正義の味方と宅飲み
世界の中心とも言えるジャボン国、その首都ネオトーキョー。正義の味方エッセエンメの表の姿であるエスエム協会本部はネオトーキョーのミナット区ロポンギにあった。
広大な敷地は厳重な警備がなされ部外者は基本的に立ち入ることが出来ない。地上階はエスエム協会の活動に、地下はエッセエンメの基地として使われている。
そんな地下の研究室で正義の味方レッドことジェイは組織の重鎮たるイグレク博士に愚痴っていた。
「やってられないですよ。全く。リアがもっと小さい時は良かったですけど、あの子もそろそろ色々と分かってくる年頃だし。誤魔化すのも一苦労です」
ため息をついたジェイにイグレク博士はうんうんと頷く。そうしながらも博士は手を休めることなく、電極のようなものをジェイの身体に付けて行った。
「最近じゃ、リアは俺のことをとんでもない方向音痴だと思い込んでいるんですよ。と言うのも、俺が緊急出動のたびに『トイレに行く』って言って全然違う方向に駆け出すからなんですけど……。この前、週末にトドロック渓谷に二人で行った時なんか、自分も地図を覗き込んできて何度もルートを確認してくるし」
その時のことを思い出すとジェイは頭を抱えたくなった。ジェイは決して方向音痴ではない。正義の味方が方向音痴では大きな問題だろう。
「それだけならまだ良いんですよ。その上、俺がトイレに行くって言ってなかなか戻らないから、リアは俺が痔だと思い込んだみたいで……。よりにもよって痔ですよ? 痔! この前二人で日用品を買いに激安ドラッグストアに行ったんですけど、あいつテレビのコマーシャルでよく見る痔の薬を俺に何度も買うように言ってきて……」
ジェイはその時のことを思い出しただけで頭が痛くなってきた。
「俺が何度も断ったんですけど。そうしたらリアの奴……。病院に行きたくないって駄々をこねる子どもを諭す親のような目で俺を見て『パパ、お薬買いたくないのは分かったから。でもちゃんと病院には行ってね』って言うんですよ! あいつの中で俺が方向音痴で痔の父親っていうのは確定事項なんですよ!」
そこで初めて博士がジェイの言葉に反応を見せた。作業の手を止め、首を傾げ、己の髭を撫でながらしみじみと呟いたのだ。
「ぱっと見だとクールに見えるイケメンの君が方向音痴で痔だなんて世も末だね」
「だーかーらー! 俺は方向音痴でも痔でもありません! 博士、あなた人の話まったく聞いてないでしょう!」
ジェイは手近な机を手のひらで叩いて思わず椅子から立ち上がった。だが電極が取れると博士に注意され、渋々と椅子に座り直した。そして肩を落とす。
ジェイは愚痴るべき相手を間違ったと気づいたのだ。後でブルーにでも聞いてもらおうと考えていると、博士のそう言えばという声が聞こえ顔を彼の方へ向けた。
「ジェイ、お前の娘の検査もそろそろしないとな」
「ああ……もう一年位ですね。今年五歳児検診があるからその時だとどうですか? 本人にも怪しまれないでしょうし」
「それでいい」
うんうんと満足気に頷くイグレク博士の姿に、ジェイはふとこの老人にも家族はいるのだろうかと疑問を持った。博士とは自分が生み出されてから以来の付き合いだが、今までそんなことを気にしたことがなかった。だが訳ありの者が多いこの組織だ。本人が語らぬことをあえてこちらから聞く訳にもいかない。
組織の構成員は表向きの姿である協会の職員を兼ねている。協会は職員の一般公募を行ってない。厳密な調査をし、個別に勧誘して組織に人材を集めている。ジェイのように中で生まれたものはともかく、外で生まれたものはそうやってここに入ってくるのだ。
そんなことを考え、イグレク博士の私生活への疑問を打ち切り、代わりにこの部屋に入ってきた時から気になっていた事を尋ねることにした。部屋の隅にあるジェイの身長を超える透明なケース。その中には土曜日の緊急出動の時に倒した化け物の死体があった。
最近また活動を活発化させてきた悪の組織アカエスが何を企んでいるのか知るため、ジェイ達はこの死体を持ち帰った。前々回の巨大な鳥の化け物の死体を悪の組織アカエスがあえて回収しに現れたのがずっと気にかかっていたのだ。
「あれ、調べ終わりました?」
「ああ、終わったよ」
「当然、新種ですよね?」
「もちろん」
「連中は何の為……って愚問でしたね」
ジェイが言いかけて止めた言葉にイグレク博士は緩く頷き、ぼそぼそと言った。
「おそらくこちらの組織との戦いに終止符を打って、一刻も早く目的を達成したいのだろう」
「ま、化け物創るほうが手っ取り早いですからね。俺たちみたいなのじゃ使えるようになるまでに時間がかかるし。時間と金をかけるだけかけて死なれちゃ終わりですから」
だからこの組織の戦闘員は人材難なんだ、とジェイは心の中で呟いた。
「まあそういうわけだ。死なないでくれよ」
ジェイは己の背後から聞こえて来た博士のものではない声の主に冷たく言い返した。
「もちろんですよ。総帥」
ここエッセエンメの総帥ドゥブルヴェが背後にいるのはとうの昔に気づいていた。素っ気ないジェイの態度にも総帥ドゥブルヴェは気分を害した様子はない。むしろ笑っている。
そこでジェイは彼と直接会うのは久しぶりだと言うことに気づいた。ここのところ、彼とは通信でばかり話をしていたのだ。
久々に対面したドゥブルヴェは面白いことを思いついたといった表情で口を開いた。
「痔の病院だったら名医を知ってるぞ」
「いや、だから俺は痔じゃありませんよ、総帥」
「ジェイ、終わったぞ」
二人のやりとりなどどこ吹く風といった調子のイグレク博士の言葉にジェイはドゥブルヴェから視線を外した。そして自分の身体につけられた電極を外す博士の作業を手伝い、自分の手でも外していく。これ以上ここに長居したくなかったのだ。
予想に反してドゥブルヴェはそれ以上ジェイに何も話しかけてこなかった。どうやら彼はイグレク博士に『子ども達』のことを聞きたくて来たらしい。二人があれこれと話しているのを聞きながらジェイは自分につけられた全ての機械を外し、椅子にかけておいた上着を着た。
博士に一礼し、部屋の出口へと向かう。ドアの近くに立っているドゥブルヴェにも挨拶し、部屋から出ようとしたその時。ここ数日のドゥブルヴェとの通信の際に生じた疑問を思い出した。ジェイは足を止め、再びドゥブルヴェの方へ向き直る。そして言った。
「そういえば総帥。何故通信の一番最初に毎回必ず『私だ』って仰るんですか?」
***
台所に立ち作業をしているジェイのもとへリアがトコトコと近づいてきた。
「ねえねえ、パパ」
「ん?」
「どうしてお箸が三つあるの?」
リアはダイニングテーブルを指差し、こてんと首を傾げた。
「ああ。今日はな、ブ……じゃなかったアッシュおじさんが来るんだよ」
「アッシュおじさん!」
「そうそう。だから三人分なんだ」
ジェイはイグレク博士の研究室を出た後、ブルーことアッシュを探してリアの話をした。そうしたらアッシュは久々にリアに会いたいと言い出し、彼がジェイの家を訪問することになったのだ。せっかくだから久々に酒でも飲もう、と。
料理はジェイが酒とリアのデザートはアッシュが用意することで合意し、今ジェイが準備に追われているというわけだ。
幸い今日は一度も出動することはなかった。お陰で夕方まで延長保育で幼稚園にいたリアを自ら迎えにも行けたのだ。保育園ならばまだしも幼稚園通いで片親というのは大変だ。ましてやリアはあれこれと習い事をしている。アルバイト契約のシッターさん無しではとてもやっていけない。
リアはあまり人見知りしないし、いつも頼んでいるシッターさんも良い人なので安心して任せられる。だが父親が迎えに来てくれた日は上機嫌な娘を見ると、心は少し痛むのだ。やはり寂しい思いをさせているのかもしれない。
現に今日のリアは上機嫌でお手伝いなどしてくれている。
「ねえ、パパ。今日の夜ご飯はなあに?」
ぴょんぴょんその場で飛び跳ねジェイの手元を覗こうとしながらリアが言った。
「今日はパスタグラタンとキッシュ、鶏肉を焼いたのにタマネギと赤ワインのソースかけたやつと……。あとはシーザーサラダ……しまった!」
献立を言いながら凍りついた。
「ど、どうしたの?」
「い、いや……。サラダはシーザーサラダじゃないのにすべきだったな……。もっとさっぱり系の。メニューのバランスが今ひとつかもしれない……」
がくりとジェイは肩を落とした。
そもそも今日のアッシュの訪問は予定外であった。朝の予定だと今日の夕食は、安くてこの家の定番とも言える鶏の胸肉をメインにするつもりだった。だから下処理を済ませ酒につけた状態で冷凍保存していた肉を朝のうちに冷蔵庫に移して解凍し、先日の特売で買ったキャベツとタマネギとパプリカを使ったメニューを考えていたのだ。
だが急遽アッシュの訪問が決まり、ジェイは材料はそのままに献立を変えたのだった。急いで考えたせいでどうにも組み合わせが微妙な気がしてしまう。
ちなみに激安だったパプリカはキッシュとシーザーサラダになった。安かったキャベツは冷凍しておいたちりめんじゃこと軽く炒め、茹でたスパゲティとホワイトソースでパスタグラタンになっている。
落ち込んでしまった父親の姿にリアは慌てて言った。
「パパ、大丈夫! 変じゃないよ! リアはシーザーサラダ好きだもん!」
「そ、そうか……」
「うん!」
「そうだよな。スープをさっぱり系にするか……」
ジェイの呟きにリアはうんうんと頷いている。
「トマトの冷製スープにするかな。あっ……」
スープを決めたその時、インターホンが鳴った。どうやらアッシュが来たらしい。
「リアが出る!」
ジェイの返事を待つことなくリアは玄関へと駆けて行ってしまった。アッシュはリアに任せよう、と苦笑してジェイは再び料理へと戻った。
ジェイとアッシュは同じ頃に生み出されたいわば幼馴染だ。組織の中で一緒に教育を受け育ち、外の世界に出た時期も一緒である。ジェイは独身時代エスエム協会の寮に住んでいた。アッシュもその頃同じように寮に住んでいたのだ。失踪した妻レイチェルが四六時中二人が一緒にいることを知った時『男二人が仕事も私生活も常に一緒なんて気色悪い』と酷評したほど、長くともに過ごした相手である。
しかし時が経ち今や二人は全く違う生き方をしている。ジェイはシングルファーザーとして生き、アッシュは独身生活を謳歌している。アッシュの場合は謳歌しすぎかもしれない。倹約家のジェイとは対照的に高級マンションに住み、高級車に乗り、綺麗なお姉ちゃんをとっかえひっかえしている。
二年ほど前、リアを連れて外出した時、二日連続でアッシュとその彼女に遭遇したことがあった。一日目と二日目でアッシュが連れていた女は違った。それに気づいたリアに『おじたん、昨日のお姉たんと今日のお姉たんは違うね』と突っ込まれ、路上で修羅場になったこともある。
そんなことを思い出しながらオーブンから焼きあがったパスタグラタンを取り出した。表面には焼き色がつき、溶けたチーズの香りが漂った。
「お、うまそう。グラタン?」
買い物袋を持ち、リアと一緒に台所に入ってきたアッシュが聞いた。
「そう」
「いいね。あ、これ酒。あとこっちがリアちゃんの。有機リンゴのジュースだって。美味いらしいよ。売り子さんが絶賛してた」
アッシュが買い物袋から瓶に入ったリンゴジュースをジェイに渡す。ジェイは瓶に貼ってあった値段のシールを見て凍りついた。二千イェンである。アッシュはそんなジェイに気づかず、買い物袋からあれこれと『高級品』を取り出す。
そんな姿を見て、ふとジェイは思った。二人とも形は違えど、すっかり外の世界で『自分』というものを確立してしまったのだな、と。
***
リアが寝てしまった後、ジェイとアッシュは二人で酒の入ったグラスを傾けていた。
「なあ、ジェイ。もしかして俺、余計なことした?」
アッシュの言葉にジェイは首を横に振った。
「いや。リアは喜んでたし……。だけどなぁ。最近のこの状況じゃあ……」
グラスを片手にジェイは項垂れた。
「あー。ほんと、ごめん」
「いや謝るなって。リア喜んでたもんな……」
ジェイはテーブルの上に載せられた細長い封筒を見つめた。これは食事の時に思い出したようにアッシュが懐から取り出し、リアにやった物だ。ちなみに中に入っていたのはネオトーキョーで最も人気のあるテーマパーク、ネズミランドの入場券——パスポートであった。
付き合っていた女に行きたいと言われ手に入れたのは良いが、行く前に別れてしまったらしい。ちなみに別れた理由はデート中しょっちゅうアッシュが仕事だと言って走り去るかららしい。当然ながらその仕事とは緊急出動のことである。
最近益々増えてきた悪の組織の襲撃の影響を受けているのはジェイだけではないのだ。
「ネズミランドに行くのはいいんだが……」
またそこで緊急出動になったらどうしたものかとジェイはため息をついた。
「まあ悩んでも仕方ないだろ。リアちゃんの中でお前は方向音痴で痔を患うパパなんだから」
「だから、俺は方向音痴でもなければ痔でもない!」
ネズミランドの前には幼児教室の体験入校もあるし、リアの友達とその母親と百貨店に買い物に行く約束もしてある。果たして自分は正体をバレることなく過ごせるだろうかと考えると少し気が滅入った。
悪い予感ほどよく当たるものだ。とくに正義の味方のそれは。
正体を知られることだけは、何としても避けなければならない。
「それにしてもアカエスの連中、旧人類の殲滅なんて下らないこといつまで考えるつもりかねぇ」
アッシュはテーブルに頬杖をつきながら物憂げに言った。
「さあ? 奴らにとっては『下らないこと』じゃないんだろ」
ジェイは昔レイチェルと話した事を思い出した。その時のことを思い出すと、それ以上『下らないこと』について話す気になれずジェイは黙り込む。
そんなジェイにため息をついてアッシュは二人の空いたグラスに酒を注いだ。空のグラスに酒が満たされる。今日くらいは深酒も許されて良いはずだ。
正義の味方二人はどちらからともなくグラスをあわせた。