黎明 後
それから数日は、何をしていても上の空だった。そのせいで、いっぱい失敗もして、凜迎館の人にはたくさん迷惑をかけてしまった。
お使いの途中に厩舎に寄るのはやめた。あれからトビとは顔を合さないようにしている。
トビはあの日のことを父に言わなかったのか、父から叱られることはなかった。
どうしてトビが掟破りな私の行動を黙っていてくれるのか分からなかったけど、それを聞く勇気は私にはなかった。
もちろん、今までの様に夜中家を抜け出してこっそりレーメイと飛ぶこともできなかった。
それが、何よりつらかった。
そうして、日々は過ぎていった。
暑さが増してきた。真っ青な空に、入道雲が沸き上がっている。
夏至とほぼ時期を同じくする、夏の祭礼はもう目前に迫っていた。子供も大人もどこかみんなおしゃべりで、ばたばたして、うきうきしている。祭礼の準備に島全体が浮足立っているような、そんな熱気に包まれている。
「ね、きいたきいた?今年、祭礼の二日目に、リーヴェの競技会があるらしいよ」
隣で一緒に洗濯物を干していたトアが、はしゃいだ声を出した。
トアは凜迎館で働く唯一の同い年の女だ。小柄な子で、丸い顔にくりくりした目が小動物のようでかわいらしい。
にぎやかで楽しい子だけれど、まだ一緒に働いて日が浅いので、実はお互いのことはよく知らない。
「各運送屋の若い子が、決められたコースを回って速さを競うんだって。公式じゃないけど、一部じゃ誰が優勝するか賭ける人たちも出てきて、大層盛り上がっているみたい」
「そうなんだ」
リーヴェの話題、それも自分の実家が関係する話にどう反応を返してよいか悩んで、私は結局当たり障りのない返事をした。
「一番の優勝候補はねぇ、大黒運送の若様、ハヤテ様だって!」
なぜか、トアがうっとりした顔で言った。
大黒運送と言えば、この島の運送会社の中じゃ一番の規模の会社だ。昔父について参加した運送会社組合の宴会では、大黒運送の社長が一人、でかい態度で上座にどかんと座っていたのを覚えている。
ずいぶん昔の記憶だが、その態度と同じようにでっぷりと出た腹が印象深くて、今でもよく思い出せるのだ。
「ハヤテ様?何その仰々しい呼び方。それに若様って、どういうこと?」
苦笑しながらまっとうな疑問を返すと、トアは驚いたように目を丸くした。
「うそ、ショウちゃん知らないの?ハヤテ様って言ったら大黒運送の社長の御子息、跡取り息子だよ?とーーーっても見目麗しいの。凜迎館でも有名な話じゃない。大黒運送には凜迎館もよく荷の運搬をお願いしているから、ハヤテ様も時々来ていて、姉様方がよく騒いでいるもの!」
トアは普段、凜迎館の中で、受け付けや部屋の案内、料理の仕出しなど、接客を担当している。私と違って妙齢のお姉さま方に囲まれた部署だから、そう言う話題に聡くなるのかもしれなかった。
私が気のない相槌をしていると、それを不満に思ったのか、トアはちょっと頬を膨らませた。
「ハヤテ様は、背がスラーって高くて、落ち着いた雰囲気をお持ちの方なの。口数はあまり多くないんだけれど、その声は耳に心地よい低音で、風になびく髪は、夜を湛えたような漆黒なんだって」
なんとかハヤテ様の良さを伝えたくて――と言うよりは、一緒にキャーキャー言いたいだけなんだろうけど――必死に言葉を募らせるトアがかわいくて、私は思わずぷはっと笑ってしまった。
あ、まずい怒るかな、と思ったけれど、意外なことにトアはきょとんした顔をしていた。
「ショウちゃんの笑顔、久しぶりに見た」
「え?」
「ここ最近、ショウちゃんずっと悲しいような苦しいような顔をしてたから、気になっていたの。よかった。やっぱりショウちゃんは、笑顔の方が似合うよ」
私はしばし、言葉を失った。そしてなぜか、無性に泣きたくなった。
「…ありがとう」
泣くように笑った私に、友は満面の笑みを返して、洗濯かごに入った真っ白なシーツをパンっと広げた。
青空に、洗い立ての白がふわりと広がった。
*
リーヴェの競技会では、速さを競わせることにしたんだ。若い子らが出場すると言っていたから、暁天運送からは、トビが出るんだろう。
トビのことを思うと、あの夜のことを思い出してずきりと胸が痛んだ。
私は家や店が密集している場所から少し西側に離れた山中で、一人膝を抱いた。
ここはずっと前に廃坑となった横穴だ。
入口は木でふさがれていたけれど、少し力を入れれば簡単にどかすことが出来た。こういう場所には毒の空気が満ちていると言うから、あまり奥に行ってみる気にはならなかったけど、少し身をその陰の中に隠すだけでも真夏の暑さをすっかりしのぐことが出来たから、仕事終わりに時間をつぶす場所としては最適だった。
トビと顔を合わせたくなかったから、家に帰るのが嫌だった。トビの家は私の家の正面だから、下手な時間に帰ると、トビと偶然出くわしてしまう可能性がある。
それなのに、トビは、私と会おうとしているようだった。
夜遅くに帰った日、母が、「トビ君が来ていたわよ」と教えてくれたことがあった。
その日はたまたまトアと長話をしていたから遅くなっただけだったけど、それ以来私はトビがすっかり寝てしまう時間になるまでこうしているのが習慣になっていた。家族には凜迎館の仕事が忙しいのだと嘘をついている。
我ながら、情けない。
そうまでして、自分が何から逃げたいのか、もはや分からくなっていた。いや、何から自分を守りたいのか、か。
風が、夏草をそよがせた。眠くなるような静けさに、私は膝に顔をうずめて目を閉じた。
さわさわと、足元の草がむき出しの脚をくすぐった。
気づけば、ものすごい風だった。
西日が差し込むはずの坑道に、大きな影が落ちた。
「…やっと、見つけたぞ、このとんちきやろう」
西日を背に、トビが立っていた。背後に、ロウワが控えている。
「…!」
「何で、避けるんだよ」
「どうして…?」
「どうして?どうしてここが分かったのかって?そりゃぁ、だってここは俺たちが見つけた秘密基地じゃないか。あぁ、どうしてここまでお前を追いかけてきたのかって?それは、ショウに確かめたいことがあったからだ」
「確かめたいこと…?」
「お前、レーメイと毎日、飛行訓練してたのか?」
「!!」
私の沈黙を肯定と取ったのか、トビは話をつづけた。
「…レーメイは、力はあるのにその使い方が下手で、熟練の騎手たちでも持て余すリーヴェだ。でも、あの時、ショウと飛んでいたレーメイは、自由に、何かから解き放たれたように飛んでいた。レーメイをあそこまで乗りこなす騎手は、俺は知らないよ」
逆光のせいで、トビの表情はうかがい知れなかった。でも、その声音は、私が恐れていたように冷たいものではなかった。むしろ、弾むように紡がれたその言葉には、うきうきしているような響きがあった。
「正直、ちょっと嫉妬したよ。心底羨ましかった。でも、それよりずっと誇らしかった。…ショウはさ、きっとリーヴェと一緒に空を飛ぶために生まれてきたんだよ」
トビの、優しいけれど残酷な言葉に、私ははっと顔を上げた。
リーヴェと共に空を飛びたい。そう思い続けて、けれど諦めるしかなかった今までの記憶が、私の中で音を立ててはじけた。
「…どうして、そんなことを言うの。私がリーヴェと一緒に空を飛ぶために生まれてきた?だったら私はもう、死ぬしかないじゃない。だって、私がどんなにリーヴェと飛ぶのが好きだとしても、所詮女は騎手にはなれない。そうでしょ?」
はっと、トビが息をのむ音が聞こえた。
トビを傷つけたいわけじゃないのに、あふれ出した言葉はもう止まってくれなかった。
「そうだよ、レーメイと毎日練習したよ。でも分かる?それってホント無意味なんだ。どんなに努力したって、夢見たって、結局叶わない。結局騎手にはなれない。それが分かってて、それでも飛ぶんだ。リーヴェと飛ぶのは、泣きそうになるくらい、楽しいよ。…あぁ、トビはいいよね、男だから。リーヴェに乗れるから。…トビに羨ましいなんて、言われたくない。トビに、私の気持ちなんてわかるわけない!!!」
つらいとか悲しいとかよりも、悔しくて、私は気づくと大粒の涙を流していた。
私は吐き出すように叫ぶと、廃坑の外に出ようと、入り口に立つトビの脇を駆け抜けた。すれ違いざま、トビの薄茶の瞳に、きつい光が宿っているのが見え――そして、私は、腕をつかんだトビの強い力に、その場に留まらざるを得なかった。
「ああ、わっかんねえよ!!なんで、お前がそこまで強く騎手への憧れを持っていて、なのに騎手になろうと一歩を踏み出さないかなんてな!…確かに、女は騎手にはなれないことになっている。でも、未来永劫そうだなんて、誰がいったんだ?
女騎手が禁忌とされるのは、規則で、風習で、信仰だ。こっちの都合だけじゃ簡単には曲がらない、通念だ。……でもさ、簡単じゃないかもしれないけど、人の気持ちって変わるものだよ。
お前、かっこ悪いよ。自分の置かれた環境に嘆いて、周りが悪いんだって文句ばっかり言って、結局何もしていないじゃないか。どうして自分の力で環境を変えようと思わないんだ? …なぁ、ショウ。泣いてるだけじゃ世界はお前に優しくなんてしてくれないぞ」
トビの言う通りだった。
私は今まで、何から逃げていた?何から身を守っていた?
――私は、そう、自分の思いを現実にぶつけて、壊れるのを恐れていた。正面からぶつかって、だめだと言われるのを恐れていた。
自分が情けない。
本当はずっと前から気づいていた。ある日突然、女がリーヴェに乗ってもよくなる日が来ればいい、何の苦労もなしに世界が自分に優しくなってほしいと願う、自分の心の弱さを。
うつむいたままの私に、なにか生暖かい風が吹いた。不思議に思って、顔を上げると、そこには気遣わし気な目をしたレーメイが立っていた。
トビはロウワに乗ってきたはずだ。どうして?
「レーメイ?」
びっくりして私がその名を呼ぶと、きゅぅぅぅ、とレーメイは物悲し気な鳴き声をたてた。リーヴェは人の感情に敏感な獣だ。私の泣き顔に、心配してくれているのか。
「縦列編成で、一緒に飛んできたんだ。今日こそは、ショウと話ができると思ったから。…ショウ、俺と勝負しろ」
「え?」
「ここから夕日に向かって直進して、先に海面に羽を滑らせた方が勝ちだ。ほら、日が落ちる前に、早く」
言いながら、トビはロウワの背に登った。ロウワは、彼らしい落ち着いた表情で主が背に登るのを待ってから羽を広げた。
ものすごい風を巻き起こして、トビたちは空へ舞い上がった。
逆光に浮かぶ彼らは、夕日で金色に縁どられて、神々しい気さえした。
勝負なんて言う突拍子もないトビの申し出に、行動を決めかねていると、レーメイがはやくというように私の背を押した。レーメイの瞳は、喜びで輝いている。
その瞳に促されるように、私はレーメイに跨った。
飛び立つと、待っていたようにトビたちが私たちの周りを旋回した。
「用意はいいか?」
トビはもう、さっきまでの様に険しい顔はしていなかった。いつものように優しい笑顔で、夕日を見つめている。珍しい薄茶の髪が、光に透けてキラキラと輝いた。
私の返事も聞かないで、トビは楽し気に言った。
「よし、じゃぁ、位置について。ようい…どん!」
掛け声とともに、ロウワが、大きく翼を羽ばたかせて、矢のように飛び去った。
それにつられたのか、私が指示もしないのにレーメイもぐんと翼で空気を押して飛び始めたもんだから、私はあわてて手綱を強く握った。
追いかけっこか何かだと思っているのだろう、レーメイは大先輩の背を追って、無邪気に飛んでいる。
一方のロウワは、しっかりとトビから競争だという指示を受けているのだろう。ちらりと私たちの動きを気にするそぶりを見せて、私たちの進路を絶妙にさえぎるように前を飛んでいる。老獪なロウワらしい、見事な飛行だ。
私は覚悟を決めた。
「レーメイ。この勝負、勝つよ」
脚で合図すれば、レーメイは即座に私の意を汲んで、筋肉をしならせた。
レーメイはいきなり翼を畳んで、回転しながら高度を下げると、またすぐ羽を広げて前を飛ぶロウワのすぐ足元を潜り抜け、トビたちの前に躍り出た。
目の前には、巨大な夕日だった。
暑い夏にとろけたように、輪郭は揺らめいて、海と混ざろうとしているように見えた。
私たちは島の斜面に沿うように滑空して、夕日が溶け出した海面に向かった。
零区で商売を終え始めた人々が、驚いたように空を見上げている。
リーヴェがこんなにも地表近くを飛ぶことは普通ない。
私の長い黒髪が風になびいている。空を見上げた人の中にリーヴェに乗っているのが女だと気づく人がいるかも知れない。
でもそれは、もう関係なかった。
昼海岸が目前に迫っていた。あの水面に先に羽を浸せば、私の勝ちだ。
その時、背後でロウワがピョウ、と鋭い声を発した。瞬間、レーメイがビクっとして、羽ばたきを鈍らせた。その隙に、ロウワたちが頭上を追い越していった。
「レーメイ!!」
私が脚と声で必死に鼓舞すると、レーメイはハッと翼に力を入れ、再び目を見張るような勢いで飛び始めた。だけど、ロウワはすでに遠い。
私は体をびったりとレーメイに寄せて、目を細めた。風が、びゅうびゅと吹き付けて、目に涙が溜まっていた。そうした時、なぜか急に、風の通り道が見えた。
ロウワたちの斜め下、追い風が流れている。
微妙に体重を移動させてレーメイにそのことを伝えると、彼女はそれを一瞬で理解して嘴の向きを変えた。
追い風に翼が乗った、その瞬間、爆発的な推進力を得て、私たちは光のような速さで飛んだ。
ロウワたちを、一瞬で追い抜く。
レーメイの白い羽が海水を跳ね上げ、飛沫が夕焼けに輝いた。
「あー負けた!!」
トビが放牧場に体を投げ出して悔しそうに叫んだ。
「やっぱ速いなーショウは」
鞍を外して身軽になったロウワとレーメイは、厩舎の外に備え付けられた水飲み場で、おいしそうに水を飲んでいた。
「…うん。だって勝ちたかったから」
「俺だって勝つもりだったさ。まぁ、最後の方でロウワがああいう手を取るとは思わなかったけど」
ロウワがピョウ、と泣いたことを指しているのだろう。あれは警戒音だ。ああいう風に高く短く鳴くのは、立場が上のリーヴェが格下のリーヴェに注意するときなので、レーメイが一瞬動揺したのだ。ほぼ反則技に近い。
「意外と、ロウワには負けず嫌いなところがあるからなぁ」
トビが笑って言う背後で、ロウワが素知らぬ顔で厩舎に戻って行った。
そんなロウワを笑顔で見送ると、私は決めた思いを告げるため、トビの名を呼んだ。
トビは、微笑みを顔に残したまま、こちらを振り向いた。
「ん?」
「トビ、私騎手になりたい。…女が騎手になれないって決まってるなら、そんな決まり、私が変えて見せる」
「―――やっと、言ってくれた」
眉を下げて、トビがつぶやいた。
「あの夜、レーメイと飛んでいるショウを見た時から、俺、決めてたんだよ。俺、ショウのこと応援しようって…なのにお前、逃げるからさぁ」
泣きそうに笑うトビの様子に、私はあわててごめんとつぶやいた。
「いいよ。言ってくれたから。…なぁ、祭礼の競技会、俺の代わりにショウが出なよ」
「え?」
「それで一番になってさ、私、女ですけど、どんな乗り手よりも速いですって、観衆に見せつけてやれよ」
言われれば、それは今考えうる策の中で一番効果的のように思えた。多くの人が注目する中で、女性が優勝したとなれば、組合もおいそれとその事実をほったらかしにはできないだろう。
「でも、私には出場資格がないよ」
「あったら苦労してないよ!ショウは、俺だってことにして出るの」
「えぇ!?」
トビは、自分の名を騙って出ればよい、と言った。競技会の始まる直前に入れ替わればいいのだ、と。
「競争相手は俺と面識のないヤツばかりだし、ショウは背が高いから、ごまかせるって」
本当にそんなうまくいくのかは疑問だが、まぁ確かに競技が始まってしまえば空を駆ける私たちを止められる人は誰もいないから、一瞬、皆をだませればいいだけの話でもある。
「でもいいの?トビだって、出たかったんじゃ」
「あーーーいいの!だって今、俺ショウに負けてんじゃん!出る資格ないっつの!くやしいぃぃ!」
そう叫んでトビは手をじたばたさせた。その様子がどうも子供じみていて、思わず私は噴出してしまった。
「ありがとう」
「ま、俺の代わりにさらっと優勝してくれや。大丈夫。競技会に出場するメンツの中じゃ俺が一番の優勝候補だって、もっぱらの噂だったから、俺に勝てりゃ優勝間違いなしよ」
トビが自慢げに鼻を鳴らす。でもあれ?
ハヤテ様~とうっとりしていたトアの様子が頭をよぎった。
「本当?優勝候補は大黒運送の若様って聞いたけど」
途端、トビがむっとした顔になる。
「それ、どうせ女の子が言ってんだろ?だめだめ、そりゃ見目の分ひいき票入ってるから。実力じゃ、トビ様がいちばんなの」
「ほんとかなぁ」
意地悪に笑って見せると、トビはつられたのか、にやりと頬を緩ませた。
「まっ、本当の一番は、ショウだけどな」
「…うん。そうなるよう、頑張る。私きっと絶対、女でもリーヴェの騎手になれるって、皆に証明してみせるよ」
「そうこなくっちゃ!」
夏草が茂る放牧場で私たちは昔のようにふたり、寝っ転がって、空を見つめた。
暮れの空にはすでに薄く月が浮かんでいた。
手を伸ばせば掴めそうな、そんな気がした。
夢を見た。
魚、と言うのもはばかられるような巨大な生き物が、悠然と海を泳いでいた。
その魚の鱗が、上から差し込む陽光に不思議に光った。瞬間、鱗はその不思議な色合いをそのままに、一斉に羽毛へと形を変え、気が付くと魚は巨大な鳥となっていた。今や、海水の代わりに風に包まれた鳥は、天高く舞い上がって、眩しいほどに輝く太陽の光の中へ消えていった。
「鯤と鵬、だっけ?」
「そう。あの話を聞いたのはもうずいぶん前なのに、なんで今、こんな夢を見るのか不思議でさ」
「ふーん。でもつくづく、突拍子もない話だよなぁ。魚が鳥になんて」
トビは初めてこの話を聞かせた時と、同じ反応を返してくる。芯がぶれないやつだ。
祭礼が始まって、二日目の真昼。競技会当日だ。
私たちは、競技者用に設営された控えの天幕の中、布で区切られたトビ専用の空間で、こっそりと言葉を交わした。
仮設施設の天幕は日の光を完全にはさえぎらないから、中は布越しに差し込む飴色の光で満たされていた。
「本当に、いいの?」
トビが私の髪の毛を撫でて、言った。
「いいよ。必要ないから」
一拍間をおいてから、トビが鋏を動かし始めた。ざく、ざくっと、小気味よい音を立てて、髪が切られていく。
一つに括ったその根元から切ってもらったから、その作業はすぐに終わって、私は軽くなった頭を豪快に振った。
「よし!これで、私はちょっとの間だけ、『トビくん』だ」
トビが掃除をしつつ、俺、結構ショウの髪好きだったんだけどなぁ、とぼやいた。
「女でも堂々と、リーヴェに乗れるようになればまた伸ばすよ」
「じゃぁ、もうすぐだね」
トビが笑った。私も笑った。
でも、ふと、思う。
そんなにうまくいくだろうか。
競技会で勝てば、それだけで会社の名声は高まる。祭礼中需要の高まる荷物運搬の話はその会社に流れやすくなるだろう。各会社の威信をかけて、出場者は皆、この競技会には並々ならぬ熱意をもって参加している。負けようと思って、参加する人はいない。
そして、たとえ優勝できたとしても、女だと分かった時、皆がどういう反応するかはわからなかった。女の騎手を認めないのは業界の暗黙知だから、処罰規定はないけれど、下手をしたら、私だけじゃなく父の会社、暁天運送に迷惑をかける結果になってしまうかもしれない。
勝てるか。勝てたとして、認められるか。
押し黙った私を、励まそうとしたのか、トビが強く背中を叩いてきた。
「大丈夫!…女が騎手になるのなんてさ、魚が鳥になるのに比べたら、ずっと簡単だよ」
じんと痛む背中に、心強い言葉がかかって、私は背筋が伸びる思いがした。
そうだ。やらないうちから悩んでいても仕方がない。変えるには、動くしかないのだ。
そして、これがその第一歩だ。
私はトビの目を見て、一つ大きくうなずいた。
「行ってきます」
私は心を決めると、競技場に出るため、天幕の外、光の中に足を踏み出した。
「黎明」おわり