてほかほか、食べ歩きにもピッタリな肉饅頭、一個十五トですよー!」
――――――そして、その甲斐あってか、なんと。
「最後、すごい売れ行きだったね…」
「っスね…」
呼び込みが功を奏したのか、一度行列ができると、それがまた客寄せになって人が集まり、饅頭は飛ぶように売れた。そのおかげで、公演時間が近づくころには饅頭はすっかり売り切れてしまったのだ。
売るモノが無くなってしまっては、店を閉めるしかない。
時刻はちょうど、日没。すでに灯されていた街灯が、ひときわ存在感を放ち始めた。
「ワグ、せっかくだから、前の方で公演見てきなよ」
「え、いやいいです。片付け残っていますし」
「いいよ。俺一人でできるから。それに、ワグの身長じゃ、ここからじゃなんにも見えないでしょ?」
ワグはぷうと頬を膨らませた。
「見えますよ!まぁ、確かにランさんと比べたら背は低いですけどこれでも俺同世代の中じゃ結構背の高いほう…」
「いいからいいから」
しっしと手を振ると、ワグは頬を膨らませたまま、しかたないなぁというような顔をして、でもちょっと嬉しそうに足取り軽く、人ごみの中に消えていった。
日没を告げる鐘が鳴った。
同時に、近くで銅鑼の音が響く。その音を合図に、集まった人々はおしゃべりをやめ、中央に誂えられた舞台に一斉に目を向けた。
高い位置でかがり火が焚かれ、舞台はひときわ明るい。そこに、二人の女性が互いに反対方向から現れ、中央に向かって歩み出た。
両人とも手には巨大な旗を持っている。二人は舞台の中央で立ち止まると、背中合わせになって、持っていた旗を高々と掲げた。
えんじ色の生地に、黄金色の刺繍で細かな文様が施された旗だ。
かがり火の明かりに浮かぶその文様は、中央に交差した鳥の羽と鉱石の結晶が描かれ、その周りを円状に穀物の穂が囲む、という図柄であった。
「あれ、コクウ商会の紋章だよ」
ぼうっとその様子を見ていると、背後から友人の声が聞こえてきたので、ランチェスは驚いて飛び上がった。
「カゲツ!?何してるのさ。お店は?」
「お客さん全然来ないんだもん。だから屋台の方の手伝いしようと思って来たんだけど、まさかもう売り切れてるなんてね」
「頑張った」
「それより、ほら、見ろよ。始まるぞ」
「―――協賛はコクウ商会様です。ではどうぞ、不思議な夜を、心ゆくまでお楽しみくださいませ」
開演の挨拶を終えた二人の旗手が、来た時と同じように舞台からはけると、広場に楽し気な音楽が流れ始めた。裏手に楽弦団がいるのだろうか、思わず踊りだしたくなるような軽快な曲だ。
その陽気な音楽に合わせて、奇妙な扮装をした人間が舞台に現れた。玉乗りや手品をしようとしてはことごとく失敗している。大げさで滑稽な所作が面白くて、会場は笑いの渦に包まれた。
しばらくそれが続いた後、急に、曲調が変わった。腹に響くような重低音を基調にした楽曲で、緊迫した雰囲気を演出している。
どういう仕掛けか、舞台と広場を囲むかがり火も青緑色に変化している。
いつの間にか、道化師はいなくなっていて、代わりに青色の衣を着た男が二人大剣を手に現れ、刃を交えた。
「演武?」
「いや、見てて」
キィンと、金属同士がぶつかる甲高い音が響く。始め、それは明らかに試合だった。二人の男は互いに死力を尽くして戦っている。遠目に見ても、その迫力と雄々しさが肌に伝わってきた。
…だが、気づくと二人の動きは次第に流れるように一つに収束していき、曲が最高潮に盛り上がりを見せた、という時には、それは明らかに舞へと変わっていた。
「剣舞だよ」
いつの間にか、舞台には剣を手にした男が何人にも増えていた。大勢の男が大剣を自在に操って舞う様は、ひどく統率がとれていて、機械仕掛けかと思うほどに一分のずれもなかった。
曲が終わり、舞終えた男たちが動きを止めた。歓声が沸き上がり、拍手が鳴り響いた。
「すごい」
「剣舞はジンク芸団の目玉の演目の一つだからね」
と、会場中の明かりが一斉に消えた。
闇があたりを包む。一瞬、冬の静謐な空気がしんとあたりを満たした。
何事かと人々がざわつき始めたが、その様子をあざ笑うかのように、ぽつ、ぽつ、と舞台から遠い場所から順に、かがり火がともり始めた。今度の炎は紫色に燃えている。
銅鑼の音が鳴った。
最後にぽつりと舞台脇のかがり火がともって、人々はそこに一人の女性が佇んでいるのを見た。
幾重にも重ねられた桃色の羽織を着て、結い上げられた髪に挿した銀色に光る飾りをしゃなりと揺らし、その女性が顔を上げた。
「!」
ランチェスは自分の息をのむ音を聞いた。
この世のものとは思えぬ、うつくしい、女性だった。
広場の端の、薄汚い露店の中から見ているのに、その髪は、肌は、唇は、朝露に濡れたようにきらめいて見えた。
川のせせらぎのような、鳥のさえずりのような旋律が流れ始めた。
舞台袖から5人、小さな女の子が身の丈ほどもある大きな扇子をもって現れて、観客の目から舞台を隠すように扇子を掲げたまま一列に並んだ。
と、扇子の後ろから、両端に飾り房のついた長杖が天高く投げられた。宝石があしらわれているのか、かがり火の光を乱反射させながらくるくると回転する棒を視線で追っていくと、それが誰かの手元に吸い込まれて、ランチェスは驚いた。
いつの間にか、あの女性が重たそうな羽織を脱ぎ捨て、細腕をあらわにし、長杖を握っていた。先ほどまでの砂糖菓子のような繊細な美しさに変わって、野生の獣を思わせるしなやかな美しさが、濃く化粧の施された目元ににじみ出ていて、彼女の印象をがらりと変えて見せていた。弦楽器を主体に奏でられる音楽も、繊細な響きはそのままだが、先ほどよりもずっと速い曲調に変化して、長杖を手にした彼女の攻撃的な魅力を掻き立てるのに一役買っていた。
扇子を持った女の子たちは、舞台の後ろに消えていた。代わりに、扇子の裏から突然出現した何人もの女性が同じような長杖を持って、最初の女性を囲むように膝をついていた。
シャーン、と幾重にも重なった鈴の音が響いた。
それを合図に、舞が始まった。
女性たちが、手にした長杖を投げたり回したりしながら、舞台中を動き回る。
長杖についた、長い布や房などの色とりどりの飾りが彼女らの動きに合わせ、空に軌跡を描いた。剣舞の時とは違って、一人として同じ動きをするものはいなかった。彼女たちは流れる水がごとく舞い、舞台は錦の落ちた秋の川のようであった。
「ジンク芸団のもう一つの目玉演目、杖舞と呼ばれるこの島の伝統的な舞踊だよ」
杖舞と言う名は聞いたことがあったが、見たのは初めてだった。
(大陸中どこを探しても、これほど美しい舞はどこにも無いだろう)
純粋に驚いた。そして心奪われた。
夜は更けていった。
*
祭礼まで、あとひと月。
「大陸って、不思議よね」
カケルが、もこもこの帽子とふわふわの首巻の間から目だけを覗かして、流暢な大陸語で言う。ランチェスがカケルにおしゃべりと言う名目でのレッスンを始めてからひと月が経って、カケルの語学力は飛躍的に向上していた。
「…何が?」
だがこの彼女、いつも話が突飛で、単語や文法は正しいのに何を言わんとしているのか分からない時が多々ある。
「もちろん、日が沈んでも水が満ちてこないところよ。大陸じゃ夜でも海岸線は変わらないんでしょ?驚きよね」
「…あのですね、不思議なのはこの島の方であって、大陸じゃない。俺の知る限り、この島以外に、夜になると水位が上がって島の三分の一が沈んじゃうなんて場所、ないよ」
「不思議だわ」
「………」
不思議なのはあなたの方だ、と言いたい。
カケルと出会ってからひと月が経つが、あいかわらずこの別嬪さんは、よくわからない人のままだった。何をしているのか、そもそも働いているのか、どうして大陸語を話せるようになりたいのか――何も分からないままだった。
(聞けばいいんだろうけど…)
どうしてか、カケルはあまり自分のことを話そうとしない。そんな相手にわざわざ問いただすのも気が引けて、ずっと聞けないでいた。
だから今日も、特に意味のない会話で時を過ごす。
「ランチェスさんは、どうしてこの島は夜になると水に沈んじゃうんだと思う?」
「そりゃ、海面が上昇するからですよ。ここらの海流は複雑で、祭礼の時以外には、船が沖に出られないようになっている。多分独特の地形なんだろうね。そういうのも関係して、夜になると海面が上昇するんじゃない?」
「なるほどねー。まぁ、そうだよね。…私は逆でさ、海面が上昇するんじゃなくて、島の土地がため込んだ水が夜になると外にしみ出してくるから、夜は水が満ちるんだと思っていたのよね」
そこで言葉を切ると、カケルは両手を口元にかざしてはーと息を吹きかけた。寒さで真っ赤になったカケルのしなやかな手が、ランチェスの持った手提げ式洋燈に照らされる。
ランチェスがカケルの言った言葉の意味を理解しようと頭の中で整理していると、カケルは子供に聞かせるかの様に物語り始めた。
「あるところに、大きな大きな、それこそ動くだけで海の水を動かすような、そんな魚がいました。この魚は泳ぐのに疲れて、海の底に横たわりました。長い年月の間に魚の上には土が積もり、海面から小山の様に陸地をのぞかせ、いつしか島になりました」
「へぇ、そのおとぎ話、初めて聞いたな」
「そりゃそうよ。私が作った話だもの」
ふふふと不敵に笑って、カケルは再び摩訶不思議な話を語り始めた。
「――――この島を生き物だと思ったことはない?私たち、息を吸うわよね。空気を吸って、吐いて、吸って、吐いての繰り返し。生命を維持するに必須な行動。それと同じで、この島は水を吸うの。朝日が昇ると吸って、夜になると吐く。それの繰り返し。水で『呼吸』するのがこの島にとっての生命維持活動なの。だから夜になると水が土地から染みでて、島は水に沈むんだわ」
「なるほどね、面白いこと考えるなぁ」
ランチェスが小さくそう呟くと、はたとカケルは足を止めた。
「………ね!!そうでしょ?島がこの足の下ですはーすーはー呼吸してるんだ、って思うと、少し愉快な気持ちになるの」
島が生き物みたいに水を吸ってふくれたり、吐いてしぼんだりするのを想像すると、確かにちょっとほほえましかった。
(この人は変人だけど、悪い人じゃない。それは間違いない)
カケルとの会話はお互い個人的な話には触れないと言うことがいつの間にか暗黙の了解となっていて、故に下らないことを話すことか多かったけれど、その時間はいつのまにかランチェスの中でかけがえのないものとなっていた。
*
この島では珍しく、積もりそうなほどに雪が降り続いていた。
吹き荒れるでもなくただただ静かに降る雪に、それでもこの島の人は大雪に慣れていないから戸を固く閉ざしてしまって、街に出歩く人はほとんどいなかった。
おかげでオウカ亭も来客はまばらで、昼頃にはぽつぽつ訪れていた客も、夕方ごろにはぱったり来なくなって、開店休業状態が長く続いた。
「これじゃ商売にならんなぁ。ラン、帰っていいよー」
油汚れのせいで薄ぼやけた景色しか見せてくれなくなったガラス窓から、人通りのない街路をぼんやり眺めていたランチェスはその言葉に視線を店内に戻した。カゲツが客席に座って、テーブルの中央に置かれた鯨油式洋燈に両手をかざし暖を取っている。まるでやる気が感じられない。
「…ワグも帰らせちゃったし、僕まで帰ったらもし客が来た時に対応できないんじゃないの」
「客なんて来ないよ。見ろ、きっとこの雪積もるよ。何年ぶりだろうなぁ」
うんざりしたようにカゲツが言う。ワグなんぞは珍しい雪に大喜びで雪の中を跳ねながら帰って行ったが、歳をとると雪がもたらす不便さの方ばかりに目が行って素直に楽しめなくなってくるらしい。
「客が来ないのにランを働かせ続けたら給料出さなきゃいけないから赤字だろう?帰れ帰れー」
「あ、ならさ、給料はいらないから調理場貸してよ。お菓子作りたいんだ」
借金取りに身ぐるみはがされてから、お菓子づくりには全く携われていなかった。
「俺が腕をなまらせてちゃ、お菓子業界の将来にとって大きな損失だからね」
ランチェスは密かに冬の祭礼で菓子の露店を出店しようと目論んでいた。オウカ亭の給金は宝石を取り戻すのにまるっと消えそうだったから、オウカ亭で働く傍ら大陸から届く手紙を翻訳する仕事をし、出店費用を貯めていた。既に、そのお金で調理器具と日持ちのする食材は買い、バンの家の裏にある倉庫に保管してあった。
「借金まみれの青二才がずいぶん自信満々だなぁ。ま、僕もちょうど甘いもの食べたかったしいいよ、調理場使いなよ。でも、お菓子作りに使えるような材料あったかな」
「山羊の乳と、卵、牛酪、麦粉があれば生地は作れる。それに、オウカ亭でいつも海老と一緒に炒めて出している木の実があるだろ?乾煎りしたあれを砕いて糖蜜で固めたものを生地に乗せて焼き上げるんだ。フロランタンって言う菓子だよ。大陸では別の材料で作るんだけど、この島の材料でも代用は効くはずさ。きっとうまくいく」
そうやって焼き上げた菓子は、ランチェスも驚くほどうまくできて、大陸で食べたものよりも美味しくさえ感じられた。
調子に乗ってたくさん作ってしまったので食べきれなかったうちの半分はオウカ亭の従業員向けに残しておいて、もう半分は持って帰ることになった。
カゲツは美味しいと喜んでくれたが、「材料費は給料から引いておくね」と言うことを忘れなかった。
その日は珍しく帰り道にカケルは現れなかった。
一人で長屋に帰り、談話室に行って蝋燭に火をいれる。住人たちは皆すでに寝静まっていた。雪の日の夜は、雪がすべての音を吸い込んでしまったかのように静かだ。
(持ち帰った菓子は、共用の台所に置いておいて、住人の皆さんに好きに食べてもらおう。菓子を入れておける清潔な瓶、あったかな)
そう思って戸棚をがさごそしていると、階下で玄関が乱暴に開く音がした。次いで、階段を駆け上る足音。投げやりに開け放たれた談話室の扉から入ってきたのは、カケルだった。
「カケルさん?」
一目見て様子がおかしいのが分かった。息が上がっているし、いつもは絹の様に滑らかな髪はひどく乱れてぐちゃぐちゃだ。傘を差さないで外を走ってきたのだろう。髪にも服にも雪がへばりついてじっとりとしていた。
天真爛漫で明るいはずのその人が、今は怒りとも悲しみともつかぬ苦悶の表情を顔に浮かべていた。その表情に…人がいるとは思っていなかったのだろう、ランチェスを認めて一瞬、驚きの色が混じった。のち、カケルはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「カケルさん!?大丈夫ですか!?何が……」
駆け寄ってみれば、彼女が声を殺して泣いているのが分かった。震える背をさすれば体はとても冷たい。
(だめだ雪が溶けて冷えれば凍る)
ランチェスは手早く暖炉を熾し、着替えと、乾いたタオルをカケルに手渡した。
「俺、今から台所で湯を沸かしてくるから、その濡れた服を着替えなよ」
いやだ、と首を横に振りかけたカケルに、重ねて言葉をかける。
「絶対だから。じゃないと怒るよ」
着替えて、足を湯につけ、ランチェスが淹れた温かい甘茶を飲むころには、カケルはだいぶ落ち着きを取り戻していた。
暖炉の熱で溶けた雪がカケルの長い髪の先から水滴となって落ち、床を濡らした。
「寒くない?」
カケルに渡した着替えはランチェスのものだったので、サイズが合わず首元が開きすぎて寒々しかった。毛布を彼女の肩にかけながら表情をうかがうと、もう泣いてはいなかったが何か思いつめた顔をしていた。
「………ランチェスさん、もう私に大陸語で話しかけなくていいですよ」
島語だ。
そう言われて、やっと今まで自分がカケルに対し大陸語を使っていたことに気が付いた。「そう、わかった」
何があったの?と、そう聞くのは簡単なことかもしれなかったけれど、彼女が話そうとしないなら無理に聞くことでもないだろうと思った。
沈黙がしんしんと降り積もる。
ランチェスは席を立って台所に向かうとフロランタンをいくつか皿に載せ、カケルに差し出した。
「今日作ったんだ。もしよかったら味見してくれない?」
カケルは不思議そうにその菓子を見ていたが、一つつまんで口に入れた。
「おいしい…」
思わずといった様にカケルがつぶやいた。ランチェスはそれを聞いてほほ笑んで、自分も一つ口に運んだ。
本格的に雪が積もり始めたらしい。雪の重みにたわんでいた木の枝が、耐えかねて跳ね上がり、雪の塊を落とす鈍い音が沈黙を破って聞こえてきた。
その様子が見えるわけでもないのに、音のした方に顔を向けたままのカケルが静かに口を開いた。
「ランチェスさんはお菓子屋さんになりたいんですよね」
「そうだよ。だって俺の菓子美味しいでしょ?僕が菓子屋を開かなかったら美味しい菓子を食べられない人が出てきてしまってかわいそうじゃないか」
わざとらしくおどけて見せると、カケルはやっとひとつ小さな笑みをこぼした。しかし、すぐにまた真顔に戻る。
「でも、お菓子屋さんだめだったんでしょ?失敗して借金抱えて、それで逃げてきたんでしょ?」
「うんそーだよ」
ランチェスが即座に肯定で返すとカケルはきょとんとした顔でえ?と言った。
「確かに初めてのお店はつぶしちゃったけど、俺はまだ生きてるし、生きてるならまたお菓子は作れる。だから一回失敗したことくらいどうってことないんだ。もちろんばっちゃんの形見の宝石は失ったしそれなりに痛い目見たけど…失敗から学んで次に生かせってよく言うでしょ?どんな辛い経験も、勉強だと思えば乗り越えられる」
「ぜんぜん、くじけないんだね」
「諦めが悪いってよく言われる。でもさ、おかげで僕は自分の夢が叶う未来しか見えないんだ。だって叶うまで諦めないからね!」
ランチェスが拳を握ってそう力説すると、カケルはこの夜初めていつも通りの笑顔を見せた。
「あははは!ランチェスさんはすごいなぁ」
「…それならカケルさんだってすごいですよ。こんな短期間で大陸語ペラペラになったじゃないか」
「…うん。そうかも。私すごいかも」
カケルが元気になったのが嬉しくて、ランチェスはさらに言いつのった。
「そうだよカケルさんはすごいよ。で、そんなカケルさんに大陸語を教えた俺もすごい。すごい僕は、今度の冬の祭礼で菓子売りの露店を出すつもりなんだ。もう機材や材料は揃えてある。この長屋の裏にある倉庫にしまってあるんだ。きっと大繁盛するからぜひ見に来てよ」
「大繁盛ですか?さすが、すごい自信!」
あはははとカケルが笑って、二つ目のフロランタンに手を伸ばした。
「あぁ、おいしい。この菓子の甘さは不安を溶かしてくれるような優しい甘さだね。本当に素敵だわ」
もう、カケルの表情には談話室に入ってきたときのような暗さはみじんも残っていなかった。ランチェスは暖かな気持ちでそんなカケルを見守った。
この人の笑顔を見るためならいくらでも菓子を作ろうと、そう思った。
次の日の朝、ランチェスは建物が崩壊する地響きで目を覚ました。
一面の銀世界を朝日が照らして、まるで天上の世界かと思い違うほど、現実離れした朝だった。
轟音に起こされた長屋の住人がわらわらと外に出て、一様に驚いた顔で建物の崩壊した様を眺めていた。
「うそだろ…」
長屋の裏手、木々に囲まれた小さな空間に、かつては離れとして使われていた古い木造二階建ての小屋があった。だいぶ前からもう使われていなかったのを、ランチェスが倉庫として使えるように最近掃除したばかりだった。そしてまた、冬の祭礼に向けて買った機材や材料を置いたばかりでもあった。
それが、木くずの塊となり果てている。
「雪の重みに耐えられなかったんだな」
誰かが言った。
轟音の原因を知り自分に影響のない出来事だと分かると、住人はあくびをしながら長屋に戻って行った。ただ、ランチェスだけが取り残される。そしてまた、カケルもその場に留まった。
知り合いの業者に頼んで仕入れた輸入物の小麦は全部だめになっていた。香りづけの茶葉も、食感を出すための木の実も、煮詰めることで甘い餡を作れる豆も、すべて木くずと雪の下だ。
ランチェスは無表情でそんな様子を眺めた。
「冬の祭礼には、お店出せなくなっちゃったな」
小さくそうつぶやくと、隣に立ってたカケルがはっと息をのんだ。
「…ねぇ、私、ひとつだけお店を出すやりようを知ってるわ。もちろんその方法をとるかどうかはランチェスさん次第だけど」
そこで言葉を切ると、カケルはふにゃりと笑った。
「でも私、大繁盛しているお菓子屋さん、見たかったなぁ」