黎明 前
むかしむかし、あるところに、鯤と呼ばれる大きな魚がおりました。
鯤はのんびりと海を漂う生活を続けていましたが、ある日ふと見上げた夜空に、とてもきれいなお月さまが浮かんでいるのに気がつきました。驚いて、そのまま空を見続けていると、今度は真っ青な空に、光り輝く太陽が浮かんできました。
空の色は、一時として同じ色を見せません。海の中よりもずっとたくさんの色であふれている空を、鯤は「なんて美しいのだろう」と思いました。
それ以来、鯤は大空に憧れるようになりました。いつか、あのきれいな月や太陽まで行ってみたい、と祈りました。そして、願い続けた鯤は、ついに羽をはやし、巨大な鳥になり、空へ飛び立ちました。
これが鵬と呼ばれる鳥です。鵬の巨体は太陽を覆い隠すほどだったそうです。
鵬が翼をひとふりすると、海は波立ち、雲は霧散し、猛烈な風が吹きすさびました。
鵬は天高く舞い上がり、太陽と月を目指して上へ上へと飛んでいったそうです。
「…めでたしめでたし」
そう結んで、私は喝采を受ける歌姫のように、恭しく礼をして見せた。
観客は、一人だけ。茶色い髪が珍しい少年だ。だけど、彼はこっちを見てすらいない。まぁ、当然だ。彼は今仕事中で、私は歌姫でもなんでもない。
「なに、魚が鳥になったの?ちょっと展開に無理ありすぎじゃない?…ってか、いきなりそんな話して、どうしたんだよ、ショウ」
その観客――トビが掃き寄せた藁を外に運び出すため持ち上げながら、あんまり気にしていないような声音で言った。
正午と日没の真ん中。柔らかな日差しが眠気を誘う時間だ。
ボロ小屋の隙間から差し込む陽光が、トビの茶色い髪の毛を照らしてキラキラと光らせた。
「さっき、絵唄語りのおじさんが南の大広場にいてさ、お使いの途中に偶然聞いたんだよね。大陸では有名な、『鯤と鵬』っていう話らしいよ」
私は小屋の隅、飼い葉が積まれているその横に、両足を投げ出して座った。乾いた藁から立ち上る、お日様のにおいが気持ちいい。
「絵唄語り?子供のころよく見たけど、今もいるんだ」
「そう。懐かしくて、お使いの途中だったけど、まじまじと見てしまったよ」
「お前…また仕事中に道草してたな!ってか今もさぼりだし…。何でお前、この時間になるといつもここにさぼりに来るんだよ」
「いいじゃない。ここ、好きなんだもん」
「まぁ、いいけどさぁ」
親同士が仲良くて、幼いころからよく一緒に遊んでいたトビは、昔のように遊ぶことがなくなった今も、なんだかんだ私に甘い。トビのやさしさに甘えて、私はもう少し長居をすることにした。
藁を掃き捨て終えて、水を床にまき始めたトビがふと口を開いた。
「お前がさっき言っていた鯤と鵬の話だけどさ、その鵬ってやつは、でっかい鳥なんだろ?なんか、リーヴェのことみたいだな」
トビの掃除の邪魔にならないように、入口近くの掃除道具置き場まで移動して、そこに置いてあった桶に腰掛けようとしていた私は、わが意を得たトビの感想に、思わず大声を出した。
「そう!そう思うよね。私もこの話を聞いている時に、リーヴェのことが頭に浮かんだの。でも、大陸にはリーヴェはいないはずでしょう?だから、不思議だなぁ、って思って。忘れないうちにトビに話そうと思ったんだ!」
リーヴェというのはこの島固有種の鳥である。鵬の様に翼で太陽を覆い隠すほどではないが、リーヴェもかなり大型の鳥だ。大人ほどの背丈があり、両翼を広げれば小さな家ぐらい覆い隠せるほどだ。斜面ばかりのこの島では馬が使えないから、移動手段としても輸送手段としても重宝されている。
そして、私たちが今いるここは、リーヴェたちを住まわせる厩舎である。
トビは、リーヴェを使った運送業を営む会社で働いている。
「急に大声出すなよ!びっくりしたー」
ソバカスの目立つ鼻に皺をよせて、トビが文句を言った。
放牧されているリーヴェたちも音に驚いたようだ。何頭か、何事かとのそのそ厩舎の入り口に集まってきた。
「ごめんごめん。つい…」
言葉は分からないだろうが、ごめんなさいの気持ちだけは精一杯込めて、私は近づいてきた白金の羽をもつリーヴェのくちばしを撫でた。
レーメイと言う名の、まだ若いこのリーヴェは、この厩舎の中では一番のやんちゃっ子で、何事にも興味津々で首を突っ込もうとする。
「もうすぐおうちが綺麗になるからねー、もうちょっと待っててね、レーメイ」
レーメイは気持ちよさそうに目をつぶると、もっと撫でてと言うように顔を押し付けてきた。
リーヴェの気性は元来穏やかで、人によく慣れる獣だが、レーメイは中でも一段と人懐っこい。
「誰が掃除してると思ってんだ、誰が!もう、邪魔するなら出てけよなー」
トビがいじけたように、柄杓で水をちょいっとかけてきた。
「わかったわかった!じゃぁ、また明日ね!」
「またねじゃねぇよーこのサボり魔がー」
トビの声が背中から追いかけてきたけど、私は全然気にしないで、大好きなその場所から走り去った。
*
向かう先は、私の職場、『凜迎館』だ。
凜迎館はこの島で一番古い宿屋である。その歴史はこの島に人が住み始めた時とともに始まったと言われている。歴史を重ねるうちに、老舗旅館と言う肩書を得た凜迎館は、今ではすっかり高級旅館と化していて、普通の人は泊まりに来ない。島外からやってくるお金持ちとか有名人とかお偉いさんとか――そういう人達御用達の宿屋になっていた。
宿での仕事は多岐にわたる。お客様の接客から、帳簿管理の事務まで、たくさんの人が色々な仕事をしている。
私がやるのは主に、裏方の雑用だ。中でも特に、買い出しや関係各者への言づけなど、宿外への用事を任されている。
体力もあるし身のこなしが軽いので「ショウに頼めば速い」と評判で、今や毎日いろいろな人からいろいろな用事を頼まれ島を縦横に駆け回る日々である。
放牧場から少し南に登っていくと、海に面した高台に、凜迎館が見えてきた。
斜面に沿って建つ凜迎館は、寄せ木細工のような奇妙な形をしていて、増築を繰り返して大きくなったということがよくわかる。
遠目からだとそのちぐはぐさが可笑しいけれど、近づくと豪奢な装飾が要所に施されており、なかなかの威容を誇っている。
私は宿泊者用の立派な門には向かわず、裏口に回って事務室に向かい、今日のお使いの依頼主であるおばちゃんに声をかけた。
「戻りました」
私の声に、おばちゃんが顔を上げた。ぽっちゃりとした、人のよさそうな中年女性だ。まだ大して暑い時期でもないのに、額には玉汗が浮かんでいた。
「あらあら、ショウちゃんじゃない。おかえり。ちゃんと用事は済ませてきたかい」
「はい。コウトク青果店に今月分の常備菜の注文票提出、寿酒屋で花蜜酒の樽追加発注、海洋堂で祝い用の塩まんじゅう50箱予約、あと暁天運送に明日のお客様の送迎依頼…ですよね」
「ああ、そうそう。その通りだ。さすがショウちゃん、やることが速いね。あぁ私もショウちゃんくらい身が軽くなりたいもんだねぇ」
言って、自分で笑っている。おばちゃんの口癖は『痩せたい』だけど、そのために何かしている姿は誰も見たことがない。
「じゃあ今日はあと中庭に水を撒いてくれたら、もう帰っていいよ」
私が礼を言って去ろうとすると、おばちゃんは帳簿を付ける手を止めて、何か思い出したように「そうだ」と漏らした。
「これ得意先が差し入れてくれたんだ、アンタも一つ食べるかい?」
そう言っておばちゃんがくれたのは、薄い求肥にクルミ餡が包まれた菓子だった。最後の一つで、もともと入っていた箱を見ると、五つ入りだったらしい。
菓子を差し出すおばちゃんの太い腕に、座ってばかりでこんなものを食べたら、そりゃ太るよなぁ、と一瞬失礼な考えがよぎったが、私はありがたくそれを頂戴することにした。
まだ、甘さが口の中に残っている気がする。
こってりとしたクルミ餡に、水飴がたっぷりと練りこまれた求肥だ。甘くないわけがない。
お茶が飲みたいな。
そんなことを思いながら、私は言われた水やりをしに、北の中庭へ向かった。
北の中庭は凜迎館自慢の三つの庭の中では一番小さい。桶に水を三回汲めば、すべての草木に水をやれる。
初夏の庭は咲き始めた色とりどりの花が鮮やかだった。真夏に咲く花と違って、この時期の花は太陽に照らされているより、雫を浮かべていた方が映える気がするのはなぜだろう。
「よーし、おわり」
冷たいものが混じった風が、頬をきる。いつのまにか日没が近づいていた。
どこか色彩を失い始めていた青空に、西の方から赤が差して、彩度の高い赤紫が雲を染めた。
珍しい空色に、私は思わず空を仰いだ。
赤紫の空は、確か空気が綺麗な証拠なんじゃなかったっけ。
誰かから聞いた話を思い出しつつ、ぼんやりと空を見上げていると、空の端に、何か高速で移動する、小さな茶色いものを見つけた。あれは。
「トビだ」
トビが、茶色いリーヴェに乗ってどこかに向かっていた。
トビが乗るリーヴェは、斑の茶色が目立つ壮年のリーヴェで、名をロウワという。ロウワは仕事に慣れているので最近働き始めたばかりのトビと組んでいるのだった。
ロウワは、そのくちばしに太い紐を咥え、何か大きな荷物を運んでいた。
かなり速い速度で飛んでいることと、羽ばたく際に派手に体を揺らしている様子から、客人を乗せているわけではなく、ただ荷物の運搬のためだけに飛んでいることがわかった。客を乗せるなら、客に負担がかからないようもっと丁寧にゆっくりと飛ぶはずだった。
「お仕事、ご苦労様だねぇ」
トビたちが見えなくなるまで目で追ってから、私は中庭を離れ、仕事終わりの挨拶を済ませると帰る準備をしに更衣室に向かった。
服を着替え、荷物を整えている間も、トビたちの姿が目に焼き付いて離れなかった。
なにか、胸の奥でずきずきと痛むものがあった。
理由は知っている。
私はリーヴェに乗って空を飛ぶのが好きだ。リーヴェと共に自由に空を翔けて、日差しを、気温を、風を感じるのが好きなのだ。だから、トビの様にリーヴェと共にある仕事に就けたらどんなに幸せだろうと、よく考える。
だけど、それは叶わない。
女はリーヴェに乗ることを、禁止されている。
*
どこかで鐘がなっている。水が満ち始める時間だ。
全然水になんて沈まない安全地帯にいるのにもかかわらず、何となく歩みが速くなる。
日が出ていない時間、土地の三分の一が水に沈んでしまうこの島では、恒常的に水に浸からない土地は貴重である。しかしあまりに標高が高いと移動に不便だ。
そう言うわけで、この島、特に比較的傾斜が緩やかで人口の多い東側は、土地は標高を基準に三つの区画に分けられ、人々が場所を語るときの助けとなっている。
昼海岸から夜海岸にかけての土地、つまり日没とともに水に沈む地区が、通称<零区>と呼ばれ一番地代が安い。常設の設備を必要としない小売業者が倉船を構えて商いをしている。
夜海岸以高の土地は、<壱区>と呼ばれ、利便性の関係で夜海岸に近ければ近いほど、地代は高くなる、ここには、大きな常設機械を必要とする町工場や料亭、宝石商など高級志向の施設が多く立地する。凜迎館も壱区にある。
夜海岸から山頂に向かって行くと、庶民が暮らす住宅地となる。<弐区>と呼ばれるこの地区は、人は多いのに土地はないから、自然と家は多くなり道は狭くなり、隆起の激しい地形も相まって複雑な町並みとなっている。
私も例にもれず、そんな弐区に建つ古い木造二階建ての小さな家に住んでいる。家々が密集して、ほとんど息もできないような界隈だ。
隙間を埋めるようにして建つ私の家からは、すでに煮炊きの煙が薄くたち、お母さんがご飯の準備を始めていることが知れた。
建てつけの悪い玄関を引いて居間に入ると、珍しい顔が私を出迎えた。
「お姉ちゃん!久しぶりだね」
「おひさー。帰ってきちゃった。なんか、たまにお母さんの料理が恋しくなるのよねー」
お姉ちゃんは長い黒髪をかき上げてにっこりと笑った。相変わらず、見ている人がくらっときてしまうような魅力的な笑顔だ。睫毛に縁どられた華やかな目元に、すっと通った鼻梁。薄紅色に染まる頬は、思わず触ってみたくなるほど肌理が細かい。
「あれ、ショウってば見ないうちにまた背、伸びた?」
「あーそうかも。トビと同じくらいあるかな」
「トビ君って、貴方と同い年の男の子でしょ?ショウが女の子にしては大きいのか、トビ君が男の子にしては小柄なのか…」
「多分、どっちもだね」
四つ違いの姉には、私とトビが小さいころ、よく遊んでもらった。だけど、ここ数年はトビとは会っていないらしい。お姉ちゃんも仕事が忙しくてそんなに家に帰ってこないし、大きくなってからは、トビと私ももうそんなに遊ぶこともなくなっていたから、仕方がない。
昔から美人なことで有名だったお姉ちゃんは、十四になると芸能一座に入って、舞子になった。
一座が所有する舞台で舞うこともあるけど、たいていは宿屋や高級料亭に乞われて芸事を披露する。
凜迎館でも、お姉ちゃんの所属する一座にはよく来てもらっていて、かなり評判が高い。
実は私が高級旅館・凜迎館に、使い走りとしてだけどもまぁ一応入れたのは、お姉ちゃんの口利きのおかげだったりする。
「さぁ、ご飯にしましょうか!」
お姉ちゃんと似た顔をした、でももうちょっと庶民的なかわいさを滲ます母が、料理を盆に載せて、元気に言った。
今日の夕飯は、薄く削いだ香果の皮と共に塩煮した魚と、青菜の漬物、甘辛く炒めたクラゲとふかしたユリ根の和え物だ。さらに貝の汁物と、白米までついてきた。
いつもなら一品、良くて一汁一菜がいいところなのに、今日はとても豪華だ。
「お姉ちゃんがお金をくれたのよ」
お母さんが嬉しそうに言った。
お母さんは料理が好きだから、食材を気にせず作れることが嬉しいのだろう。
私たちが手を合わせて食べ始めたところで、ちょうどよくお父さんも帰ってきた。
お父さんはまず、食卓に並ぶ豪華な料理に目を向け顔をほころばせた後、お姉ちゃんがいるのに気づいて、破顔した。
「おお、帰ってたかカケル」
「もう、気づく順序が逆だよ、お父さん」
「わるいわるい。いい匂いが家の外にも漂っていたから、ついな」
大柄な父は、よっこらしょっと大声で言いながら、嬉しそうに食卓についた。
父の、ぎょろりとした目や荒々しく無骨な感じのする骨格は私によく似ている。父似の私は背が高いのも相まって、昔からよく男の子に間違われることが多かった。だから私はその対策として、唯一姉と同じ艶を持つ黒髪を長くのばして一つに括り、尻尾の様に垂らすようにしていた。
まったく、家族が揃うたびに、父似の私と母似の姉で、よくもこう明暗が分かれたなぁ、と感心しきりなのである。
それにしても家族四人揃って食卓を囲むのはいつぶりだろうか。お姉ちゃんは、新年の祝い日にだって、というかそういう日こそ、仕事が忙しく帰ってこない。
そんなお姉ちゃんが、自分のことを棚に上げて、鈴の鳴るような声で言った。
「お父さん、最近忙しいの?昔はもっと早く帰ってきてなかった?」
「あぁ、あぁ。本業の忙しさは変わらないんだけど、今リーヴェ運送組合の方での仕事が忙しくてね」
私の父は、暁天運送の二代目大旦那だ。つまり、トビが働いているのは私の父の会社、なのだ。
まぁ、だからと言って私には関係のない世界なんだけど。
…でも、リーヴェがらみの話はやっぱり気になる。
何でもない風を装って、私はお父さんに聞いた。
「リーヴェ運送組合?なにか、業界全体にかかわる問題でも話し合ってるの?」
こういう聞き方をしてしまうのは、私がどこかで『女もリーヴェの騎手になれるようになった』という言葉を期待しているからだ。
わかってる、そんなことは起きないって。
でもいつもどこかで期待してしまうのは、自分じゃどうにもできなかった。
案の定、期待していた言葉とは違う言葉が返ってきた。
「ああ、ああ。いや深刻な話じゃないよ。楽しい話題だ。来月、夏の祭礼が行われるだろう?その時に、リーヴェの競技会をやろうかって企画が持ち上がっているんだよ」
祭礼と言うのは、年に二回夏の盛りと冬の終わりに零区で開催される、大陸との大規模輸出入取引のことだ。
この島の周りの海流は普段、島の周りを渦巻くように流れていて、他所からの船を寄せ付けないが、年に二回、計ったように毎年同じように月日を空けて、その潮が無くなる時期が来る。おかげで普段は海岸まで近寄れない大型商船が入港できるので、大陸との取引がさかんに行われるのだ。
それはたいてい三日間ほどのことなのだが、普段なら日没とともに満ちる水も、この期間だけはなぜか満ちないので、零区には昼夜問わず人が押し寄せ、三日三晩、お祭り騒ぎとなる。
それで、祭礼、と言うのだ。
「リーヴェの競技会?そんなのいままでの祭礼じゃ無かったよね」
「ああ、当日は輸送業が忙しくて、それどころじゃなかったからな。だが、今年は違う。多くの運送屋に若手が入ったんだ。うちも、トビ君が入ったろう?なぜか今年は運送業界全体が人気で、見込みのある若者が多く入ったんだってよ。だから、なにか一つ見世物やるくらいの余裕があるんじゃないかって」
リーヴェの騎手には誰しもがなれるわけじゃない。男でも、高い技術やセンスが必要とされるから向いてない人が働きたいと言っても断ることがままある。だから、人手不足に慢性的に悩まされる業界でもあるのだ。
「そうなのね。いいことじゃない。でも、協議会って何を競わせる予定なの?」
「美しさをきそわせるか、技巧を競わせるか、速さを競わせるか…まだ決めきれていないが、何かしらはやることになるだろう。ま、そういうわけで、今組合じゃぁ企画を練るのに大わらわなのさ」
ふーんと、私が努めて興味なさげな相槌を返すと、話題は祭礼で舞う姉の新しい演目の話に移り、その日、リーヴェの話が再び話題に上ることはなかった。
*
その日も、私はいつものように夜が薄れゆく少し前に家を抜けだして、放牧場に向かった。
実は、弐区の更に上には、<天領>と呼ばれる、用途を農耕が牧畜に限られた土地が存在する。多くの人々には関係のない土地だから、話題にのぼることはあまりないが、リーヴェを飼育する運送会社には大事な場所だった。
月明りを頼りに、なじんだ道を駆け上っていく。今日は無性に、早くレーメイに会いたくて仕方なかった。
放牧場に着くと、まず宿直小屋の明かりが消えていることを確認した。
宿直を担当しているヨダというおじいさんは、真夜中がだいぶ過ぎ、有明の月が浮かぶ前の数刻の間だけ、決まって眠りについている。
何か異変があった時に真っ先に気づかなきゃいけない仕事のはずだから、だめでしょうと思ったりするのだが、私が隠れてリーヴェに乗りたいときには大変都合がいいので、父に告げ口なんかは絶対しない。
父の荷物から勝手に持ち出した鍵を使って、薄暗い厩舎に忍び込む。
すぐに、何頭ものリーヴェが私の存在を認めて、目をぱっちりと開けた。闇の中、リーヴェの色とりどりの瞳が光っている。
私はその中でも、稲穂のような輝きを持つ黄金の瞳に近づくと、手を差し伸べた。
「レーメイ。今日も、一緒に飛んでくれる?」
レーメイが嬉しそうに嘴を私の手に擦り付けて、キュウィキュイ、と甘え声を立てた。
私がこの時間に来て、レーメイと空を飛ぶのはいつものことなので、起きだした他のリーヴェたちはすぐにまた目を閉じ体を揺らし、心地よい睡眠の体勢に戻っていった。
私は手早くレーメイの綱を外し、その背に鞍を乗せると、手綱を引いて厩舎の外に出た。
初夏の夜の、しっとりとした空気が私たちを包んだ。綺麗だった夕暮れは、満点の星空を連れてきていて、いつもより数段明るいような気がした。
レーメイが、早く、というように、夜空に見とれて一瞬ぼうっとした私の頬を柔らかな頭で小突いた。
「ごめんごめん、じゃぁ、かがんで」
私が言うと、レーメイは言葉がわかるかのように、足を畳み、私が鞍に乗れるよう、体を斜めに傾けた。
鞍にしっかりと体を預け、鐙に足を乗せる。手綱を握って足で合図すると、レーメイはすっくと立ちあがった。
「ハァッ!」
手綱をしならせ、掛け声をかけると、レーメイはその健脚で何歩か地を駆けつつ、翼を大きく広げて羽ばたいた。
一瞬で、地面が遠くなる。
遠くなる地上の光と、頭上で瞬く星々に挟まれて、その瞬間私はつらいことも悲しいことも忘れて、顔に吹きつける風に心を躍らせた。
リーヴェの強い翼は一振りで何里も舞い上がることが出来る。
数回羽ばたいたのちに、島全体を見渡せるほどまで高く舞い上がったレーメイは、十分な気流を見つけると、羽を動かすのをやめて、大きく翼を広げたまま、円を描くように滑空した。
レーメイは、空を飛べる楽しさを全身に滲ませている。
風を捕らえるたびに微妙に動く引き締まった筋肉が脚の下で感じられた。彼女の白金の羽毛は月光に照らされて、信じられないほど美しい。
レーメイは私が9歳の時に生まれたリーヴェである。12歳になるまでは性が未分化とされ、女でもリーヴェに触れることは許されていたから、私とレーメイはその幼い時を共に過ごして育った。
20年ほど生きるリーヴェの中にあって、レーメイはまだまだ若造で、運送屋のおっちゃんたちによれば、とても扱いづらいのだという。でも私にとっては、レーメイこそが一番の相棒だった。レーメイも、きっと同じことを思っている。私と飛ぶときのレーメイは、ひいき目抜きにしても一番実力を発揮していた。
リーヴェたちにとっては、乗り手が女でも男でも、全く関係ないのだ。
レーメイが自由に空を飛ぶ喜びを発散させるのを一段落させる頃を見計らって、私はいつものように、レーメイと一緒にいくつもの技を試していった。
一定の高度と速さを保って進む技、螺旋を描いて高度を下げる技、空中の一点に留まるホバリングと呼ばれる技、などだ。いずれも客を乗せて飛ぶ際や、壊れやすい荷を運ぶときには必須となる技術である。
レーメイはそのやんちゃな性格故か、こういう繊細な気飛行技術が比較的拙い。
それでも、私には予感があった。
――この子は天性の才能に恵まれている。それを引き出してあげられれば、きっとどんなリーヴェよりも剛くなる。
「今日は、このくらいにしようか」
空が白み始めていた。早くしないと、ヨダさんが起きてしまう。
私は右足で、とんとん、とレーメイの脇を小突いた。その合図に、レーメイの鋼のような肉体に力が入った。
レーメイが一回羽ばたいて、頭を地上に向け、翼を畳む。飛行機能を放棄した巨体は、重力に従って落ちていく。
ふわり、と浮遊感が襲った次の瞬間、レーメイは翼で空気を一搔きし、落ちるよりも疾く地上に向かって夜を斬り裂いて行った。
レーメイを厩舎に繋いで、放牧場に出た時には、すでに空は漆黒から藍色に変わっていた。
家に帰ろうと、踵を返したその時、宿直小屋の脇に佇む人物と目があった。
「え」
うそ、ありえない。どうして――?
「ショウ、何してるんだ」
トビが、険しい顔をして、立っていた。その手には、リーヴェを狙う野生動物が来た時のための武具が握られていた。
「レーメイと飛んでいたのか?」
きつい響きがあるトビの言葉に、私は知らず、一歩後ずさりした。
「ヨダさんが体調崩してて、急に来れなくなったから、今日だけオレが宿直代わったんだ。なぁ、もしかしていつも、夜に飛んでたのか?」
答えられなかった。
女がリーヴェの騎手として飛ぶのはこの業界の禁忌となっている。女が騎手になれないのに具体的な理由がないからこそ、その掟はリーヴェ運送に携わる男どもに宗教じみて信仰されており、そしてそれはたぶん、トビも例外ではない。
トビから父に伝われば、私はもう二度と、レーメイとは飛べない…。
そう考えた瞬間、深い闇の底に落ちていくような絶望感が胸を覆った。
「ショウ、なんか言えよ」
頭が真っ白になってしまって、取り繕いも、言い訳も、何も思い浮かばなかった。
私はトビに背を向け、逃げるようにその場から立ち去った。
つづきます