(1)腐乱崇高
いつも《フラスコ》はふて腐れた顔をしています。でも決して、不機嫌というわけではないんです。なんていうか、楽しそうに笑っているときでさえ、不満さが顔の隅に陰っているというか。ええ、言葉で表現するのはなかなか難しいですね。その難しい言葉を話しているぼくたちは単純だっていうのにね、不思議ですね。
そうだ、こんなことがありました。ある日、ぼくは《フラスコ》と一緒に学食に行ったんです。いいえ、D食堂です。A食堂なんてとても食べられたものじゃないですよ。白米は粉のようにぱさぱさしているし、薄茶色のぬるま湯を味噌汁だと頑なに言い張っているようなところなんですよ。キャベツの千切りは切れていない、生姜焼きなんて生焼けですよ。とてもとても食べられたものじゃありません。その点、D食堂はすばらしいですね。とくに冷やしソバが良いです。ぼくは入学してから現在に至るまで昼食は必ずD食の冷やしソバ、ええ、もちろん大盛りです、普通盛りでは満腹になりません。そんな状態では、午後からの講義に集中することができません。真面目? 違いますよ。ぼくは真面目なのではありません。ただのソバ好きです。
あ、すみません。脱線してしまいましたね。そうそう、その日もぼくは冷やしソバを食べるためにD食堂へ向かったんです。《フラスコ》はなんだか嫌そうな顔をしていましたが、特に異を唱えることもせずにぼくの後に着いてきました。
D食堂に到着したぼくは脇目もふらず冷やしソバの食券を買いました。ええ、当然、大盛りです。ふと隣を見ると《フラスコ》が販売機の前で悩んでいる様子だったのでD食堂の冷やしソバの素晴らしき美味しさを、しなやかな麺のコシ、黒真珠を溶かしたかのような麺つゆの美しさ、従順に見せ掛けて軽く反発する一筋縄にはいかない喉ごしなどをとくとくと説きました。《フラスコ》は他人から物を勧められるのが嫌な性質なのか眉を寄せて聞いていましたが、ぼくの力説によって心を動かされたのでしょう結局冷やしソバを選択しました。
カウンターで山盛りの冷やしソバを受け取ったぼくたち二人は、食堂の隅にあるテーブルに向かい合わせで座りました。《フラスコ》はまるで大嫌いな食べ物が目の前にあるかのような顔で割り箸をパキリと割り、とぐろを巻いたソバの先端を摘まんでつゆに浸し、それを口に運んで、ズ、ズズズ、と吸い上げました。ぼくもその所作に倣ってソバを箸で挟み、ズ、ズズズ、と吸い上げました。
「どうですか? ここのソバは絶品でしょう?」
そのような問い掛けをした覚えがあります。そして、《フラスコ》は確かこのような返答をしました。
「うん、まぁ。ふつうの味だよね」
「そこがいいのです。そもそもですよ、学生食堂の食事で美味しさを求めている学生なんていませんよ。多くの学生たちが欲しているのは、空腹を満たすだけの量です。味は二の次、量こそがぼくらの要求です。だから味はふつうでいいのです」
「へぇ、そうなんだ」
そう言って《フラスコ》は、つい先ほどまでソバの美味しさを語っていたぼくの手の平返しを軽くやり過ごし、全身を隈なく覆う耐え難い不快感を懸命に我慢しているかのような表情でソバを啜りました。
そこで会話が途切れ、なんだか食卓が味気なくなったので、ぼくはぼくの脳内活動歴が今年で六年目になるバンドのギタリストを紹介しようかと思いました。
「イエーイ! 紹介するぜ! ギター、KAZUOォッ! フゥッ!」
そのような具合にね。でも、《フラスコ》のことです。ぼくがソバを啜る音で奏でるギターソロを聞き流しながらソバをズ、ズズズとやるだけで微塵も反応もしてくれないだろうと察したので止めました。無反応ほど寂しいものはないですからね。
そうしてぼくたちは生まれた沈黙を埋めるかのようにソバを鳴らし、食事を終えたのでした。
どうですか、これで《フラスコ》のことが多少なりとも分かったのではないですか。え、まったく分からなかった? そんなはずはないと思うのですが、そう感じてしまったのなら仕方ありません。もう少し補足するためになにか質問してもいいですよ。ええ、そうです。《フラスコ》はぼくの先輩です。歳は分かりません。そこまで離れてはいないと思います。精々、二、三歳。普段は研究室の端の方でふて腐れた顔をしてなにかしら作業をしています。え? どんな作業ですかって? 自分の研究分野に関係する文献を不機嫌な顔で読んだり、ノートパソコンでよく分からない書類を不満げに作成していたり、実験に使用する器具の準備をふて腐れた顔でしたりですよ。
とにかく、《フラスコ》はいつもそうなのです。常になにかに納得いかないような、ふて腐れている顔をして研究室に閉じこもっている人なのです。
顔のない彼は《フラスコ》についてそう語る。しかし彼が語った《フラスコ》とは、僕以外のなにものでもない。
個人とはいくら他人に押し付けようと試みても絶対的にその人のことだ。四半世紀前に生まれた事実は他人には渡せない。自らが体験してきたこと、学んできだ事柄、築いてきた人間関係、そのような日々の累積は他者に融通することは決してできない。
そのはずなのに、彼はまるで他人のマンガや小説を悪気なく又貸しするかのように僕を《フラスコ》に貸与する。個人という蓄積に見境がないのか、単純な嫌がらせなのか、たとえ彼の口から腑に落ちる理由が語られたとしても、彼でない限りそれが本音であるかは知りえない。
つまり彼当人でない僕は、彼の言葉からでしか彼の真意は量れない。だから彼が《フラスコ》と呼称するものがどう考えても僕自身であるのに、それをまるで僕以外であるかのように取り扱う彼の意図は不明なのだ。
「ほら、またふて腐れた顔をしていますよ」
実験台を挟んだ斜向かいにいる白衣姿の彼は声を潜めて僕に囁く。研究室には僕と彼以外のメンバーはおらず、教授も授業で席を外している。室内にはインキュベーターの低い唸りだけが汚れた床を転がっているだけなので声を抑えて会話をする必要もないはずなのに、囁くように言葉を発した彼につられ、僕も声量を普段の半分に調整して口を開いた。
「顔のないきみに、そんなことを言われる筋合いはないよ」
そう言い返す。可能な限り穏当に、出来得る限り丁寧に。しかし彼は、奇怪な鳴き声を発する生物に出会ったかのように肩を竦める。その仕草はこう言っている。この人はなにを馬鹿げたことを口にしているのだろう。
身体ではそう語っているが年上の僕に配慮してか彼はそれを口にはしないで、黒面の実験台に置かれた三つの空フラスコの表面、人で言うところの肩から首にかけて細く縮まっていくその誘惑的なその個所に、サンプル名を書いた白いビニールテープをラベリングした。
サンプルⅠ
充足の青、それを片端に残し他所へと赴いたきみについて
サンプルⅡ
半透明の青、それを捨て去れず変じぬあなたについて
サンプルⅢ
無色の青、それを悔やみ諦めきれぬぼくについて
それから彼は、ポリタンクに入った純水をメスシリンダーで計量し、それを空のフラスコに注ぐ。透明なガラス体のなかを透明な液体が満たし、そこには無色の物体が出来上がる。その透明に包まれた透明のなかに撹拌子を投入し、それぞれのフラスコをマグネティックスターラーの上に置く。
隔たりのない空間に閉じ込められた撹拌子は、危険を察知した動物のように身を硬直させ、その警戒心を紐解く手付きで彼はスターラーの電源を入れる。すると、撹拌子はフラスコの底で回転をはじめる。その単調な回転運動によってフラスコの内部には緩やかな透明な渦が巻く。彼は渦の大きさや散る飛沫を見ながらつまみを捻って回転を制御し、彼だけに分かる理想的な渦巻きをそのなかに完成させた。
ない顔でその出来栄えを確認した彼は、別の実験台へと移動してそこにある電子天秤で試薬を計量する。棚から必要な試薬を取り出し、出来損ないのスプーンのような形をしたスパーテルで試薬瓶から粉末をすくい取る。そして、天秤皿に置かれた真っ白な薬包紙の上に撒き散らす。
天秤のディスプレイに表示されていた0が桁の坂道を全力で駈け上がるように上昇し、試薬の重量と同じ姿になると停止する。微調整した後、彼は薬包紙を折り畳んで脇に置き、サンプルの分だけその操作を繰り返す。
計量を終え、畳んだ薬包紙を持って彼はこちらの実験台へと戻ってくる。そして薬包紙を慎重に開き、そのなかにある試薬をフラスコに加える。試薬はしばらく粒状を維持したまま回転に合わせてフラスコ内を回っていたが、やがて夢のように水に溶けて形をなくす。しかし、存在していたことを確かに示すようにフラスコ内の渦巻きを淡く発光させ、増していく回転数とともにきらきらと小さく輝く微粒子の衝突によって発生した小爆発で銀河のような様相となった。
三つの渦を作り上げた彼は、先ほどとは別の試薬をフラスコに加える。光を浴びて劣化しないよう遮光瓶に入れられたそれは、人間なら誰しもが生じる思春期の想いを遠心分離機にかけ、ペレット状に濃縮させたものである。
「懐かしいです」
スパーテルで群青色のペレットを取り出しながら彼は僕に投げかける。
「この試薬を使う度、作ったときのことを思い出します。
ぼくは《フラスコ》と一緒に周辺にある中学校に片っ端から忍び込み、グランドや体育館で部活動に励んでいる少年少女たちから苦労してこれを集めたんです。
汗が染みこんだユニフォーム。泥だらけの体操着。悪臭がこびり付いた道着。底の擦り切れたスニーカー。何度もガットを張り替えた形跡のあるラケット。細かい傷が付いた防具。ボール。軟らかくなったグローブ。ささくれた竹刀。
運動系の部活から頂戴したものは種類が多すぎてこれくらいしか覚えてないです。文化系は、目に見える形のものがあまりないので難儀しました。そのため、掲示されている作品や鍵付きの棚に保管されている作品集をそっと盗み出して、それから抽出したんです。
そうそう、こんなこともありましたよ。何校目でしたっけ、ぼくの記憶では、たしか六校目だと思うんですけど。部活動を終えて帰宅する生徒のなかをぼくと《フラスコ》は何食わぬ顔で通り抜け、校内の片隅にある図書室に向かいました。通例、図書室というのは何らかの文化系部活の拠点になっている場合が多いですよね。その学校の図書室も例通り活動場になっていました。図書室の扉を勢いよく開けると、談笑しながら帰り支度をしていた数人の生徒たちが仰天し、快活に挨拶しながら入室したぼくたちに怪訝な目を向けていました。そんな彼らに向けて《フラスコ》はこう言ったのです。
「おおう、頑張っているな! どうだ、ちょっとお前たちの見せてみろ!」
あまりにも堂に入た口振り素振り、その他諸々のなり振りによって彼らは《フラスコ》が部活のOBだと勘違いしたようです。そして親しみやすい語調とは裏腹に不機嫌な顔をした《フラスコ》の不気味さが迫力に拍車をかけたのか、彼らは気をつけの姿勢をして居住まいを正し、展覧会の審査員を前にしたかのように身を緊張させはじめました。
「うーん、すごくいいと思うよ。でもね、型にはまり過ぎ。きみはさ、本とかインターネットで書き方を勉強しちゃうタイプでしょ。それじゃ、いつまでも自分でなにかをつくる喜びを知ることはできないよ」
そのように先輩風を吹かせながら《フラスコ》は、机の上にあった冊子をさり気なく手に取り、その表紙を確認しました。それは彼らが年に一度編む10頁にも満たない部誌でした。
「きみたちの実力を見たいから、これをちょっと借りるよ」
《フラスコ》はそう言って、生徒たちの承諾を得る前に冊子を脇に抱え、
「それじゃ、頑張って創作に励んでくれ」
そう捨て言葉を残して図書室を後にしました。
廊下に出た途端、《フラスコ》とぼくは全速力で走り出し、背後を確認することもなく一心不乱になって学校の敷地外まで逃げました。幸いにも追っ手はなく、部誌の奪取に成功した喜びをそのまま抱えて研究室へとんぼ返りし、部誌をハサミで細かく切ってからすりこぎですり潰し、それを滅菌水に入れてふやけさせて成分を抽出しやすくしてから遠心分離機にかけたのです」
そこまで喋った彼は三つのフラスコの口にシリコン製の栓をして密封する。さらにその上からアルミホイルを巻きつけて厳重にフタし、それを無菌状態にするため、ドラム缶のようなオートクレーブで121℃、15分間滅菌する。
滅菌処理が終わるまでの待ち時間、僕たちは学食に赴いた。彼は当然のごとく冷やしソバを買い、食べたいものもなかった僕も彼に倣った。
ワサビを入念に溶かしたつゆに浸したソバを啜る。家族の自殺や友人の鬱病、駅のホームに置き去りにされた私生児を登校の際に見た話、身近で起きた他愛もない世間話や実験の進行状況などを話していると、彼は唐突に切り出した。
「そもそも発酵という括り自体がいかにも適当ですよね。人の口に合わなかったら腐っていて、美味しかったら発酵だなんて、科学的とは思えないほど大雑把ですよ。そんなもの人の好みによって変動するじゃないですか。例えば、過発酵した漬け物はどちらに分類されるんでしょうね。酸っぱいものが好きな人にはちょうどいい具合かもしれないし、苦手な人には腐っているようにしか感じないでしょう。その人によっても発酵か否かも変化するんですよ。大多数の人が美味しいと思っていても、ある一人にとっては腐敗物でしかないです。そんな適当なものを、ぼくたちは毎日毎日必死に研究しているなんて、馬鹿らしくなりません?」
「ならないよ」
やたらとしつこい新聞勧誘を断るようにきっぱりと言った僕に、彼は首の切断面を見せ付けるように俯き、そこにぽっかりと空いた気道にソバを流し込んだ。
D食堂を後にした僕たちは校内をぶらぶら散歩して時間を潰し、滅菌処理が終わる頃合いを見計らって研究室に戻り、オートクレーブから取り出したフラスコが冷めるまでのんびりと待つ。
「誰も来ませんね、と言う。
みんな忙しいんだよ」と答える。
1時間ほど時間が経つ。フラスコの温度が室温まで低下したのを確認してからそれをクリーンベンチへと持っていく。クリーンベンチの殺菌灯を30秒点灯させてからファンのスイッチを押し、内部をアルコールで殺菌してクリーンベンチのなかにフラスコを入れる。そして、先立って培養しておいた前培養菌液A(Hominbacter adolescentia)、B(Hom.paraadolescentia)、C(Hom.saprfermentum)をインキュベーターから取り出し、サンプルⅠにはA、サンプルⅡにはB、サンプルⅢにはCをそれぞれ加え、フラスコをよく撹拌する。
すべての操作を終えた後、各フラスコは37℃のインキュベーターへと移され、その経過を見守ることになる。