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あかつきの冬 前

もうすぐ、初雪が降るだろう。


低く垂れ込めた灰色の雲が、冬の訪れを主張していた。

窓際に置いた居心地のよい肘掛け椅子に腰かけて、バンはそんな空をぼんやりと眺めていた。


色とりどりの端切れを縫い合わして作られたクッションが、椅子の上に重ねられ、歳ゆえに痛んで仕方ないバンの腰と脚を優しく包み込んでいた。

今は亡きバンの妻が、かつて養い児とともに作ってくれたクッションだ。

もうずいぶん遠くなったその記憶を、バンは胸の内にひらめかせて、目じりの皺を深くした。


厚い雲の隙間から、ふと光が筋となって落ちてきた。その光を顔に受けて、バンは今がまだ昼間だったことを思い出した。


「バンさん、お茶飲みます?」


優しい声が、奥の共同台所から聞こえてきた。

長屋の管理人であるバンの自室は、長屋に住む人々が自由に出入りできる、共有のスペースでもあり、奥の台所と今バンの居る部屋が談話室として、住人に開放されている。

この談話室は、以前はバンが仕事場として使う書斎だったのだが、隠居し、妻も死んだ今となっては一人で抱えるには持て余す広さだったので、時々バンに『おすそ分け』をすることを条件に、入居している住人達に好きに使わせているのだった。


4年前から入居している彼女が淹れてくれるお茶も、恒例の『おすそ分け』だ。


「あぁ、カケルさん。ありがとう。お願いしようかね」

「はーい。今日はちょっと珍しい味のお茶ですよ。花びらを煎じたお茶で、少し甘酸っぱいんです」


無造作に束ねた長い黒髪を揺らしながら、カケルと呼ばれた若い女性が湯気の立つ湯呑をバンが覗く窓の桟に置いた。そして、自分にもお茶を入れて、天井まである高さの本棚から何冊か書物を取り出すと、お茶を飲みつつ本を読み始めた。



静かな、初冬の寒い昼。


そんな静謐さを破ったのは、とある青年の大声だった。



「じっちゃんーーー!!たすけてくれぇ!!」




情けない言葉を叫びながら、騒々しく部屋に飛び込んできたのは、この島では珍しい赤毛の巻き髪を持つ、背の高い…というよりは、ひょろりとした青年だ。

走ってきたのか、膝に手をついて息を切らしている。

バンは転がるように部屋に飛び込んできた彼を見て、片眉を上げた。


見覚えがある。いや、見覚えがあるなんてものじゃない。

「おまえ…ランチェスか?」

「かくまってください!!!」


ランチェスが叫ぶや否や、長屋の入り口がどんどんと乱暴に叩かれた。


「オイ、いるんだろ!?出てこいランチェス!!!!」

「…なんだ、騒がしい」


バンはよっこらしょと肘掛椅子から立ち上がって、壁に立てかけてあった杖を手に取ると玄関に向かった。


戸を開けると、凶暴な声とは裏腹に、意外にもこぎれいな格好をした紳士が二人、憮然とした表情で立っていた。


「そんなに叩かなくても、聞こえておる。何の用だ。まさか入居希望者ってわけでもないようだが」


先ほどまでの柔和な声音を引っ込めて、バンが不機嫌そうな低い声とともに出迎えると、二人はその姿を見て身をすくませた。


すでに高齢とも言える歳のバンだが、老いてなお通常の成人男性よりも頭二つほど高い背丈と、鍛えられた肉体とで、威圧的な雰囲気をまとわせている。極めつけは顔に残った大きな傷跡で、こちらはどう見ても、堅気の人間のモノではなかった。



だが、バンに対する恐怖よりもランチェスに対する怒りが勝ったらしく、紳士たちはバンに詰め寄った。

「ここにあのランチェスの野郎が逃げ込んだことは分かっているのです。さっさと彼をこちらへ引き渡しなさい」

「そうです。彼には、私たちが貸したお金をきっちり返してもらわねばならないのです」

二人が口々に言った。まるで双子のような息の合い方だ。

「なるほど。お前ら町の高利貸しだな?ランチェスに貸した金を、回収しに来たというわけか」

「ええ。その通りです。私たちも慈善事業としてお金を貸しているわけではありませんから、彼には貸したお金10万ト、しっかりと返してもらわないといけないのです」

「しかし、普通の金貸しなら、金を貸すときには必ずなにか担保を質に取っているはずだが」

「ええ、ええ。もちろん私たちもお金を貸す際に、担保として彼の持っていた、曰く価値30万トはくだらないという宝石を質に取りましたよ。しかしですね」

「いざ、その宝石を売り払おうとしてみたら、宝石商の見立てだと、その石ころは、1万トの価値もない、と言うではありませんか」

「これではわたくしたち、大損です。ですから、あの小僧に責任もって、貸した金返してもらおうと、こうして声をかけているわけです」


一人がまとめて言えばいいのに、高利貸しの二人はそういう決まりでもあるのかのように交互に語った。


「あの宝石は、“大陸では珍しい”赤陽石です。ここで産出される宝石だから、ここじゃそんなに高く売れないのは当たり前ですよぉ」


いつの間にか、ランチェスがバンの後ろから顔を出して、弱々しい声で言った。


「あ!!ランチェスこの野郎、隠れてないで、出てこい!!」

「算定価格30万トだとかいう偽の鑑定書なんぞ見せやがって!嘘つきめ!」


罵声が飛ぶと、ランチェスはひゅっと首を竦めて、バンの背後に隠れてしまった。

声だけで金貸しの二人に抗議する。


「あの鑑定書は大陸の宝石商に書いてもらったやつです!大陸だと赤陽石は珍しいから、それくらいの価値はつくんですよ!…そういうことをしっかり確認もしないで、あの宝石を質に取ったのはあなたたちです。契約書には、『金が返せない時には質草の所有権を受け渡すことで返済の義務を果たしたこととする』と書いてあります。つまり、貴方たちがその宝石を手にしている限り、貴方たちに『金を返せ』と俺を追いかけ回す権利はない!」



「なっ…!そんな詐欺まがいのことがまかり通ると!??」

「商売じゃ、交わした契約は絶対だ。おぬしらも商売人の片隅に名を連ねる者なら、そのことはよく承知だろう?」


バンが凄みのある声でそう言うと、金貸し二人はうっと言葉に詰まって、泣きそうな顔になった。


ランチェスが再びバンの背後からにゅっと姿を現した。

そして、金貸し二人に深々と頭を下げた。


「契約上、貴方たちがそうして宝石を手にしている以上、俺にはもう支払いの義務はありません。なので、こうして追ってくるのはもうやめにしてほしいです。…ですが、お金を返せなくなったことは素直に申し訳ないと思っています。その宝石ですが、この島の人間には1万トでしか売れませんが、大陸の商人には10万トの値で売れると思います。次の祭礼まで待っていただければ、俺が大陸の商人と直接交渉して、宝石を売り金にすることをお約束しますが…」


金貸しの二人は、その言葉にフンっとそっぽを向いた。

「……分かりました。いいでしょう。ですが、そんな口約束じゃぁ、信用できませんね」

「あなたたちの言うように、商売じゃぁ契約がすべて。書面上で、今度の<冬の祭礼>の際に宝石を売って、借金を返すことを約束してください」


「分かりました」


金貸しが差し出した紙に、ランチェスが『冬の祭礼にて10万トを払う』という旨を書き、署名をすると、金貸したちは満足したのか、それとも恐ろし気な風貌のバンから早く逃げたかったのか、足早に立ち去って行った。




静かになった玄関先に、バンとランチェスだけが取り残される。気まずいような沈黙が一瞬流れた後、バンが渋い声で懐かしい息子の名を呼んだ。


「ずいぶんと久しぶりじゃないか、ランチェス」

「ごぶさたしております…」


へへへと頭をかいたランチェスに、バンはあごをしゃくって奥の部屋に行くよう示した。


「聞きたいことがたーんとある、ここじゃなんだから、私の書斎――今は談話室と呼んでいるが――に行くとしよう」






温かい甘茶が、体に染み渡る。

ランチェスが、使い捨ての素焼きの茶器を食卓に置いて、ふーと息をついていると、さて、と言ってバンが話し始め

――ようとしたのを、ランチェスが慌てたように手を振って、遮った。


「あ、ちょっと待って!その前に、この方はどなた…?」


ランチェスがどなたか分からなかったこの方とは、茶を淹れてくれたカケルだ。


「私?カケルだよー。ここに住んでるの。気にしないで」


部屋の隅で大小さまざまのクッションに埋もれながら本を読んでいたカケルは一瞬ランチェスの方を向いてほほ笑むと、また、読みかけの本に視線を戻した。


気にしないでと言われても、同じ部屋によく知らない人が居れば、嫌でも気になる。

…それに、カケルは遠目に見ても分かるほどには結構な美人だったから、ランチェスの胸中は穏やかではなかった。


そんなランチェスの胸の内を知ってか知らずか、バンが静かな声で話を切り出した。


「…何年ぶりかね。見ないうちに、ずいぶん大きくなったな。今何歳だ?」

「へ?あぁ、えーとー、そうそう、今年で十八歳になるよ。ここを出たのが十四の時だから、もう四年になるね」


「そうか、もうそんなに経つのか。一人暮らしにも慣れるはずだ…ばぁさんが死んでから、もう四年か」



ランチェスはバンの実の子ではない。

バンとその妻には長年子がいなかった。もう、そういうものとして人生の大半を過ごしたころ、船舶遺児としてこの島にやってきたのがその時五つになったばかりのランチェスだった。

ランチェスの両親は航海中に病に倒れて他界しており、寄る辺の無くなったこの子をどうしようかと悩んだ乗組員が、当時交流のあったバンを頼ったのだ。

幼子を養子として引き取ってほしいという話を、長年子を欲しがっていたバンの妻は喜んで引き受けた。

そして、大陸人の血を引いて、この島ではめずらかな容姿のランチェスを、実の子、実の孫の様にかわいがり、育て上げてくれた。

そのためランチェスは、生まれは大陸ながら、言葉も習慣もこの島のものになじみ、彼にとっての故郷とはこの島のことになっていた。


そんなバンの妻、ランチェスにとっての母は、四年前、病に伏して帰らぬ人となった。


そしてそのあとすぐ、ランチェスも島を出たきりだった、のだが。


「お前は昔から、目を離すとすぐどこかへふらふら行ってしまう子だったから、島を離れるつもりだと聞いた時も、驚かなかったが。しかし、こんなにも騒々しく戻ってくるとは、さすがに思わなかった。今までどこで何をやっていた?」


「俺、十四歳の時、<祭礼>に来ていた商船にもぐりこんで大陸に渡ってからは、しばらく島と交易を行っている商会で、通訳として働いたんだ。いやぁ、異国語がしゃべれるっていうのは、大きな強みだねぇ、最初は子どもだからって相手にもしてもらえなかったけど、ちょっと喋ってみたらずいぶん重宝されるようになっちゃって。でも通訳として働くために大陸に渡ったわけじゃないから、旅するのに十分な金が溜まったところで、その仕事は辞めたんだ。そのあとはふらふらと大陸中を旅して――」


と、そこでランチェスは言葉を切った。遠くの方で本を読んでいたはずのカケルが、いつの間にか目の前に座って、肘をつき両頬に手を当て話を聞いていた。

長いまつ毛に縁どられた大きな目が、キラキラと輝いている。


「あのー、カケルさん?」

「私のことは、気にしないで。話の続きをどうぞ?」


「………大陸中を旅して、色々な国を巡ったんだ。いろんな出会いと別れがあって、得難い経験をしたよ。それこそ、人生を変えるような…」


ふむ、とバンがゆっくりと頷いた。


「私は、ランはもう戻ってこないと思っていたよ。お前は向こうで生まれた。向こうで時を過ごすのが、自然なのかもしれぬ、と。だが――」

「うん。戻ってきちゃった。俺この島を離れて分かったんだ。俺はやっぱりこの島が好きだったって」

「そうか。それはそれは…」


視線をわずかに上に反らしつつ、ほとんど聞こえないくらいの声音でバンが言った。


カケルは不思議そうな顔をして、腕を組んでいる。


ランチェスはまだ辛うじて温もりの残るお茶を一口すすった。


バンが再び口を開いた。


「だが分からないことがある。お前、島に戻ってきて早々、どうして高利貸しに追われるような羽目になったのだ?」

「俺が金貸しに追われていた理由…それはコレです」


ランチェスが、彼の唯一の持ち物であった革製の小さな鞄から、何か油紙に包まれたものを取り出した。

包み紙を広げると、中からは、四角い形をした茶色い小さな板がいくつも出てきた。

なじみのない、甘くて香ばしい香りが、鼻をくすぐる。

「これは、サクレという焼き菓子なんだ。大陸でよく食されているもので、穀物を挽いて粉にしたものに、卵や牛酪を加えて焼き上げ作る。じっちゃん、ひとつ、食べてくれないか?」


あ、よければカケルさんも、と言い添えて、ランチェスは二人にひとかけらづつ、サクレを手渡した。

言われるまま、バンはその奇妙な菓子を一つ、口に運んだ。

口に入れた瞬間、香ばしい香りが鼻に抜けた。噛めば、サクッとした今までにない歯触りが面白い。と思った次の瞬間、口に広がった牛酪の濃厚なうまみにバンは目を見開いた。


「うまいな。初めて食べる味だ」

「おいしい!これ、すっごく美味しいよ!」

カケルも、大きな目をさらに大きくして、顔を綻ばせた。


息をつめて二人の様子を見ていたランチェスはその感想を聞いてはーと息を大きく吐いた。

「よかった。やっぱりこの菓子はちゃんとおいしい」


「で、どうしてこの菓子がおいしいと、島に帰ってきた挙句、借金まみれになるのだ?」

「それは」


言いかけて、ランチェスは居住まいを直した。

「じっちゃん。俺、この島で菓子屋を開きたいんだ。大陸で食べてきたおいしい菓子を、この島のみんなに広めたいんだ」


「……驚いた、お前さんが菓子屋か。すると先ほどの焼き菓子も、お前が?」

「うん、そう。この島に来て、最後に焼いた菓子がさっきのサクレ」


ランチェスがしょんぼりしたように、目を伏せた。彼の男にしては長いまつ毛が頬に影を落とす。


「…俺、この島に来てからしばらくは露店を出して、サクレを売ってたんだ。まずはこの島のみんなにサクレの味を知ってもらわなきゃ始まらないって思ったから、西の鉱山地帯から東の零・壱・弐区まで日によって場所を変えてね。それも、大陸から持ち込んだ原材料を使って、ほとんど利益の出ないくらいの安さでさ。買ってくれた人には結構好評だったんだ。同じ人が、わざわざまた買いに来てくれたりね。……でも壱区で露店を出して三日ぐらいたったころかな、急に役所の奴らが来て、壱区で商売するなら、商業許可書を取ってもらわなきゃ困るって言うんだ。しかもその商業許可書ってやつを取るためには申請料金が10万トもかかるんだ!大陸で働いてた時貯めた金は露店売りをするための道具をそろえるのに使っちゃったし、露店売りの儲けは無いに等しかったから、10万トなんてとうてい払える状況じゃなかった。…それで、つい、お金を借りてしまったんです」


「結果は、さっき見た通りと言うわけか」


「うん…。サクレを売ったお金で、利息だけは辛うじて払えてたんだけど、全然お金はたまらなくてさ。家賃も払えなかったから、住んでいた家も追い出されて、ここ何日か、ずっと野宿だったくらいさ…で、そんな状況でついに返済期日が来ちゃったから、泣く泣く備品を売り払って金にして、高利貸しのやつらに『今はこれしか返せないけど、きっと返すから質草を流すのはもうちょっと待ってくれ』って言いに行ったんだ。質に入れていた宝石は、できることなら手放したくなかったからね。そしたら、なぜかやつら、目をつり上げて怒ってて、訳も分からず追いかけられる羽目になったんだよ…。じっちゃんが間に入ってくれたおかげで冷静に話を聞けたから分かったけど、奴ら、返済期日が来てもいないうちに、あの宝石を売り払おうとしてたんだな。それで、価格が思っていたより低いと分かって、怒ってたんだ」


ランチェスとバンは、二人して同時にはぁ―――とため息をついた。


「そんな大変なことになっていたとはな。だが、どうして島に帰ってきた時にすぐ私に相談しなかった?そりゃ、商売の中心地である島東には遠くなるが、通えない距離ではないし、お金を出して部屋を借りるくらいなら、元住んでいた家に居る方がよいではないか」


ランチェスは、うーんと唸って、頭をかいた。


「いやぁさ、じっちゃんには俺の成功した姿を見せたかったから…」


へへっとランチェスが言う。しかし結果としては。

「再開早々、一番情けない姿をさらすことになったわけですが」


バンはかすかに笑ってひらひらと右手を振った。

「お前は昔から、変なところで頑固というか、こだわるというか。まぁ、まぁそれはいいとして。…これからどうするのだ?」


聞くに、このどうしようもないひょろひょろ青年は、無一文だ。


「菓子屋はもうあきらめるか?」


「何を言うのさ!俺、絶対あきらめないよ!…うーん、しばらくはツテを頼って、日銭を稼ぐよ。菓子屋のことは、その間に考える…」


諦めない、と聞いて、バンの口元に満足そうな笑みが宿った。


「そうか。では、商売について分からないことがあれば私に聞きなさい。お前よりは商売の何たるかを知っている。それから、この家の屋根裏部屋が、お前の居たころのままになっている。寝床にでも使うがよい。だが、私がしてやれるのはそこまでだ。金については、自分で何とかするんだな」


「じっちゃん!!」


ランチェスは潤んだ瞳でバンを見つめた。


「ありがとう!!俺、本当に恩に着るよ!!」

「腐っても息子だから、当然だ」


本当に何でもなさそうに、バンが言って、ふと手を顎に当てた。


「そういえば、気になっていたのだが…金貸しに質に入れた赤陽石、私もどこかで見たことがある気がするのだが」


ぎくり、とランチェスが身を縮ませた。


「あ…あれ、ばっちゃんが俺にくれたやつなんだ。ばっちゃんが亡くなる前、俺が『大陸に渡って旅するんだ』っていったら、『いざというときに持ってな』って」


「そんな大切なものを、おまえは質に入れたのか!?」


バンがあきれたように天を仰いだ。


「ほかにどうしようもなかったんだ……それに、あの宝石なら、まだ取り返せる見込みはある!」

「どういう意味だ」

「俺が書いた契約書見た?俺、こう書いたんだ『冬の祭礼にて、10万トを支払う』……気が付いた?どこにも、宝石を売った金で返す、なんて書いてないんだ」

「つまり、宝石を売るのとは別の方法で調達した金で十万トを支払って、宝石は取り返す、とそういうことかね?」

「その通り。今日交わした契約って、実質、借入期間の延長に過ぎないんだ。しかも無利息でのね。あの金貸し屋、つくづくあほだよねぇ。…そういうわけで、俺、冬の祭礼までにとりあえず10万ト貯めることを当面の目標とするよ!」

「…お前も、なかなかしたたかに育ったものよ、誰に似たんだか」



それにしても、とランチェスは腕を組んだ。


「どこで働けば、二ヶ月で10万ト稼げるかなぁ」


それを聞いて、途中から全くの蚊帳の外だったカケルが、勢いよく手を伸ばして存在を主張した。

「はいはい!それなら私、いい仕事紹介できるわよ!!」


「あ、まだいたんだカケルさん…」

冷たいランチェスの反応をものともせず、ふふん、とカケルは胸を張って、親指で自分を指さした。



「その仕事って言うのはね、この私の語学の教師よ!」







仕事は、案外すぐに見つかった。

語学教師ではない。


「ランー、それ終わったら、次こっちの床も、水流してくれるー?」

「はーい」


ランチェスは、素直に返事を返すと、手に持った大きな刷毛に一層力を入れて床を磨き始めた。

一日営業しただけなのに、食べこぼしや油汚れがひどい。何度もこすってようやく床の元の色が見えるといった具合だった。

ちんたらやっていたら、広い店内の床を磨いているうちに朝が来てしまう。


大衆食堂の給仕。


ランチェスが日銭を稼ぐために選んだ職場は、古い友人の家族が経営している料理店だった。

オウカ亭という名の、弐区に在ってなお庶民的な値段設定を貫くこの店は、来店客が絶えない人気店だ。

昼に開き、真夜中まで営業しているが、今日も閉店間際まで大勢の客が飲み食い騒ぎの大繁盛だった。


(繁盛なのはうれしいけど、おかげで閉め作業が大変だ)


ランチェスがせっせと床を磨いて、磨いて、磨いて、やっと終わりが見えてきた、という所で、厨房からひょっこりと小太りの青年が現れた。


彼が、この料理店を経営するオウカ家の一人息子にしてランチェスの学童時代からの友人、カゲツだ。


「終わりそう?こっち終わったから、手伝うよ」

「いや、大丈夫!俺の方ももうすぐ終わるー」

「そうか」


小太りの友人は、あっさり引き下がると、また厨房の方に戻って行った。ランチェスもすぐに仕事に戻って、最後の仕上げとばかりに力を込めて、床を磨き上げた。


「よし、終わり!」


ちょうどそのタイミングで、また、カゲツが姿を現した。今度は手に、湯気が立ち上る皿を乗せている。

「お疲れさん。これ、父さんからの差し入れ。夜食に食べようぜ。あんかけ焼き魚麺」

「おお、うまそー」


魚麺とは、魚のすり身に、つなぎとして植物の根を粉にしたものを加えて作られるもちもちした麺である。茹でて食されることが多いいが、多めの油で揚げるように焼いてもおいしい。

塩味の餡がたっぷりとかかったその料理は、食欲を刺激してやまないいい匂いをあたりに振りまいていた。


カゲツとランチェスは、床を掃除するために机の上にあげていた椅子を二脚降ろすと、営業時間中は座れないその場所にどっかり腰を据えて、夜食をむさぼった。


ひとしきり、腹を満たすと、やっとカゲツが口を開いた。

「もう仕事には慣れた?」

「うん。おかげさまで。夜遅くまでっていうのがしんどいけどね」

「いやぁでも助かってるよ。ランは人当たりが柔らかいし見目もいいから客受けがいいもの」

「そう思うなら、もっと給料あげてくれぇ」


一日働いても、二百トいかないほどの薄給なのである。これでは二か月後に迫った祭礼までに、10万トなんて到底溜まらない。



「それにしても、ランが菓子屋になりたいなんて、驚いたよ」

ランチェスの泣き言を、友人はおおらかな笑みを浮かべて見事に無視した。気の弱くて優しそうな風貌のカゲツだが、意外とこういう面がある。体形は横に膨れてずいぶんと変わったが、これは昔から変わらずだ。


「おいしい菓子がありゃ、皆に食べてほしいと思う。まったく自然なことだよ」

「あぁ、サクレ、だっけ?確かにおいしかったけど」

「やっぱり、この店で出すのは無理かね?」


ランチェスはカゲツの店で働き始めた初日、なけなしの材料でサクレを作り、従業員の皆に配って食べてもらった。あわよくばこの店の甘味として、お品書きに加えてもらえれば…との行動だったが。


「うーん。おいしかったけど、うちの料理には合わないよ。それに、材料費が高すぎる。全部大陸からの輸入に頼っているんだろう?」

「うううう。卵や牛酪はこの島でも手に入る。けど、主材料のラシャ粉だけはここじゃ手に入らないんだよなぁ」

「輸入品は運送費の分だけ高くなるし、鮮度だって落ちてしまう。大陸の菓子を、この島で再現しようなんて、やっぱり無理なんじゃないかな」

「そうかね…」


しかし、だ。ランチェスは初めてサクレを食べた時を思い出す。口の中で溶けるように消えたサクレは香ばしくて、甘くて、ちょっとしょっぱくて、幸せの味がしたのだ。

「…いや、俺は諦めない。絶対、この島にサクレのおいしさを広めるんだ!」


カゲツはこぶしを固めたランチェスを、眩しそうに見つめて笑った。

「いいね。夢に燃える若者よ、応援するよ」


じゃぁ、給料あげて、とすかさずランチェスが言うと、カゲツは、あははははと笑ったまま、皿を片付け始めた。




月はもう空を昇りきって、後は沈むだけになっていた。ちょうど半分に欠けた黄色い月は、ばっちゃんが昔よく作ってくれた、卵料理に似ていた。

ランチェスは首元にまいた布で口元まで覆って、帰路を急いだ。

(眠い。早く帰って寝たい…)

バンの家は、島を東西南北に分けた時に、北にあたる場所にある。


北は、東西南北の中で、一番静かな地だ。


傾斜が緩やかで、比較的平地も多い東側の地は、零区壱区弐区と区別されるほど、その土地の位置に価値がある。大陸からの大型商船が入港できるほどの入り江もあり、昔から商業が盛んで、人がたくさん住んでいる。

西は、鉱山地帯だ。豊かな鉱脈が広がり、いくつもの坑道が掘られている。採れた貴金属を製錬する工場も立ち並び、鉱夫たちやその家族、工場勤務の者たちが多く働く。

南は農耕が盛んだ。良質な土があるとかで、この島の食糧事情を一手に背負っている。


それに比べ、北は。

掘っても何も出ない、枯れた土地。傾斜はきつく、土は農耕に適さない。


しかし、その代わり…というかそのせいで、発達した分野もあった。



北は、『学びの地』と呼ばれる。




東の弐区を出て、足早にしばらく行くと、なじみの巨大な建造物群が見えてきた。

切り立った断崖に懸け造りにして建つその建物は、もうずいぶん古いはずだったけど、外壁を黒い石材で包みそびえるその様は、今もなお荘厳な佇まいを見せていた。

切り立った崖にへばりつくように建てられた無数の建物は、一つ一つ独立したようでありながら、縦横に渡り廊下が掛けられ行き来ができるようになっている。


これは、<大学舎>と呼ばれる複合的教育施設である。

豊かな土も、資源も、商業の発達する土壌もなかった北の地は、しかしこの島で唯一無二の学問街であった。

成人を迎える前の幼子が学ぶ学舎は、東西南北、人の数に応じて点在するが、専門的に何か学ぼうと思ったら、この島ではここ、北の<大学舎>に通うしかない。


(じっちゃんの長屋の入居者も、ほとんどここの学生だもんなぁ)


ここで学ぶ若者は、多くが裕福な家庭の息子である。生産年齢になっても働きに出ず、学びを続けられるだけの金銭的余裕を持つ彼らは、北に職もたらし金を運んでくれるありがたい存在であった。


大学舎は一般の人にも開放されており、近くに住むランチェスも、幼いころはよく遊び半分で敷地内を駆けまわったものだった。


(大学舎の建物群の中でも一番東に立つ、この建物が、確か図書館棟だったっけ)


懐かしく思いながら、図書館棟の壁際に沿う道を歩いていると、斜め前の木が不自然に揺れた。

冬でも葉を枯らさない、そこそこ大きな木だ。張り出した枝は隣接した建物の窓を突き破りそうなほどだった。


不審に思って、ランチェスが見ていると、その枝の上に、人影が躍り出た。かと思えば、その人影は不安定な枝の上でゆらりと体を傾けた。


(危ない!!!)

気づいた時にはもう、駆けだしていた。

落ちてきたその人物を、ランチェスは体全体を使って受け止めた。

…文字通り、体全体で、ランチェスは落下した人の下敷きとなったのだった。




「大丈夫!?」

すぐ近くで、鈴の音のような声が聞こえて、ランチェスは目を開けた。そして、彼を覗き込む人の姿を認めて、心臓が止まるほど、驚いた。


(俺、死んだのかなぁ)


倒れたランチェスを覗き込むその女の人は、天女かと疑いたくなるほど、ひどく美しかった。


夜闇の中でも、その美しさは隠しきれようがなかった。おぼろな月明りに浮かぶ白い柔肌は、冬の怜悧な空気にさらされて、ほんのりと赤みを帯びていた。豊かな髪は、闇に溶けそうなほど黒々として、彼女の細い肩を流れ落ちている。


「あなたは…人間?」


気絶から覚めたばかりのぼんやりとした頭で、思わずそんな馬鹿なことを口走ると、そういえばどこかで見たことある彼女は、一瞬ぽかんとした後、豪快に笑い始めた。


「あはははは!何言ってるんですかランチェスさん。私です。カケルです」


「え?……あーーーーー!ほんとだカケルさんだーーー!!」


カケルとわかった瞬間、生活臭あふれるいつもの姿が思い出されて、神々しさにも似た美しさはどこかへ吹き飛んでしまった。


「あー面白い…って、ごめんなさいね、私重かったでしょ」

「いや…」


嘘だ。というより、たとえ落ちてきたのが子供だったしても、ぶつかったら重いし痛いし気絶くらいするだろう。


「え、ていうか、カケルさんこんなところで何やってたんですか!?」


「私、図書館棟に入りたかったのよ。二階の窓が開いているのが見えたから、いけるっ!と思って」


(カケルさんって、なんというか…変な人だ)


いける!なんて軽いノリで登れる木ではないのだ。どうかしてる。


「図書館棟に?わざわざそんな危険を冒さなくても、図書館棟には朝になれば誰でも入ることが出来ると思いますが…」

「日中は、仕事が忙しくて行けないの。この図書館、夜にはしまっちゃうし…」

「へぇ。そこまでして、何か読みたい本でもあったんですか?」

「語学の教本」

「あ」

「ほら、私大陸の言葉を勉強中って言ったじゃない?談話室―…バンさんの書斎にもいくつか関連の本はあるんだけど、入門すぎたり難しすぎたりでちょうどいいのがないのよね。…誰かさんが、意地悪にも『こんなくそ女の語学教師なんてまっぴらだ!』って言うから、私自分で勉強するしかないの」


「う…」


そんな言い方はしていない。もっと紳士的に、やんわりと、断った記憶がある。

だが、カケルの依頼を断ったのは事実だ。あの時のカケルの(初対面の人間に取る態度とは思えない)駄々のこねかたを思い出すと、少しきまりが悪かった。


そもそもカケルの依頼を断ったのは、自分でも嫌になるくらい、『教える』『説明する』ということが苦手だったからだ。カケルが提示した報酬は確かに魅力的だったが、だからこそ、人に教えることが苦手な自分が簡単に請け負っていい仕事とは思えなかった。


カケルがかわいらしく、ぷうと頬を膨らませている。

「…………わかしました。じゃぁ今度、俺がカケルさんの代わりに本、借りときましょうか」


どうにかその場を収めようと考え無しに言葉を発した瞬間、後悔がランチェスを襲った。

(あぁ、余計なことを言うな俺!ただでさえ手一杯なのに面倒ごとを自分からしょい込んでどうするんだ!!)


『いや、いいのよ。悪いじゃない』


そんな言葉を期待した。彼女の人を思いやる気持ちと、遠慮を美徳とする精神が、この瞬間だけ爆裂してくれないかと。


しかしそんな願いもむなしくこの美人は遠慮を知らない笑顔で手を叩いた。


「あら、そう?じゃぁ本を借りる代わりにお願いがあるの」

「語学教師はやりませんよ!」

「教えてくれなくていいわ。ただ、私と大陸語でおしゃべりしてほしいの」


「…へ」


「そう、例えばオウカ亭から長屋への帰り道の間だけでも。どうせ私も同じ時間に同じ道を通って同じ場所に帰るし、これならランチェスさんに余計な時間を取らせることもないわよね」

「確かにそうだけど」

「なら、決まり!さぁ、しゃべりましょう!」



やっぱりめんどくさいことになった。

下手なことは言うもんでない。

拙い発音で大陸語の単語を脈絡なく羅列しているカケルを横目に、ランチェスは己の軽率さに頭を抱えた。



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