水底から望む
その日、オレはとても大きな魚を見た。
日没を告げる鐘が鳴ると、すぐに辺りは水に沈み始める。
「早く、行こ」
センはトーヤの腕をつかむと、煤が充満し薄ぼけた世界で、水に浸からない高台を目指して足を動かした。
灰色の雲の隙間をぬって、夕日が最後の力を振り絞り二人の顔を赤く染め上げた。
日が落ちてから、水がこの島の3分の1を覆うまではとても早い。
センたちの足元にはすでに水溜まりができていて、踏む度にぱしゃりと音をたてて飛び散った。
「セン、間に合わないよ。昇り船に乗ろうよ」
「ばか、あれ、5トもするんだぞ。もったいないよ」
「たった5トじゃないか」
センとトーヤが学舎を終えたのち、採掘場で半日屑鉄を運び続けてもらえる賃金が、100トである。
「5トあれば、海洋堂でまんじゅう二つ、買えるだろ!」
センはトーヤのぼやきを一蹴して、古びた階段を昇り続けた。
重ねて並べられた石の隙間を縫って、空気の中でも水の中でも生きられる植物がまばらにはえている。植物の少ない地帯だが、こういう雑草はさすが逞しい。
「あっ」
後ろを走っていたトーヤが、岩に足をとられて転んだようだ。
声に気づいて振り返ったセンの頬に、べちっと水が跳ねた。
「トーヤ!大丈夫か?」
トーヤは無言で頷くと、ゆっくりと立ち上がった。膝が擦りむけて、赤くなっている。
既に日は落ち、紺碧が空を覆い尽くしつつある。
夜の闇なのか夜の海なのか分からない黒が、眼下に広がって、すぐそこまで迫っていた。
「走れる?」
トーヤは唇を噛み締めて、小さく頷いた。
(やれやれ…)
こういうときのトーヤは素直じゃない。小さな頃からずっと一緒だから嘘をついていることぐらい、すぐに分かる。
センが顔を上げて辺りを見渡すと、近くの岩陰に何か木の破片のようなものが落ちているのが見えた。
(流木か?)
大きな流木なら、何もない水の上では体を浮かせる心強い支えになる。二人でしがみついて浮いていれば、そのうち昇り舟の船頭さんが拾ってくれるだろう。
センはトーヤを置いて岩を跳ね登り、近くまで行ってみた。
ぼこぼこと地面から生える岩の隙間に埋もれるようにあったそれは、流木ではなかった。
それは、古い船だった。
「しめた!トーヤ、船があったぞ!これに乗って夜海岸まで上がろう」
「それ、大丈夫?底に穴が空いてない?」
「大丈夫!どこも壊れてないよ。捨てられた船じゃないみたい。…たぶん、しるべ縄がほどけちゃった昇り船が流れに乗って、ここにたどり着いたんだ」
どっちにしろ、二人はもうふくらはぎまで水に浸かっていた。この小舟に乗るしか残された道はない。
ざぷんと、波が引いて打ち寄せるたびに、水かさが増しているのが分かった。
船は岩棚に引っかかっていて、それでその場所にとどまり続けていたようだった。
センは体全体を使って船を引っ張りだすと、地面を滑らせて、すでに水に浸かっている場所まで運んでいった。
船は水に乗ると急に滑らかに動き始めた。
水かさが膝小僧を追い越してしまう前にセンも船に飛び乗った。転がり込んだ瞬間、船は大きく揺れたが、ひっくり返ることもなくセンの体を受け止めた。
ちょっとほっとして、センはトーヤがいる方を向いた。
「ほら、やっぱり穴なんてどこにも空いてなかったぜ」
いたずらっぽくにやっと笑ってトーヤを見ると、トーヤは不安げな顔をしてこちらを見返した。
「セン、ちょっと遠い」
トーヤがいる方向と、船首が向いている方向にわずかにずれがある。近づくほどに、距離が開いていくのが分かった。
「まずい」
櫂もなく小舟の動きを操るのは不可能だ。
しかもセンが最後に押したが効いているのか、意外なほどの勢いで、船は水の上を進んでいく。
「掴んで!」
センはボートから身を乗り出しトーヤに手を差し出して、叫んだ。
トーヤも身動きのとりづらい水の中で、もうほとんど泳ぎながら、懸命に手を伸ばした。
指先が、人肌に触れた。そのわずかな熱をしっかり握って、センはトーヤを引っ張り上げた。
*
「無事乗れて、よかったな」
「無事なもんか。服がびしょぬれだ」
「うん。寒くなる前でよかった」
言って、お互いの顔を見た瞬間、二人同時に噴きだした。
いたずらが成功した時のような高揚感が胸を満たして、しばらく笑いは収まらなかった。
「あーあ、でもこれからどうしよう?しるべ縄がついていない船なんて、どこまでも流されていっちゃうよ」
やっと笑いが収まったころ、その余韻の中でトーヤが言った。
普通の昇り船は<しるべ縄>という長い縄につながれていて、一定範囲以上船が動かないようになっている。放っておいても昼海岸と夜海岸の定位置に停泊できる仕組みだ。
「大丈夫さ。ここいらの海流は島から船を出さない作りになっているんだって、大人が言ってたもん」
センも、愉快な気分のまま答えた。
小舟はいつの間にか大海原のど真ん中に浮いていた。見渡しても、他の船の姿は見えない。
静かだった。
けれど、怖くはなかった。夜の海は月と星の光に照らされてキラキラしていた。
「夜だけど、明るいね」
「うん。満月だから、特にね」
上を見上げればやけに大きな金色の月がどでんと浮かんでいた。どうりで明るいわけだ。
視線を横にやると、遠くに島影が見えた。水に沈んでずいぶん小さくなっただろうそのシルエットは、しかし思いのほか巨大で、自分の住む土地を初めて見たセンたちを驚かせた。
「オレの家、どれだろう」
島の斜面は、人々の営みが作る光で彩られていた。
点々と灯る橙の光は、人家の明かりだろう。何カ所かに固まって灯る青白い光は、夜も休まぬ工場の明かりだ。夜海岸の岬だろう低い位置では、灯台が灯すひときわ明るい光が目立っていた。
「トーヤの家は見えないだろうな。反対側だから」
センたちが働いている採掘場は島の最西端に位置する。
岩だらけの土地で、貴金属が採れる以外は何もいいことのない場所だから、わざわざ住む人は少ない。
採掘場より少し標高を高くしたところに大きな工場もあるのだが、そこで働く従業員も工場から排出される煤を嫌って、皆遠く離れた場所に住みたがる。
トーヤも東側に住んでいるので、今二人がいる場所からだとトーヤの家の明かりは見えないはずだった。
「あーあ。オレも東に住みたい」
「…ぼくは、親戚のおじさんが東の長屋で大家さんをやっていたから、ラッキーだったんだ」
皆が住みたがらない西の工業地帯はひどく安く住める。だから安賃金の鉱夫が多く住む。
かつてセンの隣の家に住んでいたトーヤは、最近引越ししたばかりだった。
「…オレも、違う場所に行きたい」
センは小さくつぶやいた。
しかしその願いが簡単に叶うものでないということも重々承知している。
自分の愚痴に何と答えていいかわからずに口ごもるトーヤの困り顔を見たくなくて、センは小舟の中に視線をやった。
「あ」
逃げるように巡らした視界の端に、ボロ布に埋もれたカンテラが映った。
だいぶ古い型で、無駄に大きくごついけれど、ちょっとだけ油が残っているようだ。一緒に火打石も転がっているから、うまくいけば灯りをともせるかもしれない。
何度か失敗して、やっとのことで灯心に火をつけると、ぼんやりとした優しい光が小舟を満たした。
「いいね」
嬉しそうに笑ったトーヤの顔も、温かく照らされていた。
センはほっとして、持っていたカンテラを大事に船底に置いた。
そのカンテラを挟むように二人はそれぞれ船首と船尾に座って、膝を抱えた。
「そうだ、トーヤ、転んだ時の怪我は大丈夫?」
「うん。転んですぐ真水に浸かったから、傷口も綺麗だよ」
「まだ塩水が混じる前でよかったな」
しかし、そうは言っても灯りに照らされた場所でよく見ると、トーヤの両ひざは皮が擦り剥けて血が滲み、痛々しかった。特に右膝の傷がひどい。
センはズボンのポケットを探って、母に持たされたハンカチを引っ張り出した。一緒に砂礫もぼろぼろ零れ落ちてきたけど、気にしないことにする。
「はい。これで覆っておくといいよ…ちょっと汚いけど」
「ありがとう」
トーヤが受け取って、四つ折りにされたそれを広げた。すると、中に包まれていた何かが、重い音を立てて船の床に落ちた。
「なに…?」
それは、親指ほどの大きさの、宝石の原石だった。灰色の岩石の間に、白と薄紅色の靄をガラスで固めたような結晶が生えていた。
「これ…」
拾おうと手を伸ばしかけたトーヤの手を掻い潜るように、センが素早くそれを拾って、手のひらに包み込んだ。
「すごい。それ、白桜石の原石だよね。どこで手に入れたの?」
「屑鉄に時々混じってるんだ。みんな知ってるよ」
「うん。本当に見つかることが極まれだってこともね。見せて」
トーヤが目を輝かせて手を差しのべた。センはこんな大発見を親友に隠していたことが後ろめたくて一瞬ばつの悪い表情を浮かべたが、最終的には気まずさよりも自慢したい気持ちが勝って、白桜石をトーヤの手のひらに置いた。
「きれいだね」
「だろ、それに、でかいだろ。これだけで一万トは貰えるはずだ」
「一万ト…!」
トーヤが目を丸くして、まじまじと白桜石を見つめた。カンテラの光を反射して、きらきら輝くそれが、トーヤの瞳の中に映り込んだ。
トーヤはうやうやしくセンに白桜石を返した。そうしてから、ちょっと意地悪そうに笑う。
「これを探していたから、今日は遅くなったの?」
センは少し言葉を詰まらせた。
「定時にオレ、お前のこと探したよ。でもトーヤどこにもいなかったから」
「ぼく、いつも通り昼海岸で待ってたよ?」
センとトーヤは別々の採掘場に割り振られ、働いている。標高が低いトーヤの採掘場の方が先に定時となるので、センの仕事終わりまでトーヤが待っていて、一緒に帰るというのが習慣になっていた。
「…ごめん」
実のところ、センはトーヤが今日も昼海岸で待っていることを知っていた。しかし、仕事が終わってからトーヤを呼びに昼海岸まで下っていては、時間が無くなってしまう。
どうしても今日、水に沈んでしまう前に白桜石を見つけ出したかったセンは、トーヤを待ちぼうけにしてしまうことには目をつぶって、屑捨て場を漁ったのだった。
トーヤはいつも、センが促さない限り昼海岸から離れない。センが白桜石を見つけて、急いでトーヤを呼びに行った時にはもう、日没寸前だった。
それで、水没に間に合わなくなってしまったのだった。
「一万ト、どうするの?」
両膝をたてて、そこに顔をうずめるようにしたトーヤが、どうせ周りに誰もいないのに、内緒話をするようなヒソヒソ声で言った。
「どうしようかな、考えてない」
一万トと言えば、センたちの賃金3か月分に相当する。途方もなくて、使うという想像ができなかった。
何がおかしかったのか、トーヤがセンの答えを聞いて、くすりと笑った。
「なんだよ」
「いや、ふつう、お金でなにかしたいことがあるから、頑張るのに、センはお金が欲しいからって頑張るんだもの。シュセンドだなぁ」
「なに?シュセンドって」
意味は分からなかったが、なんとなく馬鹿にされている気がして、つい語気が荒くなった。
「お金を大事にする人だって父さんが言ってた。面白いな、シュセンドは冒険を連れてきた!だって、今日はセンが白桜石を探したせいで帰るのが遅れて、センが上り船はもったいないからって言うから、こうやって漂流してる」
「わるかったね」
ぷいっとむくれたセンに、慌ててトーヤが言い募った。
「ちがうちがう。僕は、センがシュセンドなおかげでこうやって冒険できたんだって言いたかったんだ!」
それでもむくれたままのセンに、トーヤは小さくため息をつきながら少しまじめな声で言った。
「お金を大事にするのは悪いことじゃないよ。お金を集めるのに必死になるのも、悪いことじゃない。でも、お金を集めることに必死になりすぎる人生は…たのしいのかな」
「…知らないよそんなの。けど、いい暮らしをするにはたくさんのお金が必要だろう?いい場所で暮らすのにも、良い洋服を着るのにも、おいしいご飯を食べるのにだって。だから、お金を稼いだら楽しいんだよきっと」
「すると、センはより良い暮らしをするために、お金を稼ぐ…働くんだね」
「悪いか」
「ううん。センはすごいな」
はあ、とトーヤが大きく息を吐いて、足を延ばした。
「センは将来、鉱夫になるの?」
あまりにも答えが決まり切っている質問に、センは目をぱちくりとさせた。
「うん。それ以外、何になるんだ?」
鉱夫の息子は10になると屑鉄拾いとして採掘場に入るようになる。12になれば大人について、坑道の奥にも入れるようになる。そうやって仕事を覚えていって、15になると、一人前として認められるのだ。わかりやすい自分の将来に疑問を抱く者も、不安を抱く者もいなかった。
「トーヤも、そうでしょ?」
「ぼくは…」
トーヤが言いかけた時、いきなり大きな波が押し寄せてきて、小舟が揺れた。
二人はあわてて船のへりに捕まり何とか振り落とされることだけは防いだが、衝撃でカンテラが転がって、灯が消えてしまった。
大した光量でもなかったが、カンテラの明かりが消えてしまうといきなり闇が濃くなったような気がして、センは目を慣らすため、しばし目を瞬かせた。
「なんだったんだろう。ここいらじゃ波なんてほとんどないはずなんだけどな」
トーヤの言う通り、もう波は襲ってはこなかった。先ほどの大波が嘘だったように、あたりは再び凪の静けさに包まれている。
耳がいたくなるくらい、何の音もしなかった。
「ね、それにしても誰もいないね」
偶然見つけた小舟に乗っておぼれるのを免れたという大冒険の興奮は、すっかり冷めていた。
とりあえず助かったという安心が薄れてみれば、次に待っていたのは誰もいない海の真ん中で浮いているという現実がもたらす孤独な不安だった。
「おかあさん、心配しているだろうね」
「うん。…それに、お腹が空いた」
センのぼやきに、トーヤが顔を輝かせた。
「そうだ!おもいだした。今日、センと食べようと思って、学舎前の屋台でお菓子を買ったんだ」
言うと、トーヤは上衣の懐をごそごそやって、茶色の紙で包まれた手のひらほどの大きさの包みを2つ、取り出した。1つをセンに渡して、自分の手元に残した方の包み紙を、丁寧にはがしていく。
甘い香りをふりまき包み紙から現れたのは、蜜のたっぷりかかった木の実の焼き菓子だった。
「フロランタンっていうお菓子なんだって」
「へぇ」
一口かじれば、炒られた木の実の香ばしさと、それを覆う蜜の甘さが口の中に広がった。
「!おいしい…!」
「大陸のお菓子みたいだよ。売っていたおにいさんが教えてくれた」
トーヤも幸せそうに焼き菓子を頬張っている。フロランタンとかいう異国のお菓子の、体に染みるような甘さは、不安を溶かして少し小さくしてくれた。
その時、雲が月を覆い隠して、さっと世界が暗くなった。
「あれ?」
星明りだけの闇の中で、トーヤがお菓子を取り出した上衣の懐が、あわく橙色に光っていた。あまりにもかすかな光なので、月明りがあるところでは気づかなかったのだろう。
「なんか、トーヤの服光ってるよ」
「え?」
トーヤも知らなかったようだ。びっくりした顔で、自分の服を見た。
「まさか」
心当たりがあったのか、トーヤは懐に手をやって、何かを取り出した。ぼんやりとした橙色の光が、少し澄んで、トーヤの手の中を照らした。
それは、何かの植物の種だった。
「昼海岸に落ちていたんだ。見たことのない種だったから、育ててみようと思って、拾ったんだよ」
「植物の種って、普通光るのか?」
「ううん。普通は光らない。…面白い、どうしてこの種は光るんだろう。どこに生える植物なのかな。葉は、花は、実はどんなものなんだろう」
興奮した面持ちで、トーヤが言った。センに話しかけているというよりは、大きな独り言のようで、視線も光る種にくぎ付けになっている。
「トーヤは昔から、花とか好きだよな」
「うん。植物って面白いんだよ。時期と場所で生えるものが全然違うんだ。それに植物はとっても人の役に立つ。おいしい実をつけるもの、きれいな花を咲かすもの、薬になるもの…ぼくたちの生活には植物は欠かせないよ」
センがびっくりするほどの勢いで、トーヤが語り始めた。
「知ってた?植えた土の特性によって、咲かせる花の色を変える植物があるんだって。うまいこと調整して、好みの色に染まった花を並べたら、壮観だろうなぁ。あと、最近知ったんだけど、鉱山によく生えているオニユリ、あれの根って食べられるんだって。芋みたいな味がするらしいよ。この島じゃ平地がなくて穀物が育たないから、食料になる植物は貴重だよね。品種改良して、味が良くて大量生産が簡単なオニユリが作れたら、すてきだと思わない?…あとあと、東の方にしか咲いてないけど、ササクズレ…冬に小さな黄色い花を咲かすあれだよ…の葉っぱは、煎じて飲むと鉱山病に効くんだって!」
身を乗り出し、拳を握ってトーヤが力説した。何もしなければこのまま何時間でもしゃべり続けそうだった。
「すごい、詳しいんだな」
植物について語るトーヤの目は、きらきらと輝いていた。本当に植物が好きなんだろう。センには、そんなトーヤが少し眩しく見えた。
「あのさ、セン。…さっき、言いかけたんだけど」
トーヤが急に、言葉の熱を抑えて、真剣な表情でセンを見つめた。
(あ…)
何か、自分の『いつも』を変えてしまう言葉が来る。トーヤが引越しをすることを告げた時もこうだった。
本能的にそう思って、センはこぶしをぎゅっと握った。
「ぼく、将来は植物学者になりたいんだ」
心の準備ができていたからか、センは思ったよりも冷静に、トーヤに返す言葉を探すことが出来た。
「…植物学者って、鉱夫をやりながらできるものなの?」
センが一生懸命探した言葉を聞くと、トーヤは春風のように笑った。
「ううん。できないよ。ぼくは、自分の時間全部を植物の研究につぎ込みたいんだ。だから、鉱夫にはならない」
鉱夫にはならない。
そんな選択肢が自分たちの人生にあると思ってもみなかった。
混乱するセンに、トーヤはとても柔らかな口調で、歌でも歌うように言った。
「だからね、セン。ぼくはこの島を出ていくよ」
「え?」
「ぼくね、植物学者になって、やりたいことがあるんだ。――さっきもちょっと言ったけど、この島じゃ普通の穀物は育たない。だからぼくは…平地がなくて岩がちなこの島でもよく根付いて、よく実を付ける、そんな穀物を見つけたいんだ。だってもしそんな植物があれば、この島はもっとずっと豊かになるでしょう?」
ずっと考えてきたのだろう、ずっと言う機会を待っていたのだろう。
トーヤの表情には冗談を言っている様子も、おとぎ話を語っている様子も一つもなかった。
「そのために、島を出るの?」
「うん。この島には独特の植生が展開していて、それはそれで興味深いんだけど、いかんせんこの島には体系的な勉強をできる施設が整っていない。なんてったって、水に沈んじゃうから、大量の書物を保管するには場所が足りなさすぎる。山頂近くの大図書館、行ったことある?この島唯一の図書館だけど、専門的な本なんか全然そろっていない。だからぼくは大陸に渡る。そこでもっと難しい本を読み、師に付いて学び、いつか絶対立派な植物学者になるんだ。
ねぇ、セン。鉱夫の息子に生まれたからって、鉱夫にならなきゃいけないわけじゃない。やりたいことがあって、それを本気で成し遂げたいと思ったら、ぼくらを邪魔できるものなんて一つもないんだ。セン。…センは将来、何をやりたい?」
どちらかというと控えめで、学び舎でも目立たない存在のトーヤが、こんなに激しく自分の気持ちを吐露するのは初めてだった。トーヤのそんな様子に気圧され、センは自分を守るように、腕を胸の前で組んだ。
(オレがやりたいこと?)
考えたこともなかった。
採掘場での仕事…は違う。やりたいことではない。あれはお金がもらえるからやっているのだ。
お金が欲しい、良い暮らしがしたい。そう思って、白桜石に執着した。
お金が欲しい。いい暮らしがしたい。それも『やりたいこと』なのだろうか。成し遂げたいことなのだろうか。…なにか違う気がする。
「オレは…」
センが言いかけたその時、どこからか、ぼおおおう―――――という風鳴りのような、ほら貝を吹いた時のような、不思議な音が大気を震わせた。音は遠くから聞こえてくるようでもあり、近くから聞こえてくるようでもあり、上からも横からも海の底からも聞こえてくるようだった。
「な、なに!?」
その音に混じって、ザザン…と波音が聞こえてきた。
センたちが、あっと思ったときには、大きな波がいくつも押し寄せてきて、小舟はあれよと言う間にひっくり返り、波にのまれて、夜海に消えていった。
「セン!掴んで!」
海に投げ出される直前、声に促されてセンはトーヤの手を握り、二人は一緒に黒い海に飲み込まれていった。
*
気づくと、海の底で満点の星に包まれていた。
「違うよ、これ、全部植物の果実だ」
すぐ近くで声がする。横を見れば、トーヤが笑っていた。
「果実?」
「そう。透明の果肉に包まれている種子が光っているんだ。これ、ぼくがさっき船で見せた種の、成長した姿だよ」
センが星だと思ったものの正体は、橙色に光る種子を内包した透明な果実だったらしい。
その実をつける植物は群生して生えるようで、ごつごつした海底から伸びるいくつもの長い蔓は幾重にも枝分かれして、あるものは岩肌に巻き付き、あるものは寄る辺なく水中に漂い、幻想的な光景を作り出していた。
「こんな植物が海の底に生えているなんて」
「きっと、誰も見たことのない光景だよ。ぼくたちが第一発見者だ!」
嬉しそうに、トーヤが声を弾ませた。口からこぽこぽと泡が漏れる。
「あれ、そう言えば、海の中なのにどうして息が苦しくないのかな?」
「分からない。でも、そういう風になっているんだよ」
センは、そういうものか、と思った。
そんなセンの横で、トーヤが、良いこと思いついた!と手を叩いた。
「この植物に、名前を付けよう」
「え?勝手につけていいのか?」
「僕たちが第一発見者だもの。名づけの権利は僕たちにあるのさ」
センは、そういうものなんだなぁ、と頷いた。
「そうだな…よし、決めた。この植物はランプの様に光るから、ランプ草って呼ぼう」
「…すごく、簡単に決めるんだね」
「分かりやすいでしょう?植物の名前なんて、得てしてそういうものだよ」
トーヤは満足そうにランプ草の大群を見渡した。
月明りは、海の底まで届いていた。上から差し込む金色の光と、水中に揺れるランプ草の橙色が不思議に海の底を明るくして、お祭りの時のような楽しい気分にしてくれた。
センは重力の支配の弱まった水中で、ひょーいひょーいと飛び跳ねながら一番近くのランプ草へ近づいた。
近づくと、さらにその明るさが目に染みた。トーヤが船の上で見せてくれた種よりも、果実にくるまれたこの種の方が、ずっと強く光っている。種を包む透明の果肉を触ってみると、ちょっと弾力があって、意外にも中身が詰まっていそうな感触だった。
(世界は、こんなにも知らないことであふれている)
自分が見てきたもの、感じてきたことが、いかに狭い視界の中のちっぽけなものだったか、センは思い知った。
(オレも、もっと見てみたいな…この世界のいろいろなことを)
その時、センの目の前で、水中に長い蔦をたゆたわせていたランプ草が何かの前触れの様にふわりとゆれた。
次の瞬間、センとトーヤを囲む無数のランプ草が、一斉に激しく揺れた。先ほどまでは湖の底にいるような静けさがあたりを覆っていたのに、今は巨大な棒で攪拌されたように水流が乱れていた。
ぼおおおおう―――――
(また、あの音…!)
なすすべもなく、センたちは嵐に吹き飛ばされる木の葉のように海中を流れていった。
ふと凪の中に入って、センは目を開けた。
もみくちゃに流されたせいで、どこが上で、どこが下かも分からなかった。ただ、先ほどより闇が濃くなっているのだけは分かった。
(月明りがないんだ)
代わりに、点々とした橙色の光が無数に浮いていた。それは先ほどの大荒れで茎から取れてしまったのだろう、ランプ草の果実たちだった。
つなぎとめるものが無くなって自由になった果実は、水の流れに任せてゆったり気ままに海中を漂っていた。
見渡す限り、藍色の水と、橙色のランプ草だけだった。
いつしかセンも、ランプ草の一つになったような心地で海中を漂った。眠ってしまえそうなほど、穏やかだった。センは目を閉じた。
ぼおおおおう――――
まただ。
センは目を開けた。
そして、それを見た。
それは、大きな大きな瞳だった。
大きいなんてものじゃない。お月さまが海の中に落ちてきてしまったかと思うほどだった。
丸くて黄金色のそれが、瞳だと分かったのは、それが瞬きをしたからだった。
センは動けずに、じっとその瞳を見つめた。それも、見つめ返してきたように思えた。
ぼおおおおう―――――
また、あの音がした。センは遂にはっきりとわかった。これは、あの『魚』の鳴き声だ。
ぎょろりと瞳を動かして、魚が泳いだ。
(そうか、こいつが泳ぐたびに、海がかき回されていたんだ)
センの予想通り、魚が動いた一瞬後にものすごい水流が巻き起こった。
(世界には知らないことがあふれている…もっと見たい、知りたい、学びたい!)
灯したばかりの炎の様な思いを胸に、センは押し寄せる藍の水の中、たくさんのランプ草と一緒にぐるぐるぐるぐる流されていった。
*
「セン!セン!」
目を開けると、トーヤの心配そうな顔が飛び込んできた。
「セン!よかった。無事だった…!」
「トーヤ?…オレたち、流されて…どうなったんだっけ」
地面に手をついて、上体を起こす。水平線を見れば、朝日が頭を覗かしていた。
「分からない。ぼくも気づいたらここに流れ着いていたんだ」
「そっか」
夕方に充満していた煤は、夜のうちに波にさらわれるから、朝は西の工業地帯の空気が綺麗な唯一の時間だ。
秋の始めの冷たい空気が、肌に気持ちよかった。
トーヤに話したいことはたくさんあった。海の中で見たランプ草のこと、ばらばらに流された後に見た、巨大な魚のこと。でもまず最初に、伝えたいことがあった。
それを伝えるために、センは大きく息を吸った。
「トーヤ。オレやりたいこと、見つけたよ」
すこし目を大きくしたトーヤに、センはいたずらっ子のように笑って見せた。
真っ直ぐ届く暁の光が二人の顔を白く照らした。




